フクロウは見かけと違う  ──『ツイン・ピークス』論

加藤弘一

 丸谷才一氏がどこかで書いていたが、演劇はスキャンダルの領域の拡大であるのに対し、小説はゴシップの領域の拡大だという説があるそうである。出来事を舞台の数時間のうちに凝縮する演劇が、スキャンダラスで鋭角的な切迫性のに対し、小説は、新聞連載という形で長期間にわたって発表されるのが常だった初期の近代小説以来、いわば長大な噂話であることを宿命づけられているというわけだ。

 スキャンダルとゴシップの定義をいいだしたらめんどうな議論になりそうだが、さしあたり、この対比は映画とTVドラマの関係についても言えるのではないだろうか。つまり、映画はスキャンダルの領域の拡大であるのに対し、TVドラマはゴシップの領域の拡大である、というように。

 映画一般、TVドラマ一般に妥当するかどうかはさておき、この対比は、すくなくともデビッド・リンチツイン・ピークスについては当っていると思う。

 同じ監督の映画ブルー・ベルベットは、『ツイン・ピークス』と較べれば、明らかにスキャンダラスな世界をあつかっている。たとえば、冒頭に登場する切り落とされた耳である。

 カイル・マクラクラン演ずる主人公は、真夏の草いきれのする野原に、人間の耳が捨てられているのを発見する。カメラは、青年というにはいささか純粋すぎる主人公の眼差しそのままに、鉛色にどんよりくすんだ肉片に蟻の這いまわるさまを、幼児的な執拗さでクローズアップしていく。社会の良識からいえば、切り落とされて腐敗のはじまった肉体の一部は、まさにありうべからざるものであり、そうした目をそむけずにはいられない物体に美を見出すところに、リンチの映画の衝撃力がある。

 同じような田舎町の猟奇事件をテーマにするにしても、TVシリーズとして制作された『ツイン・ピークス』では、よほどニュアンスが異なる。

 こちらの物語の発端となるのは、湖に打ち上げられた死体である。殺害されたのはローラ・パーマーという高校生で、弁護士の娘である彼女は成績優秀、品行方正、ボランティア活動にも熱心で、町の美人コンテストのクイーンに選ばれたこともあるというアメリカ的美徳を一身に持ちあわせたような少女である。そういう彼女が全裸で殺され、死ぬ二十四時間以内に、すくなくとも三人以上の男に犯されたか、性交渉をもったという発端は、スキャンダラスといえばスキャンダラスである。だが、人々の劣情というか好奇心を引きつけるのも事実であって、すくなくとも『ブルー・ベルベット』の蟻の這いまわる腐りかけの耳のような、多くの人が目をそむけるおぞましいものではない。

 いや、目をそむけるどころか、ビニール・シートで花束のように包まれ、冬の湖畔に横たわるローラの死体は、通俗的に美しくさえあって、その蒼ざめた死顔は『ツイン・ピークス』シリーズのトレードマークに使われ、ついにはTシャツにプリントされるほどポピュラーになった。

 こんなことは『ブルー・ベルベット』では考えられないことだ。あの捨てられた耳をプリントしたTシャツが出まわったという話は聞かないし、そんなものを着て歩いている人間がいたとしたら病気というほかはないが、ローラの死顔のTシャツくらいならば、最近の良識は「趣味」の一つとして咀嚼してしまうのである。つまり、ローラの死体は、『ブルー・ベルベット』の耳がスキャンダラスであるという意味ではスキャンダラスではなく、むしろ人々の俗情をあおりたててやまぬゴシップの対象なのである。

 もちろん、『ツイン・ピークス』はTVドラマとして作られ、放映されたわけだから、放送コードによる制約は厳然として存在している。おそらく、リンチの意に反して描写を抑えたという場面もあっただろう。

 しかし、そのことに拘泥するあまり、リンチは自己の美学を妥協的な形でしか表現しなかったと決めつけたのでは、『ツイン・ピークス』の魅力の大半を見失うことになる。『ツイン・ピークス』は『ブルー・ベルベット』の中途半端な二番煎じではないからだ。

 それを端的に示すのはアウトローの描き方である。『ブルー・ベルベット』には、デニス・ホッパーとその一味のギャング団が登場し、ギラギラした危険な輝きを放っていた。彼らは犯罪者であるだけでなく、病的な性倒錯者でもあり、社会の良識とあらゆる面で鋭く対立していた。

