演劇ファイル  Jun - Dec 1999

1999年5月までの舞台へ
2000年1月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] 大司教の天井
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 米倉斉加年
*[05* 戯 曲<] ミラー,アーサー
*[05* 翻 訳<] 倉橋健
*[06  上演日<] 1999-06-11
*[09* 出 演<]里居正美
*[10*    <]水原英子
*[11*    <]米倉斉加年
*[12*    <]新田昌玄
*[13*    <]斉藤彩子
 天井ドームに天使の群の彫刻がほのかな明かりで浮かびあがるところからはじまる。照明がつくと、元司教館だった豪壮な居室にマーヤとエイドリアンが談笑しながらはいってくる。エイドリアンはアメリカ作家で、マーヤはこの館の主の文学官僚、マルカスの愛人で、今はラジオのキャスターをやっている。二人は旧知の間柄で、知識人どうしの恋愛遊戯めいたやりとりが東欧の文化の厚みをうかがわせ、酔わせる。
 エイドリアンはマーヤとマルカスをモデルに小説を書いていることが明らかになってくるが、反体制作家ジーグムントと空港で出会い、密かに書きすすめた原稿が完成したと聞いたと話すとマーヤの応対がぎこちなくなる。エイドリアンが帰ろうとすると、送りに出た彼女は玄関で、あの部屋には盗聴器がしかけられているかもしれない、ジーグムントの原稿を守るために、部屋にもどり、否定してほしいと打ちあける。
 繊細でこくのある恋愛遊戯がにわかに緊張し、そこにマルカスがイリーナというデンマーク娘をつれてもどり、さらに当のジーグムントがあらわれる。
 いよいよドラマが本格的に盛りあがるはずなのだが、ここからがいけない。せっかく醸成されたこくのある雰囲気が、雑な対話で水がさされてしまうのだ。
 特に米倉のマルカスがよろしくない。一本調子に台詞を歌いあげるだけで、デリカシーのかけらもない。ジーグムントの反体制作家は、ソルジェニーツィンをモデルにしているのだろうが、民藝の悪いところが出て、平板な理想主義者で終始した。亡命をすすめるエイドリアンも頭の悪いアメリカ作家の地が出た感じ。
 すっとんきょうなカタコトで喋るイリーナはうまく活かせばおもしろくなったのだろうが、これでは雑音にすぎない。
 ミラーがチェコスロバキア旅行をきっかけに書いた戯曲だそうで、1977年の初演。最後のところで、日本を代表する作家として、Kobo Abeの名前が出てくる。
*[01* 題 名<] 猫町
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] 紀伊国屋
*[04* 演 出<] 國峰眞
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1999-07-05
*[09* 出 演<]岸田今日子
*[10*    <]南美江
*[11*    <]高木均
*[12*    <]三谷昇
*[13*    <]中條佐栄子
*[14*    <]有田麻里
*[15*    <]佐々木敏
*[16*    <]石田登星
 別役の芝居は道で行き会っただけの他人どうしが会話をかわすところからはじまる。「もしもし、どうしたんですか」「それはあれですよ」「ああ、あれですか」という具合だ。
 だが、見も知らぬ他人どうしが会話をはじめるなんていうことは、日常生活ではめったにない。最初のとっかかりの話しかけを拒んだら、別役の芝居はなりたつのだろうかと考えたことが一再ならずある。
 今回の「猫町」はそれをやった。岸田の奥様(岸田)が女中を連れ、温泉に静養にいくはずが、間違った駅で降りてしまい、どこともしれぬ町に迷いこむという発端はいつもの通りだし、リヤカーを引っぱったわけのわからない男(三谷)が出てきて話しかけるのも常套だが、奥様は男の話しかけをはねつけ、会話がはじまらないのである(!)。
