梅原猛 『日本冒険』1

加藤弘一

 ある新聞の小さなコラムにあったのだか、農業切捨てはすでに政府の既定方針で、農産物の全面的自由化を前提として、大手食品メーカーは北アメリカ大陸を中心に農場や食品加工工場の買収を着々と進めているという。

 コラム子によれば、自由化問題をめぐるすったもんだには、大手メーカーのための時間稼ぎという意味もあり、日本企業の海外生産拠点が軌道にのりだす3〜4年後には、輸入制限は大幅に取り払われ、食料品は劇的に安くなるのだそうだ。そういえば、フランスの名門シャトーを日本企業が買いとる云々でもめた事件があった。ニュースになるような話の背後では、何十何百という買収が進められていたのかもしれない。

 どれだけの資金が動いたのか書かれていない以上、もちろん、これは憶測の域を出ない。しかし、政府や企業の意向がどうあれ、豊葦原の瑞穂の国が農業切捨てを迫られている現状は否定できないし、現実もその方向に動いていくことだろう。

 実は、思想の世界での農業離れはかなり前から進行していた。

 従来、日本人は弥生時代以来の農耕民族であり、農民の勤勉なエートス(気風、生活信条)が近代日本の発展の原動力になったという説が行われてきた。これは「常識」といっていい。

 この「常識」をくつがえすような研究が、近年、立て続けに現れているのだ。

 その嚆矢となったのは、『無縁・公界・楽』(平凡選書)をはじめとする網野善彦の中世研究だろう。網野は商業の場であると同時に治外法権の場でもあった「市」にスポットライトを当てることで、農業以外の仕事を生業とする人々の活躍をあざやかに浮かびあがらせ、実はそうした人々こそ、歴史の一方の担い手であったことを明らかにした。先年、評判になった『異形の王権』は後醍醐天皇の建武の新政をテーマとしたケース・スタディであり、稲の王であった天皇が、中世にあって、海賊、山賊、芸能者、宗教者、職人、商人といった異形の人々の王として君臨した経緯を解明する。天皇家が山城の一地方政権に縮小しながらも、なお、全国的な権威を持ち続けることが出来たのは、土地を持てずに各地を遊行するしかなかった、これら異形の人々を掌握していたからだというである。ここに描き出されたのは弱者のより所としての天皇像であり、左翼の躓きの石だった、虐げられた階層が天皇崇拝に呑みこまれていくという機微は、はじめて捉えられたと言ってよい。

 網野の研究を受けて、中沢新一は異形の人々のエートスを「悪党的思考」と呼び、日本の思想史、政治史、芸術史をみごとなばかりに書換えて見せた。また、栗本慎一郎は日本の財閥のルーツに注目し、世界に名をはせた総合商社が非農業民のエートスの中から生まれたと説く。さらに、小松和彦は常民(農民)研究一本槍だった民俗学の中に、異人という視点を持ち込み、柳田国男の当初の企図(山人研究)の復活を果たした。

 網野の仕事とは別系統だが、原始一向宗の研究から聖徳太子信仰の解明に進み、金属民の活動の発掘へ向った井上鋭夫の業績(『山の民川の民』平凡選書)も忘れることは出来ない。

 日本という国は、外部から見れば、豊葦原の瑞穂の国どころか、黄金のジパングだったり、神出鬼没の倭冦の巣窟だったりした。奇跡的ともいえるこの百年の発展にも、そうした「悪党」の伝統の力が大いにあづかっていたはずだし、最近のデザイナーや演劇人の目覚しい海外での活躍には日本のもう一つの伝統を明らかに見て取ることが出来る。古代史、中世史、経済史、民俗学の見直しは、こうした時代の転換を率直に受け止め、農耕民中心の歴史観、世界観の革新を図ろうとするものだといって差し支えあるまい。そういえば、「スキゾかパラノか」という問いかけがあったが、あれは「ヒャクショーはダサイ!」の哲学的表現だったかもしれない。

 前置きが長くなったが、今回紹介する梅原猛の『日本冒険』も、思想界の農業離れという文脈で読まれるべきだと考える。梅原の説く縄文文化(土着狩猟採集文化)の復権は、ただちに弥生文化(渡来農耕文化)中心史観の変更につながるからだ。

 この本で梅原が論ずる話題は多岐にわたっている。ちょんまげは鳥のトサカを型どったものであるとか、鍋料理のルーツは土器文化にあるとか、「柱」は天と地をつなぐ「橋」であり、能の「橋掛」や歌舞伎の「花道」に反映しているとか、興味深い指摘も少なくない。

 しかし、『隠された十字架』『水底の歌』のような謎の核心にぐいぐい迫る、探偵小説もびっくりの手に汗握る研究書から較べると、散漫な印象は否定できないし、推理の楽しみという点でも後退している。問題の性質上、アイヌ語や沖縄方言との対応が議論の決め手となり、一般読者としては推理に参加しようがないからだ。時代が縄文まで遡ってしまうと、梅原古代学の魅力の大きな部分を占めていた「素人の目」もお手上げである。読者はこれまで以上に、梅原の個人的ビジョンにつき合わなくてはならないし、距離を置いた読み方も出来にくくなっている。

 とはいえ、梅原古代学のもう一つの柱である「偶像破壊」は、まだ、本格的ではないにせよ、その一端がはっきりあらわれている。今回、梅原が照準をあわせたのは、農業=「自然」という固定観念である。彼は農業こそ自然破壊のさいたるものだといっている。

 農村が「自然」どころか「文化」の極であり、管理社会の典型で、むしろ都市こそ「自然」だという視点は、栗本らによって提出されていたが、樹を切り森をつぶす農耕そのものを自然破壊と断じた点は、文明の批判として聞くべきものがある。

 このような観点を突きつめた先には、何があるのだろうか? 渡辺豊和氏は『縄文夢通信』(徳間書店)という奇書で、鍬を入れるとは母なる大地の体を傷つける傷害行為であり、縄文人が農耕を縄文晩期になるまで行わなかったのは、文化程度が遅れていたからではなく、自然を大切にして、敢えて行わなかったのだと書いている。わたしはこの説を読んだ時、当惑を感じただけだったが、今にして思えば、決して無理な説ではなかった。

 日本が異様に長い文明の幼年期(旧石器時代)をすごした特異な地域であることは、今日、実証されているといっていい。四大文明の発祥に先立つこと四千年前に土器を作り出していながら、弥生人の渡来までの一万数千年間、土器中心の狩猟採集文化を続けたのである。そこで形成された伝統は高度なものであった事がしだいに明らかになっているし、その痕跡は、梅原らが指摘するように、今日のハイテク文明の到るところに残っており、文明の推進力ともなっているのは事実かもしれない。

 すべてにおいて手づまりになった今日、縄文的感性の復権が、何らかの可能性を持つというのはおいしい言葉である。しかし、その一方で、日本人は世界中の樹を切りまくり、食料を買いあさる事で、自然破壊の先頭に立っている。梅原の「冒険」は興味深いが、縄文的感性の復活だけでは、どうにもならないところに来ているのである。

(Dec09 1988 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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