演劇ファイル  Jul - Aug 1998

1988年 6月までの舞台へ
1988年 9月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] 危険な関係
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] サンシャイン
*[04* 演 出<] デービス,ハワード
*[05* 戯 曲<] ハンプトン,クリストファー
*[05* 翻 訳<] 吉田美枝
*[06  上演日<] 1988-07-01
*[09* 出 演<]麻実れい
*[10*    <]菅生隆之
*[11*    <]手塚理美
*[12*    <]南美江
*[13*    <]寺田路恵
*[14*    <]児嶋未散留
 デビッド・ルヴォーによるシンプルな装置が美しい。座席を四列つぶして奥行を増した舞台は白木が基調で、天井まである細長い鎧戸状のついたてが何本も立ちならび、天井や壁にはたっぷりした白いドレープがフワリとさげられている。奥行があると、こうまで広々と見えるのかとうなる。家具もシンプルで、正調ロココではないが、ふっくらした白い掛け布やクッションがロココ以上にロココである。従僕の髪形のようなデザインの箪笥が全体のアクセントになって、乳首のような把手の抽斗が不規則に引出され、しどけなくレースが下がっていたりする。乱雑という印象ではなく、ノンシャランな感じで、いかにも閨房という雰囲気。床の板張の斜め45度の線が空気を引締めていることも大きい。
 芝居はとなると、退屈だった。役所広司から二転三転した菅生のウ゛アルモン子爵は意外に良かった。陰影がもっと深ければいいのにとは思ったが、熱情的なくどき文句からサッと素に戻ったり、フットワークがよく、かなり笑わせた。手塚理美は薄味だが、純情な人妻の心情の変化を無理なく見せて、破綻はない。ウ゛アルモンの愛の告白に罪悪感のあまりひきつけをおこし、南美江に相談する場面はなかなかの見せ場だった。「あの甥は大好きだけれども、普通の男の持っているいけないところを二倍も三倍も持っている。だから、あなたがここを去るのは賛成です」という南の台詞は決っていた。エミリーの児嶋は、何も知らないためにどんどん大胆になるという役を、当世風女子大生でやって、場違いだが、説得力があった。いけないのは、メルトゥイユ夫人の麻実れいだ。ウ゛アルモンとの会話が妙にぎくしゃくし、怒っているふうなのだ。この台本では、自分からそそのかしておいて、嫉妬することになっているにしても、どうもおかしい。トゲトゲしく、優雅であるべき舞台が台無しではないか。二幕で気がついたのだが、あれは本気で怒っているのだ。ウ゛アルモンのような男には虫酸が走るということらしい。清くも正しくもない話しに宝塚女優は起用すべきでないということか。
 美しい装置はロンドン公演とまったく同じだという。最近流行りの趣向だ。
*[01* 題 名<] 葵上
*[02* 劇 団<] 佐藤正隆事務所
*[03* 場 所<] 三百人
*[04* 演 出<] 萩原朔美
*[05* 戯 曲<] 三島由紀夫
*[06  上演日<] 1988-07-02
*[09* 出 演<]池畑慎之介
*[10*    <]長谷川初範
*[11*    <]田根楽子
*[12*    <]松下弥生
 五分ほど遅刻したのだが、ちょうど六条夫人の語りがはじまったところ。ピーターの台詞は急激に熱をおびて、自分の席(幸か不幸か、前から二列めの中央)に入っていくのがためらわれたくらいだった。目を細め、伏し目にして、真綿で首を締めるように、じわりじわり追詰めていくという迫り方で、これではたまらないだろう。
 しかし、ピーターの芝居はかなり人工的な妖艷さで、時に玉三郎のよう、時に梅沢富美男のように見える。自分の演技を突放して楽しんでいる節もある。そもそもは能のパロディなのだから、これはこれで良かったのだが、演出家の方針というより、ピーターの持味でそうなったのではないかという印象も受けた。
 そう感じたについては、若林光役の長谷川が単細胞な受けの芝居をやっていたことも大きいが、「近代能楽集」の当世風俗の批評という面が置忘れられてしまって、もっぱら情念の美を押出そうとしたと見えたことによる。何のかんのいっても、三島は当世風俗が好きだったのであり、着物なのに黒い手袋をしているとか、わざとらしいサファイャの帯止め(指定はあったっけ?)とか、アンバランスを楽しんでいたのだ。
 隣に座ったサラリーマン風の二人組(どこかの文化戦略を狙う会社から派遣されたのだろうか)が、芝居の間、しきりにプログラムをめくって考えこみ、休憩には能を知らないとまるでわからないとか何とかいっていた。葵上の話しは、もうそんなに忘れられてしまったのだろうか。
*[01* 題 名<] 道成寺
