演劇ファイル  Jan - Sep 1990

1989年12月までの舞台へ
1990年10月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] 邯鄲
*[02* 劇 団<] 蜷川カンパニー
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 村井秀安
*[05* 戯 曲<] 三島由紀夫
*[06  上演日<] 1990-01-30
*[09* 出 演<]松田洋治
*[10*    <]松本留美
*[11*    <]高沢順子
*[12*    <]瀬下和久
*[13*    <]青山達三
*[14*    <]角間進
 夜明け前のまがまがしい時間、対角線方向を客席に向けた部屋に東京からやって来たばかりの次郎を菊が案内する。その部屋は、女中時代、次郎の面倒を見ていた頃をなつかしんで、菊が彼の子供部屋そっくりに飾りつけてあるわけだが、大きな千羽鶴をさげたり、模型機関車が走っていたり、アンチームななつかしい雰囲気に作ってある。だが、その部屋の凸凹に断ち切られた壁はコンクリートの地膚をさらし、周囲の景観も地獄の荒野のように荒々しい。この対照の中で行われる、次郎と寡婦の菊の対決がすばらしい。次郎の顎をそらした小生意気なものの言い方は、松田の透明な資質のおかげでぎりぎりのところでバランスが取れているし、菊の押しつけがましさ寸前の愛情は、松本の素直さで、やはりぎりぎりでバランスしている。この二人のキャスティングは成功だ。
 だが、夢の中の場面はかなり落ちる。枕の精たちが男は清朝風のきんきらきんの宮廷衣裳、女は巫女風の衣裳で現れるのだが、モダンダンスの動きとそれらしい音楽に頼りすぎて、芝居としては貧弱である。栄耀栄華を小馬鹿にする次郎の不遜さが見えにくくなってしまった。「お前は人生に肘鉄ばかりくらわした」と言って怒る枕の精に、「成功=人生」という俗悪な人生観なぞくだらないという反語を突きつけるべきではなかったか。
 目覚めて現実に戻り、菊と手を取りあって喜ぶ次郎が、ひょっとしたら、これも夢ではないかと気がつく場面で終わるが、このラストも定石どおりというか、不満が残る。
 はじめてグローブ座に行った。馬場からだとかなりあるし、道が寂しい。ポスト・モダンの建築群と道路をはさんで、丸正のコンビニ程度の小さな支店が、いかにもひなびた感じで店を開いていたのが笑ってしまった。帰りは新大久保を通り過ぎて、西武新宿の駅に出た。新大久保周辺には安い中華屋が多い。久しぶりにホテル街をくぐったが、昔風の狭斜の巷という感じのネオンがなつかしい。
*[01* 題 名<] 卒塔婆小町
*[02* 劇 団<] 蜷川カンパニー
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] 三島由紀夫
*[06  上演日<] 1990-01-30
*[09* 出 演<]壌晴彦
*[10*    <]井上倫宏
 「元禄港歌」みたいに椿で囲んだ額縁舞台。芝居の進む間、やはり椿の花がカサッカサッと落ちてくる(ポトッポトッとならないのは造花の悲しさだ)。グローブ座+近代能楽集=能舞台という予想をまず裏切るのが、蜷川風だ。最初はわからないが、コロスとなるアベックも、男同士で、鹿鳴館の場など、かなりグロテスクだ。主人公の小町も壌晴彦で、演歌っぽい濡れた声がそれらしい雰囲気を出す。
 教養主義は十分くつがえしているが、蜷川風に安住しているじゃないか……と思っていたら、鹿鳴館のあたりからぐんぐん底力を出して来て、ボロをまとった小町がそれなりに美しく見えるではないか。「美しい」という言葉を発してしまう詩人の井上倫宏も、鬼気迫る雰囲気がある。蜷川風は蜷川風だが、狂気の時間を作りだしたわけで、芝居の醍醐味を堪能した。
*[01* 題 名<] 俊寛
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] パルコ劇場
*[04* 演 出<] 市川猿之介
*[05* 戯 曲<] 斎藤憐
*[06  上演日<] 1990-02-07
*[09* 出 演<]平幹二郎
*[10*    <]太地喜和子
*[11*    <]佐藤慶
*[12*    <]大出俊
 錦の古代裂を貼り混ぜにした緞帳が上がると、やはり貼り混ぜで装飾した舞台が浮び上がる。照明をおさえて、きらびやかな輝きを深くしたセンスは悪くない。しかし、芝居としては問題がある。まず、コロスの扱い。俊寛伝説の担い手の芸能民に焦点を当てたのはいいが、いかにも声楽をやりました、ダンスを習いましたといった規制された動き、声で、あれではお稽古事の発表会だ。
 都に密かに戻った俊寛が、妻の変節、友の裏切りや後白河上皇の卑劣さに愛想をつかし、また鬼界ヶ島へ戻るという話だが、幻滅する役は平には向かないのではないか。いつもの通りの朗々と歌い上げる台詞回しで、異和感を憶えた。
