エディトリアル   March 2011

加藤弘一 Feb 2011までのエディトリアル
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3月13日

 11日はやっと動いた千代田線が途中で止ってしまい、根津で一夜を明かすはめになった。家に帰り着いたのは12日の朝10時だった。

 ケータイをもっていないので情報は駅員と駅の電光掲示板、乗りあわせた他の乗客からしかはいらず、選択を誤ったかなと思うことがたびたびだった。しかし今振りかえってみると、一番賢明な選択をしたようだ。他の選択肢をとっても2時間くらいしか帰宅は早まらなかっただろう。

 団塊老人が東京メトロの駅員に食ってかかっていたが、早々に駅にシャッターを下ろし、乗客を寒空の下に追いだした冷酷無情なJRとは違い東京メトロは親切だったし、情報の提供など改善点はあるものの、駅員もベストを尽くしてくれていた。すくなくともわたしは東京メトロに感謝している。

 帰宅したものの、家の中は本が散乱し足の踏場もない有様だった。安心した後だけに、しばらく茫然とした。気をとりなおして本を片づけ、テレビをつけた。ちゃんとついたし、録画機能も無事だった。地震対策を怠ったので転倒を覚悟していたが、テレビの向きと地震の振動の向きが90度近くずれていたので助かったらしい。

 今心配なのは福島原発である。テレビも、大手マスコミのニュースサイトも、大丈夫と大合唱しているが、外国のメディアを見ると日本のマスコミに出てこない写真が掲載されていてぎょっとする。たとえばDaily Mailの放射能検査を受ける子供を映した2番目の写真、ガスマスクと化学防護服に身を固めた警官を映した5番目と6番目の写真。日本のマスコミは「自粛」と称する報道管制下に置かれているのだろう。

 こうなると反原発の人たちの言い分が俄然説得力を持ち出す。今回の事故の原因となった冷却水の問題については「赤旗」がちょうど一年前に警告していた。

 1号機の水素爆発にしても単に建屋が吹っ飛んだだけではすまない可能性があるようだ(「ストップ浜岡原発」)。

 「原子力資料室情報」の今日の記者会見はテレビの専門家の説明よりもはるかに明解だ。いったいどうなるのか。

 被災した方から較べれば、暖房のきいた駅でたかだか一晩過し、本が散らばった程度のわたしの経験などなにほどでもない。被災した皆さんのご無事をお祈りする。

3月14日

 電力不足による計画停電一日目の今日は街が死んだようだった。電車は止り、人通りはすくなく、自動車ばかりが猛スピードで走りぬけていく。大手スーパーは店を閉じ、コンビニではパン類・弁当類が姿を消し他の食料品も棚がすかすかになっていた。個人商店ががんばってくれているが、なんという重苦しさだろう。ほとんど「渚にて」の風景ではないか。

 福島第1発電所ではリアル「渚にて」的な事態が進行していた。午前11時、3号機で水素爆発がおこり、建屋が吹き飛んだ。1号機は骨組がきれいに残ったが、3号機は骨組があきらかに融けている。作業にあたっていた東電と協力会社の職員、消防隊員、警察官、自衛官が負傷したと伝えられたが、どんな作業をやっていたのか。

 日本のマスコミには出てこないが、Daily Mailの14日付の記事の5番目と6番目の写真には放射能汚染で隔離された女性がガラス越しに母親と愛犬に話しかけている姿が映っている。われわれに知らされていない何かが福島でおこっているらしい。

 大丈夫だといわれていた2号機で燃料棒全体が露出していたという報道が夕方になってあった。海水を注入するポンプが燃料切れで動かなくなっていたことに気がつかなかったのだという。これはすぐに回復し、燃料棒の半分まで水位がもどったということだったが、零時を過ぎてからまた燃料棒が露出したというニュース。

 海水を注入するには格納容器内の圧力を下げる必要があるが、内部の高圧蒸気を逃すための弁が動かなくなったというのだ。

 格納容器を守るために東電は容器上部の弁を開けることにしたという。これまでは水をくぐらせてから放出する下部の弁を使ってきたが、上部の弁は内部の蒸気がそのまま放出されてしまうので危険だそうだ。本当に切羽詰っているのである。

