ラヴクラフト ──うめつくす言葉

加藤弘一 訳

題名の幾何学

 ラヴクラフトの作品集をひらく時の楽しみは、まず目次にある。無雑作につけられた題にまじって、思いがけないみごとな題名が燃えている。たとえば、

The Festival
The Colour out of Space
The Shadow out of Time

単純でありながら思わせぶりで、人なつっこい熱狂を放散するこれらの題名はむしろ最もラヴクラフト的といえようが、わたしはその魅力にさからわない。ラヴクラフトになじめぬ人には魅力でも何でもないかもしれないが、それでも邦題とくらべてみるなら簡潔さを認めぬわけにはいかぬだろう。すなわち、「暗黒の秘儀」、「異次元の色彩」、「超時間の影」になってしまうのである。

 この国ではこと題名に関する限り、ラヴクラフトは怪奇映画か猟奇映画同様の扱いを受けているらしい。もっとも、それが本来の形と言えないこともないし、また、彼の遺した作品の一覧表を見ていくと題名で苦しんだとか楽しんだとかはまったく考えられないのも事実である。英国恐怖小説には気取りと茶目っけの伝統があり、「シルヴィアは誰?」、「若者よ、笛吹かばわれ行かん」のような詩句をかりたものも少なくなく、概して瀟洒だが、アメリカの場合は「ママースの怪物神」、「氷神の娘」のように、おどろおどろしい題名が多く、いずれにせよ本文におとらぬ作家の腕の見せどころだったと言って差し支えない。小説の舞台づくりには念をいれたラヴクラフトだったが、こと題に関しては実用的な態度で終始したようである。

 初期作品には簡単な題が多い。「ダゴン」。「しろい船」。「セレフアイス」。「神殿」。いずれも小説の主題となる事柄、恐怖であれ魅惑であれラヴクラフトが読者とともに生きようとする衝迫のむかう事柄が作品を代表している。この無頓着さを同人誌という発表の場にむすびつけようとする人もいるかもしれない。しかし、職業作家の仲間入りをした『ウェアード・テールズ』参加後の作品についても、この無関心はつづいていると見なくてはならない。「ダニッチの怪」、『チャールズ・ウォードの事件』、「壁の中の鼠」、「地下室の中で」云々。趣味的でも煽情的でもなく、あいかわらず実務的である。だが、ある転調が見られることもたしかである。

 ラヴクラフトは二〇年代の後半にはいってから、いわゆるクトゥルー神話の体系によって自己の創作を体系化しょうとしたが、今、クトゥルー神話の構想が芽生えた二三年で二分し、「ひそめる恐怖」以前を前期、「暗黒の秘儀」以降を後期としょう。長短編あわせて五十一編の作品は前期二十五編、後期二十六編と作品数の上でほぼ等分されたわけである。

 ある転調と書いた。それはまず題が長くなったことである。前期が平均2.7語であるのにたいし(当然、一語一題がおおい)後期は4.1語である。どんな品詞がふえたのか? それは少なくとも形容詞ではない(全形容詞数、前期6/後期8)。それゆえ形容詞の厚化粧はラヴクラフトの題名とは無縁である。名詞はこれよりはふえているが増加率は19%にとどまり総語数の46%増にはおよばない。いちじるしい増加を見せているのは前置詞である。9語から20語へ実に倍以上にふえている。量的に増加しただけだろうか? そうではない。前期の場合、所属・同格関係をあらわすof(名詞を形容詞化するにすぎない)が三分の二の6語をしめているが後期でも同じ6語でしかない。ふえているのは前期には見られなかったover, out of, in, at, on, といった空間・位置関係にかかわる前置詞で13語におよび、三分の二をしめている。事実、「ダゴン」、「セレファイス」のように恐怖の対象を直接に指さす題にかわって、「壁の中の鼠」、「上がり段の上の生き物」、「地下室の中で」のようなある空間を生み出し、その中で構図をきめる題名が主流になっている。名詞句の構造化は空間の構造化に対応しているのである。いわゆる「ラヴクラフト調」を見出した後のラヴクラフトには強力な空間志向があったと見なければなるまい。 後期の題名では空間化は一種の完成の域にたっしている。

The Shadow over Insmous
The Shadow out of Time

 一方がインスマスという想像上の都市の上に投じられた影なら、他方は広漠たる時間の彼方から投げかけられた影であり正確に反転関係にある。しかもover, out of, という前置詞はこの場合単に静的な構図だけでなく、襲来する/襲来されるという運動をも含意しているといっていい。そしてもはやいうまでもなく、この力動的な構図はクトゥルー神話の構造を反映したものだ。事実この二つの題名と共鳴をかわすもう一つの題名 The Colour out of Spaceはクトゥルー神話体系が最終的に結晶した直後に出現したのである。われわれはこの数語のうちにクトゥルー神話の要約を見てとることもできるし神話体系という構造物によって自己の一切の夢想を掬いあげようとしたラヴクラフトの冷たい情熱を認めてもさしつかえあるまい。だが、ラヴクラフトの題名はそのようないい方のとどかぬ彼方の空間をあやしく明滅しながら運行しているのである。

