読書ファイル   1997年 1- 4月

加藤弘一 1996年12月までの読書ファイル
1997年 5月からの読書ファイル
書名索引 / 著者索引
January ゴドウィン 『北極の神秘主義』
トリブッチ 『蜃気楼文明』
立花隆 『証言・臨死体験』
水島裕子 『あたしが一番ダサい時』
February 藤沢周平 『 しぐれ』
河合隼雄&村上春樹 『村上春樹が、河合隼雄に会いにいく』
March 井辻朱美 『遥かよりくる飛行船』
岸田秀 『官僚病の起源』
April バッカー 『恐竜レッドの生き方』
岡本敏子 『岡本太郎に乾杯!』
ヴァン・ドーヴァー 『深海の庭園』

January 1997

ゴドウィン 『北極の神秘主義』 工作舎

 さきほどTVをつけていたら『神々の指紋・完全映像版』という番組がはじまった。目下、ベストセラー中の『神々の指紋』を二時間半で紹介しようというわけだが、ヒトラーの南極生存説ではじまったのには笑ってしまった。北極と南極をめぐるトンデモ本の歴史を研究した『北極の神秘主義』を読んだところだったからだ。

 ナチスの前身がトゥーレ協会というオカルト結社だったことは有名だが、トゥーレとは古代ギリシアの旅行家ピュテアスが書き残した北極圏の桃源郷で、北方のアトランティスと呼ばれていたという。トゥーレ伝説は18世紀の啓蒙思想家によって再発見され、ヨーロッパ文明の起源は北方にあるという北極原郷説がとなえられるようになった。

 キリスト教に教化される前のヨーロッパ人は北方の蛮族だったというのが公式の説だが、啓蒙主義は教会の権威を引きずり下ろす運動だったからキリスト教以前のヨーロッパに高度な文明が存在したという説は都合がよかったのだろう。

 サンスクリットやペルシャ語の研究からインド=ヨーロッパ語族の概念が広まると、インド=ヨーロッパ語族(アーリア人)の原郷の候補地としてトゥーレが脚光をあびるようになる。

 アーリア人と来れば反ユダヤ主義である。アーリア人の純化をめざす人々にとってトゥーレはにわかに危険な魅惑をひめた土地となった。トゥーレ協会やナチスもこの潮流から生まれた。

 トゥーレ伝説を軸に、極移動説、大陸移動説、地球空洞説、神智学の根源人種説など異端の学説がさまざまにからまりあい、妄想の系譜をつむぎだしたが、その流れは今日までつづいている。ヒトラー生存説はともかく、ナチス時代の南極探検はその文脈で行なわれたわけだし、1万2千年前に南極がアトランティスだったという『神々の指紋』はその最新版といえるだろう。

 日本ではトンデモ本をからかった本がベストセラーになったが、中味はトンデモ本と五十歩百歩だった。ゴドウィンの本書はトンデモ学説の歴史をあつかいながら、思想史にまで高めた。役者がちがう。

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トリブッチ 『蜃気楼文明』 工作舎

 この本も古代史もので、「ピラミッド、ナスカ、ストーンヘンジの謎を解く」といういかにもの副題がついているが、蜃気楼と古代の巨石文明の関連を洗いだしたまっとうな本だった。

 著者のトリブッチは太陽熱技術の専門家だそうだが、ナスカの地上絵を訪れた際に蜃気楼に遭遇し、動物の絵や砂漠の上に引かれた直線に幻の水が流れるのを目のあたりにする。ナスカ平原は蜃気楼現象が頻発する土地だが、蜃気楼の出た後にはアンデス山系に雨が降り、プーキョと呼ばれる古代の地下水路の水が増水することがわかったという。砂漠にあらわれる幻の水は、地下水増水の前兆なのだ。トリブッチは蜃気楼の出現と天候の関係に気がついた賢者が古代にいて、地上絵は地下水路の増水をはかる呪術として描かれたのではないかと想像する。

 円盤の滑走路などといわれてきた砂漠に引かれた直線が地下のプーキョと平行していること、土器に描かれた奇怪な図像に蜃気楼の幻像とおぼしい双胴の人間や四つの翼をもつ鳥が見られることなど状況証拠は多い。決定的な証明ではないものの、従来の奇説・珍説からくらべれば格段に説得力がありそうだ。