*[02* 劇 団<] 佐藤正隆事務所
*[03* 場 所<] 三百人
*[04* 演 出<] 村田元史
*[05* 戯 曲<] 三島由紀夫
*[06  上演日<] 1988-07-02
*[09* 出 演<]中谷昇
*[10*    <]山下智子
*[11*    <]坂本長利
*[12*    <]小泉博
*[13*    <]福田公子
*[14*    <]松村彦次郎
 これが初舞台という山下智子が凄い。きりりとした気品ある顔立ちで、三島の台詞を完璧すぎるくらい完璧にこなしている。あの装飾過剰、逆説過剰な台詞がこんなに自然に耳に入るとは! しかも、衣裳倉から出て来た後は、すっかり顔が変っている。アップにしていた髪をわずかに下ろしただけなのだが(メークを変える時間はないだろう)、憑きもののとれたような、愛らしい、そしてちょっと蓮っ葉な当世娘に変っている。ということは、最初の凄みのある美貌は三島の言葉を肉体化した美貌だったことになる。そもそも、自分の美貌を憎むなんていう台詞が自然に聞えること自体大変なことだが、あれほど人工的な形容詞や比喩に見あうだけの感情があり得るというのは発見であり、三島観を改めなくてはならないかもしれない。「道成寺」だけが特別なのかどうか、確かめなくては。
 山下の清子はただただ素晴らしいが、しかし、あの一直線に突走る名演が可能になったのは、中谷の受けがあったからだ。見てしばらくは山下の素晴らしさばかりが頭を占めたが、今、感想を書いていると、中谷のちょっとはずした受けの凄さがよくわかって来た。大体、あの巨大なマホガニーの衣裳箪笥は、実物を舞台に出されて見ると、滑稽以外の何物でもなく、まさにパロディなのだ。中谷が主人の古道具屋なら、ああいうものが置いてあっても不思議ではなくて、だからこそ、清姫の古典的な激情も当代に甦りえたのだ。(ワキの考察は「近代能楽集」を論ずる上で、最も重要なポイントになるかもしれない。)
 アパートの管理人の坂本長利はおもしろかった。一歩間違えれば、臭くなるくらいのとぼけぶりなのだが、ぎりぎりのところでうまく使っている。成金のお客たちは俗悪さを強調したというより、品のなさが出てしまった感じ。もうすこし演出家はさりげなく抑えるべきだった。
 山下智子は無名塾の出身で、NHKの朝ドラに出ていた人だという。
*[01* 題 名<] ナッツ
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 砂防
*[04* 演 出<] 高橋清祐
*[05* 戯 曲<] トポー,トム
*[05* 翻 訳<] 丹野郁弓
*[06  上演日<] 1988-07-07
*[09* 出 演<]奈良岡朋子
*[10*    <]新田昌玄
*[11*    <]斎藤美和
*[12*    <]内藤安彦
*[13*    <]山吉克昌
*[14*    <]水谷貞雄
 三幕の裁判劇。精神鑑定で責任能力なしとされた殺人犯の娼婦が、正当な裁判を受けられるよう不服を申立てる。一幕は精神科医、二幕は両親、三幕は本人が証言台に立つ。審判請求なので、一日の出来事である。
 最初は力みすぎの感があった。ほとんど台詞のない奈良岡はキョロキョロしたりして、危ない小娘を演じているが、全然らしくない。新田の弁護士は精神科医をどぎつく追いつめ、迫力はあるが、戸惑いが起こる。意図がわかりにくいのだ。しかし、後半に入ると、精神鑑定の独善性がはっきりして、奈良岡も利発な子供という印象に変る。法廷の議論が俄然おもしろくなる。
 二幕では、母と義父が証言する。ちょっと自分勝手だが、どこにでもいそうなお金持ちの夫婦という第一印象が力ずくで突き崩され、夫を繋ぎとめるために娘を売った女と、札束で頬をたたいていうことをきかせることしかしらない男の姿が暴かれていく。だが、この芝居の懐は深くて、二人は決して否定されているわけではない。そういう生き方しかできなかった夫婦への同情が基底にあって、クローディアも、休憩時間に、そこまで両親を追こんだ弁護士に抗議するし(これで彼女の印象が変る)、傲慢だが憎めない義父をやった内藤(中条静夫っぽい)の好演も光っている(まるでゴルギアス)。だが、それ以上に、複数の「常識」を許容する重層性が効いている。
 三幕は奈良岡の独壇場。化粧気なしのあどけないくらいの印象で、年齢不詳だった彼女が離婚歴のある三十女とはっきりし、執拗に追及する検事を相手に娼婦の誘惑の一場をやってみせたり(うまい!)、機知にとんだ言葉がポンポン飛出し、人物像がにわかに立体的になる。「あんたたちの都合で気違いにされたくない」の台詞が耳に突きささる。
 証人を苛立たせるために、弁護士や検事はわかりきったことをことさらに尋ねるが、これが観客へのみごとな補足説明となっている。また、激しやすい彼女に、弁護士は「これが彼らのルールなんだから」とさとし、最後は弁護料を「ルール」と呼んで笑わせる。このクールさが裁判劇成功の鍵なのかもしれない。それにしても、個人を認める社会の大きさがうらやましい。
