ヘンリー・カットナー 「悪魔と呼ぼう」

加藤弘一 訳

 何年ぶりかでロスアンジェルスにもどり、彼女は祖母のキートンの家の前を車で通りかかった。実際のところ、家はたいして変わったわけではないが、一九二〇年当時、子供の目に立派なお屋敷とうつった家も、現在ではペンキの剥げた、いまにもくずれそうな灰色の木造建築にすぎなかった。

 二五年をへだててみると、なんというか、そう、胸騒ぎは姿を消していたが、漠然とした理屈にあわない違和感の記憶がいまも執拗に残っていた。それはジェーン・ラーキンがあの家ですごした日々のこだまのようだった。当時、彼女は九歳の眼の大きなやせっぽちの少女で、そのころはやったバスター・ブラウンのおかっぱ頭をしていた。

 過去をふりかえるにつけ、心にうかぶ想い出のあれこれは豊かすぎるようでもあり、乏しすぎるようでもあった。子供の心というものは、妙な具合に大人の心とはずれている。一九二〇年六月のとある日、ジェーンはみどり色ガラスのシャンデリアの下がった居間に通され、家族のみなにあいさつしてまわり、ひとりひとりに心のこもったキスをした。キートンおばあさま、よそよそしいベッシー伯母さま、四人の叔父たち、そしてあたらしい叔父──正体は違ったのだが──の番になった時も、彼女は物おじしなかった。

 ほかの子供たちは無表情に彼女を見つめていた。子供たちは秘密を知っていた。そして、彼女も秘密に気づいたことを見てとった。もっとも、その場ではその話は出なかった。彼女は向こうが切りだすまでは、なんというか、そう、めんどうなことには自分も口をつぐんでいるべきだと思った。これもまた子供どうしの暗黙のエチケットの一部なのである。とはいえ、家はすみからすみまで妙な気色にみちみちていた。大人たちはめんどうなことが起こりそうなこと──なにかが変だということを、なんとはなしに気配で察していただけだったが、子供たちは──ジェーンのにらんだところによると──その原因を知っているのだ。

 対面のあと、子供たちは裏庭に出て、大きなナツメヤシの下に集まった。ジェーンはまあたらしい首飾りをこれ見よがしにもてあそびながら、みなの出方をまった。彼女はみなの表情が変ったことに気づいた──「この子、ほんとうにあれがわかったのかな?」といわんばかりの表情に。やがて、一番年長のベアトリスがかくれんぼをしようと言いだした。

「この子におしえといた方がいいよ、ビー」とチビのチャールズが言った。

 ベアトリスはチャールズと眼をあわせずに、「なにをおしえるの? おかしなこと言わないで、チャールズ」

 チャールズは一歩も引かず、しかしぼかしてこう言った。

「わかってるくせに」

「大事な秘密はしまっておきなさい」とジェーンは言った。「わたし、知ってるんだから、どっちにしたって。あの人、叔父さまではなないわ」

「ほら、ごらんなさい」エミリーが得意げに言った。「この子、とっくにわかってたのよ。言ったじゃない」

「おもしろそうね」ジェーンは言った。彼女はすっかり知っていた。居間にいた男が叔父ではなく、叔父であったこともないこと、そして、ずっとここの人間であるかのように細心によそおっている──その細心さで大人の眼をくらましている──にすぎないことを。ものにとらわれぬ曇りのない子供の眼によって、ジェーンは男が普通の大人ではないと見ぬくことができた。男はなんというか、そう、──からっぽだった。

「あの人この家にきて」とエミリーはいった。「たった三週間にしかならないのよ」

「三日だよ」チャールズは助け舟のつもりで訂正したが、彼の時間感覚はカレンダーをもとにしたものではなかった。彼は出来事をめやすに時間をはかっていた。彼には一日一日はみんな違った長さだった。病気だとか雨降りの日は一日が長く、裏庭で遊んだ日はすこぶる短かった。

