エディトリアル   April 2013

加藤弘一 Mar 2013までのエディトリアル
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4月 2日

 昨年評価が高かった「鍵泥棒のメソッド」を見た。売れない役者が、先頭で頭を打って記憶喪失になった殺し屋といれかわる話だが、よく出来ている。最優秀脚本賞は当然である。 主演は売れない役者役の堺雅人だが、殺し屋役の香川照之に完全に食われている。堺の服を自分の服だと思いこんで着ているが、その似合わなさ加減が笑わせる。意外に良かったのが広末涼子。立派なコメディエンヌである。

 併映の「かぞくのくに」もよかった。監督のヤン・ヨンヒ(梁英姫)氏は在日朝鮮人二世で、北朝鮮に移住した兄が脳腫瘍の治療のために一時帰国した時の体験を映画化したもの。

 ヤン氏の父親は朝鮮総聯の大幹部(映画では東京支部の現役の副委員長)で、三人の息子を1971年から1972年かけて北朝鮮に「帰国」させた。1999年に長男が治療のために特別に日本にもどることを許されるが、映画では3人の息子は1人に集約されている。

 映画では父親が大幹部というだけでは日本にもどれず、事業(パチンコ?)で成功した叔父が巨額の「寄付」をした結果、25年ぶりに日本にもどれたとなっているが、実際も似たような経緯があったのだろう。

 ヤン氏の出身は大阪の生野であるが、映画では東京の北千住になるなど、若干設定を変えているようだ。フィクションだから変えるのはかまわないが、この映画にはそれとは別次元のウソも含まれている。兄が北朝鮮へ移住した1970年代に北朝鮮が「地上の楽園」と考えられていたという部分だ。在日朝鮮人帰還事業は1950年代後半にはじまるが、数年で「地上の楽園」が虚偽だということが在日朝鮮人の間に広まり帰還希望者は激減してしまった。朝鮮総聯は帰還から日本在留に方針を転換し、1960年代前半には日本に居すわるための口実として朝鮮人強制連行の神話がでっちあげられた。1970年代には「地上の楽園」がウソであることは知れわたっていたはずなのである。

 ましてヒロインの父親は朝鮮総聯の大幹部であり、北朝鮮が生き地獄であることをよく知る立場にいた。北朝鮮側はおそらく父親に3人の息子を「人質」として差しだすように命じ、父親は自分の立場ないし思想を守るためにそれに従ったのだろう。叔父が新潟で最後に会った時に、兄は自分が「帰国」を断ったら父親の立場が悪くなるかなと言ったという台詞が出てくるが、兄は自分が人質として北に送られることを知っていたわけである。

 兄が監視人にせっつかれてヒロインを工作員に勧誘し、ヒロインが狂ったように拒否する場面があるが、その時の兄のうれしそうな顔は父親のようなことをしなくてすんだという意味だろう。

 この映画の一番の見どころは父親役の津嘉山正種の無残な表情である。生涯をささげた思想の誤りを目の前に突きつけられたインテリの惨めさは無残としか言いようがない。

 なおヤン氏は映画の完成にあわせて『兄 かぞくのくに』という手記を発表しているという。「地上の楽園」の部分をどう説明しているのか、ちょっと気になる。

 「かぞくのくに」のプログラムにヤン監督がベルリン映画祭で上演後のティーチインで語った内容が載っているが、「あの時代、在日の子供が日本の大学に行くことは、不可能に近かった」だと。ヤン監督の兄は姜尚中氏と同世代だと思うが、姜氏をはじめとして日本のアカデミズムで活躍している在日は多い。こんなウソを外国で言い触らして歩いているのか。(Apr05 2013)

4月 3日

 岩井俊二の「ヴァンパイア」を見た。魂の震える傑作。いわゆる吸血鬼ものではなく、吸血鬼妄想にとりつかれたシリアルキラーの話で、彼の周りに傷つきやすい女たちが吸い寄せられて来る。