 太地は俊寛の妻で、東国武士の情婦になる東屋と、鬼界ヶ島からつれて来られた島の娘の二役だが、別にどうってことなし。
*[01* 題 名<] ハロルドとモード
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] ディスノー,デボラ
*[05* 戯 曲<] ヒギンズ,コリン
*[05* 翻 訳<] 黒田絵美子
*[06  上演日<] 1990-02-13
*[09* 出 演<]北林谷栄
*[10*    <]池畑慎之介
*[11*    <]三谷昇
*[12*    <]北村昌子
*[13*    <]梅野泰靖
*[14*    <]桜井克明
 もともとが頭の中の作文的な芝居だが、案の上、半径2メートルの成功で終わってしまった。主演二人はいい雰囲気を出しているのだが、その波及範囲は半径2メートルでしかない。H列の真ん中といういい席で見たのだが、あっちの方で何かやっているという感想しかもてなかった。モードの語る自由はきれいごとにすぎないし、ハロルドの自殺ごっこも母親の気を引くためのアトラクションでしかない。血のりべったりでも、いつものことよと平然としている母親の姿に、もっと何かあればよかったが、それもない。バーナード警部が憎まれ役になって、ちょっと面白くなりかけたが(梅野泰靖って、「イルクーツク物語」で思い入れたっぷりの恥かしい朗唱をやった貧相な爺さんだが、今回は上手い)、悪役になりきらない。最終的には悪い人間は一人も出て来ないのだ。
 ピーターはいい子になりすぎた感じ。北林谷栄はかなり危なっかしい雰囲気。二幕の頭で咳きこんだくらいで、台詞にトチリはなかったが、よろよろという感じだった。しかし、何げなくつけくわえる台詞で笑わせてしまう上品でとぼけた味は天下一品だ。北村昌子の母親は迫力不足。三谷の神父もこぎれいにまとまりすぎ。
 都民フェスティバルの一環の新劇団協議会主宰公演なので、三谷と昴の北村が客演したものらしい。
*[01* 題 名<] 鹿鳴館異聞
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] 俳優座劇場
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 堤春恵
*[06  上演日<] 1990-03-21
*[09* 出 演<]二宮さよ子
*[10*    <]范文雀
*[11*    <]中山仁
*[12*    <]大谷友右衛門
*[13*    <]下村彰宏
 レトリックはいかにも三島の真似だし、話の運びはギクシャクしているし、最初の方は説明過剰だしと本当に下手くそな戯曲だけど、光るものがある。森有礼の離縁した妻が看護婦と二人だけで築地の外国人居留地の洋館に幽閉同然に住んでいる。巷では森の前の妻は鹿鳴館の夜会で知り合った外人とねんごろになり、青い眼の赤ん坊を産んだので離縁されたといわれているが、森夫妻は一度も鹿鳴館に脚を踏み入れた事はない。では、なぜ、つねは離婚したのか。その謎をさぐりに、森の旧友といつわって、つねの幼なじみの新聞記者、甲山敬吾と、洋装の貴婦人に扮した沢村源之助が押しかけてくる。しかも、時は憲法発布前夜。
 残念ながら、派手な道具立てをすべて生かしきっているわけではない。それなのに魅力的なのは何故だろう。少なくとも、それは猛烈社員の夫にかまわれない妻の嘆きがこめられているからではない(そこに感動した人もいるだろうが)。また、夫の言い分と、妻の言い分の「薮の中」風の対決でもない(どちらが真とも知れないという「世阿弥」風の存在論が見えかくれする)。
 よくわからないが、二宮さよ子が素晴らしいのだけは確かだ。鹿鳴館のドレスと三島風の長台詞を裸身にまとって、時に凛然と、時に惑乱し、女の濃厚な色香を劇場に充満させる。受け手の范文雀も一歩も引かない。二宮の陽の女くささに対して、范文雀は陰の女くささ。看護婦千代、実はフランス帰りの手妻師柳川千蝶という趣向は眼が醒めるほどかっこいい。彼女が真実を握った女であるために、「世阿弥」風の存在論は破綻してしまうのだが、それでいいのだ。理屈はともかく、この芝居は二宮と范と二人の女優の一騎打として仕組まれているのだから。
 森有礼の中山仁も立派だが、下村、大谷の二人は十分合格点なのに、見劣りしてしまう。惜しむらくは、つねと有礼の対決の後に、つねの不倫の告白がすぐに続く事だろう。ここでワン・テンポ置いていれば、あのエロチックな告白と、我が子を殺そうという凄みがもっと生きたのだが。
 旧姓佐治というし、サントリーが協賛しているから、佐治一族の出なのだろう。それにしても、すごいキャストだ。パンフも豪華だった。客席も満員。