境界領域

 「インスマスに落ちた影」の語り手を思いかえしていただきたい。彼は深夜の街路を逃げまわるが決して窮地に追いこまれることはない。ラヴクラフトは一度はずした扉のとめ金を彼のために部屋に残しておきもすれば、追手を不自然なほど無能にもし、過度の幸運を用意しさえする。追跡小説としてはいささか御都合主義がすぎるだろうか。もう一度読みかえしてみよう。都合のいい偶然は彼を追手の手からのがれさせる。しかし、恐怖からではない。追跡をのがれればのがれるほど彼はインスマスの奥深くへ、つまり恐怖の核心へ迷いこんでいく。彼は「幸運」にみちびかれるまま人間界と怪物界をへだてる境界線の上を右往左往するのだ。それは恐怖だろうか。むしろ「幸運」ではないのか。現実不適応の気味のある彼は恐怖によって元気づく。異界との接触が彼に生気をとりもどさせる。

〔走り去る車を〕見送っていると少し薄らいでいたなまぐさい臭気が俄にたちこめてきて私は息がつまりそうになった──その時だ──ぶざまなへたりこんだかっこうのものがドタリヨロヨロ同じ方角から一隊となってやって来るのが見えたのである。こいつはイプスイッチ街道警備の隊に相違ないとわかったが、それというのは当の車道はエリオット街からつづいていたからだ。ちらと見えた姿のうち二匹はかさばった長衣をまとい一匹は月光に真白にきらめく冠をのせていた。そいつの歩きぶりがあんまり妙だったので私は背筋が寒くなった──なにしろその生き物ときたらピョコピョコ跳ねているとしか見えなかったのである。(「インスマスに落ちた影」

 ラヴクラフトの語調に一種の愉悦を聞きのがしてはならない。彼らは警備中なのだがバルスームや階層宇宙の警備兵とはちがってまるで祭におもむく途中のように浮き浮きし、これを描写するラヴクラフトの筆致も楽しそうに浮きたっている。幸福はこの情景をひたす地上のものならぬ光によって優しく護られている。この情景は地上の情景ではない。水中の情景なのだ。叙述は三重に水中化されている。第一に半魚半蛙族の登場によって。第二に彼らのさわがしい歩き方(初めで指示されるぶざまな歩き方は最後にいたると水をえたような飛び跳ねとなって辺りを圧倒してしまう)によって。第三に情景全体にしみわたる月光(ファージョンの 「海の赤ん坊」を思いだしていただきたい)によって。バシュラールを引くまでもなく月光は滋味にとんだ母性的な水なのである。語り手は──ラヴクラフトは、といいかえてもいい──ここにいたって恐怖しているのか魅惑されているのかわからなくなってしまう。だがすべて恐怖とは初めから両義的なものなのではないだろうか。それにしても如何なる恐怖かという当初の問はかたづいたわけではなく今あらためて問われなければならない。語り手は何を恐れ何に魅せられているのか。バラードの「よみがえる海」()と比較しても場違いではあるまい。どちらも現実社会からはみだした主人公が海辺へ行き無意識そのものである海に脅かされ、蠱惑される物語なのだから。バラードの海は夜ごとに押し寄せ「葡萄酒のように」泡だつ。一晩ごとに水位はあがり情景は潮の匂いと波の飛沫で充満する。そこで主体が見いだすのは崖の上に立つ女であるが湧きたちかえるリビドーそのものであるかのような海を見下ろす彼女は最後に骸骨であったことがわかる。主体は死を目指していたのである。これにたいしてラヴクラフト的主体のたちあうのは奇怪な──しかし奇怪であることが生命力の過剰を意味するような──生物たちの祝宴である。

 けれども私は奴らが尽きることのない流れとなって──跳んだりはねたギャアギャアモゴモゴ喋りちらしたりして──かそけき月光のなかで人間離れした仕方でわきたちかえり魂気た悪夢のおぞましくもグロテスクなサラバンドを踊りまわるのを見たのである。白っぽけた金色の名もわからぬ金属でできた冠を高々とのっけているのがいたり変なふうに長衣をまとったのもいて、行列の先頭の奴ときたら妖鬼みたいに黒外套を猫背にはおり縞ズボンをはき、おまけに人間さまのフェルトの帽子を頭のいびつな出張りにのせていた。

 奴らの体色は大体は灰緑だったと思う、腹は白かったが。どこもかしこもツルツルテカテカしていたが背中を走る出張りにはウロコがついていた。体型はどことなく両棲類を思わせたが頭は魚類の頭でギョロリとした目蓋のない眼がついていた。頸の両側には息をするエラが開き長い手足には水カキが張っていた。奴らは気まぐれに足だけで跳ねたかと思えば両手両足で跳ねた。とにかく四肢以外に手足がなくてめでたいかぎりだ。ギャオギャオゲロゲロ鳴く声はあきらかに意味をもっていたが、その鳴声の抑揚で眼をギョロリとつきだしただけの表情の欠如した顔をおぎなっているのだ。(「インスマスに落ちた影」

 水流のイメージからはじまっていることに注意しょう。冒頭の原文をしめせば、

 And yet I saw them in a limitless stream --flopping, hopping, croaking, bleatingsurging inhumanly through the spectral moonlight in a grotesque, malignant saraband of fantastic nightmare.

