中村雄二郎 『共振する世界』

加藤弘一

 中村雄二郎は大きな転換期である現在を考える上で、キーワードとなる言葉を、哲学史の遺産の中から発掘し、知的な共有財産としてきた。まず、「共通感覚」がそうだし、「場所」「トポス」もそうだ。無味乾燥な「制度」という言葉に、感性や情念とかかわる奥行きをあたえたのも、この人だった。そうしたキーワードを集めた『述語集』(岩波新書)という本もあるが、中村の仕事は、徹底的に考えぬかれた先人の思考は、碁の定石と同じで、何百年前のものであろうと、決して古びることなく、現在でも立派に通用することを教えてくれているのである。

 もっとも、中村の発掘した言葉の中にも、もう一つ一般化しないものもある。たとえば、『魔女ランダ考』以来、いろいろな形で語られている「南型の知」「北型の知」というゲーテのわけ方である。

 中村によれば、「北型の知」とは、近代科学や資本主義をリードしてきた北方ヨーロッパ起源の思考で、「禁欲主義・能率主義・分析的理性重視の立場」であるのに対し、「南型の知」とは、地中海沿岸地域の思考で、「感性の解放・遊びや祝祭の再評価・共通感覚(五官を貫き統合する根源的感覚)の重視」を主な内容にし、ヨーロッパだけでなく、全世界的に分布するとする。実際、プロテスタントの質素で禁欲的な教会とは対照的な、カトリックの絢爛豪華な聖堂と厳粛な儀式は、東洋の密教同様、土俗的な儀礼との血縁を濃厚に残している。

 ヨーロッパ内部にも南北の対立があるという指摘もおもしろいが、従来、普遍的な真理のようにいわれてきた近代合理主義の考え方が、地域的にも時代的にも限定された、北方ヨーロッパ・ローカルの思考だったという点は重要である。近代合理主義だけが、合理的な思考ではないことになるからだ。「南型の知」を再評価するとは、これまで非合理とか、いかがわしいとかされてきた、北ヨーロッパ的ならざる文化に、別の形の論理を認めることなのである。

 実に明解な説明だが、こと日本では、この分類はいささか都合が悪い。この国は、弥生の昔から、新しい文明は西南から来ることになっており、経済的な功利主義が誕生したのも南西においてだった。明治の近代化も、南西諸藩からやってきた武士によって進められたことはいうまでもない。つまり、日本、特に近代日本では、「禁欲主義・能率主義・分析的理性重視の立場」は南が代表しており、北(東北)は遅れた地域という含意が強い。「北型の知」「南型の知」が、「共通感覚」のようなキーワードと違って、必ずしもピンとこないのは、日本の地理的なよじれが関係しているだろう。

 では、中村はまったく実感のない言葉を、ヨーロッパから輸入したのだろうか。

 そうではあるまい。南北という切口ではイメージがつかみにくいが、「山の手」「下町」という切口でなら、ぴったりあてはまるからだ。北型の知は、日本では近代化をリードしてきた山の手文化にあたり、南型の知とは、江戸の遺産をかかえこんだために、前近代とされた下町文化に対応するといえる。

 こんなことを考えたのは、他でもない、中村の近著『共振する世界』(青土社2300円)に、バリ島から受けたカルチャー・ショックについて、こんな感慨が書かれているからだ。

 私の見るところでは、バリ島文化が日本文化のなかにもともとつよくあった、また今でも隠れたかたちである南型知をつよく喚起するためであろうと思われる。《南型知は日本文化のなかにもともとつよくあった》と言ったが、明治維新より前の日本文化を特色づけていたのはまぎれもなく南型知だった。明治以後の日本は北型知の熱心かつ勤勉な受容者であり、少なくとも表面的には北型知の体現者に変貌した。したがって現在では、かつての南型知はかつなあったままのかたちでは姿を現してはいないけれども、まったくなくなっているわけではない。それは一方では抑圧され、他方では拡散されたかたちで存在しいるといえよう。

 中村は浅草の生まれだが、彼がバリ島とともに、「南型の知」をつよく喚起される場所としてあげているナポリは、ヨーロッパの浅草といっても、そうはずれてはいない。

 誤解してはならないのは、中村の「南型の知」への注目は、中年になってからの原点回帰ではないということだ。

 中村の最初の大きな仕事は『パスカルとその時代』だった。この本で森有正の後継者と目されるようになったが、森のパスカルが孤高で禁欲的な山の手的パスカルであったのに対し、中村の描き出したパスカルは、才気煥発な筆で論敵をやりめこる『プロヴァンシャル書簡』を中心にすえた下町的なパスカル、誤解を恐れずにいえば、ビートたけし的なパスカルだった(抱腹絶倒の『プロヴァンシャル書簡』は中村自身が全訳しているが、白水社のパスカル全集でしか読めないのは残念だ)。

 その後の中村の歩みは、本書におさめられている「フーコーとの遭遇」などに回顧されているが、近代科学を生んだヨーロッパ思想の行きづまりと、それをあくまで合理的に批判しようとする構造主義との出会いをてがかりとした、山の手的な哲学の相対化と、下町的な思考の復権にあったといえる。「共通感覚」や「場所」「コスモロジー」への注目、「南型の知」の発掘も、下町文化が基底にあったと考えると、すこぶるわかりやすいはずだ。

 中村は、最近すすめている西田哲学の再評価も「南型の知」の発掘の一環として位置づけているが、禅という禁欲的な修行に基礎をおいた西田の哲学を「南型の知」と呼ぶのは、いささか苦しいものがあるのではないか。

 明治以後の日本では、ついこの間まで、禅と浄土真宗だけが精神的な宗教として評価されたにすぎないが、禅は禁欲的なスタイルにおいて、真宗は唯一神への絶対的帰依という内容において、プロテスタントという北型の信仰に似ていたから、インテリ受けした面が多分にある。西田が自分の思索を展開するにあたって、禅を手がかりとして使うしかなかった点は、西田個人の問題というより、近代日本の歪みにかかわる問題だが、南型の知の発掘というなら、本当は密教の再評価に進まなければならないはずだ。

 中村は『共振する世界』と前後して発表した『かたちのオディッセイ』(岩波書店4300円)で、いよいよ密教もふくめた、「南型の知」の全面的な再評価に手をつけている。

 まだ模索段階で、『共通感覚論』のようにまとまってはいないし、思い切って神秘的な世界にまで踏みこんでいるので、にわかに判断することはためらわれるが、触発されるところの多い第一級の仕事であることは確かである。

(Apr04 1991 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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