イジメのドラマツルギー

加藤弘一

 昨年のオウム事件、今年の大蔵省・厚生省事件と、あいついで発覚したエリートの犯罪の影に隠れたかたちだが、イジメの問題はあいかわらず深刻である。大きくとりあげられることはなくなったが、イジメを予告する電話がイジメ110番にあったとか、イジメが原因と見られる小学生の自殺があったとか、イジメの話題が絶えることはない。

 表だってイジメを容認する人はいなくなったが、サイレント・マジョリティのレベルでは、教師の体罰同様、イジメを擁護する声は依然として根強い。日本ではイジメは昔からあった、イジメは日本人になるための通過儀礼だ、イジメられる側ではなくイジメる側にまわれ、イジメられて死ぬようなやつは社会不適応者だから、早いうちに淘汰された方がいい……というように。

 イジメで子供が自殺したと報じられた家に、いやがらせ電話があいつぐという現実は、イジメ容認論の根深さを物語っているが、残念ながら、この暴論が一面の真理をついていることは否めない。しかし、今のイジメは日本の伝統的イジメとは別ものになっているのも事実ではないだろうか。

 先日、大人計画・俺隊「紅い給食」井口昇作・演出、ザ・スズナリ)という芝居を見て、わたしはその感を深くした。というのも、ここには伝統的イジメとは様相を異にする、まったく現代的なイジメが描かれているからだ。

 大人計画は一九八八年に結成された、今、もっとも注目株のギャグ系の劇団だが、主宰者の松尾スズキが作・演出を担当する本公演とはべつに、若手を起用した分会公演をたびたびおこなっている。「俺隊」とあるように、今回も分会公演である。

 主人公のイケヅこと池津祥子はクラスの優等生だが、いじけた暗い女生徒のアライ、気弱でやさしいだけがとりえのヤマモト、不良でイケヅに好意を寄せるカネコといった落ちこぼればかりを集めた班の班長に指名される。修学旅行では班単位で自主行動をする日があるが、同じ班になったことで、イケヅははじめてアライと親しく話をし、たがいに秘密を打ち明けあうほど親しくなる。実はイケヅは背中にケロイドの痕があり、男性に好意をもっても、恋ができないという秘密をかかえていた。カネコから奈良ドリームランドへ誘われても、恋のできない彼女としては断るしかなかった。自主行動の二日目、イケヅはカネコから背中のケロイドを知っているとほのめかされ、愕然とする。信頼して秘密を打ち明けたアライが言いふらしていたのだ。逆上したイケヅはアライとカネコを崖からつきおとし、二人を障害者にしてしまう。

 十年後、事件のためにまともな就職のできなかったイケヅは、公園の掃除婦をしながら、車椅子の生活になったアライの世話をし、時々、金をせびりにあらわれるカネコに小遣いをわたすという暗い日々をおくっている。そこにずっと消息の知れなかったヤマモトがあらわれ、かつての同級生をつぎつぎと殺そうとする……というのが、あらましの筋である。題名は「紅い給食」だが、前半は奈良をおとずれた修学旅行の話、後半は十年後の後日譚で、給食は一度もでてこない。

 この芝居には笑うに笑えない毒のあるギャグがたっぷりつめこまれているが、なかでもいたたまれない気持ちにさせられるのは、弱者たちが発揮する暗澹たる凶暴性である。気弱でやさしいということになっているヤマモトは、誰も見ていないところでは動物を虐待し、クラスメートの持物をこわして喜ぶあぶない男だし、障害者となったアライは、脚が治りかけると、ハンマーでわざと自分の脚を痛めつけ、車椅子の生活をつづけようとする。イケヅはこうした弱者たちに、ねちねちイジメられつづける。

 「イジメっ子」という言葉には、「ワンパク坊主」や「いたずらっ子」と同質の肯定的な響きがふくまれている。日本の伝統的な価値観からすると、「イジメっ子」は強い子供であり、末頼もしくさえあるのだ。それに対して、「イジメられっ子」は弱い子供であり、矯正され鍛えなおされなければならない欠陥人間予備軍ということになる。

 このようなイジメ観を演劇の場にはじめて引きずりだしのは、つかこうへいである。ふがいない殺人犯を立派な殺人犯に育ててやろうとする刑事(「熱海殺人事件」)、下手糞なラヴレターに業をにやし、不器用な恋人を鍛えなおそうとする郵便局員(「郵便屋さんちょっと」)、中途半端な挫折しかできなかった元全共闘の闘士に、どこに出しても恥ずかしくない挫折をさせてやろうとする元機動隊員(「飛龍伝」)、家族を捨てて家出した父親に理想的な「父帰る」を演じさせようと頑張る家族たち(「出発」)等々。

 舞台で演じられるのはいずれも強者や集団によるイジメであり、教師の体罰にも通ずる愛のムチの実践である。つかが卓抜なのは、こうしたイジメを単に告発するのではなく、日本の伝統的的人間関係に内在する原理として、肯定的な面までふくめて演劇化した点である。たとえば、「蒲田行進曲」の映画スターの銀やんと大部屋俳優のマゾヒスティックな愛情の交流のように。彼はさんざん馬鹿にされ、子供つきの女を押しつけられ、最後は死ぬ危険のある階段落ちをやらされるというのに、そのすべてを愛の表現としてうけとり、感謝すらしている。しがない大部屋俳優としては、無視されるよりは、イジメというかたちであっても、大スターの子分にしてもらえるのはうれしいのだ。

 「蒲田行進曲」の大部屋俳優に共感してしまうのは、われわれが多かれ少なかれ親分・子分関係にいごこちのよさをおぼえているからだろう。イジメ、イジメられながら、外部に対してはかばいあう身内意識の中に生きていると、対等な個人として向きあうようなドラマはしっくりこないのである。

 つかこうへいはイジメの原理をひとつのドラマツルギーにまで高め、日本的人間関係の核心をつかみだした点で一時代を画したといっていいが、彼の芝居がメリハリの効いたものになったのは、くわえ煙草の伝兵衛や銀やんのような突出した「イジメっ子」を登場させたからだという点をわすれてはならない。刑事や映画スターは伝統的な価値観では堅気の社会の人間とは見なされず、どちらかというと一般社会から排除された存在だが、そういう特権的位置はもはやないのである。

 大人計画の「紅い給食」は、弱者による弱者のイジメを演劇化した点で、つかの達成に一歩をくわえるものだと思うが、ここにはつかの芝居にあったメリハリはなく、内攻していく末梢的なギャグがあるだけだ。しかし、治りかけた脚を自分で痛めつけ、被害者でありつづけることでしかイケヅとつながれないアライの寂しさには強烈なリァリティと現代性を感じる。われわれは古典的なイジメ観をあらためる時期にきているようだ。

(May 1996 「新潮」)
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This page was created on Apr08 1997; Updated on May20 2000.

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