怪物の奇怪さを指し示す語を太字、水の連想に赴く語を斜体でしめしてみた。両者はがないまぜになってうねるように交錯しあい、最初の stream という隠喩によって、また -ing を連打した現在分詞のたたみかけによってイメージ的にも音的にも緊密に織りあわされている。一度この文を発音していただきたい。流麗でもなければ格調正しくもないが、石のあいだを奔しり流れる急流の水のように瀬音をたて怪物が湧きたちかえり水の飛沫が跳ね歌う幻像が言葉の曲折のまにまに出現するはずである。ラヴクラフトの怪物は生の敵対者どころか生を体現する者なのである。バラード的主体が疎外と孤立のすえに死を欲望したとすればラヴクラフト的主体は生と仲間を指向しているのである。語り手は昼は警告を斥け夜は追手をまいてインスマスの街をすみずみまでめぐり歩くが、それはより多くの怪物を、より多くの生命の氾濫と狂騒を見いだすためにほかならない。彼は仲間がほしいのだ。

 なぜこんな迂路をとるのか? それは彼自身が境界的な存在だからである。彼はどちらの世界からもはみ出している。彼は人間の仲間にも怪物の仲間にもとけこむことができない。彼は海岸という境界領域をさまよいながら「仲間」たちをのぞき見る。怪物界の連衆は生命の過剰においても仲間意識の過剰においてもはるかに強烈である。彼はしだいに境界線をこえ怪物の領域に引きこまれていく。彼は自分も半魚半蛙族との混血ではないかという妄想にとりつかれるのだ。それは次のような夢想を生む。

 ある夜私は恐ろしい夢を見、祖母と海の底で会っていた。祖母は幾層にも露台のかさなった燐光を放つ宮殿に住み、そこには奇妙な形のイボのある珊瑚やグロテスクな十字型の花の咲いた庭園がいくつもいくつも続いていた。私はあたたかく迎えられたがその歓待には冷笑が混じっていたかもしれない。祖母の姿は──水中生活にはいった人の例この世界は同時に私の故地となるべき場所であり、立ち去る訳にはいかなかった。私はもう死ぬことはなく、人間がまだ地上を歩かないうちから生き続けているあの者たちと共に暮らすことになるような気がする。(「インスマスに落ちた影」

この曲がりくねった願望が不可能な夢として終わるしかないことは、御存知のとおりである。

図書館の中の呪文

 ラヴクラフトの登場人物は(正義の側も邪悪の側も)秘籍をもとめて動きまわる。古文書にもられた呪文・秘法が、つまりは知識が決定的な力を発揮するからである。だが呪文のようなものが知識といえるだろうか? しかり、それはまぎれもなく近代的な意味での知識なのである。ラヴクラフトの呪文・秘法は秘教的な外観にもかかわらず、純潔な者のみがふれることを許された聖杯やイニシェーションをうけた者のみが伝授された秘法とはちがって中立的であり、いかなる者にも開かれている(あるいはそう装っている)からだ。近代的な学問の革命は知識を人格的完成と切り離し、客観的な体系として確立したことだ。それまでは白魔術も黒魔術もそれなりの人格的鍛練をへなければ力を行使することはかなわなかったのである。ラヴクラフトの呪文は魔女の膝もとを知らない。それは知識と人間的価値の解離以後に属するからである。

 『ネクロノミコン』のような「呪われた書物」がごく当たり前に大学図書館に所蔵されているという設定は興味深い。自然の姉妹たる魔女の一掃された時代にあってラヴクラフトは図書館にしか呪文の保存場所を見出せなかったのだろうか。あるいは図書館に行きさえすればすべてがわかると考えるほど楽天的な人間だったのだろうか。おそらくラヴクラフトは近代という時代を問題にすることもできないほど、この時代にどっぷりと漬かっていたのである。

ラヴクラフトの影

 わたしはラヴクラフトを読みながら、気がつくとしばしばSFを読んでいた。SF仕立ての怪奇小説をではなく、怪奇小説仕立てのSFを読んでいたのである。しかもヴェルヌの翻訳とガーンズバーグの発明家小説が一方にひかえ、他方にはエドガー・ライス・バローズの冒険小説が陣をはり、その中間で初期スペースオペラが気勢をあげていたラヴクラフト時代のSFではなく、E・E・スミス、カットナー、シェクリィ、クラーク、フィニィ、ハインラインという四〇年代、五〇年代のいわゆる「黄金期」のSFである。

 こんなことをいうと、奇矯に受けとられるかもしれないが、たとえば、『盗まれた町』はラヴクラフトの語彙をいくつか挿入すれば、そのままクトゥルー神話の一篇になりそうだし、アリシア対エッドールの時空をつらぬく闘争はクトゥルー神話がなかったら、よほど底の浅いものになったのではあるまいか。シェクリィの精神転移のアイデアなど、哲学的な意味をさぐるよりかラヴクラフトの影響を見た方が早いし、また実態に即してもいるだろう。クラークが『幼年期の終わり』の結末を「異次元の色彩」に借りたというのは、いかにもありそうな話である。SFの「黄金期」といわれたあの時代にあって、ラヴクラフトの影にはいっていない作家はブラッドベリとスタージョンくらいなものではないか。

