野上彌生子のがみやえこ

加藤弘一

生涯

 1885年5月6日、大分県臼杵町で小手川角三郎の長女として生まれる。本名、ヤヱ。生家は造酒屋だったが、父の代になってから味噌、醤油に事業を広げ、現在はフンドーキン味噌醤油株式会社という中堅企業に発展している。三人の息子を育て、長男素一はイタリア文学者。

 早くから国学者久保千尋に古典の手ほどきを受けるが、英語の勉強をつづけるために1900年、15歳で単身上京。伯父の家に寄寓して、巣鴨庚申塚の明治女学校に入学。絶筆となった『森』はこの時代を回想した自伝小説である。

 同郷の一高生で、漱石門下の野上豊一郎と知りあい、写生文を書くようになる。1906年、豊一郎と結婚。翌年、漱石の推薦で「縁」を『ホトトギス』に発表。1912年には漱石の序文をえて、『ギリシア・ローマ神話』を上梓。1911年、『青鞜』の創刊に参加するが、子供を持つ主婦という立場から、距離をおいて寄稿をつづける。

 初期は身辺を書いた写生文の延長だったが、しだいに社会的関心を深め、主婦の身も蓋もないリアリズムの視点から「海神丸」、「大石良雄」を書き、衝撃をあたえる。昭和にはいると階級対立に目を向け、地主一家の没落を描いた「腐れかけた家」、宮本百合子の『伸子』と並び称される長編『真知子』を発表する。1936年、国家社会主義に傾斜していく世相の中で、転向を余儀なくされた青年を主人公に『迷路』の執筆にかかるが、日英交換教授となった英文学者の夫について渡英したために中断。第二次大戦の勃発にあって帰国するが、戦争の激化で小説どころではない時代がつづいた。敗戦後、『迷路』にふたたびとりかかり、1956年にようやく完結。代表作となる。

 1964年には歴史小説『秀吉と利休』を刊行。1972年からは自伝小説『森』の執筆にとりかかるが、完成直前の1985年3月30日、死去。99歳だった。

作品

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