 BLOGOSの「MIT研究者Dr. Josef Oehmenによる福島第一原発事故解説」には緊急用のディーゼル発電機は津波によって全部動かなくなってしまったとある。国内の報道ではぼかされていたが、やはりそうだったのか。ただ、沸騰水型原子炉は炉心溶融が起っても、圧力容器の下に黒鉛で満たした盥が用意してあるので、万一融けたウランが圧力容器に穴を開けて流れ落ちるチャイナシンドロームが起きたとしても、チェルノブイリのような事態にはならないと断言している。

 しかし大丈夫というのは格納容器が健在な場合の話であって、内部の圧力で格納容器が破裂したり、亀裂がはいってしまったらどうなるのか。

 そもそもこんな危機をまねいたのはバックアップのディーゼル発電機に十分な津波対策をしていなかったのが原因である。高台に予備のディーゼル発電機を備えつけておいたとしても数千万円ですんだろうに。

3月15日

 池田信夫氏のblogで知った13日の大前研一ライブを視聴した。大前氏はもともと日立で高速増殖炉の研究をしていた人で、原子炉の専門家である。テレビに登場する専門家はたいした根拠も示さず大丈夫を連呼するだけだが(しかも見通しははずれまくり)、さすが大前氏だけに説明は具体的かつ明晰で、はじめて全体像が見えてきた。

 今回の事故の直接の原因はJosef Oehmen氏も指摘したように、やはり想定を越えた津波と断定してよいようだ。福島第一原発は7mの防潮堤で守られていたが、14mの津波が襲い、ディーゼル発電機の燃料タンクを押し流し発電機を水浸しにしたらしい。

 原発には炉心にホウ素を投入する機構、冷却水をシャワーのように浴びせかけて緊急冷却する機構、建屋にたまった水素を逃すための通風窓など、何重にも安全装置が作りこまれていたが、それらはすべて電気で駆動される。電気が止ってしまったら安全装置は作動しようがない。計器類も電気がなければただの飾りである。

 福島第一原発には各原子炉に一台づつ、計四台のディーゼル発電機が設置されていた。通常、四台同時に故障するようなことは考えられないが、同じ敷地にあったので津波でいっぺんに駄目になってしまったのだ(反対運動があるので分散させるのは難しいらしい)。

 ディーゼル発電機が駄目な場合は変電所から原発に電力を逆送するようになっていたが、変電所は地震で壊滅した可能性が高いという。

 後知恵だが、ディーゼルとは別の形式の発電機を設置しておくとか、複数の変電所でグリッドに接続するとか、すべての原子炉を緊急停止させないで一台だけ発電をつづけるようにするとかしておけば、こんなことにはならなかったはずだ。

 東電は50台の発電車を急行させたが、まともに発電できたのは1台だけだったという信じられないような話もあったという。

 万一の場合のために7時間もつバッテリーが用意されていたので、バッテリーが生きているうちにホウ素を投入するなどの思い切った手を打てばよかったが、マニュアルで育ったオペレーターにはそういう決断は無理だった(津波の直後、ホウ素を空輸するというアメリカの申し出を政府が断ったという話が事実なら、政府の責任になるが)。

 東電は最後の手段として原子炉にホウ酸入りの海水を注入した。これは事実上の廃炉を意味するが、1号機は1971年運転開始で40年の寿命がきていたのだからもっと早く決断できなかったものか。

 圧力容器は内部の圧力が高いので海水の注入がうまくいかず、綱わたりがつづいているが、圧力容器と格納容器の間にも注入したので(ここは3気圧しかないので満たされたはずだ)、万一炉心が溶解して再臨界し、圧力容器の底が抜けたとしても、水蒸気爆発でウランの塊が四散することで臨界は終る。

 問題はどこまで飛び散るかだが、大前氏は格納容器の内部だけでおさまるだろうと見ている。もちろん、格納容器ですでに漏れが生じている以上、放射性物質が周囲に出てくるのは止められないが、チェルノブイリのように広範囲に飛散することはないだろう。