 だが、ことはそう単純ではない。われわれが今日いう「SF」の中核的な意味はあの時代にクラークらによって形作られたのであり、それ以前にはSFといえばヴェルヌか、ウェルズか、スペース・オペラか、まれにはガーンズバーグを指したのである。SFの起源をギリシアにさかのぼらせたり、実作からはなれて抽象的な定義をくだそうとする試みはまったく滑稽というしかないが、だからといってSFを創作理念としてたてまつるのも問題だろう。SFは時代的にも地域的にも社会的にもきわめて限定された集団において育まれ、今日のSFとなったのである。SFを未来予言の文学や哲学的に洞察にみちた大文学に擬すのは誇大妄想というべきだが、しかし、幼年期のSFがそのように素朴に信じきっていた人々に支えられていたという事実を否定する必要はない。われわれは「黄金期」のSFを裏面から検討すべきである。その純粋さや夢を宇宙に駆りたてた衝迫は、その独善性とともに掘りおこされなければならない。あの時代のSF界に瀰漫していた一切が、とりわけ独特の心性が問いきわめられなければならない。ヴェルヌにはじまり、ウェルズに受けつがれ、アメリカで開花したなどという神話を白紙にもどし、アメリカSFの誕生過程を複眼的に読みなおさなければならない。SFはそう信じこんでいるほど国際的でも無色透明でもなく、いわんや時代を超越してなどいない。むしろ偏狭で、固陋で、土着的で、超歴史的と思いこむほど時代の刻印を深々と捺されているからこそ、そして一人よがりで偏見に充ちた人々にになわれていたからこそ、なんらかの可能性をもちえたのである。おそらくSFはラヴクラフトの影でSFとなったのだ。

アメリカの怪

 ダンセイニの小説では意欲ということは知られていない。意図、意志、意欲、ある見通しのもとに何かをくわだてるということは、そこではありえないのである。神々の秘密を知ったばかりに南風にかえられた予言者は知ろうとして知ったのではなく知ってしまったのであり、それが宿命か偶然かと問うことも許されてはいない。もしくわだてらしきことがあるとしても、少なくともそれは人間的くわだてではない。たとえば「妖精の族に近きもの」に見えるのは妖精のくわだてである。それは人間になろうとするが、なってからああしょう、こうしょうという見通しはまったく欠けている。自分の将来を設計しょう、先取りしょう、いや自分を実現しようという配慮すらない。なるほど、この池の精の胸には人間の魂ではなく、朝露や霧や鬼火で組立られた自然の精気が燃えているのだ。限られた寿命を懸命に生きて神に召されていく人間とはちがって、それは未来永劫池の上で戯れるのである。意図といい、意欲といい、あるいは見通し、将来という観念はすべて人間に、それも近代的人間に特有なものにすぎない。

 ラヴクラフト小説は対照的である。ラヴクラフト的人物は(人類と否とを問わず)意欲に満ちあふれ邪悪な計画(地上から人類を一掃する)の実現に、あるいはその打倒に身を挺している。くわだての向かうところは常軌を逸したものだが過程は合理的であり周到に計算されている。計画の担い手たちはどうだろう? アーミティッジ博士、ピーズリィ博士、ウェイトン博士は議論の余地なく人類の存続のために純粋に献身したといわなくてはならない。人知れず自らを犠牲にする彼らはあらかじめいかなる名誉も諦めているのだから人類という理念に殉ずるほかはないのである。あるいは人類という理念は無名の死とひきかえに内実をもつのだ。ポリドリからブラムストーカーにいたる吸血鬼小説の主人公たちを、またマッケンに登場するヴィリャズ、ダイスンといった人物を思いかえしていただきたい。兄として、恋人として、一人の男として行動することはあっても人類の一員として動くことはなかったし第一「人類」などという言葉は彼らの知るところではなかった。そしていかなる伝統的吸血鬼もマッケン的怪異も個々の人間を脅かしはしても人類の脅威となることはなかったし「大波のうえへ踊りでて戦争に疲れた取るにたらぬ人間どもの残党をその生臭い爪でひきずりこむ」日を夢想することなどけしてなかった。むしろ彼らは世界の境界の外に固有の位置をもって棲み分けをおこなっていたし、もしこういってよければ文化の夜のがわを支配してもいたのである。これに対してラヴクラフトの人類敵対者は人類打倒の使命感に燃え自己犠牲も辞さない。時に個人的野望や復讐心を口にすることもあるが、彼らの魔道への潔癖なまでの精進ぶり、集中ぶりはそのような口吻の裏に燃える情熱の純粋さを物語ってあまりある。何の情熱か? 世界を彼らの理念で、同族でうめつくそうという情熱である。彼らが存立するためには人類が一掃されなければならない。境界線はつねに侵犯され、廃棄さなければならないのだ。つまり侵略/反撃がラヴクラフト小説の基本構成であり、いうまでもなくクトゥルー神話はこれを形象化したものだ。クトゥルー神話にははじめに企てがあった。ラヴクラフト小説は人間的意欲で充満している。そこでは怪物や所謂「旧支配者」でさえ人間的なのだ(「狂気の山々にて」の教授はこう言っている。「哀れなレイク、哀れなゲドニー……そして、哀れな旧支配者たちよ!最後まで科学者だった彼ら。……放射状生物、怪物、そして星の菌子──いかなる姿をとったにせよ、彼らもまた人類には違いなかったのだ!」と)。たわむれと賭けにはじまり、終わるダンセイニ的神話とこれほどかけはなれた世界はない。

宇宙の恐怖

 「女を書くとは欲望を書くことだ」という言葉が正しいなら、「女を欠くとは欲望を欠くことだ」といえるかもしれない。ラヴクラフト小説は禁欲主義の気配すらうかがえないほどに女に無縁なのである。