*[01* 題 名<] お気に召すまま
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 小田島雄二
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1990-04-19
*[09* 出 演<]順みつき
*[10*    <]中村浩太郎
*[11*    <]弥生みつき
*[12*    <]戸井田稔
*[13*    <]円道一弥
*[14*    <]井上撓之
 順みつきがこんなに大根だったとは! まるでメリハリのない絶叫芝居で、感情むき出しの中年女にしか見えない。微妙にねばっこくて、李礼仙のようでもある。彼女がロザリンドをやるならと期待していたんだけど、りりしさとか、精神の高貴さとか、どこへいってしまったんだろう。
 ねばっこくなったのは、オーランドーを中村浩太郎がやったせいもあるかもしれない。安定していて、いい役者だし、彼のおかげで舞台が持っていたんだけど、演歌的というか、ねばるんだよね。だから、「お気に召すまま」の軽やかな感じとは違うんじゃないかと思う。
 舞台そのものについていうと、冗漫の一言につきる。多分、ノーカット台本でやっているんだと思う。差別語がばんばん出てくるし、見たおぼえのないシーンがあったようにも思う。しかし、あの冗漫さはそのせいばかりではない。メリハリの欠如が大きい。
 脇の役者はシェイクスピァ・シアターが固めていたけど、このシリーズにも「マクベス」で参加しているせいか、素人同然のも混じっていた。円道一弥が三役も兼ねてフォローしていた。どうなっているんだ。
 シーリアの弥生みつきは声がかわいかった。井上撓之がギターをかかえて、マーテクスを演じたのはごちそうだ。これだけで遊びという豊かさが出たし、すごく舞台が救われた。
 やけに男の多い客席だったが、大学関係者が大挙して来ていたよう。しかし、二階三階はガラガラ。
*[01* 題 名<] 飢餓海峡
*[02* 劇 団<] 地人会
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 木村光一
*[05* 戯 曲<] 水上勉
*[06  上演日<] 1990-04-30
*[09* 出 演<]石田えり
*[10*    <]永島敏行
*[11*    <]金内喜久夫
*[12*    <]大原美佳子
*[13*    <]松浪志保
*[14*    <]山口嘉蔵
 正味3時間の芝居。45分遅れで入ったが、面白かった。時間があっというまにたった。原作がいいからだろう。もっとも、最初を見逃して残念という感じはしない。あんなややこしい話をよく舞台にまとめたと思うし、すごくよく出来ていたが、芝居ならではの醍醐味にはそれほどなかった。ラストの樽見ジャン・バルジャンと函館署の弓坂刑事の対決の場面で、石田えりの声が天井から降ってくる場面は見どころだったが。
 石田えりの独演会みたいな作りにまとめてある。底辺をさすらった女の10年を追うことで、戦後の焼け跡闇市時代を総括しようというわけだ。王政復古から7月王政の時代を総括した「レ・ミゼラブル」と狙いがよくにている。池袋のマーケットの描写とか、売春禁止法前夜の亀戸の娼館とか、生々しさがうまく出てはいるが、なんか映画のコピーという感じで、「レ・ミゼラブル」みたいに舞台独自の迫力にはなっていない。
 金内喜久夫が好演する弓坂刑事は、権力的なジャベールとは対照的な日本の刑事で、秩序の体現者というより、真心で10年間追い続ける。それも八重という女に引かれてという感じで、だから、最後の対決の場面で説得力が出てくる。
 石田えりはオーバーな芝居だが、嫌味にならない。八重の天真爛漫さと純情をさらっと演じて、説得力がある。黒人オンリーの時子をやった大原もたくましくていい。永島敏行は貫禄がある。
*[01* 題 名<] ベニスの商人
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 安西徹雄
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 安西徹雄
*[06  上演日<] 1990-05-04
*[09* 出 演<]橋爪功
*[10*    <]高林由紀子
*[11*    <]有川博
*[12*    <]唐沢潤
*[13*    <]大谷朗
*[14*    <]加藤美津子
 低調。アントーニオが憂鬱症のいやな奴で、シャイロックは可哀そうだという解釈はいいが、解釈云々という前に、躍動感がなく、台詞もしぼんでしまっている。船が威風堂々あたりをはらい……なんていう台詞が立上がってこないんだから重症だ。