*[01* 題 名<] 
*[02* 劇 団<] 地人会
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 木村光一
*[05* 戯 曲<] フガートカニヌッショナ
*[05* 翻 訳<] 木村光一
*[06  上演日<] 1988-07-08
*[09* 出 演<]平田満
*[10*    <]塩島昭彦
 「こんな話」と同じスタッフによる上演。やはり簡潔な舞台の二人芝居だが、「こんな話」がファルスだったのに対し、こちらは悲劇である。最後の「アンチゴネー」の上演が、よけいその性格を強調している。
 南アフリカの監獄島ロベン島で同房になった二人の政治犯の話だ。海の水をくみだす作業とか、石を砕いて海に捨てる作業とか、囚人に課せられるまったく無意味な作業が、劇の上の誇張ではなく、本当にあるというのだから、恐れ入る。固く結ばれあった二人の間に、ジョン(平田)の出獄決定で亀裂が入るという苦い結末がつく。演芸会で「アンチゴネー」を演ずる前夜、外へ出たら俺のことなんかすぐに忘れちゃうんだろと無期囚のウインストン(塩島)が泣き叫ぶ。「アンチゴネー」は、王に「地下に眠る豊かな財宝を守る崇高な役目」を強調させることで、そっくりアパルトヘイトに重なってしまう。「荒野で腐っていく死体」というイメージは強烈だ。
 いい戯曲だと思うが、この上演は十分おもしろさを引出していない。汗を飛ばしながらの熱演だが、何となく上滑りなのだ。たとえば、冒頭のマイムと効果音で石砕き作業を見せるかなり長いシーン、石を相手にしているようには見えない。軸受けのきしむ効果音に頼ったTV的演技で、マイム芸の手ごたえがないのだ。「アンチゴネー」は確かに山場になっており、古典的な格調をつけくわえるが、台詞がもう一つ届いてこない。題材の重さに振り回されているように感じた。
 塩島のアンチゴネーはなかなかよくて、ギリシャ悲劇のヒロインは男がやらなくては駄目だと思った。
*[01* 題 名<] ベンガルの虎
*[02* 劇 団<] 秘演会
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 李礼仙
*[05* 戯 曲<] 唐十郎
*[06  上演日<] 1988-07-12
*[09* 出 演<]李礼仙
*[10*    <]小林勝也
*[11*    <]香田卓也
*[12*    <]新谷一洋
*[13*    <]藤堂貴也
*[14*    <]田中清子
 レベルの高い舞台という呼び方が、誉め言葉になるのかわからないが、これはレベルの高い舞台である。アングラの抜け殻を見せられるんじゃないかという心配は杞憂に終わった。
 俗物博士の新谷(三〇〇の人)は、水島上等兵の姿でトイレからあらわれるシーンから眼に狂気を宿し、ハンコ屋になっても、バッタンバンの娼館の主人、村岡伊兵衛次(「女衒」の人)になっても(日本刀を振り回す)、眼がすわったままで、終始立派な悪役ぶりだった。水島の藤堂(やはり「ゲゲゲのゲ」に出ていた)は、いかがわしさが持続しないが、妻の李礼仙を否定するところなど、どうなるんだろうと思わせる気迫があった。銀次少年の香田は、ホスト的な甘いマスクだし、すぐ買収されて姿を消すところなど、いかにもそんな感じで芝居を小さくしたが、二枚目役者として任に耐えている。李礼仙の母親の田中(?)は、すぐにお嬢さん言葉になってしまうが、ラシャメン姿がよく似あい、黙っている限り、妖美であった。ミシンの街頭セールスマン、花月園競輪場の予想屋、バッタンバンの公使と変身する小林は、色気がないのが致命的だが、軽妙に狂言回しをつとめていた。
 若い役者たちがここまでやれたのは素晴らしい。純技術的には、十五年前と同じか、もしくはしのいでいるはずだ。総じて健康的で軽く、異形の者という兇々しさは無いが、唐の芝居が成立することが証明されたわけで、悦ばしいことだ。李礼仙は嬉しそうだった。かすれ声のたどたどしい喋り方はそのままだが、仕草の切れ味は落ちた。さすがに踊りはない。
 ほとんどが桟敷席だったが、間にもう一列づつ詰こめる余裕があった。今風のファッションの若者と、ノスタルジーおじさん族にはっきり分れていた。幕間に黒いカーテンを張るのが昔と同じだった。
 今週号のAERAによると、唐と李礼仙は離婚していた。状況最後の公演になった「ねじの回転」に致命的なミスキャストがあり、失敗したこと、彼女が外部活動することを批判する声が出たことで、活動を見限り、といって、大資本をバックにした唐組にはついていけず、全盛時代の再演という企画にたどりついたということだ(今回で二回目)。「ねじの回転」の時点で、状況時代の戯曲は彼女以外にはやらせないという口約束が出来ていたという。次は「