 これはどうなるのだろうと、少なからず興奮した。期待は裏切られなかった。バス停を探して町を一回りしてもどってくると、医院だった家は食堂に変わっていて、老医師(高木)はコックの姿であらわれる。人物は微妙にずれていて、巡査のいうこともちょっとおかしい。結局、温泉行きのバスをのがしてしまい、ここの宿屋を紹介される。
 二幕は宿屋だが、昼間出会った人々がホテルの家族としてあらわれ、女中がいつの間にかホテルの使用人になり、奥様は帳場に立って、ホテルの女主人になっている。劇が進行するにつれ、人物と役割はどんどんずれてゆき、迷宮構造がどんどん深まっていく。子供を亡くした奥様の過去があぶりだされてくる。足元が崩れ、奈落に吸いこまれていくような感覚に襲われた。別役は新境地を開いた。
 翌朝、町は元にもどり、奥様と女中はバスで何ごともなかったかのように温泉に向かう。あまりにも平穏な日常がもどっただけに、余韻は深い。
 「山猫理髪店」でやろうとしたのはこういうことだったのかと納得した。還暦を過ぎて、まったく新しい冒険を挑んだだけでもすごいが、別役はその上に最高傑作といってよい成果をあげた。次の作品が待たれる。
*[01* 題 名<] レ・ミゼラブル
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] 帝劇
*[04* 演 出<] ケアード,ジョン
*[04*    <] ナン,トレバー
*[05* 翻 訳<] 岩谷時子
*[06  上演日<] 1999-08-05
*[09* 出 演<]滝田栄
*[10*    <]村井国夫
*[11*    <]岩崎宏美
*[12*    <]純名里紗
*[13*    <]島田歌穂
*[14*    <]戸井勝海
 94年以来だから、五年ぶりの『レ・ミゼラブル』だ。五回目か六回目だと思うが、見れば見るほどよく出来た舞台で、原作のエッセンスを三時間に圧縮している。リーアム・ニーソン主演の映画版はこの舞台の影響をうけている風だが、舞台の方がはるかにいい。
 今回は岩崎宏美が復帰し、ラストの島田歌穂との二重唱がまた聞けるので、二人が共演する日を選んで見に行った。
 岩崎宏美は期待はずれだった。声の衰えは否みがたく、「夢破れて」を凜々しく歌いあげた初演の面影はない。それでも臨終の場面はよかった。声の衰えを演技力でおぎなったという印象があるが。
 テナルディエの山形ユキオとコゼットの子役がさえないこともあって、前半は低調だったが、後半はすばらしかった。パリ以降は今まで見たうちで、最高の出来ではないか。
 コゼットの純名里紗とマリウスの戸井勝海がいいのだ。初演の斉藤由貴と野口五郎は論外としても、この二つの役はあまり役者に恵まれず、二人の見せ場はこれといって印象に残っていなかったが、今回は違う。
 純名里紗のコゼットは最初の独唱から水際だっていた。清純無垢なコゼットは前にもいたが、純名里紗のコゼットはちょっと違う。コゼットは今はジャン・バルジャンに守られて、なに不自由ないお嬢様の暮らしをしているが、物心つく頃はテナルディエの宿屋でこき使われ、パリに出てからは母を知らぬまま修道院で育てられた。純名の深い声には寂しさが底流していて、コゼットの過去を感じさせずにおかない。
 純名里紗は宝塚くずれのアイドルだと思っていたが、歌も演技も実力派ではないか。宮本裕子のコゼットを聞き逃したのでためらいがあるが、多分、純名は最高のコゼット役者だと思う。マリウスとエポニーヌとの三重唱もはじめて本当のすばらしさを堪能した。
 マリウスの戸井は地味な印象だが、今までで一番よかった。バリケードで死んだ友を傷んで歌う「乾杯の歌」は聞きごたえがある。
 エポニーヌの島田は肩から力が抜けた感じで、アンサンブルに完全に溶けこんでいる。淡雪のように消えいるような歌声は何度聞いても心を揺さぶられる。
 アンジョルラスの岡幸二郎は94年にも見ているが、さらにかっこよくなっている。
 村井国夫のジャベールははまり役だ。これだけ憎々しいと、滝田のジャン・バルジャンが映える。総じて暗い印象だが、89年の時も暗いと書いていた。もともと、明るい芝居ではないが。
*[01* 題 名<] tatsuya
*[02* 劇 団<] ガジラ