 大前氏は今後の影響にもふれた。こんな事故を起した以上、国内に新たな原発を建設するのは不可能になったし、日本企業が海外に原発プラントを売りこむこともできないだろう。いくら事故を起したのは40年前の旧型で新型は大丈夫だと説明しても、住民が納得しないからだ(家電から原発に軸足を移した東芝と日立の未来は暗いだろうと思う)。

 今後原子力発電をつづけるにしても、原子炉を国営の会社に移管し、各電力会社はそこから電気を買うような形にしないとやっていけないのではないか。

 福島の農業・漁業も風評被害で壊滅的な打撃を受ける。特にまずかったのは3号機がプルサーマルでプルトニュウム燃料を使っていたことだ。プルトニュウムは微量でも発癌性があり、しかも半減期が2万4000年なので、風評的には致命的だろう(プルサーマル解禁は佐藤雄平福島県知事(渡部恒三代議士の甥)が強引に進めたといわれているが、福島の農業・漁業にとって致命的な決定をしてしまったことになる)。

 これからはわたしの感想だが、政府は観光とアジアの富裕層向けの高級食材を地方活性化の決め手にしようとしているが、今回の事故によって観光も高級食材も駄目になってしまった。安全性が売りの日本製高級食材だったのに、誰が高い金を出してプルトニュウムに汚染されているかもしれない食品を買うだろうか。外国の報道を見ると Fukushimaはもはや Hiroshima、Nagasakiと同じあつかいだし、日本全体が放射能に汚染されたかのような風評が広がっている。事故の初動の一番大事な時期に視察パフォーマンスを強行した菅総理といい、民主党は本当に疫病神だ。

3月16日

 今のところ産経新聞と系列の夕刊フジ(ZAKZAK)しか伝えていないが、アメリカでは所員退避後も現場に残って決死の作業をつづける50人の作業員が Fukusima50 として賞賛されている。最初に報じたのはCNNで15日に「handful of 'heroes' battles to keep nuclear plant under control」というレポートを放映した。この画像はネットにはないが、16日の総括版は見ることができる。あちこちのニュースサイトやblogで紹介されているので検索すれば出てくるし、このための掲示板もできている。Foxなど他のTVネットワークも同様のレポートを放送し、ニューヨークタイムスは16日に「最後の防御」と題して特集記事を載せ、東電が作業員の名前を明かさないので faceless 50 と呼んでいるという(無料版ではこの記事は見つからなかった)。

 16日のCNNでは東京の街頭インタビューで通行人から誇りに思いますというコメントを引きだしているが、日本のマスコミは全く伝えないので東京の人間はそんな事実があるとは誰も知らないだろう。

 これだけ話題になるとハリウッドが映画化するかもしれない。その時は作業員の献身と自己犠牲と対比して一番重要な時期に自分の人気とりのために原発に視察に行き、圧力を抜く作業を24時間以上遅らせた首相の菅直人(この人非人は万死に値する)と、住民の避難範囲は20km以内なのに50kmさがった地点まで対比した保安院の卑怯者たちも描いてもらいたいものだ。

 原発事故問題は外国の報道が頼りだが、すべてが正しいというわけでもなさそうだ。BBCのようにきわめて冷静で説得力のある記事を載せているメディアがある反面、ドイツとフランスはヒステリックといっていいような反応のようだ。

 特にドイツがひどいらしいが、宮崎正弘氏のメルマガに載った在独ジャーナリスト川口マーン恵美氏の「福島原発事故とチェルノブイリを同一視するな」によるとドイツ国内の政争がからんでいるのだそうだ。原発容認派と反原発派は30年ごしの論争をつづけてきて、近年、地球温暖化のおかげで容認派が力を持ってきたが、反原発派は福島の事故をエキセントリックに伝えることで一挙に巻き返しをはかったというのだ。