 カナダで英語圏の俳優で撮った映画だが(蒼井優も出ているが小さな役)、完璧な岩井俊二作品になっている。こんなに繊細がカナダ人がいるはずはないが、もしかしたらいるのではと思えるような濃密な世界に酔った。

 併映の「ライク・サムワン・イン・ラブ」は逆にキアロスタミが日本で日本人の俳優を使って撮った映画だが、やはり完璧なキアロスタミ作品になっている。

 老学者のタカシ(奥野匡)は教え子(でんでん)にデート嬢の明子(高梨臨)を世話される。明子はタカシが勤めていた大学に通っていて、翌朝彼は明子を学校に送っていく。そこには明子の恋人のノリアキ(加瀬亮)が待っていてタカシを彼女の祖父と勘違いする。

 昔、クロード・ガ二オンが京都で撮った「KEIKO」という映画があり、すべて日本人なのにまったく洋画になっていて驚いたことがあったが、この映画も同じだ。岩井俊二の「ヴァンパイア」を見たカナダ人も似たような浮遊感を味わうのだろうか。

4月 4日

 「オズ さいしょの戦い」を3D日本語吹替版で見た。よく出来ていて、良質なディズニー映画の感動を久しぶりに味わえた。エンターテイメントの傑作といっていいだろう。3Dの使い方はかなり派手だが、初期とは比べものにならないくらい洗練されている。

 ボームの『オズの魔法使』の前日譚だが、ある意味、完全なネタバレである。有名な話だから今さらネタバレでもないということか。

4月 5日

 金子修介監督の「Living in Japan」を見た。3.11震災後、観光庁の依頼で日本が安全なことを知らせるために撮った35分の短編である。東京映画祭で上映するはずだったが、大人の事情でできなくなり、映画館で上映するのは今回が最初だという。

 2011年8月16日の一日を一人の女子高生(高良光莉)が誰もいない学校に行って一人遊びするエピソードを縦糸に、一般公募で集まった家族ビデオを織りこみながら日本の表情を描きだす集団創作映画である(実際はあまりビデオが集まらなかったので、友人に依頼して撮ってもらったビデオがあるそうだ)。

 高良光莉という女子高生が抜群によく、観光庁の予算で彼女のプロモーション・ビデオを撮ってしまったんじゃないかと思った。

 併映の「青いソラ白い雲」も震災がらみだが、3.11映画としては最高の一本ではないだろうか。ヒロインは棒読みだし、テンポは悪いし、どうなることかと思ったが、最後は感動した。

 セレブな生活を送っていた女子高生のリエは母親の離婚で卒業式間近の3月10日にロスに移住する。母親はアメリカ人と再婚するが、祖母との折合が悪く、リエはいたたまれずに東京の義父を頼って家出する。東京に着いてみると義父の旅行会社は倒産し、義父は詐欺罪で逮捕されてしまう。

 家には居座り屋がやってきて追いだされてしまい、キャッシュカードは使えなくなる。帰りの航空券は親切ごかしの男に盗まれ、かつての恋人には震災犬を押しつけられ、お金もなく、仕事もなく、孤立無援で震災後の東京で生きていかなければならなくなる。

 セレブな女の子を演ずるのは森泉の妹の森ひかりである。森星は貴族でも上流階級でもない「セレブ」という階層を体現していて、超低予算映画なのにセレブな雰囲気が出ていたのはまったく彼女のおかげだ。

 二本の上映後、金子修介監督のトークショーがあった。ウッディ・アレンの「ハンナとその姉妹」を意識したというが、御本人もウッディ・アレンに酷似している。話すネタがなかったらしく、撮影の裏話をあっけらかんと披露してくれたが、どんどん感動がしぼんでいった。ああいう話は聞かない方がよかった。

 今日は三本立てで、最後に園子温監督の「希望の国」が上映された。あまりいい評判は聞かなかったが、確かに設定に無理があり、絶叫芝居に興ざめ。「愛のむきだし」や「冷たい熱帯魚」と較べると見劣りがする。