*[03* 場 所<] スズナリ
*[04* 演 出<] 鐘下辰男
*[05* 戯 曲<] 鐘下辰男
*[06  上演日<] 1999-09-17
*[09* 出 演<]konta
*[10*    <]若林しほ
*[11*    <]久保酎吉
*[12*    <]大鷹明良
 永山則夫をモデルにした1992年初演の芝居の再演である。今回は出演者の年齢が高いそうで、確かによくできているし、熱演の連続なのだが、見たタイミングが悪かったかもしれない。池袋ハンズ前の通り魔殺人事件の直後なので、どうしても比較してしまい、かなりずれた印象を受けた。
 主人公は網走番外地で生まれ、父の失踪と母の売春、子捨てで一家離散し、三人の兄から邪魔者あつかいされ、集団就職で上京しても職を転々とし、自衛隊にさえもはじかれ、新宿の喫茶店のボーイになったものの、チンピラ三人組にオモチャにされ、同棲している朝鮮人娼婦からも馬鹿にされ、銃を盗んで連続殺人におよぶ。
 街頭で学生と機動隊が市街戦を演じる殺気だった世相と、主人公を取りまく絶対的な貧しさにリアリティが感じられない。チンピラや兄弟や職場のいじめにしても、ゲーム的というか体操的で、軽いのだ。朝鮮人娼婦の役の若林しほは、体当りの熱演にもかかわらず、ちやほやされて育ったコギャルにしか見えない。今の役者は絶対的な貧しさを表現できなくなっているのではないか。
 しかし、貧しさは無くなったわけではない。池袋の通り魔殺人事件や飛行機マニアのハイジャック事件など、昨今の背景には、エリート・コースを歩みそこなった男が胸にわだかまらせた相対的な貧しさがある。この芝居は、60年代の絶対的な貧しさをなぞっただけで、現在の相対的な貧しさにとどくところまでいかなかった。残念である。
*[01* 題 名<] KUNISADA 国定忠治
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] 串田和美
*[05* 戯 曲<] 村山知義
*[05*    <] 山元清多
*[06  上演日<] 1999-09-24
*[09* 出 演<]市村正親
*[10*    <]藤真利子
*[11*    <]中嶋しゅう
*[12*    <]二瓶鮫一
*[13*    <]真名古敬二
*[14*    <]大川浩樹
 落ち目の国定忠治を描いた村山知義の戯曲を今風にアレンジした舞台。村山は『カムイ伝』や『真田風雲録』の先駆となるような左翼的忍者小説の創始者だから、この芝居もペリー来航三年前に当たる嘉永三年、処刑のためにかつて関所やぶりをした大戸に護送される忠治が、天保一三年を回顧するという額縁つきの構成をとっており、任侠アウトローに託した左翼演劇である。
 メッセージ性の強い戯曲をアク抜きし、いかにして現代に甦えらせるかがポイントになるが、結果は失敗に終わっている。大捕物の殺陣のプロローグの後、映画風のタイトルバックが映る。場面転換も(特に一幕目)、映画のカット割りのように頻繁である。あからさまに映画を意識することで、異化作用をねらっているのだろうが、すきま風が吹いて、ブレヒト風演出の悪い見本でしかない。
 天保一三年、忠治は六年ぶりに故郷にもどったが、子分は二三人しか集まらない。夢よもう一度で、早速殴りこみをかけるが、軍師と呼ばれる日光の円蔵(中嶋しゅう)は、百姓の支持なんてあてにならないと、忠治をいさめる。若い妾、お町(林美穂)に嫉妬する鉄火肌のお徳(藤)、岡っ引きになった叔父に密告したのではないかと疑われ、首を取ってこいと命じられるアサジと、いい役者をそろえるが、さっぱり盛りあがらない。藤は赤城の山に野菜と米を運んでくる本妻のお鶴も兼ねるが、別の役であることに、すぐには気がつかなかった。
 処刑場に来たのはお鶴とアサジの妹だけで、他の子分は殺されたり、行方不明になって散り散りばらばら、百姓たちにはそっぽを向かれ、忠治はわびしく死んでいくが、暗転後、にぎやかな赤城音頭で締めくくる。
 次の「マレーネ」でセゾン劇場は閉館だそうだが、最後に見る芝居としては寂しいできだった。
*[01* 題 名<] 債鬼
*[02* 劇 団<] T.P.T.