*[01* 題 名<] 赤きこころもて飛鳥
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 俳優座
*[04* 演 出<] 千田是也
*[05* 戯 曲<] 斎藤憐
*[06  上演日<] 1988-07-13
*[09* 出 演<]川口啓史
*[10*    <]清水良英
*[11*    <]岩崎加根子
*[12*    <]堀越大史
*[13*    <]巻島康一
*[14*    <]小美野欽士
 斎藤のカタカナ古代劇の第三作。基本的には自由劇場の6H的演出を踏襲したカタカナ調であり、やはりのっぺりして退屈だったが、後半、ミチヨがフヒトと対立する条りでドラマの骨格が太く浮き出しかけ、従来の平板さを破るものがあった。これはひょっとしたら……と思ったのも束の間、ミチヨはすぐ妥協し、またしても細線でコマゴマ描かれた事件、事件の中に埋没してしまうのだ。
 途中までにせよ、ドラマが浮き出しかけたのは、フヒトの凄みのお陰である。こうして見せられると、政権掌握までのフヒトの立場がいかに弱く、綱渡りの連続だったかがわかるし、後宮支配というもののいかがわしさが目の当たりに出来る。ただ、これだけでは新京都学派の史観の解説でしかない。
 この芝居の独自性は、ドラマの主軸を不比等対人麻呂ではなく、不比等対橘三千代に設定したことにある。ミチヨ像はなかなかすばらしい。天平美人は誉めすぎにしても、いかにも気のいいオバサンという感じの清水が好演して、一度は手を結んだフヒトと対決するにいたる経過を納得させたが、その後が苦しい。気のいいオバサンすぎて、彼女の妥協はどこまでが打算で、どこまでが皇統のためか、そして自分を利用しつくしたフヒトをどこまで許していたかがわからなくなってしまったのだ。阿弥陀仏を前にフヒトに真情を告白させ、よくできましたと微笑むのは、どういうわけなのか? 一方、語り部役の人麻呂は、世俗的野心がありながら、芸術至上主義に逃げこむ脳天気な詩人として、他の宮廷人同様、戯画化されることになる(でっぷりしたお腹を強調したピンクの衣裳)。最後は左遷され、旅人や憶良と共に酒びたりになるだけなのは、梅原史観から離れようとしてのことだろうが、持統と関係のあった寵臣であり、古事記の編纂者としながら、これは不自然だ(道化のまま殺すことはできたし、そうすれば、フヒトはリチャード三世になったかもしれない)。
 フヒトの川口は清水宏治を地味にした感じで、まあまあ。岩崎の持統は適当にえげつなくて、適役。堀越は腺病質の草壁・文武の二代で、らしい。ミヌオオの小野美は哀れで良い。
 舞台上に黒く太い二本の柱(男、女のセックス・シンボルがついている)。間にデッキ、その両端に回転式の螺旋階段がつく。
*[01* 題 名<] イカれた主婦
*[02* 劇 団<] アトリエ・ダンカン
*[03* 場 所<] 恵比寿ファクトリー
*[04* 演 出<] 加藤直
*[05* 戯 曲<] 
*[05* 翻 訳<] 加藤直
*[06  上演日<] 1988-07-18
*[09* 出 演<]木の実ナナ
*[10*    <]秋川リサ
*[11*    <]森公美子
*[12*    <]白木美貴子
*[13*    <]小松政夫
*[14*    <]若松武
 オフのミュージカル、Angry Housewives の東京下町版。とてもおもしろかったが、出演者の魅力を足し算しただけで、掛け算にはなっていない。これだけの隠れた実力派を揃えたのだから、もっともっとおもしろくなっていいはずだ。
 悩みを抱えた女たちが、賞金目当てからパンク・バンドを結成し、いつのまにかロックに生きがいを見つけてしまうという話し。名前はベブ、キャロルだが、一幕のナナは着物で通し、三味線のひけるお花の先生というように変えてある。問題は、ドラマの造りを最近の日本の芝居風に崩し、箇条書芝居にしていることだ。アイデァがぽんぽん並んでるだけで、間がつながらない。デブのキャロル(森)とルード(若松)のロマンスの描き方からすると(適役を得て、最高)、バンド結成までの紆余曲折とか、ウェンディ(リサ)の気迷いとか、原作では書きこまれていたのではないか。ストレート・プレイのこなせる役者揃いなのに、もったいない。リサが結婚かどうか迷うところなど、中途半端なつなぎ方にも係わらず、ドラマになっていた(彼女はパンク化粧も映えるが、ドラマ向きではないか)。
 もっとも、プツンプツン切れる弱さのおかげで、役者の個人芸が活かせたことは確かである。妻のパンク狂いに困惑する弁護士をやった小松政夫など、自分の芸で思う存分笑いを取っていた。ナナも役としての見せ場は乏しいが(カットされた?)、小さなところで魅力を出していた。