 神楽坂恵が妊娠し暴走しはじめるあたりから面白くなるが、この映画を支えているのは舅の小野泰彦を演じた夏八木勲である。農家を営む泰彦は原発に反対で原発問題の知識があり、ガイガーカウンターも用意している。庭の一部が強制避難区域になると、泰彦は息子夫婦には逃げろというが、自分と妻(大谷直子)は家にとどまりつづける。この選択は賢明である。老人は逃げるより住みなれた家にとどまる方が余命が長くなるケースの方が多いと思う。泰彦の肚のすわり具合はかっこいい。

 前から不思議だったのだが、なぜ強制退去命令に不服申し立て手続をおこなう老人があらわれなかったのだろう。泰彦のように強制避難は無意味と考える老人はいないはずはないと思うが(実際、強制避難はまったく無意味である)、人権派弁護士は放射能ノイローゼで頭がおかしくなっているので、訴訟の手助けをしなかったということではないのかと疑っている。

 東大の渋谷健司氏らが「福島原発事故後の避難による高齢者死亡リスクの分析」というレポートを発表した。「事故直後の避難は、介護施設に居住する高齢者にとって最善の選択ではなかった可能性」があるとし、「高齢者の被害を最小限に食い止めるには、避難によるリスクと避難しない場合のリスクを検討する必要がある」と提言している。(Apr23 2013)

4月 6日

 東京都美術館で「エル・グレコ展」を見た。自画像の次にクレタ島時代に描いたイコンがあった。聖母子を描くマタイという入れ子になった絵で、マタイが描く聖母子は正真正銘のイコンだが、マタイの方はすでに写実っぽい。最初から西欧の絵画に憧れていたのだろう。

 展示は肖像画、聖人画、宗教画という順で、あい間あい間にイタリアの版画の模写をはさんでいる。肖像画からエル・グレコ流の宗教画が生まれたことがよくわかる構成だった。

 無原罪の御宿りが数点あったが、スペイン人は妙なことを考えるものだ。 終りだというのにそれほど混んでいなかった。少女マンガっぽくて、日本人受けする画家だと思うが、なぜ人気がいまいちなのだろう。

4月 8日

 アンジエイ・ワイダの「菖蒲」を見た。癌で夫を喪った女優が末期癌のヒロインを演ずるという入れ子構造の映画で、随所に撮影風景を挿入している。物語のクライマックスにバックステージのクライマックスをぶつけていて、それがちゃんとまとまっていて、思いがけない死の到来に奥行を生みだしているのが凄い。

 表題になっている菖蒲は日本の菖蒲と同じに見えた。日本では菖蒲は端午の節句に使われるが、ポーランドではやはり五月の聖霊降誕祭に使われるそうだ。

 併映の「ソハの地下水道」 は傑作である。ソハという下水道検査官が下水道に隠れたユダヤ人を助けるホロコーストもので、ソハは最初は金が目的で、えげつなく金をしぼりとろうとするが、しだいに情にほだされていき、無償で助けるようになる。マーシャルの同題の小説(集英社文庫)が原作だが、なんと実話だそうである。生き残った女の子が最近書いた回想録も出版されているという。

 地下水道というときれいに聞こえるが、実際は汚物を流す下水道である。ホランド監督はモデルとなったリヴォフの下水道にはいったが、あまりの悪臭に三時間の予定を一時間で切り上げたそうだ。そんな中にユダヤ人たちは14ヶ月間も潜んでいた。

 舞台となったリヴォフ(現在はウクライナのリヴィウ)はウクライナ西部のガリツィア地方の中心都市で、第二次大戦前はポーランド人の街だったそうだ。ガリツィアが難しい土地であることは佐藤優の『甦える怪物』で読んでいたが、映画ではポーランド語、ウクライナ語、イディッシュ語、ドイツ語が飛びかう。ウクライナ人がナチスを解放軍と歓迎し、積極的に協力した歴史が背景にある。

