読書ファイル   1997年 9-12月

加藤弘一
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1998年 1月からの読書ファイル
書名索引 / 著者索引
October
私市正年 『イスラム聖者』
武田雅哉 『猪八戒の大冒険』
ドロズニン 『聖書の暗号』
宮台真司 『世紀末の作法』
森山軍治郎 『ヴァンデ戦争』
ハーディ 『日蔭者ヂュード』
November
茅田俊一 『フリーメイスンとモーツアルト』
富岡多恵子 『ひるべにあ島紀行』
町田康 『くっすん大黒』
五味文彦 『中世のことばと絵』
December
兵藤裕己 『太平記〈よみ〉の可能性』
芝野耕司 『JIS漢字字典』
室井光広 『あとは野となれ』

Septmber 1997

私市正年 『イスラム聖者』 講談社現代新書

 著者はモロッコをフィールドとするイスラム社会の研究者で、以前、同じ現代新書から出ている三冊本のイスラム通史の一冊目、『都市の文明イスラーム』にも執筆している。同書は若手研究者たちが最新の知見を一般向けに書き下ろした文章を集めていて、イスラム教は好戦的な遊牧民の宗教だというような通念をひっくりかえし、目の覚める思いがしたものだ。

 本書でも、イスラム聖者はスーフィズムから生まれたという通説を統計によってしりぞけ、聖者崇拝はイスラム以前の土俗的な信仰が、コーランに見られるバラカ(神の恵)概念と習合してうまれたもので、イスラムが民衆に浸透していった12世紀以降、聖者の修行場や聖廟を拠点に、政治権力化していく過程を明らかにしている。聖者崇拝は、スンナ派の正統神学から見れば、田舎くさい俗信にすぎず、19世紀以降盛んになるイスラム原理主義からは激しく排撃されたとある。民間信仰の宿命だろう。

 著者の説が業界でどう評価されているかは知らないが、うなづける説という印象を受けた。

 聖者たちは清貧の生活をおくる一方、奇蹟やバラカによってお布施を集め、修行場や聖廟で貧者に施しをおこなっていた。金銭を動かし、人が集まるとなれば、政治力がついてくるのは当然のなりゆきで、部族間紛争や中央権力との対立の仲裁に乗りだしたり、政権樹立を画策する聖者までいたという。

 この点に注目して、著者は聖者の開いた教団は現代のカルト宗教に似ていると指摘する。本書は、一昨年のオウム騒動の最中に書きすすめられたそうで、過去の聖者や奇蹟がどういうものだったかを実証的に示すことで、今日の課題にこたえたかったと、あとがきにある。

 意気ごみはわかるが、貧病争にかかわったイスラムの聖者を60年代あたりまでの新興宗教とならともかく、高度成長以後のカルト宗教といっしょにするのは無理がありそうだ。

武田雅哉 『猪八戒の大冒険』 三省堂

 中野美代子に『孫悟空の誕生』というおもしろい本があるが、本書はその八戒版を意図したらしい。あとがきによると、著者は中野の弟分にあたるようである。

 『孫悟空の誕生』は、悟空のモデルになったのはどんなサルかという謎解きが心棒として通っていたが、八戒の場合は、中国の黒豚がモデルであることは明白なわけで、摩利支天や大黒様と関係づけたり、挿絵では白豚として描かれるのはなぜかといった疑問を持ちだしているが(木版では黒ベタがうまく印刷できないからでおしまい)、かなり苦しい。夥しく書かれたという(今も書かれている?)、八戒の後日談もそれほど興味をそそらない。

 『西遊記』は、妖怪たちがみんな三蔵法師を食べようとして襲うことからわかるように、「食べる」というテーマで書かれているが、なかでも八戒は大食いであるとともに、豚という食べられるために生まれた存在であって、『西遊記』の要の位置にいるという指摘は刺激的だが、竜頭蛇尾で終わっている。

