ツツイ戦争

加藤弘一

スポット

 虚像の戦争──ツツイ・ヤスタカ。

と、わたしは書く。言葉にならぬ言葉、そのいらだちを踏みこえようとするとき、ペンがいたずらに引いてみせる落書の線、まだ文の態をなさぬ言葉だ。だが本当に書くべきことならこれだけである。ツツイとは虚像と虚像の戦争であり、虚像としての戦争なのだ。あとはそれにもっともらしい扮装をさせ、踊りまわるがままにすればいい。

イントロ

 ツツイを読みかえすとき、われわれがなにより当惑するのはそこに出来する出来事の異常さ以上に、それを組み立てる題材の平凡さである。珍奇な出来事はなんと陳腐な題材からつくりだされていることだろう。たとえば「最高級有機質肥料」を読みなおされるがよい。ミトラヴァルナ人は古ぼけた植物人間のぬいぐるみを脱げば、饒舌なグルメにすぎないし、主人公の外交官生活はもうしわけに語られたありきたりのもの、そして彼の排泄物もしごく標準的なそれにちがいないのだ。食器類にいたっては言わずもがな。「悪食」の相対性や人間性をめぐる所説、どんな美人も「糞便製造機械」にすぎないという逆説など、なんとも陳腐きわまりない題材だ。ツツイが部隊にのせる大道具、小道具、人物、背景、主題はいずれもありふれたもの、使いふるされたものである。ツツイは物にぴったりはりついた常套句、ありきたりの紋切り型を剥ぎとって、物そのものに迫ろうとはしない。新しい性格を想像したり新しい社会の断面を截りとったりすることは、ツツイの小説には無縁である。ツツイが照準を合わせるのは物事の核心(そんなものがあるとして)ではなく、いつもそのやや手前、意味がたわむれあう物事の表面なのだ。ツツイ的題材とはどこにでもあるもの、というよりはむしろ典型的なもの、通念的なものであり、現実に存在する生なものどころか、逆にあらかじめ言葉として定着されたもの、われわれの周囲、われわれの内部を時々刻々意味ありげに流通しているところのものである。ツツイ的対象とは営まれた生活ではなく、書かれた生活、生活の幻影なのだ。

 ツツイ的出来事はどのように出来するのか? 語彙と語彙との衝突、意味と意味との遭遇戦として、だ。大蔵大臣と文部大臣は口角あわを飛ばさんばかりに感激を語る。「おお、大使、お聞きください。……あのどろどろと混った、老人の白眼を思わせる青痰を見て私たちはワッと歓声をあげました。私たち二人は壺の両側からストローを突っこんで、それを吸い上げたのです。まず最初、チュルチュルと、一種の透明感のある塩味のやわらかい液体があがってまいりました。そしてしばらくしますと、今度はずるりと、左様、地球で申せば生(ガキ)の如き青痰が、ひとかたまりとなって、あがって参ったのです。その、甘ったるいような辛いような、そして酸っぱいような一種独特の味! 私たちは思わず頬を両手で押えました。頬が落ちるかと思ったからでございます」。つぎつぎとくりだされる食通の多弁を大便、小便、下痢便、痰壺の各中隊にわかれて展開した汚物の軍勢が迎え撃つ。美食軍は排泄物軍に押しまくられ気味だが、「通いの軍隊」では二大勢力──題名に示されるように「戦争」対「サラリーマンの日常」──が競合し、戦況は混沌としている。両軍は全域にわたって戦線を形成しつつ対峙し、主人公の劈頭の台詞とともに敵味方いりみだれた白兵戦の火蓋が切っておとされる。「通いの軍隊」という短編は「戦争」軍と「日常」軍の鍔迫りあう戦場にほかならない。

