芥川賞はニート文学なのか?

加藤弘一

 芥川賞は新人にあたえられる賞である。新人賞なので、質的に高い作品ばかりというわけにはいかないが、反面、社会の動きを敏感に反映しもする。世相診断の道具にしようというわけではないが、町田康が受賞した二〇〇〇年あたりから、わたしはなにかが変わりはじめているという印象をもった。はっきり変わったと確信させてくれたのは、二〇〇四年下期の阿部和重の「グランド・フィナーレ」だった。

 「グランド・フィナーレ」の主人公の沢見は教育映画の製作会社で監督をやっていたが、突然、妻から離縁される。彼は慰謝料を払わされた上に、裁判所の接近禁止命令で小学校二年生一人娘と会えなくなり、職も失ってしまう。しかし、それは自業自得だった。

 離婚の表向きの理由は妻に暴力をふるたからということになっていたが、事実は違った。彼はロリコンで、教育映画の仕事で知りあった子役の少女たちにアルバイトを持ちかけ、いかがわしい映像を撮ったり、その方面の雑誌に紹介したりといったことを十年以上つづけ、さらには自分の娘の全裸写真までコレクションしていた。彼の秘かな趣味と副業を知った妻は離婚を求め、彼は言いなりになるしかなかった。

 という真相は物語が半分も進まないうちに暴かれる。故郷に引っこんでいた彼は娘に誕生日のプレゼントを届け、あわよくば誘拐しようと妄想して上京してくる。妻が暮らしている実家を訪ねるわけにはいかないので、妻との共通の友人にプレゼントと手紙を託すが、その友人は酒席にやってくると、プレゼントはわたしたが、手紙はわたさなかったと告げ、離婚の本当の経緯を友人たちにあらいざらい喋ってしまう。

 恥ずかしい秘密の暴露につきものの緊張も葛藤もなく、それどころか脱力感すらともなって、事実はあっさり明かされる。翌日の場面にはもっと脱力した。酒席に出ていた若い女友達のIが彼の宿を訪ねてきて、昨夜の話は事実なのか糾したのに対し、「総て事実だよ。付け足すことは何もない」と答える。それでも彼女が帰ろうとしないので、アルバイトに応じた少女の体にさわったり、一人を犯したことまで含めて、鬼畜の所行のあらましを話しだす。

 製作側という立場を利用したことからいっても、常習性と被害者の数からいっても、沢見は『悪霊』のスタヴローギンより卑劣だが、スタヴローギンのように自裁を選ぶほど思いつめたりはしない。それどころか「他人事のごとくすらすら」と言葉が出てくるので、当の本人が「違和感」を感じているほどである。

 沢見の過去は些細なことと免罪されているわけではない。通り一片のつきあいのIがわざわざホテルまで話を聞きにきたのは、彼が勝手に空想するような「腹を割った対話」をもとめたからではなく、彼女の親友が幼い頃、大人にいたずらされ、それがもとで自殺したからだった。彼女は「沢見さん、死んじゃう子だっているんだよ。沢見さんみたいな人って自分のことしか頭にないから、そんなふうには考えたこともなかったでしょ」と言い捨てて帰っていくが、その言葉が彼の心にとどいたかどうかには疑問がある。物語の後半で、彼はかつて餌食にしたのと同じ年代の少女二人のために自腹を切って演劇公演の準備をしてやるが、罪滅ぼしをしているというより、相も変わらず自分に都合のいい空想を彼女たちに投影しているだけと見えるからだ。

 沢見は無責任で無神経にはちがいないが、嘘をついたり、言い訳したりしていない点は押さえておきたい。彼はマイナスの自己像をさしたる葛藤もなしに、脱力するしかない物わかりのよさで引きうけているのだ。

 同じような物わかりのよさは藤野千夜の「夏の約束」(一九九九年下期)や大道珠貴の「しょっぱいドライブ」(二〇〇二年下期)にも見られる。

 「夏の約束」の松井マルオは会社勤めをしている太っちょのゲイだが、入社六年目に自分の本性を同僚に知られたことを、かえって楽になったと肯定的に受けいれている。といって、周囲が完全にゲイを容認しているわけではない。中学時代はゲイであることでいじめられたし、会社でも微妙に疎外されており、陰口が時に本人の耳にはいることもなくはなかったし、将来の昇進にさしさわりがでる可能性もあったが、「とても恵まれた呑気な会社」と居心地よく感じているし、塾帰りの小学生たちから「ホモデブゥ」と囃されても、軽く受け流している。