ドロズニン 『聖書の暗号』 新潮社

 聖書に予言が隠されているという説は昔からあって、こじつけ屋を指す Bible Interpreterという言葉があるという。本書が平積みになっているのを見て、「ああ、またか」と思いたが、コンピュータで解読とか、数学的に証明したという惹句が気になって読んでみた。

 モーセが神から授かったとされるモーセ五書の全304805字(邦訳では原稿用紙 800枚余)を「等距離文字列法」で解読すると、先日暗殺されたイツアーク・ラビン首相の名前と、犯人のアミルの名前が接近して出てくるというのが、この本の味噌だ。「等距離文字列法」というと難しそうだが、文字を50字詰めとか100字詰めとかにならべかえると、縦方向や斜め方向に単語が浮かび上がってくるという原始的な暗号である。

 原始的な暗号なのに、なぜ今まで誰も解読されなかったかというと、作業量が厖大だからである。ラビン首相の名前はモーセ五書の 304805字を 4772字×64行にならべかえると出てくるそうだし、1945字×157行にならべかえると、「日本」と「原爆によるホロコースト」という言葉が出てくるという。ならべかえて検索するだけだから、コンピュータなら簡単だが、人力では無理だろう(1930年代にいいところまでいったラビがいたそうだが)。

 『戦争と平和』のヘブライ語訳を同じ手法で調べたところ、意味のある単語の組み合わせはでてこなかったという。数学的に証明というのは、意味のある単語が近い距離に出現する確率が統計的に有意味だという証明のことで、「暗号」の発見者で数学者のリップスの論文を巻末におさめている。あくまで統計的に有意味だというだけだし、母音を表記しないヘブライ語だからという感じもしないではない。

 リップスは「暗号」を神の業と考え、決定論的な受けとり方をしているそうだが、著者は可能な未来を予見する力のあった人間を超える知性(平たくいえば、宇宙人)が、人類に警告するために、モーセ五書をスーパー・コンピュータで作り、ユダヤ人にあたえたと考えているようである。月面にモノリスをおくのではなく、聖書自体がモノリスだったという発想はそそられる。モーセ五書は儀式の手順書に近く、退屈な文章が延々とつづいているが、暗号を封じこめたためにああなったという説明はおもしろい。宇宙人のスーパー・コンピュータはあんまりたいしたものではなかったのだろう。

 この種の本はお説教で締めくくるのが決まりになっているが、本書の場合、地震が来るぞとか、テロリストが旧ソ連から流出した原爆を使うかもしれないといった警告がある程度である。

October 1997

宮台真司 『世紀末の作法』 ダ・ビンチ編集部

 久しぶりにおもしろい本を読んだ。抱腹絶倒、痛快丸齧りで、まえがきからあとがきまで、笑いどおしだった。

 本書は、著者がこの数年、援助交際やブルセラ問題について書いた短文(原稿用紙10枚以下)を集めたものだ。著者の発言はTVや新聞などでたびたび目にしていたが、まとまった形で読んだのははじめてだ。くりかえしは多いものの、個々の発言の背景をなす理論的枠組がくっきり浮かび上がってくる。

 現状診断については宮台説で正解だと思うが、処方箋については疑問がある。

 著者は小室直樹のゼミに出ていたそうで、小室門下というか、小室ファミリーの一員だ。だからというわけではないだが、著者の分析は、小室のアノミー論(規範を失った人間はめちゃくちゃをやりはじめる)の応用と言っていいだろう。

 小室の場合、規範を再構築するために、自虐史観をやめて、日本人としての誇りをもたせるような教育をするという処方箋を提唱しているが、今さらそんなことができるわけはない。

 それに対して、著者は無規範な社会を生きるための作法や知恵の必要を説き、作法や知恵の伝達を妨害するような規制の危険を指摘している。「成熟した社会」という言い方をしているが、要するに子供をすれっからしにしろというのが、宮台氏の処方箋だ。明治政府が性道徳をもちこむ前は、夜這いが当たり前で、みんな適当に仲よくやっていたのだから、その時代にかえれということだろう。