4月 9日

 新文芸座の藤純子特集で「日本侠客伝 斬り込み」を見た。一人息子の秀男を連れた渡世人中村真三(高倉健)が秀男の入院費用に困っているところをテキ屋の親分の源蔵に救われる。

 弱肉強食の東京のテキ屋の世界を正してくれと源蔵に請われ、真三は新宿に赴き、新興勢力に脅かされている露天商たちのために一肌脱ぐというストーリー。藤純子は源蔵の一人娘お京で、秀男の母親代りをしているうちに真三に惚れるという役どころだが、超絶的に愛らしい。藤純子はこの映画では地味な格好だが、クライマックスで高倉健を男にするために芸者になる。割烹着から芸者姿に変わる場面はぞくぞくする。

 ヤクザとテキ屋が稼業違いであることは作中で何度も念を押されているが、どこがどう違うのかよくわからない。任侠道と神農道、どう違うのだろう。

 併映の「日本大侠客」は前に見たことがあるが、二度目もよかった。藤純子はこちらでも高倉健を男にするために身を売る役である。

4月10日

 新文芸座の藤純子特集で「八州遊侠伝 男の盃」を見た。藤純子のデビュー作だが、最初から準主役で出ている。国定忠次もののヴァリエーションで、忠次処刑の一年後、忠次の子分が仕切っていた上州磯部温泉に謎の男(片岡千恵蔵)が訪れる。忠次の威光で夏祭は所場代をはらわずに商売できたが、安中の黒岩一家が勢力を伸ばしてきて露天商たちに法外な所場代を要求する。

 磯辺の治安は目明しの藤兵衛(志村喬)が預かっていたが、老齢なので頼りにならない。藤兵衛の息子の佐太郎は黒岩一家に目明かし株を高値で売り払おうと画策するひ弱な男だが、演ずるのはなんと千葉真一(!)。ひょろひょろした優男で、後年の千葉真一からは想像できない。その佐太郎に惚れているお千代が藤純子。ストーリーは予想通りの展開だったが、片岡千恵蔵と志村喬の対決の場面は見ごたえがある。昔の役者は凄かった。

 併映の「大阪ど根性物語 どえらい奴」は大正時代に霊柩車を考案し、葬儀革命を起こした男の苦闘時代を描いた人情コメディで、思いがけない拾い物。

 勇造は子供の頃父親を亡くし、自分で棺桶を大八車に載せて火葬場に曳いていくが、籠花という大手葬儀屋の葬列にぶつかり、棺桶を転がされる。それを助けたのが籠為の主人為次郎(曽我廼家明蝶)で、勇造は籠為で働くようになる。

 昭和はじめまでの葬列は大名行列を模した大行列をつらね、先頭で毛槍を振るという大仰なもの。籠為は江戸時代から大阪城代の人足の手配をしていた家柄で、大名行列のプロだが、新興勢力に押されて経営が苦しくなっている。成人した勇造(藤田まこと)は霊柩車を思いつき、提案するが伝統にこだわる為次郎にはねつけられる。あきらめきれない勇造は独立し、運転手の友人(長門裕之)と博益社を創業する。為次郎の娘の美津(藤純子)は嫁入道具代わりに葬儀用具一式をもっておしかけてて新生活がはじまるが、霊柩車は斬新すぎて仕事がまったく来ない。

 自動車に憧れて死んだ孫のために霊柩車で葬式を出したいという老婆の依頼が初仕事になり、勇造は安くできる葬儀を思いつく。博益社は「拾円から壱万円まで」を売り文句に業績を伸ばしていくが、そこに因縁の籠花が立ちはだかる……。