 この余裕はどこから来るのだろう。彼はそんなに心の広い大人物なのだろうか。そうではないだろう。小学生たちに腹を立てている恋人のヒカルに対して、彼はこんな感想をいだく。

 でも、たぶんヒカルだって、人を差別したり見下したり笑ったりなんてしょっちゅうしているくせに。マルオは少し意地悪く思う。もちろん、マルオにしても同じことだけれども。

 要するに、彼は社会の隙間で生きる術を知っているのだ。大人といえば大人物ではない。

 「しょっぱいドライブ」の主人公は漁師町に生まれた二十代後半の独身女性で、器量がよくないらしい。今は近くの都会に出て、地方劇団に籍を置きながら、フリーター暮らしをしているが、しょっちゅ町に帰っては、父親の同級生の九十九さんという老人と逢瀬を重ね、ついには自分の方から同棲をもちかけている。狼狽する九十九さんを見て、彼女は「ああこのひとはいまのわたしにはぴったりだ。九十九さんのしみの浮いた手がわたしの手に重ねられる。ああわたしはこういうとしよりとこれから性交しつづけるのだ」と思う。

 九十九さんは財産家の生まれで、やさしい性格だったが、気の荒い漁師町では子供の頃から馬鹿にされてきた。そういう九十九さんに娘の年齢の主人公が近づくのだから、周囲が財産狙いと見るのは無理かならぬことだ。しかし、彼女は財産への関心を否定しないし、自分が九十九さんを選んだのは愛だの真心のためではなく、経済的な理由だということを十分意識している。

 わたしは牛丼屋をやめてもいいんだろうか。働きたくない。いかにして働かず、食べていけるんだろうか。九十九さんはわたしを養ってくれるんだろうか。どのくらい貯蓄はあるんだろうか。本気で、土地をどれくらい所有しているのか、いつか訊いてみてもいいだろうか。

 気楽な暮らしをしたいばかりに、財産のある年寄りと懇ろになる女という世間的にマイナス符号のつく自己像を、彼女はなんの葛藤もなく引きうける。そこには崇高な言い訳は一切介在しない。彼女はロリコンの沢見、ホモデブのマルオと同じように、芳しからぬ自己像にあっさりとなじんでしまい、そうした自己像からはずれるようなことはしないのだ。

 他者の押しつける自己像に反発する主人公の出てくる小説もないわけではない。モブ・ノリオの「介護入門」(二〇〇四年上期)である。

 「介護入門」の主人公はフリーター暮らしをしていたが、一念発起してニューヨークにわたり、ミュージシャンを目指そうとする。だが、旅装をといた直後、祖母が転倒し、頭を打って重態だという連絡がとどき、日本にとって帰す。以降、彼は父親の残した会社を切盛りする母親とともに、実家で祖母の介護に明け暮れるが、ヘルパーが面倒をみてくれない夜の担当なので、親戚をふくむ世間からは、髪を金髪にし、居眠りとゲームにうつつを抜かす気楽なニートにしか見えない。彼は口先だけで、介護の実態を知ろうともしない親戚にむかつき、自分の苦労をわかってくれるごく少数のプロ意識を持った介護士に連帯のエールをおくっている。

 彼は確かに親戚や世間に反発しているが、しかし、異議申し立てをしているのは介護への無理解という一点だけであって、ニート生活に充足してしまっているのも事実である。言葉が不自由になった祖母との、察しあいを通じた濃厚なコミュニケーションが唯一の生きがいになっており、祖母と母と自分という肉感的な親密さに満ちた閉じた輪から出ようとはしない。

 そもそも世間が彼の考えているほど介護に無理解かどうかは怪しく、事実、叔母の夫のように、彼の苦労に気がついている親戚もいる。一歩引いて見直すなら、彼もまた周囲から割りつけられた自己像に甘んじているといえるのである。

