江戸川乱歩えどがわらんぽ

加藤弘一

生涯

 小説家、探偵小説研究者。1894年10月21日、三重県名張町に、平井繁男の長男として生まれる。本名太郎。三歳の時、父が東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移る。

 愛知県立第五中学(現在の瑞穂高校)に入学し、コンニャク版や活字を自分で組んで雑誌を発行する。卒業の年、父が設立した平井商店が倒産。苦学覚悟で上京し、湯島天神の印刷所、雲山堂に活版工見習として住み込む。早稲田大学予科に合格後、母方の祖母の世話になり、読書三昧の生活をはじめる。1913年、早大政治経済学部に進むと、『自治新聞』の編集にかかわり、英米の探偵小説の翻訳を掲載する。

 卒業後、いくつかの仕事を経て、父親の縁故で鳥羽造船所に就職。PR誌「日和」の専任になる。鳥羽お伽会、音楽会、講演会など、地元と融和するための付帯事業で鳥羽周辺を巡回し、妻となる隆子(離島の教師だった)を知る。乱歩にはうってつけの仕事だったが、1919年、勝手に退職し、二人の弟ともに上京。村山隆子と結婚。

 本郷団子坂に古書店「三人書房」を開き、生活の資をえながら、一旗あげようという腹だったが、、智的小説刊行会、田谷力三後援会、歌劇雑誌刊行等々を企画するものの、ことごとく失敗。政治漫画誌「東京パック」の編集をまかされるが、プロの漫画家をさしおいて自分で漫画を描いたために、三ヶ月で解任。古書店も行きづまる。

 1920年、大阪「時事新報」に組版工として就職。翌年、ふたたび上京し、日本工人倶楽部(現在の(財)日本科学技術連盟)の職員となり、機関誌「工人」の編集にあたるが、翌年退職。

 翌年、大阪の父の家に妻子とともに転がりこみ、「二銭銅貨」と「一枚の切符」を書き上げる。「新青年」に送ったところ、森下雨村に認められる。

 1923年4月、「二銭銅貨」が「新青年」に江戸川乱歩名義で掲載される。秋には「恐ろしき錯誤」を発表。大阪毎日新聞広告部の外交員になるが、翌年、専業作家になることを決意して退社。

 1925年、「D坂の殺人事件」、「屋根裏の散歩者」、「人間椅子」などを次々と発表。名古屋の小酒井不木、東京の森下雨村を訪ね、若い作家らを紹介され、大阪では横溝正史らと「探偵小説趣味の会」を結成する。春陽堂から第一短編集『心理試験』を上梓。ベストセラーになり、鬼熊事件のような猟奇事件が起こると、新聞からコメントを求められるようになる。

 1926年、「湖畔亭殺人事件」、「パノラマ島奇談」、「闇に蠢く」を発表。春陽堂から第二短編集『屋根裏の散歩者』を刊行。『一寸法師』を朝日新聞に連載するが、自己嫌悪にさいなまれて、何度も休載した末に完結させる。作品は好評で、石井漠主演で翌年映画化されたが、映画版を見ていよいよ自己嫌悪がつのり、休筆を宣言。妻子の生活のために早稲田の下宿屋を買いとり、放浪の旅に出る(この後も何度も休筆宣言をおこなっている)。

 1928年、14ヶ月の休筆から復帰し、傑作「陰獣」を発表。萩原朔太郎稲垣足穂と親交を結ぶ。翌1929年は作品的にもっとも充実した年で、傑作「押し絵と旅する男」、『孤島の鬼』の一方、改造社の「世界大衆文学全集」のために『ポー・ホフマン集』を翻訳編纂する。

 1930年、『蜘蛛男』、『黄金仮面』を刊行し、明智小五郎を主人公とした大衆路線に専念する。翌年、平凡社から初の全集を刊行。

 1934年、『黒蜥蜴』と『人間豹』を刊行。転居を繰りかえす生活をきりあげ、池袋三町目に土蔵のある家を建てて、終生の住家とする

 1936年、はじめての少年もの『怪人二十面相』を発表。以後、少年探偵団ものを多作する。

 1938年から新潮社版「江戸川乱歩選集」の刊行がはじまるが、時代は国家社会主義に向かい、検閲がうるさくなる。文章の差しかえを余儀なくされ、「芋虫」にいたっては全編削除の処分が下される。探偵小説誌は次々と廃刊になり、ホームグラウンドだった「新青年」にも探偵小説が載らなくなる。発表の場がなくなり、過去の作品も絶版になる中、別名で少年科学ものを執筆したり、少年雑誌の特派員として工場ルポを書いたりする。時間を持てあました乱歩は自分に関する記事の切り抜きを整理して、「貼雑年譜」を作りあげる。池袋は空襲で焼け野原になるが、乱歩邸は土蔵が類焼を防ぎ、戦災をまぬがれる。

 疎開先からもどった乱歩は、米兵が読み捨てたペーパーバックでアメリカの新作ミステリに驚き、探偵小説復興を決意する。評論執筆や講演、座談会など啓蒙活動に力を注ぎ、1947年には後進の育成のために「探偵作家クラブ」を設立し、会長に就任する。同年、出版社の後援なしに、関西に講演旅行に出る。1951年、評論集『幻影城』を刊行。1954年、還暦祝賀会が開かれ、「江戸川乱歩賞」を設ける。1958年にワセダ・ミステリ・クラブが設立されると、顧問に就任。

 1955年、戦後のミステリの発展をささえた「宝石」の経営難を救うために、編集長に就任。みずから後輩に原稿を依頼して歩き、さらには私財を投じ、広告集めまでする。この過労がたたり、病床にふすようになる。1964年5月、「宝石」廃刊。

 1965年7月28日、脳出血で死去。71歳だった。

作品

Copyright 2001 Kato Koiti
This page was created on Aug31 2001.
作家事典
ほら貝目次