「三週間よ」ベアトリスが言った。

「どこからきたのかしら?」ジェーンがたずねた。

 みなは秘密めいた視線をかわしあい、「わたし、知らない」ベアトリスは用心深く言った。

「大きな丸い穴からきたんだよ。ぐるぐるまわってるやつ」チャールズが言った。「豆電球をたくさんつけたクリスマス・ツリーみたいで、ぴかぴか光るんだ」

「ウソよ」エミリーが言った。「ほんとうにそんなもの見たことがある、チャールズ?」

「ううん。そうじゃないかと思っただけだよ」

みんなは気がついていないの?」ジェーンが言っているのは大人たちのことである。

「ええ」ベアトリスがこたえた。子供たちは家の方を見やりながら、大人のわけのわからないやり方のことを考えた。「みんな、まるであいつがずっと昔からこの家にいるみたいなふりをしているの。おばあさままでよ。ベッシー伯母さまなんか、あいつはわたしが生まれる前からいると言ってるわ。わたしはそうじゃないって知ってるけど」

「三週間だったかな」チャールズは心変わりしていた。

「あいつのせいで、みんな病気になったのよ。ベッシー伯母さまはしょっちゅうアスピリンをのんでるし」

 ジェーンは考えこんだ。ちょっと考えても、ずいぶん馬鹿げた話だ。生まれてたった三日の叔父さん? たぶん、大人たちは気がつかないふりをしているだけなのだろう。むずかしい大人の映画でよくそんな話がある。でも、それではこたえになっていない。子供がずっとそういうことで騙されたままだなんてことがあるだろうか。

 チャールズは──なにしろわだかまりがとけて、ジェーンはもう他所の子ではなくなっていたから──突然、いきおいこんでしゃべりだした。

「言っちゃおうよ、ビー! ほんとうの秘密を──さあ。『黄色いレンガの道』をおしえてもいいだろ? ねえ、ビー。ねえってばあ」

 ふたたび沈黙。チャールズはしゃべりすぎたのだ。ジェーンはもちろん「黄色いレンガの道」のことは知っていた。それは「死の砂漠」から「エメラルドの都」まで、「オズの国」をまっすぐ横切って走る道である。

 ややあってから、エミリーはこっくりうなづき、

「おしえてあげましようよ。これじゃこわがらせるだけだもん。ほんとうにわけがわからないもん」

「自分だってこわがってたくせに」ボビーが言った。「泣いたじゃないか、最初は」

「泣かなかったもん。あんなの──あんなの錯覚よ」

「えっ、ちがうよ!」チャールズが言った。「このあいだなんか、ぼく、手をのばして王冠にさわったんだぞ」

「王冠じゃないもん」エミリーが言った。「あれは首よ。ラゲドーの首よ」

 ジェーンはほんとうの叔父ではない叔父のことを考えた──彼はじつは人間ですらないのだ。「ラゲドーって、あいつのこと?」彼女はたずねた。

 彼女のいっているのがオズの国のノーム王のことだということはみなにもわかっていて、

「ううん、ちがうよ」チャールズが言った。「ラゲドーはこの家の下のほら穴の中にいるんだ。ぼくたちで肉をやってるんだよ。真赤な血のぽたぽたたれるやつをね。そういうのが好きなんだよ! がつがつがつがつ食べるんだ!」

 ベアトリスはジェーンを見つめ、クラブ・ハウスの方へあごをしゃくってみせた。そこには秘密の錠がかかるピアノの木箱がほうりだしてあった。彼女はじつにたくみな目くらましを考えた。ほかの子供たちは西部劇ごっこをすることになって、ボビーはアワワワワと叫びながら先頭にたって家のまわりを走りだした。

 木箱の中では、すき間からはいったアカシアのかぐわしい薫りがわだかまっている。ベアトリスとジェーンはなまあたたかい薄闇の中で肩をよせあい、遠くへ消えていくインディアンの閧の声に耳をすました。ベアトリスはその時不思議に大人びて見えた。

「きてくれてうれしいわ、ジェニー」と彼女は言った。「チビたちはぜんぜんわかってないんだもの。ほんとうにこまってしまう」

「彼はなにもの?」

 ベアトリスは身ぶるいし、「わからない。ほら穴の生き物じゃないかと思うんだけど」彼女はそこで言いよどみ、「だけど、彼のところへいくには、屋根裏をとおっていかなくちゃならないの。わたし、すごくこわい。チビたちはこわがらないけど。なんていうか、チビたちはぜんぜん平気なの」

「でも、ビー。なにものなの?」

 ベアトリスは顔をめぐらし、ジェーンを見つめる。彼女はそれを言うことはできないし、言うつもりもないとわかった。壁ができていた。でも、大事なことなので、ジェーンはひきさがらなかった。彼女はニセの叔父のことをきいた。

