大イナル地ニ降リタツ二ツノ種族アリ
       ──新井千裕 『忘れ蝶のメモリー』

加藤弘一

 「ポピュラス」という世界的に流行しているコンピュータ・ゲームがある。神になって世界創造をシミュレーションするという設定なのだが、実際にやってみると、こういう代物は日本人には作れないなと考えこんでしまった。

 技術レベルが高いとか、絵柄がしぶいとかそういうことではない。ゲームの基調となる感覚がペシミスティックで、神への不信に満ちているのだ。

 一口にいうと、神と悪魔に分かれ、自分の信者を増やすのを競うゲームなのだが、村を建設して悦にいっていると、悪魔側が攻めてきたり、地震を起こしたりして、家は倒れ、地面は陥没し、かわいい信者たちがバッタバッタと殺されていく。「洪水」というコマンドは恐ろしい。せっかく創造した大地は荒れ狂う海に大半が水没、低地の村は全滅。念のいったことに、信者たちが溺れ死んでいく様子をアニメーションで見せたりもする(これが実にものがなしい)。

 困ったことに、こういうコマンドは悪魔側だけでなく、神側も使えてしまうのである。どんなに善良なプレーヤーでも、ちょこまか働くかわいい信者を二度、三度と殺されると、こっちも殺し返さなくてはという気分になる。悪魔側の村を襲って放火、虐殺を命じ、地震を起こしたり、火山を噴火させ、ついには自分の信者の犠牲も省みずに洪水を起こすところまでエスカレートする。こういう人の悪いゲームは、「ヨブ記」を2000年にわたって読んできた連中でなければ思いつかないだろう。

 わたしはたまたま「ポピュラス」を終えた直後に、新井千裕の『忘れ蝶のメモリー』を読んだ。この小説はコンピュータ・ゲームの影響をことさら誇示した作品だが、著者が意識しているのは「スーパー・マリオ」や「ドラクエ」といった日本産のゲームらしく、彼我の差を強く感じた。

 『忘れ蝶のメモリー』の主人公は、記憶喪失になったかつての恋人に記憶を取り戻させるため、二つのレベルで探索行(クエスト)を敢行する。第一のレベルは現実世界で、彼は恋人ともに、大学の夏休み、二人で滞在したことのあるリンゴの町へおもむき、アップルサイダーとカラオケ大会と原発反対運動に明け暮れながら、記憶の回復を待つ。第二のレベルは彼女の深層意識だ。主人公は超能力を持った少年とともに帆立て貝転送機で彼女の「記憶の世界」にもぐりこみ、彼女の記憶をすべて奪ってしまったという忘れ蝶を求め、さまざまな町を冒険してあるく。

 この二つのレベルは、現実対幻想と考えてはいけないだろう。物語の最後で両者の同質性が明らかにされるというだけではなく、そもそもの最初から、両方の物語とも、「引用」と「もじり」によって出来上がっていることが明示されているからだ。

 実際、この小説ははっきり明示された法律書の引用だけでなく、おびただしい暗黙の引用から出来上がっている。ざっと気がついただけでも、「フェッセンデンの宇宙」、「神への長い道」、「泣き語り性教育」が引かれているし、二つのレベルの物語の並列という趣向自体、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を連想させる。

 ことさら借物のパッチワークで作品を作り上げるのは、登場人物を徹頭徹尾、うすっぺらな存在にするためだろう。原発反対運動はカラオケ大会と同じレベルの暇をもてあました老人の手慰みに引きずり落されるし、村上春樹の気取った意匠は、ヒロインを無差別にヘッドロックをかける酒癖の悪い女に仕立てることで存分に茶化されている。

「ところで僕には君が、力という字に見えるんだけどどういうわけだろう?」
「それは当り前さ。今、言ったようにここは文字と記号の遊園地の街だからね。来た人は誰もが文字や記号になるんだ」
「すると僕も今、そうなっているのかい?」
「ああ、あんたは僕という字に見えるよ」

 「文字と記号の遊園地の街」のエピソードは、この小説の中心紋である。登場人物から一切の厚みと奥行きを奪うこと、CRTの上のビット・パターンに還元することが新井の狙いらしい。

 新井の企図したところが、今日的な閉塞状況をある程度小説に映し出していることは評価したい。われわれは画面上を跳ねまわるスーパー・マリオほど身軽ではないが、彼以上に奥行きを持っているわけではないし、われわれの暮す町も色がくすんでいるだけで、同じように気ぜわしく、見せかけの変化に満ちている。

 しかし、この軽躁的な閉塞状況は日本ローカルなものではあっても、普遍的な人間の条件に根ざしたものではない。あくまで日本の経済的繁栄に支えられた、いつこわれるともしれない僥倖ともいうべきものにすぎないことは押えておくべきだろう。

 主人公はリンゴの町の退屈さにうんざりし、さらに未来人から見せられる永劫回帰のイメージに絶望を感じもするが、退屈さといい、絶望といっても、それは裏返しの居心地のよさであって、現代日本的なもたれあいの産物なのだ。

 『忘れ蝶のメモリー』は「ドラクエ」や「スーパー・マリオ」から、和気藹藹とした楽しさと閉塞感を二つながら受け継いでいるが、それは特殊日本的なものでしかない。アメリカやヨーロッパ「ポピュラス」や「ウィザードリー」といった、底意地の悪いコンピュータ・ゲームがたくさんある。「ドラクエ」が手本にした「ウィザードリー」は難しすぎるというので日本では評判が今一つだが、その「難しさ」は怪物がおよそかわいくない、悪意に満ちた他者であるところから生まれている。他愛のないゲームといえばそれまでだが、カフカやブランショの超現実的な小説に底流しているのも、それらと同種の意地悪さなのである。

(May 1990 『群像』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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