 シャイロックの橋爪は同時にかけた「マルタ島のユダヤ人」のバルバラとの対照を際立たせるためだろうか、陰性にしすぎているように思った。かわいそうなシャイロックという趣旨を出すためなら、もうちょっと元気がよい方が厚みが出たと思う。
 道化た下男のランスロットの佐々木睦と、父親の仲谷昇のかけあいはおもしろかった。ジェシカの唐沢潤は陰性の魅力がうまく決って、エキゾチックな美女としてぴったりだったが、木下浩之のロレンゾとの恋の語らいが低調で、見せ場にならなかったのが惜しまれる。あそこがうまくいっていたら、完全に彼女がポーシャを食っていたのに。
 高林由紀子のポーシャはつまらない。男装しても、かわいくない。少年っぽさを出そうとした、力んだ台詞は聞苦しい。彼女にポーシャはミスキャストだったのではないか。
 ゴールデン・ウィークのマチネとあって、ほぼ満員。でも、夜の部の「マルタ島のユダヤ人」は席が余っていると、カーテン・コールで仲谷昇が懸命に宣伝した。出来は「マルタ」の方が段違いに良かったが、子供連れのお客はシェイクスピァを勉強に来たのだろう。
*[01* 題 名<] マルタ島のユダヤ人
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] グローブ座
*[04* 演 出<] 安西徹雄
*[05* 戯 曲<] マーロウ
*[05* 翻 訳<] 安西徹雄
*[06  上演日<] 1990-05-04
*[09* 出 演<]橋爪功
*[10*    <]有川博
*[11*    <]磯西真喜
*[12*    <]大谷朗
*[13*    <]佐々木睦
*[14*    <]世古陽丸
 トルコのマルタ侵攻を背景に、トルコへの貢物のために財産を没収されたユダヤ人が、トルコ軍と騎士団の両方を手玉に取ろうとして破滅するという悪漢喜劇。橋爪が「練金術師」を髣髴とさせる軽快な口跡で、悪口雑言をまくしたてる。スッとはずした傍白がフットワークよく決っていて、さすが橋爪だが、キリスト教徒の悪を告発した台詞の連射がすさまじく、よくもまあ、あんな台詞が許されたとエリザベス朝を再認識した。
 ただ、話が入り組みすぎているし、あっさり財宝を修道院にされた邸から持出せたり、あっさり恋敵どうしが相打ちになったり、あっさりバラバスの悪事が露見したり、バラバスの手引があったとはいえ、あっさりトルコ軍が侵入してきたり、あっさりの連続で、話や見えなくなる。心理描写で見せる芝居でなく、法螺話のエスカレートの面白さだと言うことはわかるが、せっかくの橋爪の妙技が空回りした面もないではない。シンプルで力強い「練金術師」には及ばない。
 禿のかつらをかぶって、あから顔の総督のフェルネーゼをやったのが有川博だというのは驚いた。アントニオとは対照的な剽軽な役で、みごとに化けたものだ。一人娘のアビゲイルの磯西真喜は萩尾みどり的なあっさりした感じだが、ちょっと薄幸の娘という感じではない。彼女をあらそって死ぬバカ様の世古陽丸と未亡人のマザコン息子の木下浩之はいい線いっている。仲谷昇はマキャベリで、幕開きに口上を述べるだけ。
 「ベニスの商人」が意識したというマーロウの「マルタ島のユダヤ人」を平行上演するという楽しい企画。こっちの方が格段に良かった。うっかり、「ベニスの商人」の方の切符を取ってしまったので、「マルタ」はダブル・ヘッダーで当日券で見た。きつかった。
*[01* 題 名<] 十二夜
*[02* 劇 団<] 文学座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 鵜山仁
*[05* 戯 曲<] シェイクスピア
*[05* 翻 訳<] 小田島雄志
*[06  上演日<] 1990-05-20
*[09* 出 演<]山本郁子
*[10*    <]平淑恵
*[11*    <]加藤武
*[12*    <]小林勝也
*[13*    <]寺田路恵
*[14*    <]外山誠二
 女優陣が絶品! 山本郁子という新しいヴァイオラ役者の誕生に立合った。写真で見ると地味な顔だが、椎名桜子のようなショート・ヘァにして颯爽と歩き回り、鋭角的な強気の後ろに女のかよわさが透けてみえる。男装した最初の登場で、侯爵の重い銃に頬ずりするのだが、あの演出は女優の本質を引出していて秀逸だ。柳の枝の台詞は突刺すような攻撃となり、ナルシスティックな美しさは出なかったが、侯爵に裏返しの愛の告白をする場面は切なく、狂おしく、ぞくぞくした。セバスチャンとの対面の場は感動。
 オリビアの平も素晴らしい。最初の登場で、喪服なのに、マルボーリオの目を盗んでアホウを真似て万歳をしてみたり、口を大きく開いてみたり、おきんゃなしぐさが天真爛漫なお姫様を一筆描きして、後の強引なシザーリオへの迫りかたを予告している。シザーリオとの場面では、女っぽさをこってりとふりまいて、一方的に振り回してしまう。思いこみの強い女をこんなにかわいく出来るなんて!