「わたし、ラゲドーとあいつは同じじゃないかと思う。じつはそうじゃないかということは気がついていたの。チャールズとボビーもそんなことを言っていた──あのふたりは知っているんだわ。わたしよりもよく知っているのよ。わたしより小さいし……。うまくいえないけど、でも──スクードラーみたいなものよね。おぼえてる?」

 スクードラー。オズへつづく道に面した洞窟を住居とするこのおぞましい種族は、自分の首を切りはなして投げつけ、旅人を追いまわすのだった。スクードラーは首と胴体がべつべつにはなれても、生きているのだ。

 もちろん、幽霊の叔父は首を胴体にくっつけたままである。でも、ジェーンにはなんとなくわかった。あいつがおそらく自分をふたつにわけ、半分が人の目をあざむいて屋敷の中をうろつき、病気をふりまいてあるいているあいだ、もう半分の名づけようもなく、形もない方はほら穴に巣くい、なま肉をまちうけているのだと……

「チャールズはわたしたちよりもずっとよく知っている」とベアトリスは言った。「ラ……ラゲドーにエサをやらなければいけないと気がついたのも彼よ。いろんなエサをためしてみたけど、なま肉でなければならないの。エサをやるのをやめたら──なにかおそろしいことがおこる。わたしたち子供はそのことがわかっているの」

 どうやって、とジェーンが訊かなかったことにも、それなりの意味があった。子供というものはテレパシーのような能力は当り前と考えているのだ。

「大人はわからないのよ」ベアトリスは言いたした。「話すわけにはいかないわ」

「そうね」とジェーンは言い、ふたりの少女は顔を見あわせた。自分たちが未熟だというおそろしい、どうすることもできない事実、大人の世界の約束はこみいりすぎてわからず、子供は用心しいしいあるかなければならないという事実にゆきあたったのだ。大人はいつだって正しい。彼らはべつの種族なのだ。

 チャールズ以外の子供たちはまだしも幸運だった。敵に出くわしたのが、みんなといっしょの時だったから。たったひとりだったら、ヒステリーをおこしていたことだろう。でも、彼は最初にひとりで敵を見つけた。もっとも、まだ六歳で十分おさないので、そんな風に正気をなくすということはなかった。六歳の子供ははじめから気が狂っているので、それで普通なのだ。

「それに、あいつがあらわれてから、みんな加減がわるいの」ベアトリスは言った。

 ジェーンはとっくにそのことに気がついていた。狼が羊の皮をかぶって、見とがめられずに羊の群にまぎれこんだとしても、羊はなんとはなしにいらだつものなのだ。異常の原因がわからなかったとしても。

 気分が問題だった。たとえ彼がみんなと同じ気分──不安、どこか変だがどこが変なのかはわからないという感覚・予感──と見えたとしても、それは単なるカモフラージュにすぎなかった。彼は自分が選んだ基準──人間の形──からはずれ、注意をひくようなことは避けたいのだとジェーンは見ぬくことができた。

 ジェーンは事実を受けいれた。「からっぽ」な叔父。ラゲドーと呼ばれるほら穴の生き物。そして、そいつにきちんきちんとなま肉をやらなければ、なにか大変なことがおこるという予感……

 あいつは擬態して、どこかよそからやってきたのだ。あいつには力があり、限界もあった。力があるという明々白々なしるしは、うたがうべくもなく認められた。子供はリアリストであるものだ。事実は認めざるをえなかった。なにしろ、この腹をすかした、人間ではないよそ者は、家族のあいだにまぎれこんでいるのだから。現にここにいるのだから。

 彼はよそからきたのだ。よその時間、よその空間、思いもつかない場所から。彼が人間らしい感情をまったくもっていないことは、子供たちにはやすやすと感じとれた。彼はじつに周到に人間を装い、大人の心をゆがめて、自分が昔からいたという人工的な記憶をうえつけた。大人は彼のことならなんでも思いだせると思いこんでいた。大人はその妄想をうけいれ、子供はだまされるというわけだ。ところが、そうはいかず、知的な妄想で大人はあざむけても、子供はひっかかりはしないのだ。

 ラゲドーの力は子供の心をゆがめることができなかった。彼らの心は、大人から見て、まったく正気というわけでも、人間的というわけでもない。年長のベアトリスはおびえていた。彼女は同情心と想像力をもちはじめていたから。でも、チビのチャーリーはずっとわくわくしていた。一番おさないボビーはもう退屈しはじめていたが……