 著者は作法や知恵の例として、あるテレクラの兄ちゃんが、あぶない客とアポをとった女子高生に警告の電話をいれるというケースをあげている。そういう良心的なテレクラの兄ちゃんが結構いるというのは事実だろうし、テレクラ規制が、良心的な兄ちゃんたちを失職させる結果をまねき、女子高生をかえって危険にさらすという指摘もうなづける。

 しかし、このケースはテレクラの兄ちゃんがたまたま規範を維持していたというにすぎなくて、実は規範をあてにしているのだ。社会の無規範化がさらに進行すれば、テレクラの兄ちゃんたちだって、大蔵官僚や動燃職員のような出鱈目をやりはじめるのは時間の問題だろう。これでは無規範な社会で生きる処方箋にはならない。伝統的な共同体が崩壊した以上、江戸の成熟社会が再来するなんていうことはありえないのである。

森山軍治郎 『ヴァンデ戦争』 筑摩書房

 1989年のフランス革命二百周年は本国でもあまり盛りあがらなかったそうだが、国家的な行事に対する関心が減っているという先進国の一般的傾向だけではなく、歴史研究がすすんだ結果、フランス革命に疑問がもたれるようになったことが大きいようである。

 フランス革命は近代を開いたブルジョワ革命だとする説は怪しくなっているし、国民公会の議員が戦場に常駐し、軍隊を監視する派遣議員制度は、シビリアン・コントロールとは無関係であり、むしろ共産主義国が軍隊を統制するのに使った政治委員制度の原型という見方が有力だという。ジャコバン主義とマルクス主義は似ているどころか、同根といった方がいいようである。

 社会主義革命には自国民の大量虐殺がつきものだが、この宿痾はフランス革命も無縁ではなかった。革命の防衛を口実に、非戦闘員もふくめた一地方根こそぎのジェノサイドがおこなわれていたのだ。

 特に多くの犠牲者を出したのは、ブルターニュ半島の南にあたるヴァンデ地方だ。ここは、一時、カトリック王党軍が勢いをふるっていたが、王党軍が全滅した後、王党軍にしたがっていた女性や老人、子供はナントに連行された。彼らは派遣議員の命令で船に乗せられ、ロワール河に船ごと沈められて殺された。悪名だかいナントの溺死刑だ。

 故郷の村に残った人々も安全ではありなかった。無抵抗となった村々を、地獄部隊と呼ばれる虐殺専門の部隊が、老若男女にかかわりなく、なぶり殺しにして歩いたからだ。自由・平等・博愛という「理想」が、人間の感覚を麻痺させ、残虐行為を平気で犯させるのだ。「理想」くらい、おぞましいものはない。

 ヴァンデの悲劇については、従来は、後進地域の迷信的で旧弊な農民が、革命に反対する貴族にそそのかされて反乱をおこしたのであって、自由・平等・博愛の革命を守るためには、虐殺もやむをえなかったのだというような説明がおこなわれていた。

 しかし、本書によれば、事情はかなり違うようである。ヴァンデ地方は織物業で革命前に目覚ましい経済成長をとげており、商品作物を生産する自作農や、織工や仲買人の比率が高く、当初は革命を支持していたというのだ。また、貴族が農民を扇動したというのも間違いで、農民や織工、小商人の方から貴族のところに押しかけ、指導者となることを強引に迫った例がほとんどだった。

 なぜ、ヴァンデ地方の住民が革命支持から革命反対に転じたか、そしてなぜ敗れたかの分析は本書の白眉で、近年発見された厖大な史料を駆使してヴァンデ戦争の実態を描きだしており、迫力がある。

 王党軍の指導者連は足のひっぱりあいばかりやっている困った連中だったが、捕虜にした共和国軍の兵士(銃剣で赤ん坊を突き刺すなどの残虐行為を犯していた)を武装解除しただけで放免するなど、寛大なあつかいをしていたことは特筆しておこう。

ハーディ 『日蔭者ヂュード』 岩波文庫

 映画『日蔭のふたり』がすばらしかったので、原作を読んでみた。

 主人公のジュードはテスと同じウェセックス州に生まれ、早く孤児になり、村でパン屋をいとなんでいる大伯母に育てられる。彼はフロットソン先生の感化で学問を志すようになり、先生が学士の資格をとるために移っていった大学都市、クライストミンスター(オックスフォードがモデル)にあこがれ、ラテン語を独学するようになる。