 四人が四人とも自分のスタイルの歌を持っていたのも素晴らしい。本職のナナと森は当然として、白木のナイーブな歌、リサのザックバランな歌と、それぞれに聞かせた。しかし、一番の見せ場はラストだ。ギンギンのパンク・ファッションで演奏が始まると、それだけでスカッとする。プリンセス・プリンセスなんて色褪せる。一曲+アンコールじゃなく、五、六曲やって欲しかった。
 お客はほとんど女性。20〜50代と年齢層が広く、オジサンがちらほら坐っていて、まるで宝塚。花束も多い。すべてナナのファンという感じで、いいオバサンがジーパンはいた時の脚の細さに感動していた。事実、スックと立った時など、みごとな脚線美と完璧なスタイルにため息が出た。かわいいし、キラキラしてるし、ナナは最高。
*[01* 題 名<] マハーバーラタ*1
*[02* 劇 団<] CICT
*[03* 場 所<] セゾン
*[04* 演 出<] ブルック,ピーター
*[05* 戯 曲<] ブルック、カリエール
*[06  上演日<] 1988-07-19
*[09* 出 演<]コーヤテ,ソティギ
*[10*    <]ラングドン=ロイド,ロバート
*[11*    <]ビラー=ゴールドシュミット,ルゥ
*[12*    <]マールーフ,ミレーユ
*[13*    <]チェスラク,リシャルド
*[14*    <]ゴールドシュミット,ミリアム
 色の美しさに、まず、驚いた。高い天井と深い奥行をそのまま生かしたシンプルな舞台。代赭色の布を貼った壁に、同じ色の細い梯が正面と横面に壁面と平行に取りつけられている。床は黄土色の土が突き固められている。手前に瓢箪型の水たまり、奥に川(中央に小さな橋)。野趣というか、懐かしいというか、野の風が吹き抜けるような舞台。これから九時間半という重苦しさが開演前の舞台を見ているだけでなごんでくる。
 演技の質もシンプルだ。子供に一族の物語を語り聞かせるという額縁にふさわしく、素朴で、土の匂いがして、しかも蒸留に蒸留をかさねた末の洗練がある。二本の竹の棒は交差させるだけで弓矢になり、土の上に更紗を広げると、それだけで王宮になるが、マイム芸的なこれ見よがしなところはなく、物真似の原点というか、お喋りのついでにヒョイとやって見せるような身軽さがある。遊牧民のキャンプで、焚き火にあたりながら、長老の昔話を聞いているような愉しさだ。
 火が燃え、水が飛散ると、舞台は俄かに野性を帯びる。火にこんなに涼やかな顔があったり、狂暴な顔があったなんて! 水も、今まで舞台の上で見て来た水とは、全然違う。本物の土のせいか、本当に水なのだ。竹もいい。道具類はほとんど竹か、竹細工だが、しなやかにしない、繊細にふるえるたびに、人が倒れ、車輪がきしる。戦車や軍勢が飛びだし、説話世界が手品みたいに姿をあらわす。
*[01* 題 名<] マハーバーラタ*2
*[02* 劇 団<] CICT
*[03* 場 所<] セゾン
*[04* 演 出<] ブルック,ピーター
*[05* 戯 曲<] ブルック、カリエール
*[06  上演日<] 1988-07-19
*[09* 出 演<]サラバイ,マリカ
*[10*    <]セベリン,アンジェ
*[11*    <]コラファス,ジョージ
*[12*    <]キッスーン,ジェフリー
*[13*    <]クルティビ,ティンジェル
*[14*    <]デューム,ママドゥ
 第一部は放浪詩人が子供に一族の話しをはじめる発端から、ユディーシティラが賭けですべてを失うまで。第二部は森にドラウパディ妃とともに追放されたパンダバ五兄弟が、十三年後、クリシュナの協力を得て、カウラバ百人兄弟に戦いを挑むまで。第三部は戦争。圧巻である。ひどくこみいった話なのだが、イャホン頼りの英語というハンデにもかかわらず、わかりやすい。単なる意地の張りあいが、誓いと呪いによってねじまがっていくという点を、押えてあるからだろうか。意地を張るにしても、宇宙的な意地の張り方なのだ。嫉妬したり、根に持ったり、ひねくれたり、賭けにいれこんだりという人間的弱さにすぎないものも、ここまで徹底してエネルギッシュに固執すると、崇高に見えて来てしまう。戦争がはじまると、愚かしさがさらにエスカレートして、ルール破りがルール破りを生み、当事者たちもようやく馬鹿馬鹿しさに気づき、生き残った者は燃えつきたような余生を送る。後悔とか、悟りといったものをことさらうたわず、事実に語らせる造り方が説得力を生んでいる。
 多分、それは原作にある考え方なのだ。クリシュナというオデュッセウス的な半神は、カウラバ方のたくらみを知りながら、王国を賭けた賭けを止めることなく、戦争がはじまると狡猾の限りをつくした策略をパンダバ兄弟に授けるが、それは一族の中に蓄積された無理(それはビーシュマがブリッ子して、独身の誓いを立てた時からはじまる)を解決し、人間たちに即物的に悟らせようとしてのことだろう。人間というのは、痛い目にあわないと、なかなかわからないものなのだ。ブルックの演出は、クリシュナの導きを踏襲しているのだと思う。