 マライアの寺田もうまい。小田島の洒落がこんなに決ったのは珍しいし、東北弁にすーっと移ってまた標準語に戻る台詞回しとか、もう自由自在。女橋爪といったところ。
 加藤武のマルボーリオは期待通り。「平家蟹」みないなしかめっつらしい顔で、キルトをはいて現れる。
 他の男優はなかなか調子が出なかったが、二幕になって、ようやく本調子。小林勝也のサー・トービーは暗さがあって、優れている。外山のフェステは道化というより、さすらいのギター弾きという感じに作ってあって、異和感があったが、まとめ役としてきちんと芝居を終わらせた(冒頭の難破船と最後の婚礼はカットして、フェステの弾き語りでまとめている)。侯爵の高瀬はどうということなし。
 舞台は白一色で、正面の白い壁の上の方に二つ正方形の口が開き、タラップが降りるようになっている。装置は白い中空の立方体二つだけ。立方体を閉じたり開いたりして、場面をかえる。凝った割りには毒にも薬にもなっていない。女優陣の力で見せる舞台だからだ。
 朝日の劇評で絶賛してあり、あわてて楽日に見にいった。当日もほぼ完売。プログラムは売切れ(休憩に追加が来たが、トイレにいっている間に売れてしまった)。十二夜論を書きたくなった。山本郁子にひまわり
*[01* 題 名<] 道遠からん
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] サンモール
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 岸田國士
*[06  上演日<] 1990-05-22
*[09* 出 演<]鵜山樹理
*[10*    <]金沢碧
*[11*    <]水野ゆふ
*[12*    <]稲垣愛
*[13*    <]本田次布
*[14*    <]林次樹
 岸田にこんなゲテモノ芝居があったとは。女が男より偉くなった時代の話で、男女同権のかまびすしかった1950年の作だという。未来という設定だが、リァリティを持たせるためだろうか、海女の漁村を舞台にしている。
 自分の稼ぎで男を養っている女たちが中心で、それに女校長、女助役、ぼけかかった女村長、女警官が登場する。もちろん、男たちは小さくなっている。海女のリーダーのイワ(初演では杉村春子!)の夫が詩人でインテリなので、初の男性村会議員にしようという話と、彼と女校長の不倫、海の女王コンクールの話がまぜこぜになっている。
 イワの鶉野は下町言葉で軽快に啖呵を切るが、女優陣は総じてオーバーな芝居と発声で、こっちまで肩が凝ってしまった。海のコンクールに代表を出すかどうかの議論は疲れる。金沢碧の校長は、牛乳底の眼鏡に、背を丸め、手を大きく振りながら、学者風に飄々としゃべっておもしろいが、やはり発声に無理がある。ただ一人、五人目の子供を妊娠していて、女たちから軽蔑されている妊婦の稲垣がニコニコしながら普通の喋りかたをして、異彩を放っていた。可愛らしさがうまく出ていて、あれはもうけ役だ。イワのライバルで、死ぬことになるリキの春風ひとみも悪くない。海の女王になる若いタケ(丹阿弥谷津子の役)は水野ゆふだが、これといって見せ場はない。
 元々の台詞が乱暴な男言葉でありながら、恐ろしく理屈っぽいので、仕方ないかなとも思うが、スピーカーの声の岸田今日子が格式張った言葉づかいを逆手に取って、滑稽味あふれる味わいを出しているのを考えると、もうすこしどうにかなったのではないかと思う。
 イワの夫の本田は例の調子で好演していた。
*[01* 題 名<] しらみとり夫人
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] Ankhスタジオ
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] ウィリアムズ,テネシー
*[06  上演日<] 1990-06-03
*[09* 出 演<]黒木里美
*[10*    <]菊岡薫
*[11*    <]原口健太郎
 もともとが一幕物で、道に迷って最後に10分しか見られなかったが、作家の原口健太郎がすばらしかった。家主に家を追い立てられる話らしく、典型的な絶叫芝居。
 ダブル・キャストで、王城美路が主演の回もあったようだ。残念!
