演劇ファイル  Nov - Dec 1997

1997年 9月までの舞台へ
1998年 1月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] 病気
*[02* 劇 団<] シリーウォーク
*[03* 場 所<] 青山円形劇場
*[04* 演 出<] サンドロヴィッチ,ケラリーノ
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1997-10-25
*[09* 出 演<]小林克也
*[10*    <]今江冬子
*[11*    <]大倉孝二
*[12*    <]松尾貴史
*[13*    <]仁田原早苗
 客席は完全円形で、中央の空所には机、薬の置き台、天幕の下のベッドが距離をおいて配置。看護婦は机の前の椅子に。客席を囲んで、四隅には電信柱が立っている。
 今、評判のケラリーノ・サンドロヴィッチの演出だけに、興味津々で見にいったが、冒頭の看護婦と男(小林克也)のやり取りは意外にオーソドックス。小林克也のパーソナリティの出し方が、従来の別役劇よりは濃いかなと思っていると、病人志願の男(大倉孝二)の出現で、舞台がスピードアップする。
 ナイロン100゜Cの生えぬきの役者だそうだが、天然ボケの容貌といい、痛みを訴える表情といい、存在自体が滑稽なのだ。新劇の劇団には絶対いないタイプ。中年男から奪ったつんつるてんの背広で、舞台を駆け抜ける姿には唖然。
 次に自転車で登場する松尾貴史の医者もすごい。仏頂面で、権力的なのだが、天性の明るさは隠しようもなく、切れた医者にリァリティがある。こういう妙に明るくて狂った医者は、いかにもいそうで怖い。
 小林の中年男と今江の看護婦も、むさ苦しい体臭を発散してきて、プラスチックのようにつるつるした従来の別役劇とはずいぶん違ったものになってくる。
 惜しむらくは、松尾の医者が登場して間もなく、天幕をはっていたポールの一本が倒れそうになったこと。天幕の一方が垂れ下がったままでつづけたが、血圧をはかる場面で、松尾がアドリブで今江に天幕をなおすように支持したが、くり出し式のポールを直すのに手間取り、芝居が失速しかける。
 もう一つ、最後に出てくる警官がろくに台詞の喋れない新人だったこと。この二点がなければ、最高の舞台だったのだが。
*[01* 題 名<] 王女イヴォナ
*[02* 劇 団<] シアターX
*[03* 場 所<] シアターX
*[04* 演 出<] ペシェク,ヤン
*[05* 戯 曲<] ゴンブロヴィッチ
*[05* 翻 訳<] 関口時正
*[06  上演日<] 1997-10-29
*[09* 出 演<]北川さおり
*[10*    <]渕野直幸
*[11*    <]大高健二
*[12*    <]北村魚
*[13*    <]天祭揚子
*[14*    <]宮川雅彦
 客席はがらがらで、木冬社の黒木里美とか、どこかで見たような人が多く、演劇互助会の状態だった。東京外語大ポーランド語科という感じの学生もいた。全体にお勉強の雰囲気だったが、出来はすばらしかった。
 道化師の群のように役者たちが飛びはねて登場してくる最初の場面から、ぞくぞくしてくる。「トゥーランドット姫」でできなかった軽やかなマイム芸が、役者によって出来不出来はあるものの、かなりのレベルで達成されているのだ。貼りついたような笑顔を心持ち右か左にかたむけたり、並んで立つ姿がかすかに同じ方向にまがっていたりと、斜めの線が隠し味になっている。ポーランド前衛演劇が日本人のものになっていると言ってもいいだろう。
 宮廷生活に反発をおぼえている王子が、ブスで一言も口を聞かず、母や姉からももてあまされているイヴォナと結婚を決めるが、あいかわらず彼女はほとんど口をきかないので、王や王妃、侍従長など周りの人間がみんな不安定になり、攻撃性を刺激されて、彼女を殺そうとするという展開。王子もイヴォナ殺しに加担し、ついに彼女はフナのサワークリーム煮を喉につまらせて、死んでしまう。