 そういう背景はあるにしても、シュピーゲルのサイトで公開されている放射性微粒子の拡散シミュレーションはありがたい。こういう情報は気象庁がまっさきに公開しなければいけないはずなのに、なぜ隠すのか。これも人非人総理をいただく民主党の「政治主導」の結果なのだろうか。

放射性物質流出域@シュピーゲル

3月17日

 福島第1原発の情勢は予断を許さないが、何ができるわけでもない。ただただ Fukushima50 の成功を祈るだけである。

 気をまぎらわすためといってはなんだが、今ネットで囁かれている噂を確認してみた。それは「日本は左翼政権の時に大震災が起こる」という説だ。阪神・淡路の村山富市首相の無様な対応と今回の菅直人泣き虫首相の醜態が重なることから生まれた憶測だろうが、念のために調べてみた。

 左翼政権ということは戦後ということになるが、3000人以上の死者・行方不明者が出た地震が三回ある。一覧表で示そう。

発生年月日地震規模死者・行方不明者首相出身
1948年 6月28日福井地震M 7.13,769人芦田均民主党
1995年 1月17日阪神・淡路大震災M 7.36,437人村山富市日本社会党
2011年 3月11日東日本大震災M 9.0約2万人菅直人民主党

 芦田内閣は片山内閣の総辞職の後にできた左翼政権で、民主党を中心に日本社会党と国民協同党が参加していた。

 村山政権には自民党とさきがけが参加していたので純然たる「左翼政権」とはいえないが、河野談話など左翼かぶれのパフォーマンスが多かった。

 戦後の三大震災の時の政権が三つとも広義の「左翼政権」だったのは偶然にしても気味が悪い。

 こうなると関東大震災の時はどうなのか気になるが、戦前なので左翼政権ではなかったものの、加藤友三郎首相が急逝して8日目に起きたので首相不在という異常事態だった。

 三千人を区切りとするのは恣意的だという意見や戦後に限定するとサンプルが少なすぎるという意見もあるだろう。

 そこで1900年以降に起きた地震を被害の大きい順に十位まで並べてみた。

年月日地震規模死者・行方不明者首相出身
11923年9月1日関東大震災M7.910万5,385人(不在)
22011年 3月11日東日本大震災M 9.0約2万人菅直人民主党
31995年 1月17日阪神・淡路大震災M 7.36,437人村山富市日本社会党
41948年 6月28日福井地震M 7.13,769人芦田均民主党
51933年3月3日昭和三陸地震M 8.13,064人斎藤実(海軍)
61945年1月13日三河地震M 6.82,306人小磯國昭(陸軍)
71946年12月21日南海地震M 8.01,443人吉田茂日本自由党
81944年12月7日東南海地震M 7.91,223人小磯國昭(陸軍)
91943年9月10日鳥取地震M 7.21,083人東條英機(陸軍)
101925年5月23日北但馬地震M 6.8428人加藤高明憲政会

 1943年から1948年の5年間間に千人以上の被害を出した地震が5つもつづいているのは戦況の悪化と敗戦の混乱で被害が無関係とはいえないが、大地震が連続していたのも事実だ。よりによってこんな時期に天災が固まって起きていたのである。

 また第10位の北但馬地震は関東大震災の1年9ヶ月後に起きており、ひとまとまりと考えられなくはない。

 村山政権も今の民主党政権も左翼政権かどうか以前に、国益を損ない日本社会を混乱させた最低最悪の政府だったことは誰でも認めるだろう。世の中の乱れた時に大震災が起こるというのはまんざら迷信でもないらしい。

3月18日

「442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」

 日系人だけで編成された部隊442連隊のドキュメンタリーで、日本人必見の傑作である。

 第二次大戦前、アメリカの日系人はもっとも成功をおさめただけにもっとも激しい差別にさらされた。真珠湾攻撃はアメリカ国民に潜在する有色人種に対する恐怖感に火をつけ、西海岸の日系人12万人は財産を奪われ、トランク一つで砂漠の真ん中に作った収容所に強制収容されるという屈辱を味わった。