*[01* 題 名<] バーサよりよろしく
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] Ankhスタジオ
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] ウィリアムズ,テネシー
*[06  上演日<] 1990-06-03
*[09* 出 演<]林香子
*[10*    <]田中幹子
*[11*    <]越前屋加代
*[12*    <]三村朋子
 病気で死にかけた娼婦が、娼館を追い立てられる話。やっかいばらいしたい女主人のゴールディは、一文なしになった彼女に、メンフィスで金物屋をやっている昔の恋人に手紙を書いたらどうかなどというが、その恋人はとうに結婚してしまい、彼女が娼婦になったという話も知れわたっている。しかし、熱で錯乱した彼女は、気のいい仲間の娼婦のリーナに手紙を口述してもらう。
 主演の林香子はつぶれかけたハスキーな発声で、根岸季衣を思わせる。全体にお嬢さんたちが赤毛ものの芝居をやっているという不自然さがないではないが、林のいい意味での絶叫芝居のおかげで、密度の高い一幕となった。ゴールディの田中のしゃらっとした冷たさもいい。しかし、娼館の頽廃感はもう一つ出ていない。
*[01* 題 名<] アリス
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] Ankhスタジオ
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] フィリップ,シャルル・ルイ
*[06  上演日<] 1990-06-03
*[09* 出 演<]南谷朝子
*[10*    <]黒木里美
*[11*    <]加藤早苗
*[12*    <]原口健太郎
*[13*    <]松戸健一
*[14*    <]竹内沢子
 フィリップの短編をそのまま舞台にのせたもので、語りと台詞の受渡しが洗練されている。俳優が舞台装置をならべて、そのまま舞台に残り、文庫本を広げながら、語りがはじまるなんていうわざとらしくなりかねない設定が、すごくうまくいっているのだ。
 しかし、それはそれとして、グロテスクな芝居だった。嫌悪感をいだかせるほど迫力があったという意味では、成功作に違いないが。
 主人公のアリスの南谷朝子は、かわいらしい格好をして、子供っぽいわがままな仕草をして見せるが、顔も雰囲気も完全に大人の女なのだ。もともと、新しく生まれた弟への嫉妬から、7歳の女の子が食事を拒否して自殺するという残酷童話めいた作品なのだが、それを一人前の女にやらせることで、自分を子供と思いこんだ狂女の話のようにも見えた。弟への憎悪を自覚した時の引きつった目は恐ろしく、自殺を決意して、徹底的に食事をこばみつづける部分の誇張した演出は十分滑稽なのに、ただただグロテスクである。
 アリスを取巻く人々の中に、甲高い変な声の女優が二人まじっていたが、顔もなんとなくグロテスクだ。
*[01* 題 名<] 帰宅
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] Ankhスタジオ
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] フィリップ,シャルル・ルイ
*[06  上演日<] 1990-06-03
*[09* 出 演<]黒木里美
*[10*    <]石塚智二
*[11*    <]松戸賢一
*[12*    <]越前屋加代
*[13*    <]菊岡薫
*[14*    <]三村朋子
 残酷童話的な「アリス」の後に、「父帰る」みたいな人情話が来たので、客席の雰囲気がゆるんだが、とてもいい芝居だった。型式は「アリス」と同じ語り中心による小説の舞台化だが、語りの黒木が二人の夫の間で引裂かれる妻をも兼ねる。
 男優二人が素晴らしい。蒸発していた元の夫の石塚もいいし、父親に捨てられた家族を養ってきた新しい夫の松戸もいい。松戸のバチスト・ロンデはすまなそうに家長の席に座るが、すでに家長の貫禄があり、彼のやさしそうな包容力が家族を包んでいることがわかって、石塚のラルマンジャは身の置きどころがなくなる。二人とも善意の人で、たがいに思いやるが、だからこそますます心理的ににっちもさっちもいかなくなってしまう。ぎこちない食事の場面は秀逸で、フィリップの地の文が語りとしてこんなにも決ってしまうのかと驚いた。
 大人たちの綱渡りのような心理劇を破綻寸前まで追詰める長女のアントワネットをやった越前屋加代がまたすばらしい。二人の妹は、本当の父をとうに忘れ、新しい父をそのまま受け入れているのだが、「愛の結晶」と父親から呼ばれていたアントワネットは、家にいられない父にむしゃぶりつき、帰らないでくれと懇願する。子供の破壊性を描いた点で、これも残酷童話なのだ。
*[01* 題 名<] しっぽを掴まれた夏
*[02* 劇 団<] 自転車キンクリート
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 鈴木裕美
*[05* 戯 曲<] 飯島早苗