 成人した彼は、最初の結婚に失敗した後、クライストミンスターにゆき、石工として働きながら、大学入学の機会をまつが、独学者に大学の門は開かれない。恩師のフィロットソン先生も学士号はとれず、しがない教師生活をおくっている。

 ジュードはやはりクライストミンスターに出てきていた従姉妹のスーと出会い、教師志望の彼女をフィロットソン先生に紹介し、助教にしてもらう。フィロットソン先生は年が離れているにもかかわらず、スーに引かれ、求婚する。ジュードはスーを愛していたが、ただ一人の親戚として結婚式で父親代わりをつとめ、彼女を引きわたす。

 実はスーもジュードに引かれていて、結婚後、二人の愛はいよいよ深まり、ついに駆け落ち同然に出奔する。二人は各地を転々するが、正式に結婚していない上に、ジュードの最初の妻との間に生まれた子供を引き取ることになり、スーにも子供(私生児になる)が次々と生まれる。ジュードの仕事は安定せず、住居すらままならない。

 そして、悲劇がおとずれるのだが、なにが起こるかは、これから読む人のために伏せておこう。

 映画はこの悲劇をクライマックスにし、暗澹たる未来を暗示して終わるが、小説の方はその後の悲惨な運命を容赦なく描いていく。この後日譚は腹にこたえ、19世紀リアリズムをげっぷが出るくらい堪能できる(もちろん、褒め言葉)。

 映画のスーは、今、注目のケイト・ウィンスレットで、向こう気の強い生気あふれる娘をはつらつと演じていたが、原作では頭でっかちな、生真面目な娘で、映画のような魅力はない。19世紀にはケイト・ウィンスレットが演じたような娘は存在しなかったのだろうか。

 もう一つ、映画と異なるのは、フィロットソン先生がいい人に描かれていることだ。理想に挫折した男が、せめて妻との関係で理想的であろうとするが、因習によってまたも挫折し、みじめな晩年をむかえる。男としてえぐい部分もあったりして、なかなか愛すべき人物である。

 作品自体は良かったが、翻訳は賞味期限切れで、誤訳と思われる箇所も目についた。国書刊行会から新訳が出ているから、そちらを読んだ方がいいだろう。

Nobember 1997

茅田俊一 『フリーメイスンとモーツアルト』 講談社現代新書

 モーツアルトとフリーメイソンの関係は映画『アマデウス』ですっかり有名になったが、本書は前半でフリーメイソンの歴史を紹介し、後半でモーツアルトとフリーメイソンの関係をさぐっている。

 モーツアルトのフリーメイソン暗殺説があるくらいだから、いくらでもおもしろくできるテーマだが、本書は外堀をすこしづつ埋めていく正攻法の本である。人間はわからないものを過大評価しがちだが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」がほとんどで、フリーメイソンをめぐる揣摩憶測もその類が多い。

 著者によるとモーツアルトの時代のウィーンではフリーメイソンはかなりの勢力になっていて、ヨーゼフ二世の啓蒙主義改革のブレーンにもメイソンがいたが、ヨーゼフ二世が保守化しメイソンを警戒するようになると、あっという間に下火になったという。フリーメイソンを出世の道具と考えていた輩が多かったわけだ。

 ウィーンのメイソンはオカルト的な色あいの濃い薔薇十字系と、啓蒙主義的・社会変革的な色あいの濃いイリュミナティ系の二派があり、ヨーゼフ主義全盛時代はイリュミナティ系が圧倒していたが、帝室からうとんじられるようになると、薔薇十字系が勢いを挽回する。モーツアルト自身はイリュミナティ系にシンパシーをもっており、メイソンの冬の時代に運動を盛りかえそうとしていたらしい。