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] バトレル,ジョナサン
*[05* 戯 曲<] ストリンドベリ
*[05* 翻 訳<] T.P.T.ワークショップス
*[06  上演日<] 1999-10-08
*[09* 出 演<]中嶋朋子
*[10*    <]伊原剛志
*[11*    <]佐々木蔵之介
 長方形の舞台を四方から水路に隔てられた客席が囲む。1〜58の席はトイレの脇から、一旦、外に出てはいる。54番は短辺に面した二列目。こちらから見て、手前に濡れた布をかぶった作りかけの女の塑像が、奥に長椅子が置いてある。長椅子の頭上高く、半透明のパネルが斜めに吊られ、照明を透過している。天窓か。
 開演時間になるが、七割くらいの入りで、フューチャーズ・プログラムにしても空席が目立つ。
 画家から彫刻家に転向したアドルフ(佐々木)が、彼に転向をすすめたグスタフ(伊原)と話している。アドルフの妻のテクラは作家で、注目をあびた処女作で前夫を笑いものにしているらしい。アドルフは彼女から精気を吸いとられ、創作意欲がなくなり、彫刻に転向を余儀なくされたが、グスタフは自分で転向を進めておいて、駄目だとけなす。創作意欲を回復するには、最低半年間、夫婦の営みを断つべきだという。
 この会話がだるい。tptとは思えぬ平板さで、グスタフがテクラの前夫かもしれないという暗示がスリルを生まない。唯一、布をとりさったテクラの全身像の粘土の量感と、肘までしかない右腕の先の針金が存在感を主張している。
 グスタフが帰った後、やっとテクラ(中嶋)が登場。妻はアドルフを子供あつかいするのだが、驕慢な魅力も危険な匂いも感じられない。。中嶋朋子はこんなに下手だったのか。
 グスタフが再登場し、前夫だということがわかって、入り組んだ嫉妬の劇がはじまる。テクラとグスタフは二人きりになると、乳繰りあいだすが、危険な臭いが全然しない。
 アドルフの自殺で終わるが、ここまで低調だとは。空席が目立つのは、口コミで駄目だと広まっていたからだろう。
*[01* 題 名<] 王女メディア
*[02* 劇 団<] ク・ナウカ
*[03* 場 所<] AsahiスクエアA
*[04* 演 出<] 宮城聰
*[05* 戯 曲<] エウリピデス
*[05*    <] 宮城聰
*[06  上演日<] 1999-10-25
*[09* 出 演<]美加里
*[10*    <]阿部一徳
*[11*    <]川相真紀子
*[12*    <]大高浩一
*[13*    <]吉田桂子
*[14*    <]中野真希
 ファッショナブルなビジネスビルの中に作られた洒落たホールでの公演だが、舞台の上に桟敷を設け、背景には毒々しい錦絵という猥雑さ。左手の上が拡がった柱には、一面、法律書が突き刺されている。柱の根元には、開演前から、おどろ髪の老婆がうずくまっている。
 暗転後、照明がつくと、舞台の上に仲居が整然と並んでいる。紙袋をかぶって顔を隠し、胸に自分の白黒のポートレートを下げている。紙袋は囚人の深編笠のよう、ポートレートは遺影のようでもある。そこへ法服姿の裁判官がどやどや出てきて、幹事が配役を発表すると、裁判官は自分の謡で踊る仲居を選んでいく。最初に選ぶのはメディアを割りあてられた阿部で、裁判官の謡のおさらい会という趣向らしい。
 いったん引こんだ美加里は白絹で赤い刺繍のチマチョゴリで登場。異郷にやってきて男に捨てられるメディアを、日本人と結婚して日本内地にやってきた朝鮮貴族の娘に見立てたわけだ。
 桟敷の上では意味ありげな芝居をごちゃごちゃやっているが、美加里はそんなことはおかまいなしに、キリキリ絞りこんだドラマを作っていく。様式美と情念がせめぎあった姿は荘厳ですらある。美加里についていえば、最高の演技ではないか。
