梶井基次郎かじいもとじろう

加藤弘一

生涯

 1901年2月17日、大阪市土佐堀に生まれる。母、ひさは生家が没落したために梶井家の養女となり、女流新聞記者を目指したが、経済事情のために学業をつづけられす、保姆の資格をとった。父、宗太郎は安田合名のたたきあげの社員で、梶井家に婿養子にはいったが、酒色に耽った。父の転勤で、一家は東京、鳥羽、大阪と転居を繰りかえす。

 1915年、異母弟が学校をやめて小僧になったのに同情し、北野中学を退学。メリヤス問屋に住込で奉公するも、翌年、復学。

 1919年、第三高等学校理科に入学する。寮の同室に中谷孝雄、飯島正がいた。翌年、肋膜炎で休学し、転地や温泉で養生する。

 1921年、父は定年退職し、撞球場を買いとってオーナーになる。梶井はビリヤードに熱中し、「頽廃的生活」をはじめる。

 1924年、5年かかって三高を卒業し、東京帝大英吉利文学科に進む。翌年、中谷孝雄、外村繁らとともに「青空」を創刊。「檸檬」、「城のある町にて」、「路上」など、代表作を発表する。

 1926年、肋膜炎が再発し、東大を中退。伊豆湯ヶ島温泉に転地する。同地で川端康成と親しくなる。

 1928年、経済的事情から、一時、中谷孝雄宅に世話になるが、病状が悪化し、大阪に帰る。翌年、父が亡くなる。

 1931年、第一創作集『檸檬』を刊行するが、病勢はさらに進む。

 1932年3月24日、死去。31歳だった。

作品

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