 その努力の一つが『魔笛』だったというのが茅田説だ。モーツアルトは『魔笛』でメイソンの秘密を不用意にもらしてしたために、メイソンから排斥され、金を貸してもらえなくなったという見方が一般的だが、著者は『魔笛』はメイソン上層部の了解をとった上でメイソンの宣伝のために書いたとしている。

 その論拠として『魔笛』に薔薇十字系の要素が盛りこまれている点をあげる。モーツアルトはイリュミナティ系の啓蒙主義者だったから、薔薇十字系のオカルト趣味には距離をおいていたはずだが、薔薇十字系が多くなっていたメイソン上層部に迎合するためにオカルト的な趣向をとりいれたというのだ。

 本書に描かれる晩年のモーツアルトの生活も、一般にいわれているモーツアルト落魄説とはずいぶんちがう。多分、事実は本書に近かったのだろう。そうなると、モーツアルトの早すぎた死やぞんざいな埋葬の謎が深まるが(田中重弘の『モーツアルト・ノンフィクション』の梅毒説はどうなのだろう)、著者はそれについてはなにもふれていない。

富岡多恵子 『ひるべにあ島紀行』 講談社

 老いを前にした女性の孤独を、スウィフトの生涯とアラン島の風土を響鳴板にして描いた小説である。幻の男たちとの語らいの合間に、スウィフトその人が登場する。なぜスウィフトかというと、アイルランド旅行が作品の端緒になっていることもあるが、彼と偽装結婚したといわれ、一説には実の姪ともいわれるステラという女性との「友情」に、主人公が引かれているかららしい。主人公はダブリンの教会にならんで葬られているスウィフトとステラの関係に、屈折したあこがれをいだいている風である。

 この趣向は成功していて、老いの縹緲たる風景に、女嫌いで通した男の屈託と、大英帝国に一矢報いようとしたその生涯が二重写しになり、作品の柄を大きくした。こういう話にも、帝国と植民地の論理が出てくるところが現代なのだろう。

 スウィフトの寓話の向こうをはって、王様をやめたがっている王様をいただくナパアイ国の話が出てくるが、跡継ぎの男子の生まれる見こみのないどこやらの王家をどうしても連想するわけで、幼児姦の迷路にはまりこんだ若い男たちの混迷とともに、閉塞感がいやでもにじみでてくる。

 「ひるべにあ」とは、アイルランドの古名で、「冬の国」という意味だそうだが、この小説には冬は出てこない。アメ太郎の見舞いで、冬の山村におもむくはずが、直前で身をかわし、ついでにアメ太郎まで身をかわして、早春の寂寥たる風景の中に主人公はとりのこされる。

 ゴミ袋を持って、ひたひたと歩きつづける情景はおもむきが深い。

町田康 『くっすん大黒』 文藝春秋

 久しぶりに「新しい」小説に出会った。

 表題作の「くっすん大黒」はやる気がうせ、仕事をやめて酒びたりの生活をおくっているうちに、大黒さまのような顔になり、妻に逃げられた楠木という男の話である。もっとも、読みすすんでいくと、仕事をしていたといっても堅気の勤人ではなく、異能俳優のようなことをしていたようだし、顔も最初から大黒さま風だったらしい。

 類は友を呼ぶで、つきあいのある無為徒食の菊池のところに転がりこむが、菊池も金がなくなったので、ちょうど声がかかったドキュメント映画のレポーターを引きうける。菊池はマネージャー役でついてくる。この撮影は不条理きわまりないもので、抱腹絶倒した。ラストはハッピーエンドといってよいのだろうか。いや、わからない。

 「河原のアバラ」も、なにもしない二人組の話である。「くっすん大黒」は「傷だらけの天使」を連想したが、こちらはもろにヤクザの骨壺をとどけにいく話であり、「傷だらけの天使」を意識しているのは間違いないと思われる。

 「くっすん大黒」は最後に金を稼いでハッピーエンドだったが、こちらはただただ堕ちていくだけで(堕ちながらもミエをはるのが悲しい)、ホームレスとなって夕日をながめる場面で終わる。しかし、これもまた、別の形のハッピーエンドであろう。