 二世の青年たちは自分たちがアメリカ人であることを証明するために軍に志願したが、軍の中でも差別はあった。Go for broke! を合い言葉にローマまで血路を開いたのは彼らだったが、ローマで市民の喝采を受けたのは後から来た白人部隊で442連隊はローマを迂回して次の前線に送られた。ダッハウのユダヤ人収容所を最初に解放したのも442連隊からわかれた522野戦砲兵大隊だったのに、日系人部隊が解放したという事実は1992年まで伏せられていた(収容所出身の兵士が収容所を開放したのではアメリカの面子は丸つぶれだろう)。激戦に継ぐ激戦で、442連隊の死傷率は314%にのぼる。要するに使い捨てにされたのである。

 しかし彼らがおびただしい出血で解放したイタリアのモンテカッシーノやフランスのブリュレでは今でも彼らの活躍が語り継がれ、ゆかりの場所には442通りやバンザイ・ヒルのように彼らにちなんだ名前がつけられており、記念式典には442の老兵が招かれて顕彰されている。

 1946年7月15日、トルーマン大統領は凱旋した442連隊を雨の中、みずから閲兵し「諸君は敵だけでなく偏見とも戦い、勝ったのだ」と訓示した。大統領が凱旋した連隊をみずから閲兵するのは異例中の異例だという。

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「東洋宮武が覗いた時代」

 一世の日系写真家宮武東洋のマンザナ収容所での活動を軸に日系アメリカ人の歴史を描いたドキュメンタリーである。幼くして渡米した宮武はハリー・シゲタとエドワード・ウェストンに写真を学んだ後、リトル東京で写真館を開いていたが、舞踊家伊藤律夫の舞台写真で全米に知られるようになる。戦後も活躍をつづけ、シルクハットとステッキ姿の子役時代の美空ひばりなど、渡米した日本の著名人の写真をたくさん撮影している。なんとなつかしのジミー佐古田まで登場する。

 最初に息子で写真家のアーチー宮武氏が収容所内で職人の協力で作りあげた木製カメラの実物を披露したが、十分な大きさの板がなかったのでいろいろな板をつぎあわせ、寄せ木細工のようになっている。宮武が密かに持ちこんだレンズとシャッターをボディにとりつける部分は水道管を加工したもの。何もない中で作ったとは思えないくらいの美しい出来。

 持ちこめたフィルムはすぐに使いきってしまったので、アメリカ人の理解者の提供してくれた資材で撮影と現像をつづけた。

 そのうちに恩師のウェストンの親友だった所長がシャッターを白人が押すという条件で撮影を黙認してくれるようになる。シャッター押しだけでは退屈するのでアルバイトの白人はすぐにやめてしまうので所長に代わりを探してくれと頼むが、アルバイト探しに音を上げた所長はシャッターを押しても自分は耳が遠くなったのでわからないよと言ってくれる。

 理解者がいたにしても砂漠の環境は厳しい。砂埃がひどく、食事の前にはうがいが必要だった。七メートル四方のバラックに複数の家族が詰めこまれ、トイレには仕切りがなかった。

 収容された日本人は生活環境を懸命に改善し、砂漠の真ん中で大輪の菊を咲かせる人まであらわれる。宮武の写した日系人たちはみな楽しそうに微笑んでいるが、かげりは隠せない。アメリカ政府は日系人を守るために隔離したと称していたが、監視塔のMPは鉄条網の内側の日系人に銃を向けていた。日系人にとっては屈辱の体験であり、戦後長らく語ろうとせず、三世の中には両親は「キャンプ」で知りあったと聞いていたが、その「キャンプ」が砂漠の中の収容所だとは知らなかったという人もいる。

 子供たちはスポーツに熱中し、二回だけだが、外からハイスクールのチームが対戦に来たこともあったそうだ。

 収容所の中では衣食住が保証されていたので、食べるために働きづめだった一世にとっては長い骨休めでもあったというのはなるほどと思った。  収容生活の明るい面の後、映画は日系社会内部の対立という微妙な問題に踏みこむ。アメリカ当局に融和的なグループが日系青年の兵役志願の準備をはじめると一世と帰米二世の一部が憤り、幹部を襲撃する。この事件で反米的な日系人が逮捕されるが、襲撃に関係のない人もいたのでおとなしかった日系人が反乱を起す。