 『ツイン・ピークス』の悪人の描き方はまったく異なる。そもそも、程度の差こそあれ、主要人物の誰もが悪の要素を濃厚にもっており、悪人と善人の境界が曖昧化しているということもあるが、ここでは悪人もまた、変わり者の一種なのだ。

 なるほど、この平和な田舎町にも、「片目のジャック」という悪の巣窟が存在するし、裏には麻薬や売春のネットワークが張りめぐらされていて、平気で殺人を請け負う小悪党や、純朴な町の娘を売春組織に売り飛ばす純然たる悪人もいるが、それとて、あくまで愛すべき隣人の一人として描かれているのであって、少々異様であるとしても、丸太をだいて歩く老女や、家に閉じこもって蘭の世話にあけくれている園芸オタクの青年と五十歩百歩だろう。

 それは人物の変貌についてもいえる。美しい妻をいじめる粗暴なチンピラが、従順な植物人間になってしまうのも、良からぬ企みをめぐらしてばかりいる町一番の実力者が、本心から環境保護運動の闘士に変身するのも、この町の風景に中におかれると、鋭角的な鋭さをうしなって、記憶喪失になった主婦が、自分を高校生と思いこみ、チアガールをはじめるのと本質的に変わるところがなくなってしまうのだ。ただ、さまざまな程度の異様さがあるだけなのである。

 異様というなら、正義の側のFBI捜査官も異様である。

 アメリカは司法や警察制度にいたるまで地方分権が徹底しており、地域住民の直接選挙によって選ばれた郡検事、郡保安官が、自分の裁量で助手を雇うというスポイルズ制をとっている。実務にあたる検察官、警察官は、建前としては役人ではなく、あくまで郡検事、郡保安官に雇われた「助手」であるにすぎない。「検事補」、「保安官補」と呼ばれるのは、そのためだ。

 この制度は官僚制度の弊をまぬがれている反面、地域に密着し過ぎるために、ややもすれば地方の実力者とのなれあいを生じやすい。最近も『ミシシッピー・バーニング』という映画があったが、南部の田舎町では地元警察がKKK団の私刑に加担するということが現実に起こりうるわけであって、FBI制度には、州をまたぐ広域犯罪の取り締まりだけではなく、地方の私法化を防ぐという役割も期待されているのである。

 映画や小説では、この連邦と地方の対立を背景に、FBI捜査官はヘリコプターで舞い降りてくる傲漫で無能なエリートとして描かれたり、腐敗した地方ボスと闘う普遍的な正義の代表者と描かれたりするわけだが、いずれにせよ貧しいが有能な若者の出世コースであることに違いはなく、最近では女性の社会進出を受けて、デボラ・ウィンガーの『背信の日々』『ブラック・ウィドー』、ジョディ・フォスターの『羊たちの沈黙』(映画では殉職した保安官の娘になっていたが、原作では死んでもろくな補償の出ない夜間警備員の娘)のようなバリバリの女性捜査官の活躍する映画が作られることになる。彼女たちは、いわば宗教国家アメリカの生真面目な伝道師であって、それにふさわしい権威と権限も与えられているのである。

 カイル・マクラクラン演ずるわがクーパー特別捜査官も、こうした女性捜査官同様、ダーク・スーツで身を固めた生真面目なエリートであり、町一番の実力者の娘で、地元の青年などはじめから眼中にない驕慢なオードリーが夢中になっても不思議はないが、捜査となると、およそFBIらしくない。なにしろ、夢のお告げや、チベット式と称するダウジングまがいの方法をとるのだから。

 クーパーはFBI捜査官でありながら、理性と正義の普遍性を広めるどころか、自ら土俗的なオカルティストになって、ツイン・ピークスに住む奇人変人の仲間入りをしてしまうのである。いや、クーパーだけではない。彼同様、中央からやってくる傲漫な鑑識官も、都合のいいときだけ耳が聞こえるようになる上司も、オカマの麻薬取り締まり官も、やはり、いつの間にかツイン・ピークスの奇人変人のロンドにくわわり、その点では、かつてのクーパーの同僚で、今は転び伴天連のようなウィンダム・アール元捜査官とさして変わるところがない。