 たぶん、ベアトリスはあとになっても、ラゲドーがどんなかっこうをしていた、すこしはおぼえているだろう。しかし、ほかの子供はおぼえていまい。というのは、彼らはある奇妙な経路をたどってラゲドーのところへいったのだし、おそらくは彼と接触しているあいだにどこかを変えられてしまっていたから。彼は食べ物をうけとることもあれば、こばむこともあった。それだけだった。上でスクードラーの胴体が人間のふりをしているあいだ、下では首が、あの小さなおぞましい巣の中にころがったまま、誰の目も手もとどかぬよう、周囲の空間をゆがめていた。「黄色いレンガの道」を見つけることのできた者だけはべつだったが。

 彼はなんだったのか? 比較の基準──この世界にはまったく存在しない──がなかったので、名づけるすべもない。子供たちは彼をラゲドーだと考えていた。しかし、彼はあのふとっちょで、なかば滑稽で、しょちゅうカンシャクをおこしているノーム族の王さまではなかった。そんなものではなかった。

 彼を悪魔と呼ぼう。

 名前としては含みをもちすぎているようでもあり、もたなさすぎるようでもある。しかし、そう呼んでおくしかあるまい。大人の基準からするなら、彼は怪物か、宇宙人か、人間以上のものかだろう。しかし、彼のしたこと、しようとしたことを考えるなら、悪魔と呼んでおこう。

 数日後のとある午後、ベアトリスはジェーンを見つけると、こうたずねた。「お金はいくらあって、ジェニー?」

「四ドル三五セントよ」ジェーンは数えてからこたえた。「父さまが駅で五ドルくださったんだけど、ポップコーンと──あと──いろいろ買ったから」

「まあ。あなたがきてくれてたすかったわ」ベアトリスは大きくため息をついた。それだけで、子供のあいだで流行していた社会主義を、このさしせまった出費にも適用することが決まりとなった。ジェーンのささやかなたくわえは、メンバーのだれかひとりのためではなく、グループ全体のために使われることになったのである。「わたしたち、お金がなくなるところだったの」とベアトリスは言った。「冷蔵庫からお肉をもちだすところをおばあさまに見つかって、もう万事休すだった。でも、あなたのお金で、お肉がたくさん買えてよ」

 そのお金もやがてなくなる時がくることまでは、ふたりとも考えなかった。そのころは、四ドル三五セントはとてつもない金額に思われたのだ。しかも、高い肉を買う必要はなかった。なまで血がしたたっていさえすればよかった。

 ふたりは肩をよせあって、アカシア並木が影をおとす小道をたどった。ところどころにシュロがたおれそうにかたむいていたり、コショウボクが枝を垂らしていた。ふたりはひき肉を二ポンド買い、あとのことを考えずにソーダー水に二〇セント散財した。

 家にもどると、日曜日のけだるい感じがもうはじまっていた。サイモン叔父とジェイムズ叔父はタバコを買いに出ており、リュウ叔父とバート叔父が新聞を読むかたわらでは、ベッシー伯母がクロセ編みにふけっていた。祖母は「ヤングズ・マガジン」を読みながら、気のきいた文句をたんねんにさがしていた。ふたりの少女は戸口のビーズをあしらったカーテンの蔭にたたずみ、中をのぞきこんだ。

「はいっておいで、さあ」リュウがよくとおる、深みのある声で呼んだ。「漫画はまだだろ? 『マットとジェフ』はおもしろいぞ。スパーク・プクグだって──」

「ギブソンはいいねえ」と祖母が言った。「本物の芸術だよ。人間がほんうとに人間らしく描けているよ」

 扉がばたんと音をたてて開き、ジェイムズ叔父がはいってきた。ふとっちょで、にこにこしていて、見るからに機嫌がよかった。もう何杯もビールをひっかけているのだ。サイモン叔父の方はせかせかした足どりではいってきた。まるで良心の権化だ。

「やけに静かだな」彼はジェーンとベアトリスにとげとげしい視線を投げ、「子供というものはしょっちゅう騒いで、大人の考えをかきみだしてしまうものだがね」

「おばあさま」ベアトリスは言った。「チビさんたちはどこ?」

「台所だよ。なんだか水がいるとか言ってたねえ」

「ありがとう」ふたりは部屋をでた。部屋の中はなんとはなしの不快感がしだいにつのっていた。羊は狼が群の中にもぐりこんだ気配は察しても、羊の皮の変装にごまかされてしまうものだ。大人たちはなにも知らない……