 12時から、9時半までの文字通りのマラソン公演。入口に荷物が固めてあると思ったら、「自主的に名簿を作り、点呼をとっています」の貼り紙。22日のジーンズ組みがもう並んでいるのだ。三枝成章が娘(?)連れで来ていた。いつもながら、かっこいい。
*[01* 題 名<] マハーバーラタ*3
*[02* 劇 団<] CICT
*[03* 場 所<] セゾン
*[04* 演 出<] ブルック,ピーター
*[05* 戯 曲<] ブルック、カリエール
*[06  上演日<] 1988-07-19
*[09* 出 演<]メッツォジョルノ,ビットリオ
*[10*    <]マイヤース,ブルース
*[11*    <]笈田勝弘
*[12*    <]パタロ,エレーヌ
*[13*    <]ヘミングス,ノーラン
*[14*    <]ハインズ,キアラン
 何といっても素晴らしいのは第三部である。三時間ぶっ続けというのに、一瞬の弛みもなく、堂々と完結する。竹の簀の子を巧みに使って、陣地を示した開戦の場面。アルジュナの颯爽たる戦いぶり。平然と策略をめぐらすクリシュナ。三角形に組まれた竹の梯の中に果敢に突入し、後続の援軍を得られぬまま打ち死にするアビマニュ。息子が死んだと偽られ、壺に入った血を浴びて死ぬドローナ。カルナとアルジュナの死闘。そして、クンティから実の兄だったと告げられ、茫然とするアルジュナ。果てもなく続く戦いに、みんな泥だらけになり、悄然としていく中、ただ一人、美しい毅然とした顔で復讐をいいつづけ、誓いの通り、ドゥシャーサナの血で髪を洗うドラウパディ。目に残るシーンがいくつもある。
 役者はみんないいが、ドラウパディのマリカ・サラバイは印象的。恐ろしい女なのだが、インド的美貌に加えて、仕草が優美で、裸足の歩き方なんてうっとりする。ビーシャに拒まれる女アンバのパタロはいかにも米作人種だが、第一幕の呪いを吐く場面では濃厚なエロチシズムを発散する。危険な男ドゥシャーサナのビラーは、誕生の場面が鬼気迫る迫力。笈田勝弘は塚原卜伝にたとえている文章があったが、本当にそんな感じで、外人に尊敬されるだろうと思う。少年役のルゥはかわいい上に、後光がさしている。ビーシュマ役のコーヤテは長身で威厳がある。
 イャホン・ガイドは岸田今日子で、しかも長台詞ややり合いの前に要点を手短にまとめるというやり方。これ、とてもいい。もともと出演者に英語初めて組が多いので、聞取りやすかったこともあるが。ただ、音のいい小屋なので、イャホンで塞がれると、響きの広がりが味わえない。
*[01* 題 名<] ヴォートリンの犯罪
*[02* 劇 団<] ライミング
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 西川信廣
*[05* 戯 曲<] ライト,ニコラス
*[06  上演日<] 1988-07-27
*[09* 出 演<]田代隆秀
*[10*    <]清水由紀
*[11*    <]吉田鋼太郎
*[12*    <]関川慎二
*[13*    <]下村彰宏
*[14*    <]山本道子
 初演は高級パズルだったが、今回はドラマになった。おもしろいのだ。早変わりで何役も演ずるという趣向は、悪い意味の「異化効果」を生んだが、今度はそれが「語りもの」の野放図な自由さを生んでいる。スピードとメリハリもある。リュシアンの結婚の成否をめぐるオペラ座の場面など、手に汗握ってしまった。エステルとリュシアンの愛の場面も、切々と心を打つ。初演はコミカルな要素を強調していたが、今回は暗黒小説のトーンを前面に押出し、笑いもズシリと重い黒い笑いに変った。
 それを端的に示すのが、ヴォートリンの田代。二階から登場する瞬間から悪の気配を全身にみなぎらせ、右半分を酸で焼いたメークが凄みを帯びる。エステルを責める場面では、白刃を抜き放ったような鬼気迫る芝居。そして、サッと収める。声も一層厚みを増している。エステルの清水もいい。現代的なハーフっぽい顔立ちだが、ボルテージが上がって来ると台詞に新派的なメリハリがつく。それが不自然ではなく、暗黒小説のヒロインの悲劇性を一層高める。いい意味で通俗的なのだ。淡泊な女優だが、それが娼婦役に必要な清潔感を生んでいる。男爵と予審判事の関川も軽く淡泊だが、初演の渡辺のように可哀そうになりすぎなくて良かった。ペイラッド他の主にボケ役をやった下村は本当にうまい。ボケ方に何通りもあって、ちゃんと演じわけてしまうし、颯爽としていて、舞台が重くなりそうになると、彼がスピードアップする。美青年担当の吉田はナイーブなヒーローからオカマまで、脂っこい芝居でこなす。小間使いのヨーロッパ、予審判事夫人ほかをやった山本は腰の据わったオバさん演技で、この忙しい芝居の一方の抑えとなった。この人がいなかったら、重量感は出なかったかもしれない。彼女は「肝っ玉おっかあ」をやるべきだ。公爵夫人他の中島は余裕があって実力発揮というところ。