 遊戯風ながら、一直線に加速して進行していく展開は、不条理劇として第一級だ。王子の渕野直幸の朗々とした口跡、王の大高健二のふわふわした存在感、美女の天祭揚子のあでやかさと、役者もよかったが、ヒロインのイヴォナの北川さおりは、周囲を振りまわすような存在感にとぼしかった。
 よい芝居なのだが、どうしもお勉強という印象がぬぐえない。マイム芸がクリアできなかった「トゥーランドット姫」は感動したのだが、こっちは感動までいかなかった。
*[01* 題 名<] 会議
*[02* 劇 団<] ウクレレプロデュース
*[03* 場 所<] 青山円形劇場
*[04* 演 出<] 宮沢章夫
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1997-11-07
*[09* 出 演<]きたろう
*[10*    <]宮川賢
*[11*    <]原金太郎
*[12*    <]伊沢磨紀
*[13*    <]池津祥子
*[14*    <]戸田昌宏
 テーブルを運んでくるコントと、エレベーターを待つコントが最初にある。別役っぽいが、小出しのギャグや滑稽な仕草がごちゃごちゃついていて、別役らしくない。はたしてこれは額縁で、きたろうが「別役実、「会議」」と宣言してから、電柱(大きな受話器つき)が二本、客席の外側に下がってきて、本編がはじまる。
 テンポがガラッとかわり、台詞の間に緊張感がみなぎる。テーブルを運ぶ運送会社のリーダーの口調からして、不機嫌なぴりぴりしたものにかわる。きたろうは安っぽいスーツに着替えて再登場。
 空地にテーブルと椅子を運びこみ、人が来るのを待ち受けているのはいつものとおりだが、この芝居は日本人の会議本能をさぐる実験をする云々と説明がはいる。別役の自己解説かと妙な気分になる。
 隠しマイクと望遠カメラでこっそり観察するはずが、作業員がダンヒルのライターをなくしたために、ライター探しが議題になって、会議らしきものがはじまってしまう。
 ダンヒルと言うたびに、ジャジャーンと音楽が鳴り響く。おやおやと思ったが、芝居はしっかりしていて、あの池津祥子に絶叫芝居ではない抑制した芝居ができるというのは発見。伊沢磨紀の控え目な奥様もさまになっている。きたろうも演技過剰にならずに、手堅い。ところどころに飾りがつくが、別役劇になっている。
 頭に包帯を巻いて、ペロペロキャンデーをなめているサラリーマンが、点景人物のように、目立たずに座っているが、実はこの男が台風の目になって、きたろうの実験をとんでもないところに引っぱっていく。唖然、また唖然の展開。被害妄想なのか、悪意なのか、男の強弁に巻きこまれて、殺人の黙認から、死体片づけまで手を貸してしまう。不気味なリァリティに戦慄。別役の最高の一篇ではないか。
 包帯の男を麻原彰晃っぽくするとか、いくらでも解釈は可能だろうが、普通っぽいサラリーマンとして登場させたのは正解だ。普通っぽいからこそ、恐ろしい。
 残念なのは、別役劇が終わったあとに、また額縁のつづきがつくこと。ショックをあたえたまま客を帰してはいけないというポリシーなのかもしれないが、不気味な余韻が薄れてしまった。
 カーテンコールが終わって退場する時、きたろうは居眠りしていた最前列のデブ女に慇懃無礼な礼をていた。またビデオ録りの日にあたってしまったが、あのデブ女も映るのだろうか。
*[01* 題 名<] 署名人
*[02* 劇 団<] 日本劇団協議会
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 大鷹明良