 けれども、このような小説は同時代のパルプ小説にあって例外だったし、ラヴクラフトがみずからをその正統な継承者に擬した怪奇小説の伝統にあっても一般的ではなかった。事実は逆であって、デジャー・ソリス、スピア、ターラ、シャレーヌ、ラー、ベリ、ヴァレリアそしてシャンブロー。「肌もあらわな美姫」たち、「妖艶なる魔女」たちこそ、パルプ雑誌の華やかな馬印だった。伝統的な怪奇小説についてはいうまでもあるまい。ウォルポールからスコットにいたるゴシック小説の歴史はまたマチルド姫からロウィーナ姫にいたる「薄幸の佳人」の歴史でもある。ポオの邸には「夭折の乙女」、「死美人」が冷たい歩をはこび、オブライエンの水滴にはアニミュラが住まっている。そして、エロチシズムの宝庫というべき吸血鬼小説を忘れてはならない。Vamp(妖女)という語は、周知のように Vampireから派生したのである。伝統的・同時代的な背景に置きなおす時、ラヴクラフトはなにかひどく場違いな作家に見えてくるのである。

 怪奇小説やパルプ小説が官能的・煽情的なのは偶然ではないし、また一方的に商業的な要請に迎合したものでもない。両者はともに「キッチュ」であり、必然的に傍流の文学でありつづけたが、むしろそのことによって近代の枠組が表舞台から放逐してきた非合理的なものを吸いあげ(あるいは突きあげられ)、妖美の花を黒々と咲かせることができたのである。エロチックなもの、グロテスクなものは余計なものでも、否定されるべきものでもない。近代的秩序において両者は否定的な意味あいをつぎつぎと押しつけられてきたが、逆にいえば、それだけ不可欠なものになったのである。近代的な人間という理念が、魔女や吸血鬼の形をとった混沌にたちむかっておのれを知ったように、合理的なもの、秩序なるのは下劣なのも、煽情的なものを仲立ちとしてはじめて確立されるのだ。秩序や伝統が見失われた時、人は黒い異形の花々をもとめ、混沌にたちかえろうとするだろう。甦りの泉は黒いのである。

 ラヴクラフトが「近代の巨匠」と呼んで重んじたマッケン、M・R・ジェイムズ、ブラックウッドは近代合理性に背反する怪異を書いた。怪異とこそ呼べないが、ダンセイニの世界も同様に反近代的である。ここでわれわれはジェイムズを例にとろうと思う。彼もまた女性を書くことのまれな作家だからである。ジェイムズの怪異は暗闇ないし薄闇に出現する。人はこれに触り、聴くことしか許されない。視覚は禁じられているのである。ところがラヴクラフの妖異は視覚において最もよくあらわれる。ラヴクラフトの怪物はありありと、そしてほとんどの場合、執拗に描写され、記述される。見てはならないものだともったいをつけながら、その後に数ページのことこまかな描写がつづくこともあれば、「ダニッチの怪」のように、透明の怪物をわざわざ薬品散布で目に見えるにようにし、しかも見えないほど遠くにいる人々の中に望遠鏡をもった人物をまぎれこませて報告させるという、うるさいくらい手のこんだ手続きをへてまで視覚に固執する(『幼年期の終わり』の終幕の実況中継を思わせる)。ラヴクラフト的怪異の第一条件は視覚だけで十分おぞましいことである。そして、いうまでもなく、近代科学と近代の合理性は視覚に基礎をおき、幾何学的な透明空間に立脚している。明晰判明に見えるということが真理のあかしなのである。Enlightment(啓蒙)という語がいみじくも語るように、理性の光をかかげ、蒙昧の闇を追いはらうことこそが近代の出発である。妖怪を細密に観察し、描きだすというラヴクラフトの態度はきわめて近代的といわなければならない。これに対して、ジェイムズの視覚を許さぬ空間──あるいは幾何学的秩序を歪曲し、畸型化するためにしか視覚が登場しない空間はまったく非科学的で非近代的である。だが、非科学的ということと非現実的ということは違う。人の生きるがままの世界は決して近代的秩序だけで掬いあげきれるものではない。近代的な透明空間は生活世界の一面を抽象したにすぎない。そればかりか、近代合理性は普遍性を僭称することにより、生活世界の実質を覆いかくすことになりかねないし、一面的な真理をつらぬくことで現実の豊饒性を圧殺する傾きもないとはいえない。ジェイムズの怪異が生々しくも蠱惑的なのは、視覚の君臨のもとに貶下されてきた触覚と聴覚を復権し、畸型的な視覚として排除されてきた「錯覚」の支配するなつかしい薄闇を回復してくれたからなのだ。われわれはジェイムズ的な空間に住みつくわけにはいかないが、そこで五官の生々しさを再発見し、世界との係わりを更新するのだ。

 伝統的な怪奇小説では、怪異なるものは近代的秩序と拮抗関係にある。この対立は決して解消されないし、また解消されたなら怪奇小説は魅力を失う。吸血鬼は人の血を吸うが、近代人もまた吸血鬼の血を吸うことで癒されてきたのである。

 妖怪はつねに社会の周縁に存在する。周縁こそが彼ら固有の境位なのである。吸血鬼が一つの都市を占領して同類でいっぱいにし、世界征服の拠点にするなど滑稽だし、大いなる神パーンを大量に繁殖させて軍団を編成し、来たるべき日にそなえようなどという話も馬鹿馬鹿しすぎて、冗談にすらならない。周縁から中央にでてきたなら、彼らは存在理由を失うのだ。