 「あそこだ」おれは時おり銃弾がひゅんひゅんヘルメットをかすめる中を、腰をかがめて駈け、タイム・レコーダーに近づいた。

 ひゅるるるるるるるるるるるるるる。

 砲弾の近づいてくる音がしたかと思うと、だしぬけに眼の前へ太陽が発生し、轟音で頭ががんと鳴り、おれは吹きとばされた。地べたに叩きつけられた。砂まみれになって顔をあげると、そこにはもはやタイム・レコーダーも壊れたトラックも、跡かたさえない。

 「ひゃあ、タイム・レコーダーが吹っとんじまった」

 腕時計をみると、九時を十三分過ぎているからあきらかに深刻なのだが、その遅刻を証明することさえできなくなったわけで、おれの気はやや楽になった。

砲煙弾雨の中を右往左往しながら、彼は「遅刻」のことしか考えていない。彼の一挙手一投足に「戦争」と「日常」とが突撃と後退をくりかえす。「兵隊割引きの通勤定期」、求人欄そのままの募兵広告、新聞の「戦況」欄、彼をゆり起こす妻の声(「あなた。早く起きないと戦争に遅れるわよ」)、兵隊でごったがえす通勤快速、ありとあらゆる小部分で両軍は戦火をまじえ、小競り合いがくりひろげられる。激昂する将校の演説は残業をいやがる部下を怒鳴りつける「猛烈課長」の説教に殲滅され、夜の森を染める砲火は一家団欒の花火と死闘を演ずる。だが、彼があくまで戦場の「サラリーマン」として行動し、いささかも兵隊かぶれしていないことからも明らかなように、両軍は旗色を鮮明にして、いささかも乱れることがない(そうでなかったら、笑いは出来しないだろう)。問題は軍隊と会社が同じかどうかということではない。「戦争」と「日常」があくまで別物であり、たがいに噛み合うことのない意味をおびて対立拮抗するからこそ、両者の遭遇が可能なのだし、笑いが炸裂するのだ。会社とは軍隊である、戦争も観光資源になりうる等々の結論をツツイから引きだすのは愚の骨頂というものだ。ツツイ的小説は戦争や日常がなにかではなく、「戦争」と「日常」の出会いがなにかから発するからだ。

 さしあたり敵対する諸々の戦闘部隊と、これが対峙し展開する戦場とが、ツツイ的出来事の必須要素である。部隊と言い、戦場と言い条、小説である以上、すべては言葉によってつくられ、俳優と舞台は同じ糸、同じ文章で織りなされている。両者は不即不離の関係にある。一方の要素、「戦場」がどのような水準に設けられているかに注目することで、ツツイ小説は三つの類型にわけて考えることができる。

  1.  一 世界の水準に設定されているもの。「ベトナム観光公社」、『四十八憶の妄想』、「郵性省」、「マグロマル」など。
  2.  二 主体自体の水準に設定されているもの。「馬は土曜に蒼ざめる」の人間/馬の葛藤。「佇む人」の人間/植物の混淆。「条件反射」の人間/犬/豚/馬のひしめく人間動物園。そして、十八人の自分自身が乗り合わせる「欠陥バス」の突撃。
  3.  三 言葉自体の水準に設定されているもの。ばらまかれた文章が次々と発芽し、うねうねと葉を茂らせる「デマ」、「ビタミン」、「トーチカ」。あるいは話声と話声が蔓をまいてからみあう「フルネルソン」。本文に接木された注釈が縦横に繁茂し、迷路をつくる「注釈の多い年譜」。

 この分類は排他的ではない。戦闘は複数の水準で同時に、あるいは水準から水準を飛びうつってくりひろげられることもある。たとえば、「トラブル」では世界の水準(日比谷公園で会戦する「サラリーマン族」と「マスコミ族」)でと同時に、主体の水準(主人公における「おれ」と「私」の死闘)でも展開されている。ここで重要なのは、人間が意識を持ち高尚な思索にふける存在であると同時に、骨と血と肉の塊でしかなく、しかも彼を動かしているのは彼ではないというような不条理の認識にあるのではない。人間が物でしかないという発見を、さも大変なことであるかのように言いはやすうすら馬鹿もいるが、ツツイ小説はそんな地点をはるかに突きぬけたところで作動している。