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06  上演日<] 1997-11-10
*[09* 出 演<]福井貴一
*[10*    <]片岡弘貴
*[11*    <]みのすけ
 文化庁主催の「戦後一幕物傑作選」での上演だが、無残。T.P.T.のレベルに達していない。
 装置はよかった。幕のない舞台に、高い天井の寒々とした牢獄が作ってある。正面に入り口があいているが、上半分はレンガでふさがれ、下半分には鉄格子がはいっている。
 出だしもよかった。暗転し、フラッシュのように閃光がひらめき、二人の囚人が浮かびあがる。もう一度、閃光がひらめき、入り口から一人の囚人が放りこまれる。
 藩閥政府の要人暗殺で入獄している二人の国事犯は迫力があったが、肝腎の署名人のみのすけがひどい。セリフが学芸会レベルで、「……ですぜ」という語尾がわざとらしい。演技のフットワークもにぶい。道化になりきれていない。
 みのすけの問題というより、演出の問題だと思う。ノンポリの卑劣漢というか、弱者の視点から、理想のために殺人も辞さない思想犯を相対化し、からかわなければならないのに、弱者の立脚点がはっきりしないのだ。いきおい、セリフがうわすべりしている。ムードだけの演出の限界だろう。
*[01* 題 名<] マッチ売りの少女
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] クローリー,ジョン
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1997-11-10
*[09* 出 演<]久世星佳
*[10*    <]花王おさむ
*[11*    <]田岡美也子
*[12*    <]石橋祐
 文化庁主催の「戦後一幕物傑作選」での上演。
 すばらしい! 一幕もの二本立ての後半で、最初の「署名人」は偏頭痛がおこりかけるほどつまらなかったが、こちらは今年のベスト3にはいる出来だ。これでこそ、T.P.T.だ。
 幕のない舞台なのに、「署名人」の牢獄からどう装置を転換するのかと思ったら、高い天井がグググッと下がってきて、正面の入り口を鉄格子から木の扉につけかえ、大きなダイニングテーブルと椅子をはこんでくるだけで、老夫婦がつつましく暮らす家の居間に一変した。磯沼陽子という舞台美術家の名前はおぼえておこう。
 老夫婦が登場し、ジャムの瓶や皿をならべて、夜の紅茶の準備をはじめると、天井の上の空間に豆電球の星空が灯り、あどけない少女の声で「マッチ売りの少女」が朗読される。
 花王おさむと田岡美也子のハイカラな老夫婦の不条理なやりとりもいい味を出していたが、久世星佳が登場すると、俄然、別役ワールドの色彩が濃くなる。
 市役所から来たというだけで、ほとんど喋らない彼女に、老夫婦は応対に困り、いろいろ話しかけるが、彼女は大きな目を見はったり、にらんだり、すがめたり、謎めかして視線をさまよわせたりするだけ。久世は宝塚の男役でトップをはっていたそうだが、目の表情ひとつで老夫婦を支配してしまう存在感はすごい。男役のオーラを謎めいた雰囲気に活かした演出家(アイルランド人!)も立派。久世は麻美れいや鳳蘭クラスの舞台女優になるだろう。
 女はやっと、二十年前、マッチ売りの少女をしていたことを思いだしたと語りだす。マッチが燃えている間、スカートをたくし上げて、男の客に局部を見せるということらしいが、「あんなこと」とぼかした言い方をし、「七歳の子供に思いつけることではない」と思いつめた口調で語るので、「あんなこと」の内容が何倍にもふくらんでいき、老夫婦の夫の方が少女の客だったのではないか、いや、少女にそういうアルバイトを教えたのは夫ではないかとか、舞台の上の老夫婦も、観客も、蟻地獄のように疑いの中に引きこまれていく。