 トリブッチは世界各地の蜃気楼現象を手早く紹介した後、フランスのブルターニュ地方に話を転じる。アーサー王伝説に登場する魔女ファタ・モルガナは蜃気楼の別名で、ブルターニュ沿岸は蜃気楼の多い土地だそうだが、カルナックなどこの地に残る巨石遺跡も蜃気楼と関連があるのではないか、古代には英仏海峡をはさんで蜃気楼の宗教があったのではないかと話を進めていく。巨大なドルメンが蜃気楼で空中に浮き上がり、条件によってはその上に倒立像が載るというのだから、古代人ならずともぞくぞくしてくる。しかも蜃気楼で気象の変化を予測できるとなると、神官の権威は絶大だっただろう。

 後半ではバベルの塔も、ピラミッドも、テオティワカンの神殿群もすべて蜃気楼の起きやすい土地に建てられたモニュメントで、来世への門として機能していたという仮説が展開される。アポロンとアヴァロンが同じ語源だとか、ラスコー壁画の呪術的意味といった指摘はまだしも、ブルターニュ地方の蜃気楼宗教が世界各地に伝わったとか、アトランチスは英国だったとかまでいってしまうのはいかがなものか。

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立花隆 『証言・臨死体験』 文藝春秋

 名著『臨死体験』は「文藝春秋」本誌に連載された上下二巻の大冊だったが、こちらは女性誌「クレア」に連載された臨死体験者のインタビュー集で、総論に対する各論という位置づけだろうか。同じく巻をおくあたわずのおもしろさだった。

 大仁田厚、水上勉、羽仁進といった有名人も登場するが、NHKの番組をきっかけに自分の体験を語りはじめた一般人も登場する。NHKがとりあげるまでは頭がおかしくなったと思われるのがいやで黙っていたという人が多い。こんなにたくさんの人が臨死体験をしていたのかとあらためて驚いた。体験の内容もさまざまで、いわゆるトンネル体験ひとつをとっても暗闇を這っていくという形で体験をした人、井戸を落ちていくという形で体験した人、一瞬の場面転換という形で体験した人と千差万別である。

 トンネル体験については血圧の急激な降下と関連があるらしいし、お花畑体験とそれにともなう幸福感も脳内麻薬の作用ということで説明がつくかもしれない。『臨死体験』でいうところの脳内幻覚説ものだ。

 しかし、ここにあつめられた体験の中には脳内幻覚説では説明のつかない事例がいくつか含まれている。体外離脱して見てきたとおりのことを後で確認したとか、臨死体験後、他人の死を予知するようになったとか、ポルターガイスト現象がおこったとか。著者は、『臨死体験』の時は、なんとか理屈をつけようと七転八倒してったが、こんどの本では、そういうこともあるというニュアンスに変わっている。

 著者だけではなく、臨死体験者のまわりの人たちも死にかけると妙なことがおこるらしいと、しだいに認める空気になっているそうで、インタビューのはしばしに変化がうかがわれる。

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水島裕子 『あたしが一番ダサい時』 実業之日本社

 セクシー・タレントとして現役の水島裕子氏の短編集である。書店で手にとったところ、文章がいいので読んでみた。予想外におもしろく斎藤綾子の『ルビー・フルーツ』よりもよかった。

 ダイアン・キートンやジョディ・フォスターが監督した映画のように、これみよがしの触覚志向やナルチシズムは抵抗をおぼえるが、レモン水のようなすっきりした味わいで、嫌みはない。幸せな気分が一筆描きされている、と感じた。

 ただ、これが小説のおもしろさかというと、違うような気がする。14篇の短編があって14人のヒロインが出てくるが、ただ一人のモノローグだ。良くも悪くも小説になっていない。

 小説の醍醐味ではないが、楽しいひとときをあたえてくれる本ではある。

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February 1997

藤沢周平 蟬 しぐれ』 文春文庫

 先日なくなった藤沢周平氏の作品をはじめて読んだ。どんな小説かと好奇心で手にとったが、読みだすとすぐに引きこまれ、最後まではらはらどきどきした。

 ストーリーを詳しく紹介するわけにはいかないが、東北の小藩の下級藩士の家に養子にはいった少年が傷つきながら成長していく話である。終りの方で大仕掛けなお家騒動が発覚し、お約束のちゃんばらはあるものの、北の海に面した城下町の生活がこまやかに書きこまれていて、向田邦子の戦前のサラリーマン家庭ものに通じる懐かしさがある。

 鎖国も悪くないなと、妙なことを考えた。

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河合隼雄&村上春樹 『村上春樹が、河合隼雄に会いにいく』 岩波書店

 河合隼雄・村上春樹両氏の二夜にわたる対談である。版面は三段にわかれていて、中段に本文、上段と下段に両氏のコメントがわりつけられているが(第一夜は河合氏が上段、第二夜は村上氏が上段)、このコメントがおもしろい。