 もしこの小説が何もわからぬままに身体の自由を奪われ、文字どおりの肉弾戦に巻きこまれていく経緯を、主人公に一体化し、その視点から書いていたら、あるいはそういうセンチメンタルな読みも可能だったかもしれない。だが、そうは書かれていない。「おれ」は身体の自由を奪われるが、侵入者である「私」も身体を全面的に支配下においたわけではない。知覚機能、求心性神経は依然として「おれ」に属し、「私」は運動機能、遠心性神経を支配するにすぎないからだ。本来、表裏一体をなすべき知覚と行動は「おれ」と「私」の敵対のために乖離してしまい、知覚と行動の循環的な連関が遮断され、主体と世界とをむすぶ根源的な回路が断ち切られてしまうのである(同じような事態は「巷談アポロ芸者」、「テレビ譫妄症」でも出来している)。一切の意味は絶句におちいり、世界はもはや無縁な場所、不条理な場所ですらなくなる。人間=物の逆説でさえも。それが不条理であり、受難であるのは、本来自由であるべき意識、「わたし」という特権的な中心点を前提にしたかぎりのことである。だが、「おれ」は「私」の不意の登場によって、受難劇の主人公の位置から引きずりおろされる。進歩的知識人の悲劇は愚者の狂宴にとってかわられる。今回の主役はまどかな真円どころかひしゃげた楕円であり、「おれ」と「私」という不均衡な二極を焦点に、跛の回転をする。「私」と並び立った「おれ」は贋の一人称であり、贋の主体である。手足や胴体、生首の乱れ飛ぶ舞台で「おれ」と「私」は交互に「話者」の座にのぼり、勝閧をあげる。が、すぐにまた引きずりおろされる。「トラブル」では主語が争奪地点と化しているのだ。ツツイ的自我とは実体的な「わたし」、あるいは責任ある「わたし」ではなく、さまざまな要素の闇鍋的ごたまぜ(まさに「バス」や「人間動物園」)であり、一進一退をくりかえす流動する戦場なのである。

マエコマ

 ツツイにおいては本質とは無関係にすべてが戦争と直結する。戦争はなにくわぬ顔で物語に闖入するのみではない。どんな平和な情景であれ、不意に、いともやすやすと戦闘状態に移行してしまう。というのも、もともとすべては戦争を原型として描かれているからだ。ツツイ的家族は戦争の渦中に投げこまれているか、あるいはそれ自体が交戦状態にあり、「台所にいたスパイ」のように局地戦に発展したり、「わが家の戦士」のように一家全滅にいたることもあれば、『家族八景』の多くのエピソードがそうであるように、一触即発の均衡状態(いみじくも「家族サーカス」といわれている)をたもっていることもある。

 家庭のみならず、あらゆる局面で闘いが出来する。関西と関東、全学連と機動隊、ビシュバリクとトンビナイ、あるいはバーで、学会で、競馬場で、横丁で、アパートの一室で、三十八色の道路が目も彩に交錯し、三十八の種族がたがいに翻訳不可能な言語を喋りあい、三十八様式の思考を投げつけあうカリアヤムの衛星上で。いたるところで砲声が轟き、憎悪が炸裂し、悲鳴があいつぎ、埒もない虐殺がくりひろげられる。犬の言葉がわかるばかりに、飼主と飼犬の間で騒動がもちあがることもある。そのようなあからさまな殺しあいの形をとらぬ場合であれ、われわれはコレラやツァラトウストラ、オナポートの気違いじみた蔓延に、あるいはやぶれかぶれになって駆けまわる脱走者たちに、戦闘状態の徴を見てとらぬわけにはいかない。ツツイ的戦争はいずれの場合も、とりつくしまのないほど徹底して不毛である。