 こうした小説は最近まであまりなかったと思う。十年前と比較してみよう。

 一九九五年上期受賞の保坂和志「この人の閾」は、語り手が真紀さんという大学の先輩を十年ぶりに訪ね、一夜、歓談する話だが、家庭にはいってすっかり「おばさん」となった真紀さんは、しかし、年に一五〇本の映画をビデオで見、『特性のない男』や『ローマ帝国衰亡史』、『失われた時を求めて』のような長大な本をじっくりと読んでいる。

 一九九四年上期受賞の室井光広「おどるでく」では、会津の山奥の村に里帰りした主人公は、物置に使われている実家の二階で、十三年前の自分の日記帳を見つける。若い火の自分と向きあう恥ずかしさを克服するために、三つの工夫をしている。一つは日記がロシア文字で書かれているとしていること。第二は日記の筆者を「仮名書露文」をいう別人格に仮構していること。第三に言葉遊びと本歌取りを多用していること。表題の「おどるでく」はカフカのオドラデクであると同時に「踊る木偶」でもある。

 室井と同時受賞した笙野頼子は、受賞作ではないが、『居場所もなかった』(一九九三)という恐るべき傑作で、売れない作家が家探しで苦労する一部始終を、最初はリアルに、途中から幻想的かつコミカルに描きだしている。

 第三者からみれば、ただのおばさんだったり、農家の穀潰しだったり、被害妄想の自称小説家にすぎないが、彼らはそうした押しつけられた自己像に納まりきらない自己を確立したり、持て余したり、あふれださせ、価値転換をおこなっているのである。

 近代小説の歴史をふりかえってみるなら、こうした小説の方がむしろ多数派だったというべきだろう。小説の条件を備えているかどうか疑わしい私小説ですら、そうである。

 たとえば、私小説の極北とされる葛西善蔵の「子をつれて」。主人公は二人の子供をかかえた貧窮した小説家で、家賃を滞納して家を追いたてられようとしている。借金できるところからは借りつくし、郷里に金策に帰った妻が唯一の頼みだが、いくら待っても送金はなく、立ち退き期限が迫る。彼はついにわずかに残った家財道具を売り払い、その金をふところに、二人の子をつれて借家を後にする。友人の住む下宿屋を仮の宿にしようとするが、長女が嫌がり、元いた街にもどるために、深夜の電車に乗る。子供たちは座席にもたれ、居眠りをはじめる。

 なんともみじめな光景だが、『居場所もなかった』同様、主人公は自分が文学という崇高な営みの担い手であることをすこしも疑ってはいない。借金をしにいった知り合いから「生存が出来なくなるぞ!」と諭されるが、生存することなど「それ程大したことなんだろうか」と、他者から向けられる哀れみの視線を跳ねかえしてみせる。彼には世間から押しつけられる自己像に甘んじない絶対的な自信があるのだ。

 葛西の唯一の心の痛みは子供を文学の巻き添えにしてしまったことだが、子供を巻き添えにしてまで真実の自己を追求したとして、評価されたのも事実だ。

 葛西の私小説は極端な例だが、古来、小説というものは失敗者に、社会とは別の評価をあたえることで成り立ってきた。傑作といわれる小説の主人公の多くは碌な人間ではない。老婆殺しの大学生だったり、浮気をして自殺に追いこまれた人妻だったり、騎士道物語の読みすぎで頭のおかしくなった老人だったりするが、社会的に見て卑小であればあるほど、偉大な主人公となるのだ。

 二〇〇〇年くらいを境に、なぜ、価値転換をあきらめ、卑小な人物を卑小なまま放置する小説が多く書かれ、評価されるようになったのだろうか。

 引きこもりとニートを専門とする精神科医の斎藤環は『「負けた」教の信者たち』(中公新書ラクレ)で、「自傷的自己愛」という概念を提唱している。

 斎藤が係わった引きこもりやニートの若者の多くは早々と自分を「負け組」に分類し、「負け」イメージに甘んじているという。「負け組」がいるなら「勝ち組」がいるはずだが、ハイキャリア独身女性が「負け犬」を自称するブームでわかるように、「勝ち組」は必ずしも羨望の対象にはなっておらず、漠然とした「負け」のイメージばかりが瀰漫しているのが現状である。