 この疑いは、女が自分はあなたたちの娘だと言いだすことで、一旦はゆるむが、娘だと執拗に言いはる女の妄想にまた引きこまれていって、本当は二十年前に死んだという老夫婦の娘は彼女なのではないかという気分になる。
 だが、この疑いはもう一度水をさされる。女の弟と称する男があらわれるからだ。女はシックなコートに真紅のワンピースという身なりをしているが、「弟」は荷物をいくつも下げ、汚れたコートを脱ぐと、よれよれのズボンに、Tシャツをだらしなくはだけている上に、二人の子供が寒い外でこごえて待っているという。
 どう見ても、浮浪者が老夫婦の人のよさにつけこんで、家に入りこもうとしている図なのだが、「あなたたちを責めているわけではない」と言いながら、老夫婦の罪悪感をえぐるように訴えつづける彼の言い分を聞いているうちに、本当に二人は老夫婦の子供なのではないか、老夫婦の方がうそをついているのではないかという気分になってくる。飛んでもないところまで連れてこられたのだが、これが別役マジックだ。
 「会議」の弱者の支配力というか、被害者の暴力の恐ろしさというテーマは、この作品ですでに出ていたわけだ。
 1966年初演の時点で、20年前といえば焼け跡闇市時代になるが、今回の上演では、人間一般のもつ過去の後めたさに昇華されている。日本の戦後史から離れて無国籍化したものの、これはこれで正解だと思う。
*[01* 題 名<] エレクトラ
*[02* 劇 団<] ク・ナウカ
*[03* 場 所<] ニッシン物流・品川倉庫
*[04* 演 出<] 宮城聰
*[05* 戯 曲<] ホフマンスタール
*[05*    <] アイスキュロス
*[05*    <] ソフォクレス
*[06  上演日<] 1997-11-19
*[09* 出 演<]美加里
*[10*    <]川相真紀子
*[11*    <]荒井万里
*[12*    <]大高浩一
*[13*    <]ヴァキエ,ジェローム
*[14*    <]阿部一徳
 いつもとんでもないところでやるが、今回は品川の倉庫。浜松町でモノレールに乗るところから、非日常がはじまる。天王洲で降りて、近未来風の二階通路を延々歩いて、JALビルを降りると、夜なのにあちこちを掘りかえしている倉庫街。トラックがビュンビュン走っている。真っ黒な水が足下でうねっている夜の橋を徒歩で歩くのもドキドキする。普通の街路とちがって、いくら歩いても、なかなか距離が縮まらない。
 目当ての倉庫にたどり着くと、右半分では作業員が積みこみをやっているではないか。受付の横には、どこかのオフィスの廃品らしい椅子がずらっとならんで、待ちあわせの人が座っている。会場は四階だが、エレベーターは積載量三トンの黄色い業務用。上から二段になった扉がガーッと降りてくる。意外に乗り心地よく、ほとんど揺れずに、あっという間に四階につく(普通のビルなら八階の高さ)。
 薄暗い中、ブチブチのエアパッキンが間仕切りに張ってある。床は油が塗ってあるらしく、足元があぶない。倉庫の仕事をしている人はあきれるだろうが、ここまででもう十分、演劇気分を堪能する。
*[01* 題 名<] 礼服
*[02* 劇 団<] 青年座
*[03* 場 所<] 東京芸術劇場小ホール1
*[04* 演 出<] 鈴木完一郎
*[05* 戯 曲<] 秋元松代
*[06  上演日<] 1997-11-26
*[09* 出 演<]山野史人
*[10*    <]中上恵一
*[11*    <]伊東景衣子
*[12*    <]魏涼子
*[13*    <]鈴木光枝
*[14*    <]森塚敏
 文化庁主催の「戦後一幕物傑作選」での上演。水谷内助義プロデュースで、青年座の役者を中心に配役。
 評判がいいので、最終日、当日券ではいったが、見てよかった。腹にこたえる喜劇。秋元松代は二作目にして、これだけの傑作を書いていたのか!