 とはいえ、それは戦争一般の破壊的な本性に由来するものではない。戦争はまずその反人間的な性格において、人間性への問いかけとしてはたらく。どんな残虐な戦争も真摯に受けとめられるなら、進歩派知識人的な低俗ヒューマニズムを否定するとともに(しかし、人間の人間性は保存したまま)、より高次の、真のヒューマニズムを打ち立てる契機となり、逆説的にヒューマニズムに貢献するというわけだ。第二に、戦争は現実の矛盾を真に解決するためには避けて通ることのできない段階であり、建設のための破壊として位置づけることができる。癌を克服するためには身体を切り刻み、抗癌剤という毒を注射しなければならないというわけだ。最後に、戦争は日常性と対立した「非日常」ととらえることができ、その限りで、どんな悲惨事や滑稽事も、祝祭的な輝きをおびることがありうる。日常に倦んだ人間には、戦争はかっこいいし、すかっとするのだ。三者いずれの場合も、戦争の破壊的な本性、否定性は、否定の否定、建設的破壊として、綜合の契機をめざす目的論の構えの中で意味づけられており、こういってよければ、飼いならされた否定性にすぎない。

 これに対して、ツツイ的戦争とは反人間的ではなく前人間的であり、生真面目ではなく不真面目であり、非常事態ではなく通常事態である。厳密にいえば、そこには真の対立も矛盾もありはしない。「台所にいたスパイ」の家族がめいめいスパイとなって監視しあい、町内をまきこんで血みどろの抗争劇を展開するのは、スパイ・ブームという一種の約束にしたがっての限りのことで(「スパイにあらざれば人にあらずという風潮ができて以来……」)であって、なんら必然的な動機に根ざさない以上、真の解決など本来ありえず、対立のための対立、戦いのための戦いに終始している。

 贋の対立がもたらすのは贋の勝利だけである。主人公(KGB所属)は一日の戦闘に勝ちのこり、家族を皆殺しにした後、書斎でぼんやりと時をすごしている。そこへ家族そっくりの顔をしたスパイたちが次々とやってくる。妻などは前よりもきれいになっていたが、殺した前の妻は中共のスパイ、今度の妻は実はCIAのスパイである。一家団欒に巻きこまれた彼の傍白。「しかし今、おれの家族のような顔をして、平和な顔でテレビの『スパイもの』を見ているこいつら──こいつらほんとうに、KGBから派遣された替玉なのだろうか」。すりかわった家族は以前の家族のイミテーションというよりは代役である。はじめの家族自体、「家族愛という(演技)だけで進行する世界」であってみれば、中共のスパイであった第一の妻、CIAのスパイである第二の妻、KGBのスパイであろう第三の妻の間に真偽の別があろうはずはなく、正体がなにものであれ、「妻」を演じるかぎりにおいて彼女は妻だからである。家族であり同時にスパイであることは矛盾でもなければ自己欺瞞でもない。両者は本物対贋物、実生活対演技、実像対虚像という対立をなしているわけではなく、贋物対贋物、演技対演技、虚像対虚像という対立をつくっているのだ(ツツイ的悪無限)。重要なのは身元という縦の連関ではなく、役柄という横の連関である。ツツイでは演劇的な約束が第一に優先する。「融合家族」では一軒で二軒の家を舞台に、二組の夫婦が「不干渉」の約束のもとに生活しているが、その生活はそのまま演技である。

 台所のドアが開き、つまり、もうひとつの家にとっては寝室のドアが開き、もう一つの家の細君が入ってきた。

 おれたち夫婦は、彼女を無視して食事を続けた。もうひとつの家の細君、つまり岡部家の夫人は、ちらと横目でキチン・テーブル上の料理を眺めてから、やはりそしらぬ顔をしてダブル・ベッドのシーツをとり替えはじめた。わざとぱたぱたやるものだから、料理の上に埃がとび散って、落ちついて食事ができない。