*[06  上演日<] 1990-08-14
*[09* 出 演<]吉田紀之
*[10*    <]歌川雅子
*[11*    <]依田朋子
*[12*    <]徳井優
*[13*    <]吉利治美
*[14*    <]池田貴美子
 前回と同じ会社フォーク・ロアで、序幕がクリスマスの銀座、本編が夏休みの行楽地のスタッフ用宿舎、終幕がクリスマスに近い同じ銀座の街並み。
 前回と同じく、よく遊びよく働く普通の女の子たちの井戸端会議なのだが、ややこしい理屈を平明に語り、その上、ちゃんとドラマになっている。アングラ劇を見てきた人間にはカルチャーショックだ。
*[01* 題 名<] 夏の盛りの蝉のように
*[02* 劇 団<] 蝉の会
*[03* 場 所<] サンシャイン
*[04* 演 出<] 渡辺浩子
*[05* 戯 曲<] 吉永仁郎
*[06  上演日<] 1990-09-13
*[09* 出 演<]大滝秀治
*[10*    <]加藤剛
*[11*    <]高橋長英
*[12*    <]草野大悟
*[13*    <]白石珠江
*[14*    <]観世葉子
 惜しい! 男優陣がベスト・キャストで本当に素晴らしいのに、女優が、特におえいが力不足のため、舞台の柄が二回りも三回りも小さくなってしまった。石田えりがやっていたら、今年ベスト3の芝居になっていただろうに。
 主人公は北斎だが、侍意識を捨てられない華山と、反対に世のすね者になっていく歌川国芳、そして才能を持ちながら北斎の影に終始する娘のおえいの三人が前面に出ている。華山の加藤剛は格式にこだわりながらも、貧しい下級武士を演じて滑稽味を出して天下一品だし、国芳の高橋長英もおどけ者を演じながら、屈折した心で自虐する軽輩者を演じてみごとだ。狂言回しが北斎に精気を吸われてしまったという蹄斎北馬で、二幕になるとよろよろ足下もおぼつかない老人になって笑わせる。北斎の大滝ははまり役だが、ちょっとボルテージが弱い。
 国芳のモデルで、後に華山の世話になるおきょうの観世葉子はフワーッとした色気があって悪くないが、もう一つ華に欠ける。あれは川上麻衣子の役だと思う。問題はおえいの白石珠江で、技術的にはまとまっているものの、暗いというか、ひがみっぽさが顔に出ているというか、舞台の格を数段下げてしまった。「るつぼ」のアビゲイルをやった女優だが、恩人を陥れるヒステリー娘にはぴったりだったが、おえいの方は底に天性の明るさが必要だ。
 杉浦日向子の「百日紅」に触発されたのかと思ったら、こちらは十年も前に脚本が出来上がっていて、ベストのキャストを揃えるために時期を待っていたのだそうだ。華山に加藤剛をはめたのは大成功だが、おえいの石田えりが実現しなかったのは返す返すも残念。
*[01* 題 名<] ベルナルダ・アルバの家
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] エスペル,ヌリア
*[05* 戯 曲<] ロルカ
*[05* 翻 訳<] 吉田美枝
*[06  上演日<] 1990-09-16
*[09* 出 演<]乙羽信子
*[10*    <]渡辺美佐子
*[11*    <]篠倉伸子
*[12*    <]山乃廣美
*[13*    <]銀粉蝶
*[14*    <]大森暁美
 乙羽、渡辺、大森に杉山とく子を加えた平岩弓枝ドラマみたいなおばさん陣営に、若手のホープをぶつけた配役で外国人演出家のロルカをやろうというのが、いかにもセゾン的。
 これから八年間、父親の喪に服さなければならない女だけの一家に、亡父の遺産を自由に使えるようになった先夫の娘で長女のアングスティアスに、村一番の美男子のペペの求婚がある。若く美しい妹たちをさしおいて、二十五歳の夫に三十九歳の新婦とは、明らかに遺産狙いだ。この結婚話が、暴君的な母親の下で生きる娘たちの間に波紋を巻き起こし、悲劇をうむ。
 ベルナルダの乙羽信子、三十年仕えた女中の渡辺美佐子、下働きの大森暁美とうまいもので、何なく演じているが、小さくまとまってしまっているのではないか。
 若手の方が舞台を感じさせる。辛辣な次女の銀粉蝶、おおらかで優しい三女の西山水木、官能的で奔放な末娘の篠倉伸子と、どれも充実している。問題なのは、花嫁衣裳を着て「結婚したい、結婚したい」と叫び回る気のふれたベルナルダの母親役の磯村千花子で、ちょこまかした演技に高まりかけた緊張がガクッと弛んでしまう。せっかくのもうけ役なのにもったいないことだ。
 女だけの芝居なのに、女のムンムンした剛の深さを出すところまではいかなかった。結局はセゾンの芝居だ。
*[01* 題 名<] 小林一茶
*[02* 劇 団<] こまつ座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06  上演日<] 1990-09-18
*[09* 出 演<]清水明彦
*[10*    <]すまけい
*[11*    <]三田和代
 主演の北見が休演で、清水明彦という新人が主役をつとめたが、一茶の屈折をみごとに出していた。すまけいと三田和代のアンサンブルもすばらしく、腹にずしんとくる舞台だった。