 なぜ、「負けた」と思いたがるのだろうか。斎藤は「負け」のイメージに対する固着は防衛のためではないかと指摘している。

 現状の自分を肯定する身振り、すなわち自信を持って自己主張することは、批判のリスクにまっさきにさらされてしまう。……中略……その意味では、「負けたと思いこむ」こともまた、ナルシシズムの産物なのだ。「負けていない」と否認することによって、自らの「正気」すら手放してしまうのではないかという恐れが、彼らをして「負け」に固執させてしまう。この、あまり過去にも他国にも例のない自己愛の形式を、かりに「自傷的自己愛」と呼ぶことにしたい。

 ここで言われているのは、他者との係わりから降りることによって、安定をえようとする自己愛である。完全に降りてしまえば引きこもりになるだろうし、仕事から下りればニート、職業人という立場から降りればフリーターになる。「夏の約束」のマルオのように、会社の隙間で生きるような微妙な降り方もあるかもしれない。

 だが、その一方、斎藤は「一人の勝者もいない戦場で、ひたすら敗走を続ける若者たち」という言い方もしている。もちろん、敗走のエネルギーは攻撃衝動である。他者に攻撃衝動を向けると負けるとわかっているので、自分自身に向けて放出するわけで、それは安定をもたらすどころか自虐の悪循環におちいる。

 斎藤の説を勝手に敷衍すれば、「自傷的自己愛」には「負け」による安定の他に、自虐を拡大再生産していくマゾヒズム的な自己破壊のプロセスもありうるだろう。前者を「負けによる安定」、後者を「自虐スパイラル」と呼んでおこう。

 まず、「負けによる安定」である。

 これまでとりあげてきた作品は、必ずしも引きこもりやニートをあつかっているわけではない。明示的にニートといえるのは「介護入門」と、後でふれる町田康の「きれぎれ」の主人公くらいだが、「負けによる安定」という視点から見れば、いずれも引きこもりやニートを生みだしたのと同じ「負け」の土壌から伸び出た作品だといえる。

 だが、引きこもりやニートへの親近性ということでいえば、笙野頼子や葛西善蔵の作品の方がはるかに高いといえるのではないか。笙野頼子の主人公は、別のところで斎藤が指摘しているように完全な引きこもりだし(『文学の徴候』)、葛西善蔵にいたっては中年ニートの先駆者といってよかろう。そもそも小説家というものは、洋の東西を問わず、引きこもりとニートばかりではないのか。

 確かに、生活スタイルから見れば、笙野や葛西の主人公は引きこもりかニートそのものである。しかし、価値転換という視点から見れば、そうは言えまい。

 笙野や葛西は「負け組」の人間を描いたが、作品中で「負け組」こそが「勝ち組」だという価値転換をおこなっている。作中人物のレベルでは「負け」ていても、語りのレベルでは「負け」てはいないのだ。それに対して、最近の芥川賞受賞作のすくなからぬ作品は語りのレベルでも「負け」ていて、価値転換をあきらめているように見える。

 価値転換が困難になったのは、一九九〇年代に日本が全国民レベルで経験したポストモダンのシニシズムのためかもしれない。テレビのお笑いというような形で通俗化したポストモダンは、裏読みという一種のメディア・リテラシーを広める一方、理念をことごとくおちょくりの対象にしてしまった。たとえば、「2ちゃんねる」というインターネット上の掲示板では、どんな崇高な理想が説かれたとしても、「乙」(「お疲れさま」の意味)という返答が書きたされるだけで、すべてが冗談になってしまう。

 現在の日本では理念はことごとくお笑い化されており、価値転換の支点にはならない。どうしても価値転換をはかりたいなら、カルト的な宗教に入信するか、妄想の中に閉じこもるかしかないのではないか。

 しかし、「自傷的自己愛」には「負けによる安定」だけではなく、「自虐スパイラル」というタイプもありうる。「自虐スパイラル」に向かっているのは松浦寿樹の「花腐し」と町田康の「きれぎれ」である(どちらも二〇〇〇年上期受賞)。