 しかし、ほかの役者が受け切れていないし、意味づけ過剰なスピーカーどうしの小芝居がうるさい。端役に出番を作ってやろうという心遣いも目障り。
 ク・ナウカは難しいところに来ている。美加里はすばらしいけれども、あのまま純化していくと、早稲田を離れた後のSCOTのようにやせ細っていくかもしれない。宮城聰が夾雑物をあえて混ぜたのもわからなくはない。ストイックタイプの劇団のジレンマだろう。
*[01* 題 名<] アルレッキーノ――二人の主人を一度に持つと
*[02* 劇 団<] ミラノ・ピッコロ座
*[03* 場 所<] 新宿文化センター
*[04* 演 出<] ストレーレル,ジョルジョ
*[05* 戯 曲<] ゴルドーニ,ジョルジョ
*[05* 翻 訳<] 田之倉稔
*[06  上演日<] 1999-10-26
*[09* 出 演<]ソレーリ,フェルッチョ
 事前に解説台本が送られてきた。演出家の強い希望で、海外引っ越し公演につきもののイヤホンも字幕も用意しないというのだ。一通り目を通してから出かけたが、はたして即興が多く、これでは同時通訳のテープや字幕では対応できないと思った。料理の場面で「タマネギ」を連発したり、「コシガイタイ」と愚痴ったり、日本語を混じえるサービスも怠りない。
 台本では上滑りでやかましいマリヴォー劇という印象だったが、実際の舞台は上滑りでもなければ、やかましくもなく、ワトーの絵のような愉楽にみちた喜劇だった。あの凡庸な戯曲がここまで滋味豊かになるのかと驚いた。
 幕が開く前、劇作家らしい老人があらわれ、舞台の前部にならんだ太いロウソクに順番に灯をともしていく。袖の椅子にすわると、台本を広げ、なにやらしゃべるのだが、意味はわからなくともアンチームな懐かしさが客席とかよう。幕があがっても、このアンチームな雰囲気がそのまま芝居につづいていく。アルレッキーノのぼやきが愛嬌たっぷりで、身のこなしが軽く、かわいらしくさえある。このソレーリという役者、仮面をとると白髪の七十翁でびっくり。
 たった一人の肉親の兄を恋人のフロリンドとの喧嘩で亡くしたベアトリーチェは後見人に干渉されるのを嫌って、兄の姿に変装し、兄の許嫁のクラリーチェところにやってくる。クラリーチェはベアトリーチェの兄が死んだものと思い、相思相愛の青年と結婚する段取だったので、おおあわて。父親は婚約を破棄して、元の許嫁と結婚しろと無理なことを言いだす始末。
 そこへフロリンドがベアトリーチェを探しにやってきて、彼女と同じ宿屋に泊る。ベアトリーチェが食事をくれないので、アルレッキーノはフロリンドの召使にもなって、二人の主人の間で右往左往するという予想どおりの展開。
 二幕の二人の主人が同時に食事をとる場面では、料理を実際に盛った皿や壺を手にアクロバティックな見せ場なのだが、これみよがしなところはすこしもない。さりげないが、だんだんすごいことをやっているとわかってくる。
 マリヴォーと違って、登場人物はみんな善人で、情念の深みをのぞかせたりしないが、人間の愚かさを許す寛容さは、情念と同じくらい深いものだという気持になってくる。
 惜しむらくは舞台が大きすぎること。舞台の間口の2/3ほどの額縁をつくり(ピッコロ座の間口にあわせた?)、その中で芝居をやっていた。千人を越えるホールでやるべき芝居ではない。どうせ客席は六割程度しか埋まっていなかったのだから、紀伊国屋ホールくらいの小屋でやるべきだった。
*[01* 題 名<] めんどうな遺産相続
*[02* 劇 団<] 櫻花舎
*[03* 場 所<] ジャンジャン
*[04* 演 出<] 守輪咲良
*[05* 戯 曲<] マリヴォー
*[05* 翻 訳<] 佐藤実枝
*[06  上演日<] 1999-10-29
*[09* 出 演<]山口詩史
*[10*    <]博田章敬
*[11*    <]天祭揚子
*[12*    <]神吉しおり
*[13*    <]貴山侑哉
*[14*    <]伊村政倫