 郷里での遺産相続のごたごたにはまったくふれず、江戸とその近辺に話をしぼった着眼はおもしろい。筆一本で世の中をわたっていく人間の業の深さと卑しさに焦点をあわせ、彼を一人の芸術家として描きだそうというわけだ。
 冒頭、懸賞句会の場面で、書家の師匠の金を盗られ、どうしても俳句で金を稼がなければならない一茶と、高邁な文学論を述べながら、小手先の技で小遣い稼ぎをする竹里を引きあわせるが、竹里は一茶の陰画として、最後までからんでくる。
 本篇はその三〇年後、俳人夏目成美こと蔵前の札差、井筒屋八郎右衛門の寮でもちあがった四八〇両盗難事件の時点に飛んで、推理劇(御吟味芝居)仕立てになる。
 留守居の一茶に嫌疑がかかるが、わけありの金らしく、井筒屋は訴えを出さないので、蔵前の自身番に町内の面々が集まり、芝居で一茶の心の内をさぐって、新米の同心に手柄を立てさせようというわけだ(最後にどんでん返しがある)。
 一茶は竹里の世話で油屋に奉公し、主人の姪のおよねをもらって、暖簾わけの話が出ている。ところが、竹里が二六庵の後継者になると知ると、初夜に忍んできたおよねを竹里にあてがい、代わりに自分が二六庵にはいりこんでしまう。遊俳となって、余技で俳句をひねるのではなく、乞食同然の業俳となることを選んだのだ。
 なんともあくどい展開だが、およねの三田に、俳諧のために自分を売った一茶を許す懐の深さがあるので、ぎりぎりのところで救われている。
 二六庵ブランドで諸国を行脚した後、江戸にもどってからは、大パトロンの夏目成美をめぐって、またもおよねがからんで、一茶と竹里のさや当てがはじまるが、竹里は自分が一茶に遠くおよばないのをわかっていて、嫉妬と見える行動も半ば一茶に対する励ましになっている。
 この芝居の一茶は最後まで男女の道を解さない男として描かれているが、年譜を見ると、結婚するのは夏目成美事件の四年後、五二歳のになってからだから、こういう見方も成立するかもしれない。
*[01* 題 名<] 眠れる森の美女
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] サンモール
*[04* 演 出<] 岸田良二
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1990-09-20
*[09* 出 演<]三谷昇
*[10*    <]岸田今日子
*[11*    <]中村伸郎
*[12*    <]福井裕子
*[13*    <]野口早苗
*[14*    <]伊東みな子
 満員の盛況。昨日の前売を買っていたが、締切で見られず、当日券にならんで、ようやくはいった。見てよかった。傑作だ。
 夜の病院に、男婚約者を見舞いに訪れるが、受付は安静時間だからといって中にいれてくれない。ここから別役ワールドがはじまって、オバサン患者が出てきて、あれこれ入れ知恵したり、車椅子の老院長(後で患者だったとわかる)があらわれて、彼を上半身裸にして、でたらめな診察をしたりして、迷宮にひきずりこんでいく。
 ベンチで毛布にくるまり、うとうとしていると、狩りの角笛が聞こえてくる。狐の死骸をかかえた女性患者があらわれ、彼に死骸を押しつけていく。
 彼は毛布の下に狐を隠すが、狩りから不首尾のままもどってきた本物の院長に見つけられてしまう。白いネグリジェの女性からあずかったと説明すると、彼女こそ、ずっと眠りつづけていた彼の婚約者だとわかる。
 そこで舞台が一転し、婚約者の病室になる。ベッドでは婚約者が眠っている。車椅子の老患者は国王、主人公は白馬の王子、病院は森に変わる。
 彼は周囲に強いられるまま、持参の花束を婚約者にささげるが、彼女は一瞬、目を覚まし、すぐに事切れてしまう。目が覚めれば、最後の血を流して死ぬことがわかっていたので、眠りつづけていたのだという説明は空虚感を広げるだけだ。
 中村伸郎は本当に老いた。老患者=国王の役だったが、口跡はしっかりしていても、存在感が前回に増してあの世的なのだ。カーテン・コールで、魔女のかっこうの岸田今日子に車椅子をおされてあらわれても、椅子から立てなかった。
*[01* 題 名<] ラヴ・レターズ
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] パルコ劇場
*[04* 演 出<] 青井陽治
*[05* 戯 曲<] ガーニーJr
*[05* 翻 訳<] 青井陽治
*[06  上演日<] 1990-09-23
*[09* 出 演<]細川俊之
*[10*    <]三田和代
 手紙だけで五十年にわたる男と女の人生を表現するという洒落た芝居だが、ちょっと期待はずれ。一回読み合せをするだけで、台詞も覚えず、本を朗読するという形はいいと思うが、三田和代の方が芝居っけを出しすぎていて、鼻白んだ。細川と三田では役がはまりすぎということもあったかもしれない。スノッブをからかう面はもっと出すべきだったと思う。
 開演10分前についたが、客席にははいれず、開演時間になってようやく客入れをはじめた。ぎりぎりまで稽古をしていたらしい。
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