 『ツイン・ピークス』では、『ブルー・ベルベット』とは対照的に、善と悪、表と裏、夢と現実の境界は故意に曖昧にされ、混乱させられている。この森の中の町では善も悪も、裏も表もごちゃごちゃに入りまじり、奇々怪々な人々が奇々怪々な踊りをただただくりひろげているのであって、FBI捜査官が持ちこむアメリカの正義といえども、その暗欝な輪舞の一部にすぎないのである。

 だが、善と悪、表と裏、夢と現実の混乱にも増して蠱惑的なのは、生と死の混乱である。それはサスペンスの異様な引き延ばしとしてあらわれる。

 第七話の終りで胸に銃弾を撃ちこまれたクーパーは、第八話の冒頭で生死の境をさまようが、そこへルーム・サービスで、ホット・ミルクを運んできた老ウェーターは、床に倒れて虫の息のクーパーに、「お噂はかねがね」と人なつっこく話しかけ、伝票にサインを求めたり、親指を立てて合図をしたり、ウィンクしたりして、さんざん愛敬をふりまいて去っていく。重傷のクーパーの方も、助けを求めるどころか、耄碌した老人に親指を立てて応えるわけで、もはやサスペンスとさえいえない、異様に引き延ばされた不思議な時間が出現する。

 このクーパーのエピソードと平行して、もう一つ、サスペンスとはいえないサスペンスがはじまっている。オードリーの「片目のジャック」潜入である。

 彼女はクーパーの気を惹こうと、探偵まがいのことをあれこれやっているが、ついに「片目のジャック」に売春婦志願を装ってもぐりこんでしまう。もちろん、正体がばれて、あわやとなるのだが、クーパーの部屋に残していった伝言の紙がベッドの下に入ってしまうこともあって、なかなか救出されない。潜入するのが第六話、所在がわかって救出されるのが第十二話、物語の中の時間でも六日間だから、これもまた引き延ばされすぎて、サスペンスがサスペンスではなくなっている。

 しかし、通常の意味ではハラハラはさせないものの、その間、彼女が麻薬づけにされて衰弱していく姿はひどく魅力的であって、口に押しこまれたキャラメルを陶然となめる場面など、生と死の入りまじったとろけるような時間を作り出している。

 ローラ殺しの犯人の死の場面も興味深く、また感動的である。犯人にあたる人物は、第三者的には「自殺」をするのだが、その死にゆく犯人の耳に、クーパーは大きな声で、こう言葉を注ぎこむ。

──暗いトンネルを抜けると、あなたの魂は光に出会う。あなたはこれから光に導かれて歩むのだ……

 これは『チベットの死者の書』の一節である。クーパーはチベット仏教の臨終の儀式そのままに、肉体を離れる魂に、中有の世界の道筋を教え、解脱の方法を説くのである。ここには正義の裁きはない。生まれては死に、死んでは生まれる輪廻の海にあっては、生も死も、善も悪もないからだ。

 生死の境界が曖昧化され、耄碌した老ウェーターや片腕の男という現実の人物が、踊る小人や予言する巨人の住む異界に平気で出入りしている以上、ツイン・ピークスでは死者の甦りも、ごく普通のことだ。

 殺されたブロンドのローラを演じたシェリル・リーが、ブルネットのマデリーンとして再登場するのなどは序の口で、シリーズの後半になると、植物人間になったレオは意識を取り戻すし、死んだはずの人物がプロットの整合性などおかまいなしに復活する。

 御都合主義といえば御都合主義だし、舞台裏を語ったインタビュー記事によると、窮余の策という面がないではないらしいが、この混乱こそがツイン・ピークスの濃厚な時間を生みだしているのである()。

 だが、すべての境界がなし崩しにされているとはいっても、謎はある。リンチの多分にマニアックな世界が、TVドラマとして大きな成功をおさめたのが、謎解きという趣向のおかげであることはいうまでもない。

 注意したいのは、この謎は、森=異界という超自然にかかわるものでありながら、金髪と黒髪の対立という社会的な布置を背景に設定されていることだ。

 『ツイン・ピークス』の登場人物には、異常にダーク・ヘアーの人間が多い。

 まず、ローラの両親がそうだし、恋人のジムとボビーもそうだ。ジョーン・チェンのジョスリン・パッカードが黒髪なのは、中国系だから当然としても、町の実力者のベンジャミン・ホーンと、その娘のオードリーもみごとなブルネットだし、オードリーと張り合う形のドナと、美しい顔をして何を考えているかわからないシェリーも黒に近いダーク・ヘアーだ。とりわけ、捜査の主役であるクーパー捜査官とハリー・トルーマン保安官は白人にはめずらしいくらい、黒々とした髪をしているのが目を引く。ローラの従姉のマデリーンにいたっては、ローラを演じたシェリル・リー自身が、黒い鬘で再登場しているのである。