 反乱に衝撃を受けた当局は女性も含めた全員にアメリカに忠誠を誓わせる「忠誠登録」をはじめる。一世を中心に10%の日系人が署名を拒否するが、拒否した者は北方に設けられた新たな収容所に送られた。

 志願兵の募集がはじまると忠誠登録をした一世の間にも反発が広がり、親子対立が深刻化する。「山河あり」では父親は最後には志願を認めていたが、実際長くはしこりを残したようだ。

 兵役拒否をしたり、収容を差別として訴訟を起こす者もあらわれた。兵役に出るのと同じくらい勇気を要することだが、周囲からは卑怯者と罵られ、裁判に負けると刑務所に収監された。戦後も彼らは日系社会から爪弾きされたという。さもありなん。宮武東洋は白人にも名を知られた日系社会の光の部分だったが、闇に押しこめられた人たちもいたのである。

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「日本人のへそ」

 こまつ座の井上ひさし追悼公演の最後の演目。演出は栗山民也。井上が34歳の時にテアトル・エコーのために書き下ろした音楽劇で実質的なデビュー作である。

 自粛ムードのはじまっている中、上演してくれたことに感謝したい。客席はかなり空席が目立ったが、こまつ座でこんなに空席が出ることはありえないから、多分切符を買ったもののいろいろな事情で見に来れなかったのだろうと思う。

 一幕は吃音治療のために自分史の芝居を演ずるという趣向で、浅草の花形ストリッパー、ヘレン天地(笹本玲奈)の一代記を本人を主役に患者一同が演ずる。狂言回しの「教授」(辻萬長)はアメリカのアイオワ大学で最新の吃音治療を学んできた精神科医。

 ヘレンは東北の貧農の娘で、父親が出稼ぎ先でケガをしたために中学卒業と同時に集団就職で上京する。出発前夜、どうせ東京で男の慰みものにされるならと実の父親にレイプされる。

 ヘレンは最初に勤めた亀戸のクリーニング屋を皮切りに職を転々とし、トルコまで落ちたところでストリッパーにスカウトされる。舞台を踏んでからはヤクザの親分の女から右翼の大物の妾、有力代議士の東京妻へと成り上がっていくが、「教授」が実は代議士本人で、背中を何者かに刺されるところで幕が降りる。

 二幕は誰が代議士を刺したかという推理劇仕立てになり、どんでん返しに継ぐどんでん返しで結局元にもどってしまう。

 歌あり踊りあり言葉遊びあり猥褻なジョークありとサービスたっぷりだが、全然笑えなかった。初演当時は面白かったのかもしれないが、今では笑いのつぼがずれてしまったとしか言いようがない。

 多重どんでん返しもどんでん返しのためのどんでん返しとしか思えず、全然おもしろくない。ドタバタ喜劇の賞味期限は短い。

 ヘレンに笹本玲奈、本物の教授に石丸幹二をあてたのはミスキャストだ。美男美女の本格的なミュージカルスターではなく、藤山直美と中村勘三郎のようなあくの強い役者を配役すべきだったと思う。

3月29日

 このところ風邪で寝こんでいたが、ペンクラブ言論表現委員会に出席するために都心に出た。議題は23日にNY地裁がくだしたGoogle和解案棄却の決定についてだ。日本ペンクラブは地裁に公式に異議を申し立てた団体の一つであり、すでに会長談話を発表している。なお、地裁決定の42頁目には日本ペンクラブの意見書が引用されている。

 委員会では山田委員長から背景説明があり、今後の展望や方針について話しあった。勝訴と言えないことはないが、Googleは資金力があるのであらゆる選択肢が可能なのに対し、ペンクラブには限られた選択肢しかないという勝ち負けが逆転したような沈んだ雰囲気だった。