 ところが、ラヴクラフトの小説はその冗談にもならないことを大真面目に実践している。ラヴクラフトの怪物たちが人間社会を侵略し、地上を自分の同類で埋めつくそうと企てるのは、彼らがその見かけとは裏腹に、近代的人間と通じあうものをもっているからではないだろうか。ラヴクラフト的怪物とは、実は仮装した近代人のことではないだろうか。それを端的に示すのは、ラヴクラフトの提唱する「宇宙の恐怖」Cosmic Horrorである。ラヴクラフトによれば、古代人は星空に恐怖したというが、歴史的にいって、これはまったくの誤りだ。近代以前の世界では、空間は具体的な意味に充ちあふれており、宇宙は崇敬の対象ではあっても、恐怖の対象ではなかった。「この無限の空間の永遠の沈黙はわたしを恐怖させる」などという言葉は、17世紀になるまで誰も思いつかなかったのだ。ラヴクラフトの「宇宙の恐怖」はきわめて近代的な発想であり、彼は骨の随まで近代人だったのである。

沖合の夢

 ラヴクラフト的空想の力動の中へもう一歩踏みいろう。最初期のダンセイニ風ファンタシーと言われる「しろい船」は二つの領域から成り立っている。月光をたたえた幻影の領域と、それを額縁のように縁どる現実の領域である。現実の舞台となるのは岬の古びた灯台で、主人公はここに孤独と退屈の毎日を送っているが、幻影の物語が繰りひろげられるのは大海原で、彼は仲間たちと大洋を突き進む船に乗組み未知の海岸へ向かう。天候も対照的だ。前者が灰色の霞に塗こめられた曇天続きなら、後者では晴天が続き、月光、日光が清かに射す。海も幻影の海が荒れ狂う海、若々しい海なら、現実の海は「山よりも古く時の記憶と夢を背負」う海、年老いた海である。天候、海だけに限らず、この小説ではすべては二重化されて現れる。記憶の中の父は「ひげの男」となって彼を導き、船を先導する天翔ける鳥は結末で死骸をさらすというように。そして、この二つの領域を往還するのが主人公の空想の運動なのである。

 主人公の青年はさびれた海路にのぞむ灯台守で、時々「この地球にひとりぼっちになってしまった」ようなたまらない寂寥感をおぼえる。彼は終日海を見つめ、海のあかしてくれる神秘に目を見はる。いつか彼は満月の晩には南から来るしろい船を見るようになった。船は最初沖を走るだけだったが、やがてしだいに灯台近くを通るようになり、とうとう甲板の上の人影が見分けられるほどになる。

 ある夜のこと、わたしは甲板に一人の男を見た。ひげをはやし長衣をまとった男はこれから遠い未知の海岸にむかう船に乗らないかと、わたしに合図しているように見えた。その後、何回も満月の下で彼を見たが、いつもわたしを手招きしてくれた。
 とても月の明るいある晩のこと、わたしはその呼びかけに応じた。わたしは海の上の月光のかけ橋をわたってしろい船へおもむいた。わたしを招いた男はよくわかる優しい言葉で歓迎の辞をのべた。わたしたちがやわらかな満月の光に金にそまった神秘的な南の国にむかうにつれ、船は漕手たちのこころよい歌声に包まれた。(「しろい船」

 船の接近の過程、男の合図の繰返される過程、それは未知のものがしだいしだいに明らかになってくる過程ではない。船は最初にあらわれた時から「なめらかに音もなく波の上をすべる」しろい船だったし、ひげの男は初めて姿を見せた時から「遠い未知の海岸へむかう船に乗らないか」と招いているように見えたのである。船も男もいかなる意味でも見知らぬ存在ではないのだ。船の出現の繰返し、男の合図の繰返しは不確かな何かがしだいに分明になっていく過程、あるいは納得の過程にほかならない。誰が誰に納得させるのか? 彼が彼にである。すべては彼の幻影なのだ。「未知の海岸へむかう船に乗らないか」とは「未知の海岸へむかう船に乗りたい」ということだし、「歓迎の辞」がよくわかるやさしい言葉で言われるとは、そのように大切に迎えられたいということ、そして「漕手たちのこころよい歌声につつまれた」とは「こころよい歌声に包まれたい」ということだ。船も男も未知なものどころか、彼の願望の鋳型から抜け出してきたもの、無意識からの使者なのである。

 では、何が求められているのだろうか? それは次の三項ということになるだろう。一、未知への航海に形象化された冒険。二、ひげの男に形象化された父性的なもの。三、漕手たちに形象化された仲間との連帯。この三者はいずれも男性的な連想を誘い、当然、物語を英雄的なもの、権威的なもの、同志愛的なものへと差し向けるはずである。

 だが、幻影の領域の情景はそうした男性的要素によって支配されているのではない。「船」、「ひげの男」、「漕手」という名詞には女性的な甘美な形容詞が寄りそうようにして絡まりついている。そして、幻影のすみずみにまでしみとおる遍満たる月光の圧倒的な支配を見逃すわけにはいかない。月の光は日光とはちがって乳のように濃密であり、「かけ橋」に凝固することもできる。月光は優しく冷たくまろやかで、あらゆるものにまといついて女性化してしまう。ひげの男の父性的イメージはその「長衣」(robe)によって、よくわかるやさしい言葉によって、こう言ってよければ月光をいっぱい含んだ修飾語によって去勢されている。同様に船も歌声も「しろい船」、「こころよい歌声」である。男性的な連想を呼ぶ名詞はことごとく角を丸められ、甘美な月光の、あるいは母性の支配の下に埋めこまれている。一口に言うなら、ここではあらゆるものが「母なるもの」を指差す隠喩なのだ。「母なるもの」は紙の背後の磁石のように慈愛を放射して、一切を「慈化」しているのである。