 舞台には旧家の居間が作ってあって、右手に医者と看護婦がつきそうベッド。呆然と立ちつくす家族の前で、医者は母親の臨終を告げる。肺炎で二日伏せっただけで逝ってしまったという。末娘(魏)が泣きだし、長兄(山野)は怒鳴るように指示をあたえる。長男の妻にあたる女性は見えず、上の娘(伊東)とその配偶者(戸井田稔)らしいおどおどした男がいる。飄々とした老人は伯父(森塚)だそうで、外が雨とわかると俳句をひねり出し、長男がまた怒りだす。
 やがて、この席にいない次男(中上)の話になる。闇屋のようなことをしているらしく、連絡がつかず、長男は妹の夫を怒鳴りつけて、探しにいかせる。長男は県庁の役人らしく、妹の夫は頭が上がらないらしい。
 そこにハンチングの次男がはいってくる。長男は母親に闇屋の店番をさせたとか、女の尻ぬぐいをさせたとか、さんざんになじり出す。さんざんにやっつけられた次男は切れて、母親がいかに長男に気兼ねしていたかをあげて逆襲する。
 母親にがんじがらめにされていたと訴え、アダルト・チルドレンぶりを露呈する長男が心臓の発作を起こして長椅子に寝かされ、騒動はおさまったかに見えたが、今度は姉と妹の間で言い争いがはじまり、母親の隠された顔がさらに明らかになっていく。
 シビアなやりとりだが、突きはなした喜劇になっているのがすごい。初演は1949年で、舞台設定も終戦数年後だが、アダルト・チルドレンという認識をちゃんと持っていたのだ。ついには、伯父まで、父の死後、母親と愛しあっていたと告白して、爆笑。隣室から登場する惚けた祖母の鈴木光枝も笑いを誘う。
 しらじらと夜が明け、脱力感におちいった家族の姿で一場が終わるが、ここで終わっても満足しただろう。二幕は同じ居間だが、ベッドは片づけられ、壁には白黒の幔幕がはってある。廊下を葬儀であわただしく人が行き来する。
 三年前に離婚して家を出た長男の元妻(竹村叔子)が、なんとか元のさやにおさまるために、長男をまるめこもうとするが、このやりとりは絶妙。母親そっくりに口調になっている元妻に、長男はまた発作を起こし、すべてを捨てると言いだす。
 しかし、県庁の局長(後藤陽吉)が挨拶に来ると、長男は一族を代表して挨拶し、弟や妹たちも仲のよい家族としてふるまう。ぼけた祖母が出てくると、元妻は三年間、転地していたことにして、妻としての立場をちゃっかりとりもどす。
 礼服の力だが、赤裸々な姿だけでなく、礼服の姿も真実の姿だという認識がこの芝居を奥の深いものにしている。
*[01* 題 名<] わが町
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] 鴨下信一
*[05* 戯 曲<] ワイルダー,ソーントン
*[05* 翻 訳<] 額田やえ子
*[06  上演日<] 1997-12-10
*[09* 出 演<]山口崇
*[10*    <]田中美里
*[11*    <]佐野瑞樹
*[12*    <]順みつき
*[13*    <]麻丘めぐみ
*[14*    <]荻島真一
 飾り棚のようなセットに、アメリカの住宅のミニチュアが飾ってあり、豆電球が灯る。正面の棚は教会のミニチュアで、下は役者の出入りする通路。高さ三メートルくらいのところを、汽車のミニチュアが煙りを出して走る。右手袖にはピアノと電子オルガン。
 山口崇が狂言回しの「舞台監督」で、なかなかいいのだが、舞台自体はぱっとしない。席が前から二列目だったので、順みつきの衰えた肌と厚化粧がいやおうなく見えてしまう。麻丘めぐみも老けた。
 ノスタルジーを誘う舞台装置だが、シニカルな演出で、死を強調している感じがする。あるいは山口崇の力か。
 田中美里は娘娘した甘酸っぱい口調で喋る。最初はいいと思ったが、ずっと同じ調子。ゴーストになってからも。
 むすっとした酒飲みのオルガン弾きで自殺する冷泉公裕と、愛敬のある巡査の三田村週三が印象的。
*[01* 題 名<] フランケンシュタイン
*[02* 劇 団<] ナイロン100℃
*[03* 場 所<] スペース・ゼロ
*[04* 演 出<] サンドロヴィッチ,ケラリーノ
*[05* 戯 曲<] サンドロヴィッチ,ケラリーノ他
*[06  上演日<] 1997-12-15
*[09* 出 演<]三宅弘城
*[10*    <]大倉孝二
*[11*    <]犬山犬子
*[12*    <]みのすけ
*[13*    <]今江冬子
*[14*    <]松永玲子