 ベニサンの天井の高さを生かした装置と演出。ジャンジャンでは、こういうめまぐるしい芝居はゴチャゴチャしてしまう。演出の西川は海外研修から帰っての初演出。平日マチネだったので、関係者が多いらしく、変なところでキャーキャー受けていた。
*[01* 題 名<] イェルマ
*[02* 劇 団<] ヌリア・エスペル劇団
*[03* 場 所<] セゾン
*[04* 演 出<] ガルシア,ビクトル
*[05* 戯 曲<] ロルカ,ガルシア
*[06  上演日<] 1988-08-05
*[09* 出 演<]エスペル,ヌリア
 五角形の大きな枠が、手前を下に、舞台一杯にしつらえてある。カンバスが張ってあり、芝居はすべてその上で、素足で、演じられるのだか、張り具合により、トランポリンのようになったり、重力場の図のようになったり、場面ごとに感じが変る。抽象的だが、押しつけがましい所はなく、人間臭いというか、野趣がある。
 内容もそうだ。石胎の妻が、こんな駄目夫を持ってしまったことを後悔する話なのだか、まったく抽象的に演出されているにもかかわらず、土俗的な匂いがぷんぷんする。そのかなりの部分はアラブ的な嘆き節の朗唱にあるかもしれず、また薄暗い照明と、灰色の修道服を着た農家のオバさんという感じの修道女たち(血色が妙によくて、変に生々しい)にあるかもしれない。しかし、「そこに人間が生きている!」式に突放した感触が一番効いていると思う。
 ただ、かなり閉塞感のある、暗い、欝陶しい芝居ではある。
 ロビーに富士通オアシス30シリーズが展示され、芝居のちらしに混じってオアシスのカタログが積まれていたのには驚いた。富士通がスポンサーだったのだ。客席はほとんど埋っていたが、場内放送からすると、富士通の招待客が多そうだった。
 遅れていったので、通訳のイャホーンを借りる暇がなかったが、隣のオバさんが大きな音量で聞いていたので、ほぼ聞取れた。
*[01* 題 名<] ガラスの仮面
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] 演舞場
*[04* 演 出<] 坂東玉三郎
*[05* 戯 曲<] 美内すずえ
*[06  上演日<] 1988-08-12
*[09* 出 演<]大竹しのぶ
*[10*    <]藤真利子
*[11*    <]南美江
*[12*    <]川崎麻世
*[13*    <]鰐淵晴子
*[14*    <]南果歩
 原作は読んでいないが、最高のキャスティングだ。台本も演出もよく出来ている。照明をしぼり、奥行をたっぷりとったシンプルな舞台を、スポットライトやフットライトで、稽古場にも、舞台にも、寮にも、公園にも見せる。ただでさえこみいった筋で、その上、劇中劇がたっぷりあるというのに、ストーリーの骨格がくっきりわかる。三十四巻のアブリッジに終わっていない。短い場面が次々と入替わるが、省略と飛躍が効いて、基本的にはシャナリシャナリとした緩いテンポに適度な緊張を与える。特に、場面の切換わりが流麗で典雅である。玉三郎演出の勝利だ。この人は感性の人である以上に論理の人だったのだ。
 なにしろ、天才少女の話だし、見せ場はいろいろあるが、二幕の「たけくらべ」のシーンはよくやった。コの字型に出演者がすわった真ん中で、暖簾を挟み、マヤと亜弓が交互に美登里を演ずる。ほとんどアクロバット。若干肩に力が入っていたが、こんな机上の空論的趣向をよくぞやった。この直前の、マヤと月影千草の稽古の場面は文句なしにすごい。南美江は美登里以外の役を声色で男女取り混ぜて演じ分け、大竹しのぶは南の指示通りに台詞を言い分ける。二人とも丁々発止を楽しんでいる。大竹は女海賊やパックなど、妖精的な役も巧い。ただ、最後の見せ場の「奇跡の人」はかなり落ちる。藤のサリバン先生はヒステリー女だし、大竹のヘレンは愛敬がありすぎる。背が同じというのもきつい。ここが盛り上がれば、もっとよかったのに。
 いかにもマンガという感じの大仰さは気にならなかったが、スポコンの趣向を演劇界にそのまま持ちこんだ無理は否めない。「コーラスライン」と較べるのは変だ。
 二階は観賞団体のオバサン族が多かったが、一階はほとんどが女の子。男もいるが、ガールフレンドのお供という感じ。中年男がちらほらいるのは、原作のファンか? 食堂が「ニュースタイル・カジュアルレストラン」に衣替えし、原画の展示の他、カレーとか、サンドイッチとか、みつ豆とかの四百〜五百円程度のメニューを並べていた。一番高いのはマヤ弁当の千円。
*[01* 題 名<] カルナの悲劇
*[02* 劇 団<] ソーパーナム
*[03* 場 所<] 池袋野外
*[04* 演 出<] パニッカル