 今のような葬儀は大正時代にはじまるというのは知らなかった。井上章一『霊柩車の誕生』あたりに書いてあるのだろうか。

4月11日

 新文芸座の藤純子特集で「日本女侠伝 侠客芸者」を見た。藤純子の最高傑作と言っている人もいるが、立ちまわりがない。まあ、女侠伝はそういうシリーズなのだが。

 その代わり藤純子の踊りはたっぷり見られるし、仲間を守るために幇間まで巻きこんでストをする博多芸者の心意気も見どころ。幇間役は藤山寛美。若山富三郎は陸軍大臣だが、「緋牡丹」シリーズの熊寅親分を思わせるコミカルな後見人。高倉健は人間的な経営を掲げる花田炭鉱の番頭格で、筑豊の炭鉱をすべて手に入れようとする大須賀(金子信雄)と対決する。

 併映は「日本女侠伝 血斗乱れ花」。こちらも筑豊の炭鉱王に弱小炭鉱が立ち向かう話だが、藤純子自身が炭鉱のオーナーになり、高倉は助ける側にまわる。

 平野てい(藤純子)は船場の呉服問屋の家付娘だったが、婿(津川雅彦)は家業を嫌い、炭鉱で一攫千金を狙う山師に。ついに炭層を発見するものの落盤で頓死。ていは亡夫の遺志を継ぐために船場の店を処分して炭鉱の経営者になるが、女となめられた上に船場とはまったく勝手が違い、坑夫すら集められない。そこに助け船を出したのが幸次(高倉健)。彼は名山頭の吉岡銀蔵(水島道太郎)の息子だったが、坑夫を嫌い、石炭を運ぶ川船頭になっていた。幸次の紹介で銀蔵が山を仕切ることになりようやく採算がとれるようになるが、断層にぶつかったり、その後も苦難がつづく。

 面白いのは彼女が船場の商人文化をもちこんだこと。石炭問屋のカルテルにあくまで抵抗しつづけるのも船場商人の娘だからだ。ていの周りで起こる悲劇は文化摩擦なのである。「お姫様みたいな顔をして本当は鬼だ」という台詞が出てくるが、まったくその通り。彼女が筑豊に来なかったらみんな畳の上で死ねただろうに。

 前から気になっていたTWINBIRDのモミダッシュFLEXがこなれた値段になっていたので買ってみた。一ヶ月ほど使っているが、これはいい。思いがけないことに頭痛に効果がある。頭痛がはじまりかけた時にこれで頭皮をマッサージすると軽くすむ。あくまで緊張性の頭痛限定だが。

4月14日

 来年に迫ったWindowXPのサポート停止がニュースになっているが、XPを使いつづけているのは経費の問題だけではない。Vista以降ではまともに動かないソフトがあるのだ。わたしの場合、日本語IMEの「VJE」と文書型データベースの「知子の情報」がVista以降では駄目である。

 「知子」はWindows7の互換モードでは一応動くが、動作が安定せず、入力途中の文書が消えたことが何度もある。エディタで書いてから貼りこむようにしているが、エディタ感覚で長文編集ができるのが「知子」の利点なので、これでは困るのだ。

 「VJE」はWindows7の標準モードでも使えるものの、ユーザー辞書が使えず学習機能も働かない。互換モードではユーザー辞書も学習機能も使えるが、単語登録機能や削除機能が使えない。だからXPで辞書を定期的にメンテナンスし、Windows7にもどしてやる必要があるのだ。

 読書記録や芝居や映画の感想は全部「知子」で管理しているし、「VJE」は9801以来20年以上使いつづけているので指遣いも、変換の癖も、体に染みついてしまっている。Window8に対応した新版が出てくれればいいのだが、「知子」の開発元のテグレットはパッケージソフトから撤退し、「VJE」のVACSは廃業してソースコードはソフトバンクに売却したと聞く。XPが使えなくなったら困るのだ。いったいどうしたらいいのだ。

