ソシュール 『新訳 一般言語学講義』

加藤弘一

 ソシュールの『一般言語学講義』(以下、『講義』)の翻訳が世界で最初に出たのは日本である。1928年に小林英夫によって上梓された『言語学原論』(岡書院)がそれで、何度か改訳され、表題も『一般言語学講義』(岩波書店)にもどされて版を重ねてきたが、現在は絶版である(『講義』の原文はWikisourceに全文が公開されている)。

 世界に先駆けて日本にソシュールを紹介した小林英夫の功績は特筆すべきだが、翻訳には残念ながら寿命がある。

 本当だったら小林の最後の改訳の30年後の2002年前後に新訳が出てもよかったと思うが、丸山圭三郎の『ソシュールの思想』で、『講義』はソシュールの思想を忠実に伝えるものではないという見方が広がったことも影響したのだろうか、新訳が出ることはなかった。

 むしろ注目されたのは『講義』のもとになった原資料の方だった。まずリードランジェの第二回講義のノートの前半が『ソシュール講義注解』として前田英樹氏によって上梓され、三回の講義も2003年から2008年にかけて相原奈津江氏によってすべて訳出されている(第一回と第二回はリードランジェ、第三回はコンスタンタン)。2007年にはもっとも忠実な筆録とされる『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』が影浦峡・田中久美子両氏によって再訳された。また、小林訳の版元である岩波書店はガリマールから出た原資料集(Écrits de linguistique générale)を全四巻の『フェルディナン・ド・ソシュール「一般言語学」著作集』として出すことを決めていて、第一巻の『自筆草稿『言語の科学』』がすでに刊行されている。

 原資料によってソシュール観が一変したかどうかは保留しておくが、フランスの思想家のみならず、世界中に影響をあたえ、構造主義を生みだし、記号学に光をあてたのは原資料のソシュールではなく、『講義』のソシュールだったということは押さえておこう。バルトやフーコー、ラカンはいうまでもなく、時枝誠記や吉本隆明を論ずるにも『講義』は読んでおかなければならない本なのである。

 その意味で、昨年出版された町田健氏の『新訳 一般言語学講義』の意義はまことに大きい。

 ひさびさに『講義』を読んでみたが、とても読みやすく、思いのほか、刺激的だった。句読点が「;」「,」「.」ではなく「、」「。」になり、人名がアルファベット表記ではなくカタカナ表記になっていることも読みやすさに影響しているだろう。注が脚注として、同じページの下段に配置されているのはありがたい。

 小林の最後の改訳は一語一訳語主義を徹底していて、langage は術語として使われていない文脈でも「言語活動」、langue は「言語」、parole は「言」と訳していたために、かなりぎこちない訳文になっていた(改訳が出て数年後、川本茂雄の授業をとったが、川本は今度の改訳は読みにくいから、古本屋で前の版を探した方がいいと語っていた)。

 町田訳では術語として使われる場合は「ランガージュ」、「ラング」、「パロール」のようにカタカナ書き、一般的な単語として使われる場合は文脈に応じて訳しわけており、ソシュールの思想がよりくっきりと浮かび上がってくる。

 具体的に見ていこう。まず、小林訳。

 もっともそのようなたえまなき進化は,文学語に注意をむけていると,眼に映らないことがおおい; これは,p275以下に見るように,俗語すなわち自然語の上にかさなり,べつの存在条件にしたがう.いったん成立すると,おおむね安定をたもち,いつまでも同じであろうとする; 書への依存はそれの保存にかくべつの保証を与える.それゆえ文学の羈絆をまったく脱した自然語が,どのていどまで変りうるかを示すことができるものは,それではない.(小林訳)

 小林訳は漢字を無理に開いているところが多い。「おおい」、「たえまなき」、「かくべつ」、「ていど」などは漢字のままの方が読みやすいだろう。戦後の一時期、漢字制限論の影響でひらがなだらけの文体がはやったが、小林もその影響圏内にいたのだろうか。

 町田訳の措辞は普通である。

 この絶え間ない進化が、文学語に関心が向けられることによって、覆い隠されてしまうことがよくあるのは事実である。文学語は、p273以下で見るように、大衆の言語、つまり自然的なラングの上に重なっていて、これとは別の存在条件に従っている。文学語は、一度形作られると、一般的にはかなり安定しており、もとの状態のままに止まる傾向にある。文学語の基礎が文字表記にあることも、それが保持されることを特別に保証する確実な根拠となっている。したがって、文学語のあらゆる規制から逃れた自然的なラングが、どの程度多様であるのかを示してくれるのは、文学語ではない。(町田訳)