 船は四つの海岸を訪れるが、停泊するのはソナーナイルのみで、しかもここだけが月光にみたされた都市である。

 ソナーナイルの国には時間も空間も存在せず、悩みごとも死もなかった。わたしはそこに長いこと滞在した。森や野原は緑にあふれ、花々はかがやいてかぐわしく、青いせせらぎは妙なる音をたて、山々は澄み、すずやかだった。ソナーナイルの都市、寺院、城は壮大で華麗だった。この国には限界というものがなかった。美の向こうにはさらにすぐれた別の美があった。郊外でも、壮麗な街区でも、幸福な家族たちは自由に行けた。かれらはみな生来の品性と真の幸福にめぐまれていた。(「しろい船」

 ほとんど肉感的な不分明さ、癒着的な曖昧さがここにはある。これをユートピァと呼ぶべきだろうか? ユートピァは、バルトがいみじくも言ったように、完成された社会であって、その内部は究極的な形態にまで分化し、構造化されている。モァのユートピァにしろ、フーリェのファランステールにしろ、精巧な時計を思わせる印象があり、『一九八四年』や『すばらしき新世界』のようなアンチ・ユートピァでは一層メカニックになるが、それは本質に属することなのだ。ラヴクラフトのソナーナイルは逆である。この国が停滞的・閉鎖的な印象をあたえるのはまったき未分化だからであり、まったき未完成だからである。ソナーナイルは胎児が羊水に浮くように月光の中に浮いている。その幸福は胎児の幸福であり、「時間も空間も死も悩みごともない」境域、いかなる限界もなく「美の向こうにはさらにすぐれた美がある」めくるめく境域とは、想像的な母胎の凹所にほかなるまい。

 では、他の海岸はどうだろうか? ザールはバラ色の夜明けに出現する。それは今は忘れられているが「あらゆる美と夢と空想を秘めており、かつては男のあこがれ」であった国で、そこに足を踏みいれた者は二度と「故郷」の海辺へは帰れないと言われている。まるでこの地は、うぶな彼を誘惑する深情けの悪女のようではないか。彼はもちろんザールには上陸せず、幾多の秘密がひめられている驚異の都サラリオンに船を転ずる。彼はこの「魅力的でいて嫌悪をあたえずにはおかない都市」に入りたくてうずうずするが、ひげの男はこうたしなめる。「驚異の都サラリオンには多くの人々が入りこんだが、誰ひとりとしてもどらなかった。その中をかっぽするのは悪魔や魔物だけで、もはや人間はひとりもいない。街路にはこの都をすべるラスイの幽霊を見た者たちの白い骸骨が散乱しているだけだ」と。ザールが悪女だとすれば、サラリオンは魔窟ということになるだろうか。悪女のような都市も、魔窟のような都市も、魅惑的であると同時に危険な存在にちがいないが、奇妙なことは、そうした暗欝な意味づけにもかかわらず、いずれも「太陽の都市」と呼ばれていることだ。月光の国、ソナーナイルが至福の郷だったのに対し、太陽の国々は輝かしさの裏に危険を隠した、忌まわしい禁じられた境域なのである。そして、ひげの男がくり返し警告するように、そのような国に足を踏みいれたなら「故郷には二度と戻れなくなる」。なぜか? 太陽の国の魅惑に身をまかせるとは月光の国に背を向けることであり、母性的な一体感を捨てることでもあるからだ。

 それから、わたしたちはあらゆる色合いの花が咲き乱れる楽しい海岸へ至った。向こうに見える内陸は日盛りの太陽の下、かわいらしい木立やまばゆい森があたたかそうに茂っていた。その森の彼方から叙情的な調べの歌曲とかすかな笑い声がいきなり聞こえてきた。その美しさに心ひかれてわたしは漕手たちをせかせてその堤に急がせた。
 ひげの男は何も言わなかった。しかし、わたしたちが百合の咲き乱れる浜辺へ近づくにつれ、わたしから眼をそらさぬようになった。いきなり風が花の咲く草木や木の葉をひるがえして吹いてきた。その匂いにわたしはふるえた。風はしだいにつのり、あたりは疫病でたおれた死者と暴かれた墓地の死臭でみちた。
 わたしたちは慌ててこの忌まわしい海岸から出帆した。ひげの男はやっと口を開くと言った。

 「ここはズーラ、楽しみを得られぬ国だ」(「しろい船」

 彼の陽光の国への憧れ、ときめき、落胆はひげの男のもの言わぬまなざしの下で生起している(「……わたしから眼をはなさなくなった」)。ニカワのように濃密な視線が彼の一挙一動にからみつく。陽光への憧憬と幻滅はもはや単なる心の内部の出来事ではない。それは男との緊張関係において罪としてあらわれる。「ここはズーラ、楽しみを得られぬ国だ」。男の言葉は彼の裏切りを見透かし、暗々裡に罪を言いたてている。陽光にあこがれた罪、月光に背を向けようとした罪、母なるものを捨てようとした罪だ。