 本文で言いたりなかったことについての補足や、言いすぎてしまったことに対する釈明もあるが、ある程度の熟成期間をおいた後での返答やそれに対する返答もあって、対話が重層化しているのだ。

 そもそも対談というものは進行役の編集者や構成者が立ち会い、活字になる過程でかなりの加工がくわえられるのが普通で、やりとりがそのまま活字になるわけではない。リニアに見える対談も実際は重層的に構成されたものなのだ。

 この対談の場合、三段にわけて組むことで、重層性を目に見えるようにしている。この趣向は正解だった。表題からうかがわれるように、この対談には作家として転機をむかえている村上氏が河合氏のカウンセリングを受けにいくという面があって、かわされる言葉の一つ一つに多層的な含蓄があり、リニアに均してしまっては失われるものが多かったはずなのだ。

 考えさせられる本だが、疑問をおぼえる箇所がないではない。村上氏はデタッチメントからコミットメントへの転機に来ているとし、オウムを例にあげて「人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない」と言いきる。

 的確な指摘だと思うが、稚拙な物語以外に人々のコミットメントの欲求を満たすことができるのだろうか。

 学園紛争後に、村上氏に代表されるデタッチメントの季節が来たのはマルクス主義が破産したからである。ソ連の崩壊の以前から日本ではマルクス主義は思想として破産していて、しらけムードが広がっていた。マルクス主義後の空白を構造主義やポスト構造主義が埋めたものの、いずれも大団円の結末などありえないというシラケの思想だった。

 オウムが一部の若者を引きつけたのはお伽話にいなおり、理想社会の物語を臆面もなく語ったからだろう。シラケの時代の申し子というべき村上氏が社会にコミットメントする道を示すことができるのか、お手並み拝見といこう。

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March 1997

井辻朱美 『遙かよりくる飛行船』 理論社

 歌人でありファンタジーやニューエイジの翻訳で著名な井辻朱美氏の長編ファンタジーだ。北の海に浮かぶ古い歴史をもった島で何千年もつづく家系に生まれた女の子が都会に出て仕事を持ち、霊的に成長していく物語であり、『魔女の宅急便』と似たテイストの作品だが、精神的ではなく霊的に成長するという点がポイントになっている。

 彼女はドルイドの巫女の血筋を引くるが、霊的といっても古い伝統にもとづく霊性に目覚めるわけではない。彼女に霊的な成長をうながすのは林立するビルの合間に出没する銀色の飛行船だ。その飛行船は彼女にしか見えず、惑星自体の進化と関係のある新しい生物らしいのだ。

 夢が降り積もっていくという独特の感覚がおもしろくて、降り積もった夢が固化し、ねじれた埋立地で過去の化身と対決する場面がクライマックスになっているが(石川淳の『狂風記』を思わせるものがある)、それでめでたしめでたしと終わるのではなく、「ゆるし」という思想になじんでいく回復の時間が、本当のクライマックスになっている。夢の物理学のさらなる展開がたのしみだ。

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岸田秀 『官僚病の起源』 新書館

 久しぶりに岸田秀の本を読んだ。『ものぐさ精神分析』が出る前から岸田秀のファンだったが、さすがの岸田も20年の間には出がらし状態になり、新刊が出ても読まなくなっていた。最後に読んだのは『ふき寄せ雑文集』だったろうか。

 今回の本は評判がいいので久しぶりに手にとったが、官僚批判にせよ、第二次大戦の敗因の分析にせよ、大和朝廷の朝鮮半島出自説にせよ、どこかで読んだような話ばかりである。ただ現在の症状から過去を再構成していく妄想力はフロイト譲りであり、興奮をおぼえた。

 黒船来航で無理やり開国させられて以来、近代日本は内的自己と外的自己に引き裂かれたという説を岸田は『ものぐさ精神分析』以来、手をかえ品をかえ説いてきたが、20年目にして出発点となった国家論を見直し、建国の時点から分裂していたという見方を打ちだしている。

 日本は百済の植民地としてはじまったという新しい仮説の当否はともかく(倭人が朝鮮半島に移住していた証拠が出てきており、百済が日本の植民地だった可能性もある)、はじめに「植民地」ありきという発想は虚を突かれた。これが抑圧というものなのだろうか。