 ジャンジャンは来年閉館で、今、さよならシリーズをやっている。過去に連続公演をやった劇団が再登場していて、久々に櫻花社のマリヴォーを見ることができた。
 深紅のシーツを身体に巻きつけたオルタンス(天祭)がシュバリエ(伊村)と睦言をかわす場面からはじまる。親の決めた許婚の侯爵(博田)が別の女性と結婚すれば、60万フランの遺産のうちから20万フランを受けとれるので、二人のこれからの生活のために、侯爵と伯爵夫人(山口)をくっつけようと画策するのだが、天祭は大輪の花のようで、打算的とかずるいという印象はまったくない。この舞台はおもしろくなると直感する。
 次に登場するのは侯爵の召使のレピーヌ(貴山)と伯爵夫人の召使のリゼット(神吉)。夫人の気持を侯爵に向けてくれと頼むレピーヌに、リゼットは二人が結婚したら、自分の実入りがすくなくなるとおかんむり。神吉は田中美佐子風のコケットリーがあって、現代風なのだが、十八世紀の台詞に異和感はない。
 いよいよ主役の侯爵(博田)と伯爵夫人(山口)の登場。おっかなびっくり愛をほのめかす侯爵と、愛しているのに、なかなか告白できない侯爵にじれったくなって、きつい言葉を使ってしまう夫人。おかしくて、おかしくて、笑いころげたが、笑った後に哀愁が残る。
 言葉の挑発で欲望がわきたってきて、つい迫力で迫ってしまう山口詩史は名演。東京壱組出身だそうだが、こんなすごい女優がいたとは。
 夫人にふられたと思いこんだ侯爵は、結婚を迫るオルタンスの申し出を承諾する。夫人は愛のない結婚はすべきではないというが、侯爵は意地になり、オルタンスも意地になって、クライマックスへ。
 日本人的感覚からいったら、打算的な結末がまっているが、財産のない結婚は不幸をまねくと割りきるオルタンスを天祭が堂々と演じているので、ハッピーエンドなのだと納得できる。
 しばらく見ないうちに、役者も演出家も一回り大きくなっていた。櫻花社のマリヴォー・シリーズがまた見たい。
*[01* 題 名<] パンドラの鐘
*[02* 劇 団<]
*[03* 場 所<] コクーン
*[04* 演 出<] 蜷川幸夫
*[05* 戯 曲<] 野田秀樹
*[06  上演日<] 1999-11-17
*[09* 出 演<]大竹しのぶ
*[10*    <]勝村政信
*[11*    <]宮本裕子
*[12*    <]森村泰昌
*[13*    <]松重豊
*[14*    <]壌晴彦
 満員の盛況。意外に年齢層が高く、往年の遊眠社ファンがもどってきた風。
 期待したのだが、もどかしさが残る。野田秀樹の駄洒落連発、関係代名詞直訳体の台詞を、きちんと訓練した役者に一語一語はっきりと喋らせているので、重いというか、活字で読んだ時のような異和感がある。
 爆撃の跡のような荒涼とした地面に石の鳥居が立っているだけの舞台。前に穴が五つ並んでいて、戦前の長崎の発掘現場という見立てで、これから何が起こるんだろうという期待感があり、おなじみの赤い月がのぼると、古代王国に転移し、引きこまれかけるが、離陸しきれないでバウンドを繰りかえす。
 こうなると、あれこれシンボルハンティングをはじめてしまい、戦利品で分捕ってきたパンドラの鐘が砲弾型をしていて、天皇制を守るために政府が国を隠蔽しようとするので、もしやと思っていると、案の定、原爆の隠喩とわかる。
 自らを生け贄にしたヒメ女(大竹)と、国体保持のために原爆投下の余地をあたえてしまった昭和天皇を対比しているのだが、ドラマが不完全燃焼で、図式にとどまっている。
 美輪明宏そっくりのピンカートン夫人の森村泰昌はインパクトがあったが、その娘役の宮本裕子は黄色い声をはりあげるだけで、実力が活かされていない。
*[01* 題 名<] 伊能忠敬物語
*[02* 劇 団<] 俳優座
*[03* 場 所<] 新国立劇場
*[04* 演 出<] 佐竹修
*[05* 戯 曲<] 佐藤五月