 この段落には la langue littéraire、la langue vulgair、la langue naturelle と、三種類の la langue が出てくるが、町田訳では la langue naturelle だけをラングと訳している。訳し分けたことで非常にわかりやすくなっている。また、écritur は「書」より「文字表記」とした方が直感的に呑みこみやすい。

 次は言語学の対象を定義した部分を読んでみよう。

 言語を組みたてる記号は,抽象物ではなくて,現実的対象である.言語学が研究するのはそれら,およびそれらの関係である; それらをこの科学の具体的実在体(entité concrète)とよぶことができる.(小林訳)

 町田訳はこうだ。

 ラングを構成する記号は、抽象的存在ではなく、具体的な対象である。言語学が研究するのは記号と記号の間の関係である。これらを、言語学の「具体的な実体」と呼ぶことができる。(町田訳)

 「ラング」なんてわからないという人もいるだろうが、ここは術語として使われているのだから、「言語」として変にわかってしまわない方がいいのだ。

 次は能力という観点から言語と記号の関係を論じた条である。

失語症と失書症のすべての事例において,冒されるのは,なにがしの音を発し・なにがしの記号を書く能力でありよりも,むしろなんらかの道具を用いて,正規の言語活動の記号を喚びおこす能力である.以上を総合してみると,諸種の器官の働きの上に,さらに広汎な能力があって,それが記号に号令し,そしてそれがすぐれて言語能力であるように思われる.(小林訳)

 「記号に号令」はかなり苦しい。町田訳を見よう。

失語症と失書症のすべての事例で、損傷を受けるのは、ある特定の音声を発したり、ある特定の文字を書いたりする能力ではなく、どんな身体部位であれそれを使用して、通常のランガージュに属する記号を喚起する能力である。以上の事例すべてをもとにした考察から導き出されるのは、さまざまの器官の働きの上位に、もっと一般的な、記号を操作する能力があり、まさにこれこそが言語能力に当たるはずだということである。(町田訳)

 ソシュールでもっとも重要な記号の「差異」の条を見てみよう。

 記号どうし――積極的辞項――を比較するやいなや,もはや差異とはいえなくなる; その言い方は当をえない,というのもそれは正しくは二個の聴覚映像,たとえばチチとハハの比較にしか,あるいは二個の観念,たとえば「父」と「母」の観念のそれにしか,適用されないからである; それぞれ一個の所記と一個の能記とをもつ二個の記号は,差異するものではなくて,ただ分明なのである.それらのあいだには対立しかない.言語活動の機構はすべて,いずれのちに論及するが,このたぐいの対立と,それが内含音的差異および概念的差異とにもとづくのである.(小林訳)

 positive と negative を「積極的」「消極的」と訳しているが、現在では「肯定的」「否定的」の方が一般的だし、差異の体系という観点からも適切である。町田訳はそうなっている。

 肯定的な項目としての記号を相互に比較しようとすると、今度はもう相違が問題ではなくなる。いやこの言い方は適切ではないだろう。なぜならばこれは、例えば père と mère のような2つの聴覚映像、あるいは例えば <<père>> という観念と <<mère>> という観念のような、2つの観念の間の比較にしか当てはまらないからである。そらぞれシニフィエとシニフィアンを含む2つの記号は、異なっているのではなく、ただ区別されているだけなのである。つまり、これらの間には「対立」しかないということである。ランガージュの機構については、後に問題にするが、その全体がこの種の対立と、この対立が含意する音的な差異と概念的な差異に基礎を置いている。(町田訳)

 町田訳の訳語は今後、標準になっていくものと思われるが、ただ一つ残念なのは image acoustique を「聴覚映像」のままにしていることだ。聴覚で「映像」というのはどうしても抵抗がある。「聴覚イメージ」とするか「聴覚心象」とした方がよかったのではないだろうか。

 なお、意図的にだと思うが、脚注では原資料との異同についてはまったく触れられていない。原資料との比較はソシュール文献学という別の分野の議論になるが、結語の

「言語学の唯一にして真性の対象は、それ自身で、それ自身のために考察される言語である」。(町田訳)

のように、明らかに編者の加筆とわかっている部分くらいは注記してもよかったのではないかと思う。