 はじめてスペース・ゼロへいくが、全労会館とは思えないポストモダンな造り。設備もよく、客席も広々としている。
 一幕二時間、二幕一時間とあったので、寝不足つづきなのに最後まで持つか心配だったが、最初の不条理な裁判のシーンから傑作の手ごたえがあって、あっという間に三時間がたってしまった。
 つかこうへいを境に、小劇場シーンは骨無し芝居に突入し、この作品も骨無しの系譜だが、オーソドックスな演劇をもとめる人間を納得させるだけのものがある。
 メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」の筋を借りているということもあるが、大倉孝二のクリーチャーと、みのすけの殺人鬼マンドレイクという二人の対照的な異人を両極とした構造が確固としてあるからだ。
 クリーチャーの前身は、マンドレイクの罪を不条理にもかぶらされて死刑になった仕立屋モリーだが、フランケンシュタイン博士の手で蘇生されてからも、マンドレイクの罪をかぶらされる。
 マンドレイクは内に闇をかかえた男だが、世間の人は異人と認めてくれない。自分が殺したと言い張っても、無視されてしまい、クリーチャーを嫉妬するようになる。
 クリーチャーの方は世間の仲間に入り、みんなと同じように「メリークリスマス!」と言いたいのだが、言語不明瞭で誤解を生み、「あの怪しい外国人が犯人だ!」と追われる身になる(このシーンもすごい)。
 この二人は、役者の資質としても異人で、一目でわかる。逆にいうと、他の役者は、小劇場系としては異常に達者だということもあるが、別の役で出てくると誰が誰か、なかなかわからない。
 最初の裁判のシーンはとにかくすごい。仕立屋モリーは無罪を言い立てるが、裁判官も傍聴人も、無罪を承知の上で、彼を死刑にしようとする。理由は、家族がないから。真犯人のマンドレークは家族を持っているから、社会の一員であり、家族をすべてペストで失ったモリーが罪をかぶるべきだというのだ。
 途中から小学校時代の回想がはいり、エリザベスがフランケンシュタインへのあてつけに結婚を考えるクレルヴァルが、キャロライン先生を下ネタでからかおうとして、逆襲にあい、そのトラウマから下ネタ強迫症になったという因縁話がはいる。フランケンシュタインも、キャロライン先生のクラスだったと思いこんでいるが、同級生たちはみんな知らないという。実はフランケンシュタインは十七歳の時にジャスティンの掘った落とし穴で死んでおり、同じ時期に死んだクラスメートの脳を移植して蘇生したのだと最後でわかる。
 クリスマスが一つのテーマになっているが、娼婦の母親が家に帰ると、二人の子供が彼女の股間に向かって柏手を打ち、「お母さんのマンコ、ありがとう」と声をそろえ、彼女の方も「明日から、母さんのマンコがんばるからね」と答える。娼婦のところにはサンタがやってこないと子供たちが嘆くが、クリーチャーの二代目サンタが贈り物をとどけにきて、テーブルの上に乗せて蓋をとると、二瓶鮫一のサンタの生首が出てきて、彼女に向かって愛の告白をする。
 こういうぶっ飛んだ展開にはただただ脱帽。
*[01* 題 名<] マンザナ、わが町
*[02* 劇 団<] こまつ座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 鶉山仁
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06  上演日<] 1997-12-17
*[09* 出 演<]川口敦子
*[10*    <]神保共子
*[11*    <]松金よね子
*[12*    <]西尾まり
*[13*    <]一柳みる
 冗漫。三時間の芝居だが、二時間で十分だ。
 マンザナの日系人強制収容所の第一陣の中から、五人の女性が演劇班に指名される。五人が出会った正午から、翌日の正午までの24時間の話で、夜をはさんでいるものの、三一致の法則にかなっている。
 帰米二世で、父親の邦字新聞を手伝っていたソフィア岡崎、果樹園労働者だった夫と死別後、浪曲師に転じたオトメ天津、ホテルの前座歌手だったリリアン竹内、ハリウッドのゲイシャ専門女優だったジョイス立花という、それぞれに日本人差別の中で頑張ってきた女性たちが、収容所の中で国家を考える。
 五人は所長からわたされた「マンザナ、わが町」という台本を収容者の前で演じることになっているが、「ここは強制収容所ではありません」式の見えすいたプロパガンダの連続に、あまり気乗りがしない。