 だが、はたして彼は未知へと船出したのだろうか? 本来、野望に満ちた荒々しい航海を用意するはずの船、ひげの男、漕手という三重の要素は月光によぎられ、母なるものの隠喩となっていたが、彼との係わりにおいても母性の介入を得ている。彼が船に乗り移るのは「月光のかけ橋」を渡ってだし、ひげの男と彼を仲立ちするのは「よくわかるやさしい言葉」、そして漕手たちは生身の汗にまみれた船乗りたちではなく、ただの「こころよい歌声」にすぎない。航海の目的地も決して未知の国々ではなく、ひげの男の知っている土地である。航海に魅惑をあたえ、船長の権威を絶対的なものに高め、連帯を強固にする危険、野望を真に野望たらしめる危険ははじめからなかったのだ。この旅立ちは、こう言ってよければ、母の膝元で演じられた贋の旅立ち、旅立ちの身振りにすぎない。そこでは旅の失敗はあらかじめ筋書きの中に書きこまれている。母に逆らった報いを受け、無謀な企てを悔いること、母への罪責感を意識することは、母なるものへの一層の忠誠の証しとなるからだ。彼は禁じられた国々をめぐったすえ、天の鳥に導かれるまま、「満月からはるかに遠い」国、ひげの男さえ見たことのない太陽と黄金の国、カサリアへと向かう。しかし、カサリアはどこにもない。彼らは世界の果てへ突き進むが、そこでは海は大暴布となって虚空に飛散し、船は一行もろとも粉微塵に砕け散るだろう。それというのも「おれたちはあの美しいソナーナイルの地を見捨てた」からだ。幻影は終結し、彼はわれに返る。現実領域で彼を待ち受けていたのは難船という出来事である。それは空想にふけっていたがために、「祖父が赴任して以来初めて、灯台の灯が消えてしまった」ためにひき起こされたのだ。

 注意すべきは、彼の航海は母なるものを求める迂回された憧憬だったが、くり返し罪悪感を横切ることで、憧憬の断念が余儀なくされてもいることだ。あこがれ、ときめき、幻滅、後悔のくり返しは、母なるものへの訴えであると同時に、罪の意識、やましさの導入のもとに、自分には母の愛を求める資格がないことを納得する契機ともなっているのだ。 「しろい船」は母なるものの不在をめぐる劇である。その航海は未知を踏破しょうとする野望の身振りではなく、母の懐を探そうとする衝迫と断念の二重化された所作である。この記述には「母」という語が不思議なくらい出てこないが、その意味するところはただ一つである。彼は「母」という言葉を失った境界例患者なのだ。彼は母 motherというかわりに月 moonと言い、彼女 she と言うかわりに海 sea 、船 ship、ソナーナイルと言う。母なるものはその不在によってはじめて示されるが、その際、隠喩として選ばれるのは濃密な「月光」であり、「しろい船」であり、「ここよい歌声」である。つまり、求められているのは慈母としての母であり、口愛的母親なのだ。彼の口調は乳首をもがれてなお乳を求めつづける嬰児の唇の運動に似ている。彼の唇はみたされぬ何かをきりもなく捜す。だが、母という言葉をあらかじめ失った彼においては、衝迫はいつもすでにその本来の対象を見失っている。隠喩の連鎖をどんなにたどろうとも、それは欠乏感を煽るだけだ。母を求める渇きはいやましにつのるから。

 転回点となるのは、ひげの男の介入である。ひげの男の「まなざし」によって、彼はうしろめたさ、罪悪感を意識する。そして、このやましさのゆえに断念、諦念が生じてくるのだ。その意味で、母なるものの支配におかれているとはいえ、ひげの男は父性としての機能を果たしているといえよう。空想のきりもない消耗から彼を救いだすのは、父性の秩序であり、現実領域の静穏である。現実領域は寂寥感一色に染められているとはいえ、記憶の中の父と祖父、受け継いだ膨大な書物、そして「時の記憶と夢を背負う海」が彼を待ち受けてくれているのだから。

 夜明けとともにわたしは灯台をおりて岩礁に遭難者をさがした。しかし、わたしが見つけたのは見なれぬ鳥の死骸だった。その色合いは瑠璃色で、片方の翼はばらばらに折れ、波のしぶきや山の雪よりもはるかにしろかった。

 鳥の死は衝迫の死であり、彼はここに寂寥感に復帰したのである。

ラヴ-クラフト

 ラヴクラフトの作家活動は1917年の「ダゴン」にはじまり、1937年の彼の死をもって終わる。この二十年間はパルプ雑誌の時代であり、他方では禁酒法の時代でもあった。禁酒法は「ダゴン」の三年後に施行され、彼の死に先立つ三年前に撤廃された。

 ラヴクラフトは生来虚弱な体質で、大学進学も断念しなければならなかった。彼は健康をおもんばかって酒も煙草もたしなまず、甘いものを好んだ。彼は腸癌で栄養失調のうちに死んだ。

 ラヴクラフトはアメリカを嫌いぬき、学校の国家斉唱の時には心の中で英国国家を歌って抵抗した。彼は英国移民の末裔であることが自慢だった。

 ラヴクラフトは作品とともに厖大な量の書簡を残した。ラヴクラフトの友はほとんどが文通の友だった。彼は手紙の中ではクラーク・アシュトン・スミスをアシュトニウスのようにラテン風の綽名で呼んだ。こういう気取りの通じない近所の人々とはつきあおうとしなかった。

 ラヴクラフトの死後、ダーレスらは彼の作品の散逸をおそれ、アーカム・ハウスを設立した。

 ラヴクラフトのはじめたクトゥルー神話の枠組は友人、弟子、さらには没後の崇拝者らによって引き継がれ、一ジャンルをなすまでになる。

 ラヴクラフト Lovecraftとは「愛の力」という意味である。

『時間の墓標』伊藤哲訳 東京創元新社

(Oct 1975 帝王4号)
Copyright 1996 Kato Koiti
SF
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