 台所の子供たちは、筆で漫画の一部分にせっせと水をぬっていた。普通、そんなことをしたら、紙がふやけてしまうのがおちだったが、新聞のそのページには化学的な処理がしてあり、水をふくませると、いろいろな色彩がうきだしてくるのだった。くすんだパステル調の色だったが、日本の水中花や、中から小さなオモチャがつぎつぎとでてくる中国の薬玉にも似た、不思議なおもしろみがあった。

 ベアトリスは黙って背中から肉屋の包みをひっぱりだした。

「二ポンドよ」と彼女は言った。「ジェニーがたくさんお金をもってたし、マートンの店は午後にはあいたから。みんなで上にいこうと思うんだけど……」

 エミリーはていねいに水をぬりつづけたが、チャールズは飛びあがって 「これから上にいくの、えっ?」

 ジェーンは不安になって、「わたしもいっしょにいかなくちゃいけないかしら。わたし──」

「いきたくないよ」とボビーが言ったが、これは反逆罪だった。チャールズはこわいんだろうと言った。

「ちがうわい。つまんないからだよ。ほかのことして遊ぼうよ」

「エミリー」ベアトリスはやさしく言った。「あなたは今度はいかなくてもいいわ」

「いいえ、いくわ」エミリーはようやく絵から顔あげて、「わたし、こわくなんてないもん」

「ぼくはぴかぴかが見たいな」チャールズが言った。ベアトリスは彼の方にキッと向きなおり、 「そんなウソを言って、チャールズ。光るものなんてないじゃないの」

「あるさ。ときどきだけど」

「ない」

「あるんだよ。ウスノロなんで見えないのさ。エサをやりにいこうよ」

 この場はベアトリスが仕切っているのがわかった。彼女は一番年長なのだ。そして、一番こわがってもいる、とジェーンは思う。ほかの子供たちのだれよりも。エミリーとくらべてさえ。

 子供たちは上へあがった。肉の包みはベアトリスがかかえた。紐はとうに切ってあった。上の階のホールにでると、戸口の前にかたまった。

「ここからはいるんだ」チャールズはちょっと得意になっていた。「屋根裏にあがるには、バスルームの天井のはねばしごを使うんだ。バスタブの上にあがって、手をのばさなくちゃとどかないけどね」

「服が」ジェーンはおずおずと言った。

「汚れたりしないよ。おいで」

 チャールズはまっさきにのぼりたがったが、背がひくすぎた。ベアトリスがバスタブの上にあがり、天井の輪をひっぱった。おとし戸がきいきいいいながら開き、はしごがおごそかに、しずしずとバスタブの横におりてきた。屋根裏はまっくら闇ではなかった。窓からさす光でぼうっと明るかった。

「きなさい、ジェニー」ベアトリスは奇妙に息をはずませて言った。子供たちは荒っぽい曲芸まがいののぼり方で、なんとか屋根裏へあがった。

 屋根裏はあたたかく、ひっそりして、埃っぽかった。梁には厚板が何枚もわたしてあり、そこここに紙の箱やらトランクやらが放りだしてあった。

 ベアトリスは梁の一本にそってもうあるきだしていた。ジェーンは彼女を目で追った。

 ベアトリスはふりかえらなかった。一言も口をきかなかった。彼女は手さぐりするように背後に手をのばしたが、すぐあとにつづいたチャールズはすかさずその手をとった。その時、ベアトリスはもう一本の垂木にわたされた厚板にさしかかっていた。彼女は板をまたいだ。そしてチャールズといっしょにそのまま前にすすんだが、立ちどまってからもどってきた。