 もっとも、ブロンドの主要人物が皆無なわけではない。ダブル・R・ダイナーの控えめな女主人のノーマは美しいブロンドだし、お笑い担当のルーシーもそうだ。男でいえば、後半、怪力ネイディーンに迫られるマイケルと、蘭の栽培をしている青年があげられる(二人ともいたって存在感の希薄な人物だが)。

 だが、それだけなのである。おそらく、アメリカのTV番組として、これだけ黒い髪の役者をそろえたドラマもめずらしいのではないか。

 もちろん、白人の髪は照明しだいで、かなり色合いを変える。キャサリン役のパイパー・ローリーは、他の映画ではブロンドに映っているから、ことさら役者の髪を暗い色に撮ろうというデビッド・リンチの積極的な意図が働いていることは間違いないだろう。そして、事実、カイル・マクラクランにダーク・スーツが似合うように、北アメリカの暗欝な森の町には、黒い髪の住民が似合うのである。

 しかし、リンチが特別黒い髪を好んでいるわけではあるまい。カイル・マクラクランを重用してはきたのは事実だが、ワイルド・アット・ハートでもヒロインには、華やかなブロンドのローラ・ダーンを引き続いて選んでいるし、これほどまでの黒い髪への固執は、彼の映画には見られなかったからだ。

 このような本編と対立する形で、ほぼ毎回、エンディング・クレジットの背景に映し出される、ブロンドのローラの写真がある。

 『ツイン・ピークス』フリークたちから「最も美しい死体」とまで呼ばれた彼女は、記念写真然としたフレームの中でも、ブロンドを輝くばかりに結い上げ、心持ち首を右へ傾げて人なつっこい微笑を浮かべている。クレジットの緑色の文字に隠されてはあらわれる彼女の眼には、こちらを見つめ返すというような生々しさはすこしもない。アンジェロ・バダラメンティのテーマ曲のとろけるような蠱惑もあずかっているだろうが、その視線は夢見るようで、どこか天上界の住人のようなのである。

 『ツイン・ピークス』のドラマは、凡庸で優等生的な美人のはずの彼女の隠された顔をめぐって展開し、回が進むにつれて、彼女が実は真っ黒な秘密の塊だったことが明らかになっていくが、そのもう一つの顔がどのようなものにせよ、四十五分の物語の終りには、必ずあのにっこりと微笑むローラが登場するわけである。

 リンチがどこまで意識していたかはわからないが、ローラ・パーマーの死が、アメリカの理念の凋落という歴史的布置の中の出来事であることは間違いない。すでに、ツイン・ピークスの町を拓いたパッカード家の製材所は中国系の未亡人の手で閉鎖されようとしており、森の一部もアイスランド人やノルウエイ人に売却されようとしている。ピルグリム・ファーザーズのたずさえてきた理想は、北アメリカの欝蒼たる森のざわめきの中に呑みこまれていくのだが、しかし、それはもはや衝撃的なスキャンダルではなく、TVドラマで陰鬱なユーモアをまじえて語られるゴシップなのである。

「cut」1992年3月増刊号の脚本家ロバート・エンゲルスのインタビュー。また、同号所載のカイル・マクラクランとシェリル・リーのインタビューも、舞台裏の混乱を伝えていて興味深い。

後記

 スキャンダルとゴシップの対比は、この文章発表後に公開されたローラ・パーマー最期の七日間という『ツイン・ピークス』の映画版でいっそうはっきりしたと思う。『ローラ・パーマー最期の七日間』では、tvでは伝聞の靄の中にけぶっていた父娘の近親相姦がはっきりと描かれ、ローラのずたずたに切り裂かれた心が荒っぽく白日の下にさらされていた。映画版の失敗はゴシップを不用意にスキャンダル化してしまったことにあるだろう。

(May 1992 「群像」
Copyright 2001 Kato Koiti
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