 「ちわー。魚常で」勝手口から魚屋が入ってきた。「刺身を持ってきました」

 妻は魚屋を無視して、おれに喋りはじめた。どうやら刺身を注文したのは岡部夫人の方だったらしい。

 「あなた、何さ」岡部夫人が眼を吊りあげて魚屋に叫んでいる。「寝室から入ってきたりして何よ。台所へまわって頂戴」

二つの背景の混在するこの舞台では、人物は自分の属する背景に規定されて演技をおこない、それに応じた所作をするので、このような食い違いが日常茶飯に出来する。あるいは食い違いこそが「不干渉」の帰結である。冷戦状態にある両夫婦の間には、いわば第四の壁が介在し、互いに互いの観客になりあっているのだ。

 生活そのものに擬態した演技は、事情を知らぬ第三者によって揺さぶられるが、第四の壁の存在が確認され、更新されるのはそのようなアクシデントによってである。約束は約束にはずれたものを不断に取りこむことによってのみ維持されるが、逆に違反がまったくなくなってしまえば、弛緩していくだけだろう。「あらいやだ。台所への障子がひとりでに開いたわ。あの透明人間ったら、まだわたしを追いまわす気なのかしら」。二人きりで残された主人公と岡部夫人との間で第四の壁の約束は「透明人間ごっこ」というより弱いそれに緩和し、消滅しそうになる。その寸前、第三者──新妻をともなった主人公の後輩──が登場し、そこに妻と岡部氏があいついで帰宅する。約束がふたたび打ち立てられねばならない。主人公の妻と岡部氏は、とっさの機転で向こうの夫婦に扮する。岡部夫人が岡部夫人で、主人公の妻ではないこと、彼の妻が彼女自身であって、岡部夫人ではないこと、すなわち人物の自己同一性はあっさり破棄され、「不干渉」という約束が最優先で再建されるのだ。

 一方、「遅感症」という約束でつくられた小説もある。修道尼の主人公はあらゆるよろこびに罪悪感をおぼえるあまり、食事をしてもその時に味わうことができず、十七時間後に味覚が遅延してあらわれるとされている。ある夜、彼女は犯されるが、聖女のつつしみをくずさない。しかし、十七時間後の昼餐会という舞台で、彼女は快楽にあられもなく悶える彼女の姿がはめこまれ、痙攣的な笑いとともに聖女の肖像に亀裂がはいる。ツツイ小説は人物の内的な必然性によってではなく、演劇的な約束によって展開する。はじめに人物があって関係をつくるのではない。はじめに関係ありきで、約束に応じて人物が出来上がるのだ。

タイトル

 虚像の戦争──ツツイ・ヤスタカ。本当に書くべきことなら、これだけである。

キャスト

 あらためて指摘するまでもなく、ツツイ的人物はすぐれて平板であり、小説的な心理の陰影をまったく欠落させている。それは大味ということではない。アシモフやクラークに典型的に見られるように、大部分のSFの作中人物はわずかにぎこちないユーモアによって味つけされているにすぎないが、これは小説家としての未熟か、心理に関する関心の欠如によるものであって、問題とするには当らない。SFはアイデアがすべてであって、誰も人間ドラマなど求めはしないのだから。

 『家族八景』においては、すこしく事情が異なる。これはどう見ても超能力よりも人物の心理の綾に注目した小説だし、良くも悪くも小説もどきの段階にとどまっているクラーク、アシモフからくらべれば、はるかに小説らしい小説なのである。だが、ここでもまた、作中人物はベトナム戦争ツアーの観光客同様、奇妙に平板である。

 寿郎の心に、ふくよかなからだつきをした美女たち、特にルノワールが好んで描いたタイプの、あの母性的な女性像がいくつか浮かんでは消えた。
(そうだ。ああいった芸術家たちだって、小柄でガリガリに痩せたタイプの小娘に興味を持ったことなど一度もなかった筈だぞ)

