薄田泣菫すすきだきゅうきん

加藤弘一

生涯

 1877年5月19日、薄田篤太郎の長男として、岡山県連島村(現在の倉敷市連島町)に生れる。父は湖月庵清風の号で俳句をよくした。学資のために岡山中学を二年で中退後、上京。漢学塾の助教をしながら、上野の図書館で独学する。 1897年、早稲田系の「新著月刊」に『花密蔵難見』13編を投稿したところ、後藤宙外、島村抱月に認められて掲載されるが、東大系の雑誌が批判して論争になる。一躍注目されるが、病で帰郷。以後、生涯のほとんどを関西ですごし、東京の文壇に距離をおく。

 1899年刊行の第一詩集『暮笛集』は藤村流の浪漫詩だが、破格の五千部を完売する。八六調の日本語に移したソネットは泣菫の発明である。翌年、大阪の文芸誌「小天地」の編集をまかされる。『ゆく春』、『公孫樹下にたちて』で象徴詩に接近し、蒲原有明とならび称せられる。1906年の『白羊宮』は明治詩の最高の達成である。

 この年、結婚するが、生計のために散文に転向、詩業を廃する。1910年、帝国新聞社に入社、後に大阪毎日新聞社に移る。1915年2月から、大阪毎日朝刊に無署名のコラム「茶話」を連載する(翌年から夕刊に)。古今東西の人物の逸話をユーモラスに紹介する芸で、随筆というジャンルを近代によみがえらせたといえる。

 生来病弱だったが、40代にはいってパーキンソン病を発症。体が動かせなくなって、新聞社を退社するが、口述筆記で軽妙洒脱な随筆を書きつづける。闘病の苦しみなどまったく感じさせず、自然の営みをことほぐ筆致は感嘆に値する。泣菫の随筆は大正文学のもっとも上質の部分である。

 1945年10月9日、死去。68歳だった。

作品

 『茶話』の連載開始が1915年であるとの指摘を小野宗行氏から戴き、訂正した。(Aug15 2004)

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This page was created on Feb22 2000; Updated on Aug15 2004.
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