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April 1997

バッカー 『恐竜レッドの生き方』 新潮文庫

 恐龍温血説など、斬新な学説を矢つぎ早に発表し、従来の恐龍観を一変させたロバート・バッカーの書いた小説で、白亜紀に生きる雌のユタラプトルの物語である。

 いくら古生物学者として業績があっても、小説は別だろうと思い、つん読の状態だったが、読んでみると滅法おもしろい。伴侶をなくした若い牝であるレッドが姉の一家と合流してからの一年余を追っていて、新しくあらわれた牡にしだいに心を開いていくさまや、その牡と姉の板ばさみになって葛藤する心理がこまやかに描かれている。

 というと恐龍を擬人化したのかと思うかもしれないが、そこが微妙である。バッカーはレッドたちを描くにあたり、現存の鳥類や肉食哺乳類の行動観察の知見を総動員する一方、利己的遺伝子によってプログラムされた生物コンピュータにも見立てているからだ。擬人化しているには違いないが、心理描写はすべて生物学的説明に裏打ちされていて、それが妙に説得力があるのである。人間の感情も同じようなメカニズムで生まれているのかなという不思議な気分になってくる。

 人間の感情をつかさどる大脳辺縁系は恐龍時代にできた脳といわれているから、感情に関する限り、擬人化するまでもなくレッドも人間も同じなのかもしれない。

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岡本敏子 『岡本太郎に乾杯!』 新潮社

 著者は学生時代、岡本かの子のファンだったことから太郎のアトリエに出入りするようになり、「夜の会」を手伝ったりしているうちに秘書として半世紀にわたって岡本の活動をささえることになった。岡本は旺盛な創作をつづける一方、厖大な量の美術論を発表し、現代日本の感性に多大の影響をあたえたが、そうした著作は岡本がおりにふれてもらした言葉を著者が書きとめ、そのメモを再構成して原稿にしあげたものだという。著者は養女として岡本の籍にはいり、没後は遺作の管理をしている。文字どおり、一生を岡本太郎のために捧げつくしたといっていい。

 近年、大家の身近にいた人による回顧録の出版がブームになっているが、本書の場合、ごく初期から半世紀近く岡本をささえ、ともに闘った立場から書かれていて、思いの深さは同列には論じられない。飛行船の話とか、旧都庁の壁画の取り壊し前後の事情、パリの懐旧談、縄文の美の発見の瞬間、太陽の塔の裏話とか、すばらしい話がたくさんつまっているが、終章の「岡本太郎の孤独」はとりわけ胸を打った。

 岡本太郎という人は友人は作るが子分は作らず、当然、岡本派などというものはない。日本では芸術家も文学者も、無名時代はすぐに群れたがり、名前が出てからは子分を作り、派閥をやしない、画壇政治や文壇政治にあけくれる。しかし岡本は終始孤独者のままだった。岡本派を作っていればもっと大きな仕事ができたのにと批判する向きがあるそうだが、なんとシニカルな意見だろうか。孤独者の道をつらぬいた岡本太郎に乾杯したいと思う。

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シンディ・ヴァン・ドーヴァー 『深海の庭園』 草思社

 最近の調査で死の世界と思われてきた深海底、それも硫化水素や重金属をふくんだ熱水の噴きだす噴出口の周囲に驚くほど多彩な動物相が展開していることがわかってきたが、本書は第一線の研究者の書いた深海紀行だ。

 著者は生物学者だが、4000メートルまで潜れるアメリカの深海調査艇アルヴィン号の操縦士の資格をもち、一時期研究生活を離れ操縦士として勤務していたことがある。女性で深海調査艇の操縦資格をとったのは著者が最初だが、操縦士資格をとった科学者としても第一号だという。アルヴィン号は内径2メートルのチタン球の中に操縦士一人、科学者二人が乗り組むが、科学者と操縦士の間には見えない一線があり、それを越えようとした著者はさまざまな「いじめ」にあったとある。

 いくらアメリカでも深海調査艇の操縦を教える学校はなく、母船に乗り組んで徒弟制度的におぼえていかなくてはならないというから、先輩の無理解はきつかったろう。しかしガッツではねかえし、実力で一目おかれるところまでいったのだから、たいしたものだ。

 研究者としてのキャリアを中断してまで操縦士の資格をとろうとしたのは、すこしでも長く深海に潜っていたかったからだという。調査艇は世界でも数台しかないから操縦士になるのは一番確実な手なのだ。

 そういう著者の筆になるだけに深海底も、チューブワームのような奇怪な生物も、調査船の生活も魅力たっぷりに描かれている。ただ多忙な研究の合間に書かれたせいか一つ一つの章が短く、どうも食い足りない。引退してからじっくり蘊蓄をかたむけてもらいたいものだ。

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1997年 5月からの読書ファイル
Copyright 1997 Kato Koiti
ほら貝目次