「ちゃんとやらなかったな」チャールズはがっかりしたように言った。「ほかのことを考えていたんだろ」

 ベアトリスの顔は金色の微光をうけて、奇妙に蒼ざめていた。

 ジェーンは従姉の眼をまっすぐ見て、「ビー」

「あなたはなにかほかのことを考えていなさい」ベアトリスはすばやく言った。「大丈夫。さあ、いくわよ」

 チャールズをしたがえ、彼女はもう一度板をまたぐことになった。チャールズは一本調子な声でリズミカルになにかをとなえていた。

ひとつ ふたつ はこうよ おくつ

みっつ よっつ こつこつ ノック

いつつ むっつ ぼうきれ いくつ

 ベアトリスが消えた。

ななつ やっつ ならべて──
 チャールズも消えた。

 肩をそびやかし、反抗のそぶりを見せていたボビーもあとにつづき、消えた。

 エミリーも小声でつぶやいている。

「ああ、エミリー」ジェーンは言った。

 一番おさない従妹は、「わたしいきたくない、ジェーン」

「あなたはいかなくていいのよ」

「ううん、いくよ」エミリーは言った。「なぜこわいかおしえましょうか。もし、すぐうしろからついてきてくれるなら、わたしこわくなんかない。わたし、いつもなにかがうしろから襲いかかってくるじゃないかという気がしてならないの──でも、すぐうしろからついてきてくれるって約束してくれるなら、わたし平気よ」

「約束するわ」ジェーンは言った。

 安心したエミリーは橋をわたった。ジェーンは今度はまじまじと目を見開いた。ところが、エミリーが消えるところは見えなかった。エミリーは不意に──消えた。ジェーンは前に踏みだしかけたが、下からの物音に立ちどまった。

ジェーン!」ベッシー伯母の声である。「ジェーン!」声はだんだん大きくなり、有無をいわさぬ調子になっていた。「ジェーン、どこにいるの? こっちにいらっしゃい!」

 ジェーンは身じろぎもせずに立ちすくみ、厚板の橋の向こうを見つめていた。なにもない。エミリーもふくめて、子供たちは影もかたちもなかった。屋根裏部屋は、突然、目に見えない脅威の気配でいっぱいになった。でも、約束した以上、自分も向こうへいくべきではないのか?

ジェーン!」

 ジェーンは不承不承階下へおり、ベッシー伯母の寝室への呼びだしに応じた。口元をぎゅっと結んだ婦人は織物をピンで固定すると、せっかちにまくしたてた。

「いったいぜんたいどこにいたの、ジェーン? 何度も何度も呼んだじゃない」

「みんなと遊んでいたんです」ジェーンは言った。「わたしに御用だったんですか、ベッシー伯母さま?」

「用があるから呼んだんです」とベッシー伯母は言った。「この衿をクロシェット織りでつくってあげました。あなたのですよ。いらっしゃい。寸法を見てあげます。まあ、大きくなったのね!」

 それから果てしなくつづくピンによる止めと運針。そのあいだ、ジェーンはエミリーがひとりぼっちで屋根裏のどこかでおびえている姿を思いうかべていた。彼女はベッシー伯母が憎らしくなった。もっとも、さからうおうとか、逃げだそうという考えは一度も頭をよぎらなかった。大人は絶対君主だった。価値のものさしの上では、その時は衿の寸法あわせが世界中のなによりも優先したのである。すくなくとも、世界を統治している大人にとってはそうだ。

 そのあいだにも、エミリーはひとりおびえているのだろう──別世界にかけわたされた橋の上で……

 叔父たちはポーカーに興じていた。女芸人のガートルード叔母は数日の予定で不意にやってきたが、居間で祖母のキートン、そしてベッシー伯母と話していた。ガートルード叔母は小柄で愛らしく、ほんとうに魅力的で、濃厚な貝スープなみのデリカシーと人生を力いっぱい生きようという意欲にめぐまれていた。ジェーンはこの叔母へのあこがれでいっぱいだった。でも、その叔母もいまは火が消えたようだった。

「ここにいると気がめいってくるのよね」叔母は扇の柄を投げ矢のようにつまみ、ジェーンの鼻をつつきながら言った。「こんにちは、チンクシャさん。どうしてほかのチビさんたちといっしょに遊ばないの?」

「え。つかれちゃった」ジェーンはエミリーのことを考えながら言った。もう、かれこれ小一時間になる──

「叔母さんがあなたの齢のころは、つかれたりなんかしなかったぞ」とガートルード叔母は言った。「さあ、こっち向いて。わたしなんか一日に三回もお客を笑わせなきゃならないし、あの退屈な男ともいっしょだし。母さん──このことは前にも話したよね──」

