小出浩之 『ラカンと臨床問題』
藤田博史 『精神病の構造』

加藤弘一

 フロイトの創始した精神分析は、岸田秀の卓抜な日本化や、ラカンが構造主義の立役者としてもてはやされたこともあって、マスコミ的には有名だが、日本の精神医療の現場では、最近まで、ほとんど問題にもされていなかったという。小此木啓吾氏のような精神分析のパイオニアも「分析医の資格は生け花の免状のようなもの」と発言していたのを読んだ記憶がある。

 フロイトがあつかったのは、ほとんどがノイローゼやヒステリーといった神経症の患者であったし、その後の発展も、人間論、文化論という方向のものが主だったので、精神科医にとっては、現場をしらない人間の高級漫談としか受け取れなかったということかもしれない。人間の「欲望」が、動物の「欲求」とは違い、社会的なものを仲立ちとしているという発見は重要だが、それだけではどうにもならないのも確かである。

 だが、この数年、状況は変わりつつある。第一線の精神科医の中から、ラカン理論に関心を寄せ、実践にうつす人々があいついで現れているからだ。

 と書くと、多少ともラカンの翻訳や、浅田彰の『構造と力』、佐々木孝次の一連の著作などのラカンに関する紹介にふれたことのある読者は、意外の念を強くするかもしれない。シニフィアン、シニフィエ、「小文字のa」、「大文字の他者」などといった呪文のような言葉が飛びかい、わけのわからない図表が次々と出てくるラカンこそ、高級漫談の最たるものではないかと。

 もし、ラカン理論が高級漫談だったとしたら、いや、真理をついているにしても、難解一方で、理解に何十年もかかるような代物だったら、最前線でぎりぎりの格闘をしている精神科医たちが関心を持つはずはないだろう。臨床家の注意を引きつけることが出来るのは、臨床に使えるものだけである。臨床家の見たラカン理論とはどのようなものなのか。

 今回紹介する二冊の本は、そうした精神医療の現場からのラカン咀嚼の報告である。

 最初の『ラカンと臨床問題』(小出浩之篇・弘文堂4940円)は昨年名大医学部で開かれた研究会での発表をもとにした本で、8篇の症例報告が収録されている。

 フロイトの本の中で一番取りつきやすいのは症例研究だが、ここに収められた症例報告も、きわめて具体的であって、呪文めいたラカン用語が一つ一つおさまるべき場所におさまっているという手ごたえがあり、ほとんど驚きを感じる。

 冒頭におかれた新宮一成の「ラカンと夢分析」は、夢の分析を中心に進められたノイローゼ治療の報告である。新宮には先に『夢と構造』(弘文堂)というすぐれたラカン論があるが、この論文も夢という誰もが経験する無意識との回路を主題にしており、門外漢にも十分ついていける。

 フロイトは、ある期間にまとまって見る夢は、「同一の内容を種々異なった表現方法で表そうとする試み」であり、同一のパターンを共有していると述べた。彼はそのパターンのどうしても了解できない部分を「夢の臍」と呼んだが、ラカンによれば、それは別の文脈でいわれている「われわれの存在の核」と同じものである。

 では、「夢の臍」、「われわれの存在の核」に、われわれの真の自我が潜んでいるのだろうか。

 ユングのような実体論者なら、しかりと答えるだろう。だが、ラカンは否と答える。さまざまな夢の中に繰返し姿をあらわす「夢の臍」、「われわれの存在の核」は、なるほど、無意識の欲望の場所にはちがいないが、そこでは、われわれの欲望は単なる言葉の組み合せでしかないことが明らかになり、他者の欲望に裏返ってしまって、主体であるはずの「わたし」は責任者のいない無限循環の中に呑みこまれてしまう。

 新宮は、こうして症例に即しながら、ラカンの「出会いそこない」の論理を浮き彫りにしていくが、読者は世間的に流布している「フロイトの夢解釈」との懸隔に目眩いを覚えるだろう。だが、フロイトの発見とは、ラカンが強調するように、言葉・仕草の表面にあくまでとどまり、意味のもつれを解きほぐしていくことなのだ。

 本書には他にも「シゾイドの空虚感」、「やさしい類人猿」等の力のこもった論文が収められている。わたしは、抽象の極みのようなラカンの理論が、実は臨床の現場で本領を発揮する、きわめて直観的な認識であることに興奮を覚えた。

 次に紹介するのは藤田博史『精神病の構造』(青土社2800円)である。

 藤田もニース大学で診療にあたっている現役の精神科医であるが、こちらは生々しい症例に関する記述は一切ない。といって、体系的に書かれた理論の書とも趣きを異にしている。本書の大部分は、今回はじめて活字になった文章であるが、「パンセ」のようにおりにふれて書かれた断章の集積であって、思いつくままといった軽やかな身ごなしで、ピカソあり、哲学史あり、松任谷由美ありと、さまざまな視点からラカンの理論を俎上にのせている。

 断章という性格上、章ごとにムラがあるのはやむをえないが、第 2章の「構造化する運動」、第 4章の「欲望のグラフ」、原言語学ともいうべき第 7章の「精神のトポロジー」、第13章の「精神病はいかに解明されるべきか」等々はすこぶる明晰であって、すばらしいの一語につきる。これは、ラカンの文体の速度に追いつけた最初の日本語散文かもしれない。

 藤田の文章はのびやかであって、多分に知的遊戯の色彩が濃いが、しかし、臨床の現場から出てきたと思わせる感触がある。それは随所に見られる話題の飛躍である。藤田の文章はあくまで論理的だが、一貫した論述として持続することなく、不意に話題を転じ、飛躍する。この思いがけなさは、気まぐれな対話の転がり方に似ているし、夢のとりとめなさにも通じるものがある。どのページも明晰きわまりないのに、読んでいくと、何かしら了解できない不透明なもの、まさに「夢の臍」、「われわれの存在の核」とでもいうしかないものにぶつかる。

 藤田のこの本は、フロイトがシリーズの夢についていったように、まさに「同一の内容を種々異なった表現方法で表そうとする試み」であり、はからずも「夢の臍」、「われわれの存在の核」を浮き彫りにする結果となっているのである。

 実は、ラカンの著作そのものが、そのように書かれているらしい。『ラカンと臨床問題』の編者の小出浩之は、ラカンの文章は精神病者の文章だと書いているが、その難解さは、論理の難しさではなく(論理なら直線的に一歩一歩追いつめていけば、必ずわかるはずだ)、論理が生まれる以前の段階に遡ろうとする難しさだというのだ。図表を使ったトポロジカルな表現も、物事を直線的に整理してしまう「論理」をやりすごす戦術だというが、そういえば、藤田の文章には夢にも似た解放感が確かにある。

(1990 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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