 「新しい」と書いたが、コミックの世界では吉田戦車という先蹤があるし、演劇の世界でも大人計画がやっている。文学の世界にも、ようやく時代の気分を表出した作品が出てきたわけで、喜ばしいことである。

五味文彦 『中世のことばと絵』 中公新書

 『絵師草紙』と呼ばれる絵巻の作者探しを軸に、建武期を語った本だ。著者は肩のこらない読み物を意識していて、警察の尋問に、盗みの手口をマンガで説明した泥棒の話を枕にしたり、対話体をはさんだり、後書きを書簡体にしたりと趣向をこらしている。はじめてワープロで書き下ろした本、という意気ごみもあるようである。おそらく、著者としては推理小説仕立てのつもりなのだろう。

 意気ごみは結構だが、「おいおい」と言いたくなるところが少なからずある。五味文彦ともあろう学者がこんな危なっかしい考証をしていいのか、と読んでいてはらはらしてう。

 まず、『絵師草紙』がどんな絵巻なのか十分説明しない内に、建武期の作と断定するのは性急すぎないか。後の部分を読むとそれなりに納得できるが、議論の大前提となる部分だけに、丁寧に考証してほしかった。

 詞書の作者が吉田兼好という断定も唐突な印象をうけた。『徒然草』を「土倉文学」と呼ぶあたり、新鮮なだけに、もったいないと思う。

 『絵師草紙』と『石山寺縁起』、『慕帰絵詞』、『諏訪縁起』の作者がすべて同一人物で、名前は藤原隆章であろうという最後の結論も性急すぎる印象が否めない。

 はじめてワープロで書き下ろした本ということで、実験的な面があるのかもしれないが、後醍醐朝周辺や絵師の家の成立をわかりやすく語るのなら、別の書き方の方があったのではないか。

December 1997

兵藤裕己 『太平記〈よみ〉の可能性』 講談社叢書メチエ

 本書はまず、『平家物語』は源氏政権の起源神話であり、源氏の氏長者である村上源氏中院流によって管理されてきたという指摘からはじまる。足利義満の時代に氏長者が清和源氏足利氏流に交代すると、琵琶法師の元締である平家座頭の管轄権(本所)も足利家が掌握した。

 権威が作り物であり、政治情勢がフィクションに影響される(足利尊氏の光厳帝推戴による巻きかえしはまさにそれだった)以上、権力者が物語に神経をとがらせるのは当たり前だが、こういう視点はずっと見落とされてきた。

 この視点を踏まえるなら、足利政権の起源神話である『太平記』も、足利将軍家に管理されていた可能性が高い。はたして足利直義や細川頼之が現行テキストの成立に関与していたことを示唆する史料が複数あり、大塔宮など南朝方の評価に権力側の介入があったと推測させる証拠も多数存在するという。

 もっとも、すべては幕府の情報統制の産物という単純な話にはならない。「太平記読み」と呼ばれた芸能者は南朝につながる「あやしき民」だったからである。

 『太平記』は源平交代史観という枠組の中で足利政権を正当化する機能をはたしつつ、別のレベルでは武士の名分を相対化してもいる。楠木正成が縦横無尽に活躍する物語は正統的な武士をコケにし、地下の民と天皇が直接に結びつく可能性を描いている。『太平記』は武家政権を肯定しつつ、その存在理由を根本から掘り崩す両義性をはらんでいたのである。

 ここまででも十分おもしろいが、本書の後半では徳川幕府と太平記の危険な関係にまで踏みこんでいる。なぜ徳川幕府がと思うかもしれないが、徳川家は清和源氏新田氏流を称していたので、新田義貞と足利尊氏の戦いを描いた『太平記』は徳川家の起源神話でもあるからだ。

 徳川光圀の大日本史の企ても徳川権力の枠内でおこなわれていたが、歴史は徳川光圀の意図を裏切る方向に動いた。大日本史は水戸学というファナティックな尊皇イデオロギーを生みだし、徳川権力を崩壊に押し流していったのだから。