4月17日

 キーラ・ナイトレーの「アンナ・カレーニナ」を見た。ソフィー・マルソー版とかいくつか見てきたが、最高傑作とまではいわないにしても、異色作として記憶に残りつづける強烈な「アンナ・カレーニナ」だ。まず、芝居仕立ての趣向が決まっている。 額縁舞台に俳優がぎっしりひしめいているが、この人口密度の高さが後半のアンナが追いつめられていく場面で効いてくる。アンナの不倫を恥じない誇り高さが貴族社会の反発をまねき、いわばイジメによってアンナは狂っていくが、人口密度が高いので冷たい視線が弾幕となって押し寄せてくるのだ。

 原作でもこれまでの映画でもぼかされていた不倫の理由を性的不満と身も蓋もなく描いたのも痛快だ。さすがに直接的な描写はないが、ヴローニンとの踊る場面のエロチックなこと。アンナを欲求不満にするカレーニンをジュード・ローが演じているのはチャレンジだが、ちゃんとそういう男に見える。十年間なら彼がヴローニンでもおかしくなかったろう。

4月19日

 アンソニー・ホプキンスとヘレン・ミレン「ヒッチコック」を見た。60歳になってマンネリの危機に陥ったヒッチコックは自宅を抵当にいれてまで「サイコ」の製作に賭けるが、それまでずっと映画製作をささえてくれた妻のアルマは男前の脚本家との共同執筆に熱中。ヒッチコックは嫉妬心にかられ、撮影に打ちこめない。出来あがったフィルムは駄作で万事休す。

 助け船を出したのは今回もアルマで、フィルムの再編集を手伝ってみごとに作品を甦えらせる。二人は元の鞘におさまり、「サイコ」は空前のヒットになり、めでたしめでたし。

 先日「世界の偉大なる映画NO.1」に選ばれた「めまい」が失敗作として言及されるなどトリビアがたくさんはいっている。

 原作の「ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ」は「サイコ」の背景を実証的に描いたノンフィクションとして定評がある。1990年に翻訳されたものの長らく絶版だったが、映画化されたので復刊された。

 同書だけでなく「サイコ」に関する証言は多い。この映画のDVDには特典ディスクが2、3枚ついてもおかしくないと思うが、どうなるだろうか。

4月20日

 「シュガー・ラッシュ」を3D日本語吹替版で見た。人間が寝静まった後、ゲームのキャラクターたちが自分の生活をはじめるという設定なので「トイ・ストーリー」の二番煎じかと思ったが、そうではなかった。

 後半、大きな謎が出てきて、それが伏線を回収しながらみごとに大団円をむかえる。泣かせる場面もたっぷりある。Pixarにしてやられたと思うが、ここまでうまく決めてくれると「トイ・ストーリー」に匹敵する傑作といっていい。見るべし。

4月23日

 パルコ劇場で寺山修司の「レミング」を見た。この芝居は1982年の再演を見ている。寺山演出の舞台を見たのは後にも先にもこの一本だけで、上演後寺山は病床につき翌年亡くなった。最後の演出作品をぎりぎりで見ることができたわけだった。

 とはいっても面白くはなく、ビジョンに役者がついていけず、安っぽい印象をもった。丸い洒落た帽子をかぶった人がたくさん出てきたことと青い照明が記憶に残っている。

 没後30年で最後の演出作品がまた舞台にかかったわけだが、8bitの安っぽいゲームが最新の高解像度グラフィックと7.1チャンネルサラウンドで甦えった感じで、寺山はこういうことをやりたかったのだなと得心した。役者の技術がアングラ時代とは格段に違う。

 「サンセット大通り」ばりの大女優を演じる常盤貴子はオーラがギラギラしているし、彼女の夢に閉じこめられる八嶋智人もちゃんと夢に閉じこめられた男に見える。八嶋の母親を演じる松重の怪演もなかなか。

 今回も丸い帽子の集団が出てくるが、照明は古い写真を想わせるセピア調の色合に統一されている。ストーリーは1979年の初演版にもどしたらしく、再演以降に上演されて来たものとは違うらしい。そのうち『寺山修司幻想劇集』で確認したい。