 ジェーンはベッシー伯母の骨ばった指がこやみなく動くのを見つめていた。伯母はクロシェット針を絹に刺しては引きぬいている。

「まるで死体置場ね」ガートルード叔母は唐突に言った。「みんなどうしたっていうの? 誰か死んだの?」

「空気のせいです」ベッシー伯母が言った。「年がら年中暑くて」

「ベッシー姉さんったら。姉さんは冬にロチェスターの舞台に立つといいわよ。あたたかいのがどんなにありがたいかわかるもの。暑さのせいなんかじゃない、とにかく。なんていうのかな──うん、そう、がらんとした舞台にいるみたいなんだな」

「おまえの思いすごしだよ」

「幽霊がいる」ガートルード叔母はそう言うなり、黙りこくってしまった。祖母はジェーンをまじまじと見つめ、「こっちにおいで」と言った。

 やさしい、ゆったりとした膝がまっていた。たくさんの子供を育ててきた膝が。

 ジェーンは心をなごませてくれるぬくもりに鼻をすりつけた。心をからっぽにして、責任の感覚をすべて祖母に託してしまおうとした。でも、うまくいかなかった。家の中にはなにかおかしなものが存在している。重苦しい波動を放射する中心がごく近くで鼓動している。

 ニセの叔父。エサをもとめる飢えとどん欲。血のしたたる肉を、どこか想像もつかぬ場所の奇妙な巣にかくれている鼻先でちらつかせ、挑発すること。その見知らぬ場所に子供たちは消えたのである。

 あいつはほら穴で食べ物をもとめてよだれを流しているのに、ここ、上の世界でもこんなに間近にいて、がらんどう、どん欲、飢えの渦となっている。

 あいつはふたつにわかれている。叔父は分身で、仮面をつけているが、おそろしいほど明白だ……

 ジェーンは目をつむって、キートンおばあさまの肩に顔をうずめた。

 ガートルード叔母は妙にはりつめた声でうわさ話をしていた。見せかけの下にひそむ邪悪さに気づき、かすかにおびえているかのように。

「わたし、あと二、三日したら、サンタバーバラの興行にはいるのよ、母さん」叔母は言った。「わたしは──でも、いったいどうしたっていうの、この家? 今日のわたしはネコみたいにカリカリしている。とにかく、みんなにショーの初日を見にきてほしいの。ミュージカル・コメディよ。わたし、売りだし中なんだから」

「『ピルセンの王子さま』なら、せんに見たことがあるよ」

「わたしが出てなくちゃ駄目よ。全部こっちでもつわ。ホテルはもう予約してあるし。チビたちもつれてくるのよ。叔母ちゃまのお芝居、見たいわよね、ジェーン?」

 ジェーンは祖母の肩に顔をうずめたまま、こくりとうなづいた。

「叔母さま」ジェーンは急に言った。「叔父さまたちにはみんな会った?」

「会ったと思うけど」

「叔父さまたちみんなと? ジェイムズ叔父さま、バート叔父さま、サイモン叔父さま、リュウ叔父さまとも?」

「あいかわらずの顔ぶれね。なぜ?」

「そう思っただけ」

 つまり、ガートルード叔母はニセの叔父に気がついてなどいなかったのだ。ほんとうは観察力がするどいわけではなかったのである。ジェーンはそう思った。

「だけど、チビさんたちはどうしたの。いそがしくないのなら、せっかく買ってきたプレゼントをとりにくればいいのに。あなたになにを用意してきたか知りたいでしょ、ジェーン?」

 しかし、ジェーンはこの胸おどる約束をほとんど聞いていなかった。というのは、空気の緊張が不意にゆるんだから。つい最前まで、渦巻く飢えだったニセの叔父は、いまでは恍惚の渦となっていた。どこかで、どうにかして、ラゲドーはとうとうエサをあたえられたのだ。どこかで、どうにかして、叔父の片われは血のしたたるご馳走をむさぼり食っている……

 ジェーンはもう祖母の膝の前にはいなかった。彼女の周囲から居間は消えた。部屋は回転する闇で、小さな光が明滅する──チャールズがクリスマスツリーの豆電球と呼んでいた光だ。回転の中心には恐怖そのものが鼓動する。こちら、消えさった部屋のニセの叔父は、片われの棲まう想像をこえた空間の巣から突きだされたじょうごの先端だった。そして、このじょうごから、肉を堪能した恍惚のよろこびが波をうって室内にそそぎこまれた。

 どういうわけか、この時、ジェーンはほかの子供たちといっしょにいた。回転する闇の中心点に彼らは肩をよせあって立っているはずだったが、彼女は仲間を間近に感じた。手をのばせばほとんどふれそうだった。