 七瀬は寿郎の抱いている強烈なエディプス・コンプレックスに気がついた。

寿郎は判でおしたような類型的な人物として描かれている。括弧でくくられた内的独白の部分は書かずもがなのこと、あるいは小説技術上、書いてはいけないことに属する。それをあえて書いてしまうことによって、ある逆転が生じている。内面が外面とひとしくなり、一切の奥行きが失われてしまったのだ。寿郎は正面と背面、側面が同時に描かれたキュビスムの人物像のように、内面と外面がならべて呈示される。彼はマザコンの狭量なインテリであり、それ以上でもそれ以下でもない。地図の上の山にも似て、ツツイ的人物は背後性をことごとく奪われ、図案と化している。露悪趣味のいやらしさが感じられず、透明感さえあるのは、一切が表面化されているからである。

 婆さんが、その腹に掌をあててみると、それはなまあたたかく、しかも腹の中では何かがひくひくと動いているのだ。指さきには、胎児の足の躍動とはっきりわかる感触がつたわってくる。

 「ひゃあ。こりゃあ、もうすぐ生まれるぞ」

 婆さんは、その(尻)が、尻として独立した生命を持っているらしいことを知り、ぶったまげた。ほんの二、三寸の長さでぶった切られた態のふたつの白い太腿部を両側へ押し開けば、そこにはちゃんと女性生殖器が存在したのだ。

 なめらかで浸透不可能な表面、内にも外にも還元しえぬ表面、そしてその当惑するばかりの眩しさ。それは表皮において「尻」であるにすぎない。だが、あまりにも尻そのものに類似しているがゆえに、それは尻ではありえない。心理において見られた擬態作用、過度の露出化は、ここでもはたらいている。「それ」は尻とは無関係ななにかなのだが、その意味の空虚を「尻」という意味で充填した結果、かえってなにものでも(まして「尻」では)なくなってしまう。それはおそらく、腐液でずるずるになった「たたみ」や血肉の飛び散る乱戦の情景と同じである。

 噴水には、かぼちゃみたいな生首が数個浮かんでいて、いずれもきょとんとした無表情な顔で、生気のない眼を晴れ渡った碧空に向けている。笑っている奴もいた。水は血の色に染まっていて、噴水の水が落ちるあたりでは泡と混じって美しいピンク色をしていた。

 水面にうかぶ生首の静謐な面相は、静謐なだけにいっそう人間のそれとは別のものである。それは「かぼちゃみたいな生首」というより、生首みたいなかぼちゃかもしれず、生首をよそおったなにものかである。水鏡の影にも似て、それは人間の表情を真似て、危険なほどそっくりに真似てみせる。だが、その面相のしたには人間の脳漿がつまっているとはかぎらない。ツツイ的人物とはいつもなにか非人間的なもの、人間的な意味が生まれる以前のものにつながっているのだ。そして、人間の人間性は真似られたものとして表面化され、一種の平板な図案にすぎなくなってしまう。人間的世界の地滑べり。「おれはもう、凶悪な加害者になった」。

スタッフ

 おれはもう凶悪な加害者になった、と彼が静かに断言するとき、われわれは電話ごしに対峙する二人の加害者に直面するのだ。一方は追いつめられた脱獄囚の小古呂、一方は一家をなしたエリート・サラリーマンと対照的でありながら、両者とも相手の家族を人質にとり、子供の指を切断しては送りつけあうという「毟りあい」を演ずる限りでは、鏡像のように対称的である。「すべてはおれの思い通りに進行していると思い、ほくそ笑みながらおれはさっそく、今度は餓鬼の右手の中指を切断した。餓鬼の、もはや意識を失いかけている白い顔を見て、おれは自分の息子も現在この餓鬼と同様の目にあわされていることに気がつき、そのあまりの哀れさといたいたしさに、出刃包丁をふりおろしながら思わず射精をした」。われわれには閉ざされた主人公の姿しか呈示されていないが、閉ざされているというそのこと自体によって、主人公の所作はにわかに二重化し、脱獄囚のそれと重なりあう。社会から「被害者」と呼ばれる態のいい見世物にされ、自分自身に向きあうしかなくなった彼が見いだすのは、彼自身ではなく、誰か別人の姿なのだ。ふりかざされ、闇にふるえる包丁、その下で蒼ざめる二本の指を欠いた子供の手は、小古呂の息子のそれであると同時に、彼自身の息子のそれでもあり、ゆっくりと、だが渾身の力をこめて出刃包丁をふりおろす所作は、彼のものであると同時に彼のものではなく、ことによったら誰のものでもない所作、虚空に一閃する匿名の所作なのかもしれない。しかし、なぜそうなのか。なるほど、小古呂の妻子を人質にとったことならば、小古呂の行為の模倣であり、彼固有の所作ではあるまいが、小古呂の息子の小指をまず切断し、「毟りあい」の端緒をつけたのは、彼自身ではなかったか。

