樋口一葉ひぐちいちよう

加藤弘一

生涯

 小説家、歌人。1872年3月25日、内幸町の東京府官舎で樋口則義の次女として生まれる。本名なつ。父、則義は甲州中萩原村生まれの農民だったが、農事を好まず、村の寺で学問の手ほどきを受けていたが、同じ村のたきとともに、駆け落ち同然で江戸に出た。則義は蛮書調所の小使いからはじめ、御家人株を買って幕府直参となる。幕府崩壊後は、東京府に出仕。1876年に免職となるが、警視局傭となり、そのかたわら金貸や不動産の斡旋で蓄財した。

 1877年、本郷学校に入学したが、幼くて通いきれず、止敬學舎に入塾。翌年、私立吉川學校にはいる。1881年には池之端の私立青海学校に移り、二年後、卒業する。父は勉強のできる一葉を自慢に思い、学業をつづけさせたがったが、母親は娘が女学者になることをよろこばず、高等科四級で退学させる。

 15歳の時、女のたしなみということで、小石川安藤坂にあった中島歌子の萩の舎に入塾。萩の舎は貴顕の子女があつまる「明治の宮廷サロン」で、一介の士族の娘にすぎない一葉は肩身の狭い思いをした。

 翌年、家督を継いでいた長兄泉太郎が結核で死去。次兄は放蕩を理由に養子に出されていたので、1888年、一葉は17歳で女戸主となる。父は傾いた家運を盛りかえすために、荷車請負組合を設立するが、失敗に終わり、樋口家は破産する。父は失意のうちに亡くなる。

 母と妹と女ばかり三人の家族は針仕事と洗濯で家計をまかなおうとしたが、それだけでは足りず、知人に借金してまわる生活がはじまる。家も貧民街を転々とする。

 一葉は萩の舎の先輩の三宅花圃が『藪の鶯』を出版し、女流作家として認められたのに触発されて、自分も小説家として立つことを考え、朝日新聞の専属作家、半井桃水を訪ね、弟子入りした。半井から出版社を紹介されるが、原稿はまったく売れなかった。半井は女性関係でとかく噂があり、中島歌子や萩の舎の朋友から交際を反対される。

 1892年、半井の主宰する同人誌「武蔵野」の刊行がはじまり、三号までの間に「闇櫻」など三篇を発表するが、中島歌子からは半井との絶交を強く勧告される。一葉は半井に事情を話し、しばらく行き来を断つ了解をもとめる。

 この頃、華族の令嬢の集まる萩の舎で代稽古をまかされ、『源氏物語』を講ずる一方、吉原に近い竜泉寺町で荒物と駄菓子をあつかう店を開いている。王朝文学につながる教養と、明治社会の頂点と最下層を同時に知っていたという特異な位置が、一葉を一葉にしたと言える。

 この頃からようやく原稿が売れはじめるが、それだけで生計を立てるにはいたらない。1893年からは『文學界』の若い文学者が訪ねてくるようになる。通俗作家にすぎなかった半井と異なり、真摯に文学を追求する「文學界」の同人との交際から新鮮な刺激を受ける。「文學界」には「琴の音」、「花ごもり」を寄稿し、「たけくらべ」も連載した。

 1986年、「たけくらべ」を推敲の上、「文藝倶樂部」に一括掲載したところ、「めざまし草」の「三人冗語」で露伴、緑雨の絶賛を受け、一躍、注目を集める。短い華やかな日々がはじまる。

 原稿の依頼があいつぐが、八月に結核で絶望的と診断される。執筆すらできなくなり、11月23日、死去。25歳だった。外は騎乗して棺側に付き添うことを申しでたが、妹のくには貧しい葬列を恥じて、丁重に辞退した。

参考文献

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