 ロビーでU氏に出くわした。U氏は目下電子書籍の台風の目の渦中にいる人で、寺山とは結びつかなかったが、毎月やっている観劇会で来たとのこと。知りあいと劇場や映画館で出くわすと、悪いことをしているところを見つかったような落ちつかない気分になる。

4月24日

 早稲田松竹のオディアール特集で「預言者」を見た。これは歴史的傑作だ。今世紀になってみた映画の中では文句なしにベスト1である。

 マリク(タハール・ラヒム)という孤児院育ちのアラブ系の青年が懲役6年を宣告されて刑務所にはいる。刑務所は多数派のアラブ系と少数派のコルシカ系が派閥をつくって対立していた。マリクはアラブ系グループの大物のレイェブに目をかけられるが、レイェブは司法取引でコルシカマフィアのボスに不利な証言をしようとしていた。

 コルシカ系のリーダーのセザール(ニエル・アレストリュプ)はマリクを脅してレイェブを殺させようとする。マリクは看守に密告するが、看守はコルシカ・グループに買収されていた。逃げ場がなくなったマリクはレイェブをカミソリで殺し、自殺に見せかける。この手柄でマリクはアラブ系ながらコルシカ・グループの一員となり、パシリをやらされるようになる。

 自分の名前しか書けなかったマリクは刑務所で文字を習い、手紙が書けるようになるが、レイェブの幽霊があらわれ有益な忠告をしてくれるようになる。マリクはコルシカ語もおぼえてしまうが、それを知ったセザールは彼を仲間の監視役に使い、懐刀として重用していく。マリクはセザールの工作で外出が許されるようになり、外部との連絡役になる。

 マリクは外出時にアラブ系の仲間の麻薬ビジネスをとりもち、セザールの目の届かないところで自分の勢力を広げはじめる。一方コルシカ・マフィアに内部対立が生まれ、セザールはマリクにコルシカ・マフィアのボスを殺してこいと命ずるが……

 矯正施設のはずの刑務所が者育成施設になっていると言われているがフランスも似たようなもので、チンピラにすぎなかったマリクは顔役として頭角をあらわしていく。単なる犯罪者ではなく、霊的に成長し、仲間に信頼される裏世界の指導者になっていくところがこの映画の眼目だろう。

 併映の「真夜中のピアニスト」もすばらしかった。一口に言うと、悪徳不動産屋がピアニストを目指す話である。

 不動産屋のトム(ロマン・デュリス)は地上げした物件から入居者を追いだすために鼠を放したり、バッドで殴りこんだりといった荒くれた日々を送っているが、18歳の時に死別した母親はピアニストであり、彼もピアノのレッスンを受けていた。 トムは街で母親のマネージャーだったフォックスを見かけ、声をかける。フォックスはトムがピアノから十年以上離れているとは知らず、オーディションをしようと申し出る。トムはピアニストになる夢を思いだし、中国人留学生のミャオリンのレッスンを受けるようになる。

 ピアノに夢中になるあまり、トムは本業がおろそかになり、仕事仲間とまずくなる。その一方、父親のロベール(ニエル・アレストリュプ)はロシア・マフィアとのトラブルをもちこみ、トムは危ない橋をわたる破目になる。ついにオーディションの日が来るが……

 クラシックと不動産屋という両極端の世界のぶつかりあいが異様に緊迫した映像を作りだしていき、まさかのラストに雪崩れこんでいく。「預言者」のようなスケール感はないが、これはこれで凄い映画だ。

4月25日

 「舟を編む」を見た。昨年度の本屋大賞を受賞した三浦しおんの同題の小説の映画化で、見終わってからどんどん印象が深まってくる。これはいい映画だ。

 辞書を作る話だが、出版社の社員にリアリティがある。出版関係を題材にした映画やTVドラマは多いが、大体が歯が浮いたような描写である。ところがこの映画に登場する編集者は現実にいそうなのだ。馬締のような人には会ったことはないが、辞書部門にひっそり棲息しているのかもしれない。

