スティグマの行方
  ──大江健三郎 『治療塔惑星』

加藤弘一

 『治療塔惑星』は一昨年刊行された『治療塔』の続篇にあたる。

 前作では、人類の文明を異星で生き延びさせるべく「新しい地球」へ出発した「選ばれた者」たちが植民に失敗した経緯と、帰還後の地球の混乱が語られたが、今回は放棄された「新しい地球」のその後に話の重点が移る。人類の宇宙進出をはばむ「外宇宙の知性体」の存在があきらかになり、彼らとの接触の試みがはじまったところで終っているから、おそらく完結篇が書かれ、三部作になるのだろう。

 このシリーズは来世紀の物語であり、SF的設定を取りいれたというより、SFそのものであるが、SFとして書かれたことで、従来の大江の作品の流れを転換させる、大きな変化が起こっている。

 大江の小説は『個人的な体験』以降、障害児のテーマを中心にしてきた。障害を負って生まれてきた子供を、超越者からのメッセージを携えた聖なる存在として受けとめ、その「個人的な体験」を、人類の普遍的な再生への願いへと昇華させることを主題としてきた。近作で引かれたブレイクなどの詩篇は、昇華のための跳躍板として働いたといっていい。

 今回のシリーズでは、ブレイクに代わってイエーツの詩篇が引かれることでトーンが変わったが、それ以上にSF的設定が、跳躍板として重大な役割を果たすようになった。

 前作では、知能的・体力的・遺伝的に卓越した百万人の「選ばれた者」が宇宙移民に出発した。彼らは「新しい地球」の開拓に失敗したとはいえ、「外宇宙の知性体」が残した、死者さえも甦らせる「治療塔」の奇跡を経験することによって、生命力を増大させ、いわば身体を改造された超人となって、荒廃した地球に帰還してきた。

 これに対して、選抜からもれた人間は、「落ちこぼれ」意識にさいなまれ、「大出発」後の混乱と無法状態を経過した後、虚脱したような安定状態に移行する。効率追及一点張りだった大工場では、人間を歯車化する分業体制そのものが解体され、個人作業を中心にした町工場か、障害者の訓練施設のような体制に切り替わっている。来世紀の話であるにもかかわらず、高度成長期以前の日本を思わせる、ひもじさとのどかさのないまぜになった静謐が全編をつらぬいているのは、そのためだ。

 21世紀の人口がどのくらいに設定されているかは明示されていないが、仮りに百億人とすると、百万人は 0.001パーセントにすぎない。それだけが「選ばれた者」で、残りの 99.999パーセントは「落ちこぼれ」となり、「大出発」後の地球は、全体が訓練施設のような状態になる。つまり、人類の九九・九九九パーセントはスティグマ(聖痕)を負った者となったである。SF的設定は「落ちこぼれ」を例外的少数者から多数者にやすやすと逆転させたのだ。

 今回の『治療塔惑星』では、『治療塔』の効果は一時的なものであることがあきらかにされ、「選ばれた者」と「落ちこぼれ」の対立も後景に退く。大江は『すばらしき新世界』や『一九八四年』のような逆ユートピア小説につながるエリート対大衆というパターンを回避し、治療塔」の奇跡にすがる者と、拒否する者の対立を前面に「押しだす。

 「選ばれた者」の中に、宗教的な信念から「治療塔」による奇跡も地球への帰還も拒み、生身の身体のまま「新しい地球」の過酷な環境に居残ったグループがいたことは、すでに前作で言及されていた。彼らは「叛乱軍」と呼ばれ、キブツのような宗教的共同体を作って、ささやかながら、開拓地の経営に成功する。

 だが、放棄後の「新しい地球」に住んでいるのは、彼らだけではない。「治療塔」の奇跡が知れわたった結果、不治の病に犯された金持ちたちが「新しい地球」へ密航をくわだてたからだ。彼らは「新移住者」もしくは「アウトサイダー」と呼ばれ、叛乱軍とは別個に生活している。

 彼らは宇宙ミドリ蟹という安易な食糧と、礫漠に自生するサボテンからとれる麻薬を確保した結果、働くことをやめ、装甲バギー車でチキン・ゲームに興ずるという快楽主義的な生活にうつつをぬかしている。チキン・ゲームで重傷を負ったら、「治療塔」に運びこむだけでいい。すぐに頑強な身体に回復するから。「治療塔」でも回復不可能なほど遺体がめちゃくちゃになったら? その時も簡単である。宇宙ミドリ蟹の餌にすればいいのだ。安易な奇跡の蔓延はここまで生死を安易にする。しかし、その安易さゆえに、彼らは生きる意欲をまったく失い、「惰性で生きるだけの連中」になりさがっている。

 「治療塔」の奇跡は人類にとって呪いなのだろうか? 「外宇宙の知性体」は悪意から、「治療塔」を残しておいたのだろうか。「外宇宙の知性体」と不完全ながら接触に成功した主人公の恋人は、そうではないと語る。

 礫漠のサボテンの実という、憐れなような麻薬の服用がなかったとしても、「治療塔」の濫用は人類に耐えつづけることのできない負荷をあたえたはず。小型核兵器の爆発という悲劇なしでも、新移住者の大半は滅びるに到ったでしょう。それを加速しただけだと思います。だからといって「治療塔」を向こう側の悪意のマシーンとみなしていいものだろうか? 「治療塔」のコードを読みとることができず、混乱したコンテクストのなかでそれを闇雲に活用したことが人類にマイナスに働いたのだ。

 この「「治療塔」のコード」を人類の言葉に翻訳することが、次の作品で活躍するだろう、主人公の子供のタイ君をはじめとする「宇宙少年十字軍」にゆだねられた課題であろうが、意外なのは彼らが健康に成人したとされていることだ。彼らはスティグマを負った者ではないらしいのである。

 この変化はブレイクからイエーツへという変化にも対応している。イエーツはブレイクほど予言者的でも黙示録的でもなく、その再生への願いも、老いという人間普遍の運命から出ている。イエーツは若い頃こそ、魔術団に関係するとかいろいろと馬鹿をやっていたが、晩年は無垢ではありえない人間の悲しみを諦念をこめて歌う、老熟した詩人になったのだ。

 大江におけるスティグマへのこだわりはどう変貌していくのだろうか。次回作が待たれるところである。

(Feb 1992 「群像」)
Copyright 1996 Kato Koiti
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