*[06  上演日<] 1999-12-10
*[09* 出 演<]加藤剛
*[10*    <]岩崎加根子
*[11*    <]滝田裕介
*[12*    <]香野百合子
*[13*    <]中野誠也
*[14*    <]川口敦子
 幹部級を含めて40人近く出演し、あの広い客席が中高年でほぼ満員だった。期待が高まったが、冒頭、天井に青い豆電球をちりばめた布を張り、空を見上げるシーンで点灯する。青すぎる光が安っぽいなぁと思ったら、案の定の出来。
 一幕は九十九里の漁村から下総佐原の伊能家に婿にはいって家業を建てなおし、名主として治水事業に尽力するまで。浅間山の噴火、天保の饑饉、利根川の氾濫、無能役人の横暴と盛りだくさんだが、手代を追放したために、彼に好意をもつ愛娘が早死するところで幕。偉人にも影の部分があったといいたいのだろうが、かなり無理のある展開。
 二幕は隠居して、江戸で若い後添えと暮らしながら、幼い頃から憧れていた星学を学び、蝦夷地の測量に出かけるまで。悲愴な一幕とは打って変わり、忠孝はお栄(香野)にでれでれし、目尻が下がりっぱなし。物干台に測天儀や遠眼鏡をとりつけて得意になっていて、先妻のミチ(岩崎)は花蛍みたいな陽気な幽霊になってあらわれる。一幕で娘と別れさせた手代と再会し、測量隊にくわえるという結末。一幕の悲愴感がわざとらしかっただけに、二幕の明るさもとってつけたよう。
 武士の治める世の中は終ったというメッセージで、伊能忠敬に現代の規制緩和と関連をもたせようとしたのだろうか。
*[01* 題 名<] 令嬢ジュリー
*[02* 劇 団<] tpt
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] ルヴォー,デヴィッド
*[05* 戯 曲<] ストリンドベリ
*[06  上演日<] 1999-12-17
*[09* 出 演<]若村麻由美
*[10*    <]千葉哲也
*[11*    <]富沢亜古
 半地下の厨房は重々しい石壁に囲まれ、トンネルのようだ。下手側に流しと竈、上手側に皿と食器をならべた壁龕があるが、奥の勝手口に向かってトンネルの径が狭まっていき、遠近を強調している。壁の厚さとあいまって、圧迫感をおぼえる。
 時は夏至祭の夜。白夜に浮かれ、召使いたちと踊りまわったジュリーお嬢様が厨房にやってきて、下男をいいようにからかう。下男にしては教養のあるジャンが外国帰りだとわかると、ジュリーいよいよ残酷になる。愛らしい顔で驕慢な台詞を吐く若村麻由美の女王様ぶりは絶品。自分でも気づかない欲望にあおられて、危険ゾーンにはいりこんでいく場面のエロチックなこと。
 ところが、他の召使たちの足音が近づいてきたために、立場が逆転する。厨房で二人きりで下男と戯れていたなんて、大変なスキャンダルだ。ジュリーはジャンに誘われるままに、彼の個室にはいってしまう。そこに召使たちがなだれこんで来て、ジャンの部屋の扉をどんどん叩きだす。
 ジャンの策略に籠絡された後のジュリーはただの恋する女になりさがり、輝きが吹き飛んでしまう。彼女の母親が商人出の女権拡張論者だったために一家が地域の貴族社会から孤立し、この邸も母親が放火したために、母親の愛人から借りた金で再建した顛末が明かされる。
 ジャンの方もコモ湖に逃げて、ホテルを開業し、金を貯めたらルーマニアで爵位を買おうなどと言いだし、前半の野生の臭いを失い、急速に俗物性をあらわにしていく。
 前半のエロチシズムと侵犯の輝きは、貴族制度の抑圧機構のおかげだった。抑圧がなくなると、幻滅と退屈しか残らないというアイロニー。
 こういうアイロニーで終る芝居は、tpt=ルヴォーの新境地かもしれない。tptはどこへいくのか。
Copyright 1999 Kato Koiti
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