4月26日

 シネマ・ヴェーラのウェスタン特集で「リオ・グランデの砦」を見た。古きよき西部劇を劇場で見たのははじめてだが、なかなかよかった。

 メキシコとの国境に近い最前線の砦を守るヨーク大佐(ジョン・ウェイン)のところに15年前に別れた息子が新兵として配属されてくる。息子はウェストポイント士官学校に入学したが、数学で落第して退学し、陸軍に志願兵として入隊したのだ。さらに息子を学校に戻すために別れた妻までやってくる。

 一方、インディアン側はアパッチを中心に三部族連合が成立し、砦は危険になる。女子供を安全な基地に移そうとするが、途中で襲われ子供たちをさらわれてしまう。ヨーク大佐は子供たちをとりもどすために決死隊を送りだすが、そこに息子がはいってしまう……

 緊迫した話なのに軍楽隊がのんびりしたウェスタンを披露する場面がいくつもはさまり、ニューシネマ以降の西部劇とはまったく違う時間が流れている。ジョン・ウェインはアメリカの父親そのもの。母親役のモーリン・オハラのきりっとした美しさも印象的。

 併映の「ウィンチェスター'73」も面白かった。何千丁に一丁完璧な銃ができて、ウィンチェスター社では銃床に銘板をつけて大統領や特別な人への贈物にしていたそうだ。その特別な銃が西部の町の射撃大会の賞品になったことからはじまるお話で、銃の争奪戦に兄弟の因縁話がからむ。やはりテンポが最近の西部劇とはまったく違いゆったりしている。退屈と感じる人もいるだろうが、こういう往年の名作は一度は見ておいた方がいい。

 シアターXでポーランドのヴィエルシャリン劇団の「マネキン人形論」を見た。原作はマネキン人形に生命をあたえるというシュルツの幻想的な物語。ヴィエルシャリン劇団は人形劇の劇団だが、この芝居は人形ではなく人形に扮した俳優が演じる。

 人形のふりをするのは最初だけで、すぐに人間にもどってしまう。人形のふりも歌舞伎の人形ぶりのような繊細な動きではなく、木偶人形のようなぎくしゃくした乱暴な動きだ。ゴーレムという言葉が何度も出てきたが、ゴーレム伝説が背景にあるようだ。

 舞台装置も殺伐としている。柵のように細長い板を透き間をあけて打ちつけただけの塀。板に巻きつけたラップが闇の中で光っている。板の透き間の向こうにランタンの灯りがもれ、息子が塀の外に出てくると巻きつけてあったラップを剥がしていく。

 舞台上端には黒電話の受話器が吊革のようにずらりと下がっている。父親はユビュ王みたいに唯我独尊だが、家政婦のアデラは『ER』のロマノのようなオヤジ俳優が演じている。息子は狂言回しで、住込みのお針子になったりドイツ兵になったりする。

 グロテスクで泥臭いユーモアはシュヴァンクマイエルに似ているが、都会的な洗練を感じさせるのは原作のせいか。原作は平凡社ライブラリーの『シュルツ全小説』にはいっているよし。

 終演後のティーチインでは演出家のトマシュクが滔々と自説をレクチャーした。第二次大戦とその後の共産党支配で根絶されたユダヤ文化を回顧する意義を語っていたが、劇団が本拠とするのはガリチア地方で、「ソハの地下水道」の近くらしい。

4月30日

 新文芸座で「鉄道員」を見た。東宝系のシネコンの「午前十時の映画祭」でデジタル上演されているもので、画質・音質ともにすこぶるいい。名画として名高いが、面白いかというと微妙。ピエトロ・ジェルミ自身が演じる機関士の父親がバカすぎて理解不能。長女役の シルヴァ・コシナの美しさを愛でればいい映画なのかもしれない。

 併映の「禁じられた遊び」も状態はいいが、設定のいい加減さが気になった。もちろん意図的にメルヘンにしているのだろうが、ほとんどナルシソ・イエペスの音楽でもっている映画。

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