 エスカレートの次の段階にさしかかったぞと、そう思い、おれはエスカレートさせる決心をした。決心するのは辛かったが、それをやらないとおれの行動の意味がなくなってしまうのである。そしておれは、小古呂の息子の小指を根もとから切断した。その小指は昨夜おれが骨をへし折った右手のあの小指だった。おれが台所で出刃包丁を握り小指切断を宣言すると小古呂の妻と息子は土下座して泣きわめいた。しかしおれは容赦しなかった。ダイニング・テーブルへ力まかせに押えつけた餓鬼の右手から小指を切りはなすと餓鬼は気絶した。錯乱状態になってけたけた笑いはじめた小古呂の妻が、切断面の止血をながい間しなかったため、血が台所の床を大量に流れた。小指から血をしぼり出し、紙封筒に入れ、おれは……

「おれ」の行為は「加害者」としての行為、「加害者」でありつづけるために必須のそれであって、その限りでは彼固有のものではありえない。というのは「おれ」の所作はもうひとつの場所で、その鏡像たるもう一人の「加害者」によって真似られうるものであり、また、それ自体、物真似以外のなにものでもないからである。「おれの妻と子供をすぐここへつれてこないと、お前の女房を犯す」──「気をつけて口をきけ。そういう言いかたをされるだけで、おれはかっとなるんだからな。そんなことをしたら、ためらいなくお前の餓鬼をぶち殺すぞ」。どちらが脱獄囚で、どちらがエリート・サラリーマンか迷うところだ。現実の小心な小古呂は決して子供の指を切断するなどと脅しはしなかったが、抽象的な「加害者」としての小古呂は別である。彼の行為はその「加害者」の行為をなぞったものにすぎない。「加害者」という約束は、いつもすでに彼の行為を可能的なものとして素描しているのであり、その行為は内発的なものどころか、外から強いられたものである。なにがそれを彼に強いるのか? もちろん、社会だ。社会は彼を「被害者」とわりつけた。「被害者」の役に甘んじる限り、「同情」とか「社会正義」と称する匿名の暴力にさらされながらではあれ、彼は生存を、ただし慰みものとしての生存を許されただろう。しかし、包丁の一閃によって彼は「加害者」となり、小古呂同様、社会全体を敵にまわしたのである。

 自分の小古呂の息子に対する仕打ちが、もうひとつの家で自分自身の息子に対してくりかえされることを彼が予感するとすれば、それはおのれの所作が分身の所作の先取りにほかならないこと、はじめてなされるものではなく、繰り返されてきたし、これからも限りなく繰り返されうるものであるとして受苦されたという理由による。「餓鬼の、もはや意識を失いかけている白い顔を見て、おれは自分の息子も現在この餓鬼と同様の目にあわされていることに気がつき、そのあまりの哀れさといたいたしさに、出刃包丁をふりおろしながら思わず射精をした」。不安の抑圧によってかろうじて保たれていた無感動状態は、不意に間欠的に破れ、「凶暴な口」のように開いた狭間に餓鬼の「白い顔」はその面貌からつぎつぎと剥がれおち、その下からは彼自身の息子の顔が限りなくあらわれる。自己主張とは自己の抹殺である。