 雰囲気が暗かったのは街を覆う節電自粛ムードのせいかもしれない。ペンクラブ事務局にいくには兜町を通らなくてはならないが、兜町は節電地区にはいっていないのに、いつものそわそわした活気がなくどんより静まっていた。

 委員会が終わると話題はどうしても放射能関連になる。欠席の委員の中にも関西に逃げている人がいて、風邪で出欠の返事が遅れただけなのに、わたしも逃げた一人と思われていたそうだ。

 外国メディアにトンデモ報道がすくなくないのは事実だが、日本のメディアがどこも出していない放射性物質拡散予報をドイツ気象庁(DWD)オーストリア気象地球力学中央研究所(ZAMG)が出してくれているわけで、参照しないわけにはいかない。

 テレビに登場する「専門家」の見立てもはずれてばかりだ。最初、格納容器は健全といっていたのが2号機の爆発ではずれ、プルトニウム検出で最後の砦の圧力容器まで怪しくなっている。自分でも信じていない気休めを喋らされているのだろう。

 といっても広瀬隆氏となると別の意味で眉唾である。

 わたしが見た限りでは一番信頼できるのは大前研一氏の発言であり、これまでのところ氏の予想のとおりに事態が動いていると思う。30年前に現場を離れたとはいえ、40年前に福島原発1号機が稼働をはじめた頃は現役の原子炉設計者だっただけに話が具体的である。3月19日ライブでは圧力容器の毀損の可能性を暗示しているし、27日ライブでは燃料棒の運びだしにすら5年を要する長い長い「解決」までの道筋を語っている。

 がっくりきたのは津波後、東電が送りこんだ50台の電源車が使えなかった理由だ。13日ライブでは大前氏は故障のためと語っていたが、プラグが合わなかったためとした論者もいた。どちらも腑に落ちない話だと思っていたが、19日ライブによると真相は電圧が合わなかったからだというのだ。日本の電源車が供給できるのは100Vと200Vだが、原子炉はアメリカのGE製なので400Vと2000Vしか受けつけないという笑うに笑えぬ落ち。緊急訓練など一度もやっていなかったのだろう。

3月30日

 昨夜知ったのだが、全国民が原子炉への放水に固唾を呑んでいた18日、「メール履歴90日保存要請の刑訴法改正案」が閣議決定されていた(新聞サイトにはもう記事は残っていない)。ウィルス散布、嫌がらせ行為、スパム配信などの疑いがあれば、プロバイダ、企業、学校などに令状なしに90日間のメールとログの「保存」を要請できるというものだ。

 捜査機関がメールやログの中身にアクセスするには裁判所の許可が必要だが、知らないうちにbotに感染して(感染させられて)ウィルスをばらまいていたり、スパム配信に加担していたりする可能性は誰しもあるわけで、裁判所が認める程度の嫌疑を構成することは難しくないだろう。そうなれば事実上の「盗聴」が可能になる。

 こんな法律が通ったらジャーナリストは取材源の秘匿が不可能になる。嫌疑不十分とわかっても、取材源が割れてしまったのでは後の祭りだからだ。

 20日に閣議決定された「ウィルス作成罪」の方も問題だらけだ。「作成罪」と呼ばれてきたのでうっかり騙されていたが、「保存」だけでも懲役二年になるというのだ。知らないうちにパソコンが感染していたら、ウィルス「保存」の罪で犯罪者にされてしまう。

 別件で押収したパソコンに何も証拠がなかったら、クロックをいじってウィルスを感染させておけば、冤罪をつくるなど朝飯前だ。フロッピー改竄検事がいたのだから、ウィルス感染検事が出ないとは限らない。

 この非常時に民主党はなりふりかまわず国民監視法を通そうとしている。北沢俊美防衛相が直轄の自衛隊情報保全隊に佐藤正久自民党参院議員や田母神俊雄元航空幕僚長の講演会の潜入調査を命じていたことが問題になったが、反対派の徹底弾圧はレーニン、スターリン以来の社会主義者のお家芸だ。今回の法案もこうした民主党の本質の露呈と言える。民主党くらい民主主義に反した政党はない。

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