*[05* 戯 曲<]
*[06  上演日<] 1988-08-20
*[09* 出 演<]
 実の兄のアルジュナの決戦することになったカルナの心境をテーマにした舞踏劇。クシャトリァ嫌いのパラシュラーマ師にバラモンと偽って教えをこうが、嘘が見破られたために肝心の時に武芸の力が崩れるという呪いを受けるエピソードと、戦いに向かう途中、バラモンに変装したインドラ神(アルジュナの父)があらわれ、最後の護身具である耳飾りと鎖かたびらを施しとして与えよと迫るエピソードが軸になっている。五人の男優と一人の女優、そしてコロス的な八人の若い男優が手に手に楽器や武器を持ちながら、旋回を中心とした動きで踊り回り、歌い回る。他に、舞台の袖に楽人が三人。
 正真正銘のインド人がやるわけで、動きや発声など、まさにインド人だが、あまり感動はない。全体にもたもたして、動きの切れがよくないせいもあるが、役者が微妙に近代的だからかも知れない。いかがわしさというか、色気というか、役者臭さというか、存在感が足りないのだ。多分、芸人の家系に生まれた者たちではないと思う。カーテンコールで出て来た演出家など、まるっきり西洋的なインテリの顔をしている
 もっとも、演出まで近代的というわけではない。「悲劇」でありながら、悲劇的心理を表現することなく、あくまで動きの面白さで見せていて、あっけらかんと明るいのだ。カルナが泣く泣く護身具をわたす場面も、様式的な所作で見せていて、お神楽みたいだった。また、カルナがあくまで王者であるのに対し、バラモンに化けたインドラ神は卑屈なくらいぺこぺこしていて、護身具を受取るとあからさまに喜ぶ。こういう演出は土俗的なのだろう。
 左右の肩から脇腹へ斜にかけた布をX字型に組合せたインド式のたすきは、なかなかかっこいい。
 池袋の東京国際演劇祭の公演。会場は右手にサンシャイン60、正面にプリンス・ホテル、左手に電話局と三方をビルに囲まれた東池袋公園の特設野外ステージ。異常気象の余波で、待っている間から稲光がピカピカし、雨の確率70パーセント。傘は禁止で、場内係は三百円の雨合羽を売出した。結構売れていたが、結局、夕立にはならなかった。
 プリンス・ホテルのお客が、結構、窓から見ていた。15階くらいの家族連れが一番頑張っていたが、あれだけ騒がしければ、当然だろう。
*[01* 題 名<] 町人貴族
*[02* 劇 団<] コメディ・フランセーズ
*[03* 場 所<] セゾン
*[04* 演 出<] ブテ,ジャン=リュック
*[05* 戯 曲<] モリエール
*[06  上演日<] 1988-08-25
*[09* 出 演<]ベルタン,ロラン
*[10*    <]ブランシャール,ドミニック
*[11*    <]フオンタナ,リシャール
*[12*    <]エーヌ,シモン
*[13*    <]プロラン,アラン
*[14*    <]マイエット,ミュリエル
 遅れて行ったので、イャホンを借りなかった。わかるかと思ったら、十分の一も聞取れない。それでも面白い。もともと、歌あり、踊りありの楽しい舞台だが、ものすごくゴージャスで、生き生きしていて、華やかで、陽気で、可愛らしく、優しさに満ちた舞台だ。もっとシニカルかと思ったが、この可愛らしさは何だろう。ジュールダン氏をやったロラン・ベルタンの人徳のお陰だと思う。トルコ貴族の扮装をした時の無邪気さ、可愛らしさ。従僕役のリシャール・フオンタナもいい。宙吊りの場面では、「マネキン」のハリウッドだ。からかうというより、いっしょに楽しんでいるのだ。冷笑だなんて、とんでもない。娘役のマイエットの喋り方の愛らしさ。動きも頭の働きもスピーディで、いかにも利発そう。奥さんのブランシャールは気のいいオバさんで、決してガミガミにはならない。あと、フランス語はお百姓の言葉だと思った。
 登場人物すべてがすばらしい。若い役者たちの踊りも軽やかで、風のようで、典雅である。四人のコーラスも、ベルカントの一番いい部分を聞かせてくれた。それから、トルコの儀式の場面の背景の星空の美しいこと! 澄んだ光でまたたき、散らばり具合も、本当に星空なのだ。左側に西洋の龍、右の空中に翼手龍がうかび、どちらにもトルコふうに扮装して乗っかっている。ママムーシの称号を受けたジュールタン氏に銀の粉を降掛けるのだが、これがきれいだ。音楽もいい。休憩時間にチェンバロを調弦していたから、生なのだが、使い方が自然でことさらでないのが素晴らしい。
 多分、蜷川の芝居を見たヨーロッパの人たちは、こんな風に楽しんだのだなと思った。一流の物はちゃんと分るのだ。
 遅れたのが悔まれる。とてもいい席だったのに。
Copyright 1996 Kato Koiti

演劇1988年31988年1
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