 小さな死体の指をすべて切り落としたため警官にことづけるものがなくなり、次におれは小古呂の妻の右手の小指を切り落とした。おれが小指を切り落とそうとしているその女が自分の妻なのか小古呂の妻なのか一瞬わからなくなったりもしたし、小指を切断されたあとの右手を悲しげにじっと見つめる小古呂の妻に、同じ境遇の自分の妻の姿を見て興奮し、挑みかかったりもした。おれは静かな狂気に陥っている小古呂の妻と常に交わりつづける必要があった……

あくまで別のものとして隔たっていながら、こちらの妻があちらの妻にひとしく、あちらの妻がこちらの妻にひとしい空間。犯されているのが相手の妻なのか、自分の妻なのかわからなくなり、犯しているのが自分なのか相手なのかさえ不分明になる合わせ鏡の空間。彼が彼でありつづけるには不断に先手を打ちつづけなければならないが、それはいよいよ彼を抽象的な「加害者」にと追いつめていく。分身そのものの抹殺にとりかかるとき、彼は彼自身の抹殺に着手する。彼はもはや誰でもない非人称の凶暴な意志、匿名の暴力と化す。しかし、これは敗北ではない。「同情」や「社会正義」を名のる社会の匿名の暴力に対抗するには、自分自身を抹殺し、みずから匿名化するほかはないからだ。「奇怪陋劣潜望鏡」では分身としての敵ではなく、純粋に鏡面的存在としての潜望鏡が匿名化の跳躍板となっている。純粋に鏡面的といったのは、この潜望鏡は風呂桶だろうが、洗面器だろうが、コップだろうが、およそ水面ならどんな水面からでも出現し、しかも「水面下には何もなく、ただレモン水の表面から潜望鏡が直立してるだけ」だからだ。この潜望鏡は「見られる」ことを「見る」変換器として機能する。潜望鏡に「見られる」ことで、欲望は二倍にも三倍にもふくれあがっていく。

 その夜は枕もとの潜望鏡が、確実に自分たちを見ているという意識から、常にない興奮を味わったものの、その次の夜ともなればもう、洗面器ひとつだけでは満足できない。では今夜はバケツも、次の夜は洗い桶もという具合に、潜望鏡用の水の容器は毎晩ひとつづつふえた。しまいには一挙に数を多くすることにして、部屋の電灯をあかあかとつけ、おれたち夫婦の布団の周囲へ家にある容器という容器はすべて、ありったけの鍋、釜、フライパンは言うに及ばず、茶碗にコップに皿小鉢、はては灰皿から爪楊枝立てに至るまでを動員してずらりと並べ、長いの短いの、太いの細いの、大小五十数本の潜望鏡に取り囲まれ見まもられて、おれたちは今まで以上に熱をこめ、夫婦生活を演じはじめた。

ここに出来しているのは性的な倒錯でもなければ、妄想でもない。またしても際限なくエスカレートする「毟りあい」の運動だ。大小五十数本の潜望鏡のつくる円陣のただ中でピストン運動をくりかえす二人の影は、おびただしい鏡のめくるめくきらめきとともに、果てしなく毟られていく。さまざまな潜望鏡の眼にとらえられたその分身は、同時に同じ体動をくりかえしつつ、毟られた羽毛さながら、鏡面の向こうへと飛びさっていくのだ。その希薄さ、その際限もなさ。「それは国鉄の線路を各世界の継目にして南北に同じ街並みがつらなった並行世界であった。見渡す限り同一の街並みが無数に並んではるか下方、地獄まで下っているのではないかと思える果てしない傾斜となって谷底へ無限に落ちこむように続いている。おれはふり返り、今度は山の方を見あげた。商店街の彼方にちらりと見えるのはたった今おれが出てきたばかりのおれの家、その彼方には厄除け八幡、そこまではよいのだが厄除け八幡の背後には高架ができ、その高架の上はあきらかに国鉄の線路とプラットホームであって、そこからはさらに上へと並行世界がつらなり、どんどんどんどん……

→ 続く
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