 なぜそうなったかは本書の最後の部分で論じられている。『影武者徳川家康』もびっくりのあぶない話が次から次へと出てくる。まさに歴史は小説より奇なりである。

芝野耕司 『JIS漢字字典』 日本規格協会

 先月25日に出て、ほぼ一ヶ月、手元において使ってみたが、よくできた字典である。この種の字典は西東社のものと三省堂のものを使ったことがあるが、読みや部首順、画数順に並んだ漢字にコード番号がふられていただけだった。ところが本書は『新字源』と『諸橋大漢和』という日本を代表する字典の検字番号を記載して漢字の身元をあきらかにし、さらに包摂される異体字の代表例を、教科書体もふくめて数例、例示している。

 字義のかわりに、人名・地名を掲出しているのもおもしろい。以前、「悪魔」君という名前の是非が問題になったことがあったが(役所が口出しすべき問題ではないと思う)、この字典をひくと「悪原」と「破魔」という姓があることがわかる。「殆」で「ちかし」と読ませたり、「光勃」で「みつひろ」と読ませる例もある。一種の珍名奇名事典になっていて、暇つぶしにもなる。

 コラムがいろいろな意味でおもしろい。ほら貝の「文字コード問題」特設ページをひと通り読んだ方なら、いろいろなあてこすりが読みとれて、おもしろさが倍加するだろう(笑)。ここは一つ、「JIS殺人事件」という旅情ミステリでも書いてみようかとも思った。

 ひじょうな労作であり、文字コード問題に関心がある人もない人も、ぜひお買いになるといいと思うが、不満がないではない。

 JIS X 0208:1997が字体包摂を明文化したことは、いろいろな意味で歴史に残ると思うが、この字典では包摂した字体が一〜三例しかあげられていないのである。たとえば、一説には37の異体字があるといわれる「辺」の字形を、「辺」「邊」「邉」の三つのコードポイントにどうわりふるかがわからない。JIS X 0208:1997の包摂規準は 185もあって、ひじょうにわかりにくいだけに、この字典に期待したが、裏切られたようである。「JIS漢字字典」を名のるなら、把握している限りの異体字を掲示すべきだろう。

室井光広 『あとは野となれ』 講談社

 語り手は「翻訳雑貨商」をいとなむ、おなじみの物書きなのであるが、自分の楽しみのために訳していたエルマンの『ジェイムズ・ジョイス伝』が、別の訳者によって出てしまったという嘆きからはじまる。「翻訳雑貨商」として、やりたくもない仕事をやらなければならない語り手は、精神衛生上、「心仕事ウラシゴト」と呼ぶ、出版の当てのない自分のための翻訳をやっているのだという。似たようなことをやっていたので、身につまされる話である(「SF」のコーナーにあるラファティの翻訳は、わたし自身の「心仕事」の産物である)。

 『ジェイムズ・ジョイス伝』は千ページをこえる大冊で、みすず書房の50周年記念出版で日の目を見たのであるが、同じ頃、語り手がかかわった右翼の大物の評伝が、大物の設立した財団の50周年記念の私家版として上梓される。猫又大三郎という名で登場する大物は、戦前、日本共産党の委員長だったそうで、立花隆の『日本共産党の研究』(講談社文庫)中巻で大活躍する人物がモデルらしい。

 『ねこまた、よや』と題された評伝の日本語版は、その種の出版物のつねとして、「検閲」がおこなわれているが、語り手の親友のジュウ氏が担当した英語版はのびのびと筆を遊ばせていて、独自の作品となっている。『あとは野となれ』という小説は、『ねこまた、よや』日本語版と、英語版からのジュウ訳(重訳?)、そして『ジェイムズ・ジョイス伝』を相互参照する形で進んでいく。

 三冊の本の間でキャッチボールされていくうちに、言葉は裏の意味、裏の裏の意味を獲得して、くるくると変幻していく。このおもしろさは「おどるでく」以来のものだが、哀愁はいっそう深まったようである。一年の締めくくりに、いい小説に出会えた。

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Copyright 1997 Kato Koiti
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