 一幕、二幕とも三場構成で、一幕の最後にサチコ斎藤の謎が出てくるが、休憩後、あっさり謎解きがされ、彼女は国務省の命令で日本人調査に潜入したバークレーの中国人人類学者だとわかる。
 第五場では、大統領への抗議文(アメリカはナチと同じだと指摘)が問題になり、政治犯の収容所に移送されることになったソフィア岡崎を守るために、サチコことチャイリンもふくめて、四人が力を合わせる。
 五人はそれぞれ魅力的に造形されているが、背景説明が生な形ではいっているので、冗漫な印象をいっそう強めた。
*[01* 題 名<] 常陸坊海尊
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 世田谷パブリック
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[04*    <] 釜招人
*[05* 戯 曲<] 秋元松代
*[06  上演日<] 1997-12-22
*[09* 出 演<]白石加代子
*[10*    <]寺島しのぶ
*[11*    <]東野英心
*[12*    <]大沢健
*[13*    <]松田洋治
*[14*    <]麿赤兒
 現在考えられる最高のキャストだ。おばばは白石加代子以外考えられないし、雪乃の寺島しのぶは白石に一歩も引けを取らない存在感を示した。山伏の東野英心、疎開児童をあずかる寿屋の山谷初男、ぼやいてばかりの教師の大石継太、第一の海尊のパトスを感じさせる麿赤兒、第三の海尊の苦みばしった三谷昇、かわいらしい虎御前の春川ますみ、少将の山下裕子……。一場面の出演でも印象的な役者がそろっている。よく集めたものだ。
 しかし、舞台の印象は今一つだ。つまらなかったわけではない。もっとおもしろくなったはずなのに、八割の出来で終わった感が否めないのだ。
 みんな熱演だが、最初から最後まで全力投球で、息がつけずに平板におちいった。蜷川が倒れ、共同演出になったせいかもしれない。緩急のリズムは一人が仕切らなければ難しかろう。
 この舞台の一番の収穫は寺島しのぶだ。風車といっしょに登場する最初の場面から、少女の驕慢さをほしいままにする一幕、妖艶な美女として再来する二幕と、目が離せない。巫女姿がこんなに似合う女優はいない。
*[01* 題 名<] 燈臺
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] ルヴォー,デヴィッド
*[05* 戯 曲<] 三島由紀夫
*[06  上演日<] 1997-12-26
*[09* 出 演<]佐藤オリエ
*[10*    <]堤真一
*[11*    <]中島朋子
*[12*    <]真名古敬二
*[13*    <]小林あや
 一年の終りにふさわしいすばらしい舞台。
 冒頭の堤真一と中島朋子の芝居はちょっと苦しかった。中島朋子(正子)が堤真一(昇)に位負けしているのだ。小空間に慣れていないということもあるだろうが、おどおどしているように見えた。兄の昇は海軍帰りで、大学に復学しているということからすると、戦後の焼け跡闇市時代の話なのだろうが、優雅に一家で大島のホテルに遊びに来ているという。時代設定とちぐはぐな感じがした。
 佐藤オリエ(いさ子)の登場でようやく芝居が動きだす。さらに、なさぬ仲の母と息子の二人だけの場面になると、佐藤オリエは御大家の奥様然とした見かけをふりすて、言葉のナイフで血で血を洗う鬼気迫るやりとりをくりひろげる。これぞT.P.T.。
 だが、本当にすごいのはこれからだった。父親(祐吉)役の真名古敬二の登場で、密室的な重苦しさがふわっと受けとめられ、緊張を維持したまま、芝居が開けた場所に着地したのだ。昭和24年という時代が見えてきたといってもいい。
 真名古敬二の父親はまさにブルジョワという雰囲気で、あの闊達で豪放な気性なら、戦中・戦後の混乱期をたくましく生き抜いて当然と思える。
 24才でこういう芝居を書いた三島は天才だが、真名古敬二もすごい。あの明るさは新劇系とは思えなかったが、パンフによるとオンシアター自由劇場の中心的メンバーだったそうだ。なるほどと思う。
Copyright 1997 Kato Koiti
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演劇1997年1
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