 いまや暗闇はうちふるえ、まばゆい光点は残像を曳いた。そして、彼女の心の中にありうべからざる記憶がかたまりとなってなだれこんだ。あいつに近づきすぎたのだ。しかも、あいつはエサに夢中で、すきだらけだ。自分の思念をかくしてさえいない。おびただしい思念がほとばしりでて、動物の思考のような無定形の思念で闇はあふれかえった。赤い食物のイメージ。同じような赤い食物をべつの手であたえられたべつの時間、べつの場所のイメージ。

 信じられなかった。そうした記憶は地球上のものでもなければ、この時空のものでもなかった。はるか彼方から旅をしてきたのだ、ラゲドーは。擬態もいろいろとした。彼は想いだしていた。輪郭のくずれたヴィジョンがつぎつぎと流れていった。毛のふさふさはえた横腹を引き裂いた。その生き物は彼の飢えからのがれようと身をのたくらせた。甘く熱い真紅の液体が毛皮からほとばしった。

 毛皮といっても、ジェーンはそんな毛皮は夢にも見たことがなかった……

 彼は想いだしていた。光輝くものがしきつめられた壮大な中庭。まんなかにまばゆい鎖でなにかがつながれている。円陣をつくって見まもる眼。彼は入場し、いけにえに近づいていく。

 彼は賜物のなめらかな脇腹を裂いていく。彼が獲物をむさぼる周りでは、非情な鎖はカタカタ音をたてていた……

 ジェーンは目をつむって見まいとした。しかし、彼女は目で見ているわけではなかった。彼女は自分を恥じた。すこし吐き気もこみあげてきた。彼女自身、この宴にあづかり、ラゲドーとともに、回想の中のなまあたたかい甘やかな赤い液体に舌なめずりし、彼の頭の中でぐるぐるまわっているのと同じエクスタシーを味わっていたから。

「あ──チビたち、おりてきたな」ガートルード叔母の声が遠くの方でした。

 ジェーンの耳には、その声はかすかに聞きとれただけだったが、しだいにはっきりしてきて、不意に脚の下の祖母の膝のやわらかな感触がふたたび現実のものとなった。彼女は勝手しった居間にもどったのだ。「上には象の大群でもいるのかしら、ねえ?」ガートルード叔母がいった。

 みんなはもどってきたのだ。ジェーンにもそれがわかった。じつをいえば、彼らはいつもよりずっと小さくしか音をたてなかった。階段のなかばまではおとなしく、そこから急に足をふみならしたり、おしゃべりしたり、大騒ぎをしはじめたので、ジェーンの耳にはわざとらしく聞こえた。

 子供たちは居間にはいってきた。ベアトリスはちょっと顔色がわるく、エミリーは上気した色をして目元が充血していた。チャールズはなんとかして興奮をおさえこもうとしていたが、ボビーは逆にうんざりして退屈していた。ガートルード叔母を見つけると、騒ぎは倍になった。ベアトリスはジェーンとすばやく意味ありげな視線をかわした。

 ひとしきりプレゼントと歓声がつづいたあと、叔父たちがもどってきた。サンタバーバラへの小旅行の相談で浮きたった座のうわべのにぎわいはしだいにしぼんでいき、重苦しい沈黙にとってかわった。

 大人はだれ一人として背後をふりかえってみたことがない。でも──邪悪なものの気配は迫っていた。

 ニセの叔父の底なしの空腹に気づいたのは、子供たちだけだった──ガートルード叔母でさえ、大人の例にもれない。そいつは生気のうせた、のろまの、なかば心を欠いた影にすぎなかった。表面的には人間そのもので、この家の中に飢えの気配をもちこみもしなければ、子供たちの心に思念を読まれたこともなく、ほかの時空で赤い液体のしたたるご馳走にあづかった記憶を反芻したこともないかのようにふるまっていた。

 彼はいま、飽食していた。子供たちはゆったり脈打つ眠気の波を感じとることができた。大人たちはみなあくびをしながら、なんだろうと考えている。ところが、彼はたちまちからっぽになった。彼の正体を見ぬくことができた小さな鋭敏な心に、もはや現実のものではない「いるのにいない」という感覚が、かつてなく鮮烈につきささった。

→ 続く
Copyright 1996 Kato Koiti
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