 「花腐し」の主人公の栩谷はデザイン会社を経営していたが、経理を任せていた友人に裏切られて倒産し、個人的にも大変な債務を負い、全財産を失ってしまう。彼は債権者の一人から、アパートに一人だけ居すわっている男を立ち退かせてくれれば、債務を相殺すると持ちかけられ、にわか地上げ屋をはじめる。

 立ち退きを拒否しているのはアパートの自室でマジックマッシュルームを栽培し、密売している男だった。彼はバブル崩壊で数億の借金をつくったと称しており、じめじめとした黴臭い部屋といい、「負け」イメージの権化のようである。栩谷は彼と交渉しているうちに「負け」イメージに感染していき、自分は最初から負けていたのではないかと考えるようになる。裏切られた友人のことは、自分は最初から憎んでいたのであり、それが相手にも伝わって、実は互いにずっと憎みあっていたのではないか。かつてつきあっていた年上の恋人が自殺したのは自分の冷たさが原因だったのではないか。陰気な菌糸のような腐敗は、彼女とつきあっていた頃からはびこりはじめており、彼女はその腐臭を嗅ぎとっていたのではないか……。

 こうした過去の再解釈にどこまで根拠があるかは疑わしい。親友が裏切ったのは、自分が最初に裏切っていたからだという解釈をしているが、これは親友が逃げてしまい、持っていき場のなくなった攻撃衝動を自己に向けかえただけであって、攻撃衝動がなくなったわけではない。中年になって親友から裏切られ、住居すら失うという全面的な挫折を経験した栩谷は、自分の「負け」を数えあげるという「自虐スパイラル」におちこんでしまっているのである。

 一方、町田康の「きれぎれ」の主人公は美術系の大学を卒業した後も親のすねをかじって暮らしている典型的なパラサイトである。

 彼は資産家令嬢の新田富子と見合いをさせられるが、わざと滅茶苦茶をやって破談にしてしまう。しかし、富子がライバルの吉原と結婚すると、急に彼女に恋着しはじめる。彼は吉原に対抗するように、ランパブ嬢だったサトエと早々に結婚するが、すべては彼の一人相撲でしかない。

 せっかく見合いをセッティングして貰ったというのに鰻を吸うなどして自らこれを破談にし、サトエと結婚しておきながらいまになって富子に激しく恋慕・恋着してしまっている。崇徳院。瀬をはやみ岩に堰かるる滝川のわれても末にあわむとぞ思う。考えると切なくてしょうがないので、なるべく考えないようにしているのだけれども、こうして日に四度くらいは富子のことをつい考えてしまい、その表情や仕草、着物や体つきなどが脳裡に浮かぶと同時に、その愛おしい富子が吉原のような鼠輩・奴輩の妻となっているという事実が強く意識せられて俺の心は潰れ破れて、いてもたってもいられない。

 主人公の独白はどこまでも勝ち負けという軸から離れられない。一度は振った富子に恋着するようになったのも、サトエとの不用意な結婚に踏み切ったのも、吉原に負けたくなかったからだ。しかし、彼は「負け」つづけ、「負け」を確認しつづけることだけがアイデンティティとなっている。まさに「自虐的スパイル」そのものである。

 吉原は新進気鋭の画家として頭角をあらわしていくが、主人公の運命はきりもみ状態で落ちこんでいく。父親が残した陶器店は母親が切盛りしていたが、実は赤字で、母親の死ぬと財産はきれいさっぱりなくなってしまったのだ。彼は誰からも相手にされなくなり、とうとう吉原の家に恥を忍んで金をせびりにいくが、金は貰ったものの、到来物のハムまで押しつけられ、屈辱的な姿を写真に撮られる。こうなると、錯乱するしかなく、事実、意識の連続が途切れる。

 「きれぎれ」に限らず、町田康の作品ではしばしば主人公の意識が途切れ、不気味な時間の裂目が生じる。また、阿部和重の作品では激しい葛藤が生じそうになると、麻薬で意識を飛ばしたり、風邪で寝こむといった身体症状で葛藤の代理をする。これは一種の行動化である。

 私は最初に脱力感という印象を述べたが、その脱力感は言葉からの退却がもたらしたものかもしれないのである。それが何かは、別の機会に考えたいと思う。

(Mar 2006 大航海58号)
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