與謝野晶子よさのあきこ

加藤弘一

生涯

 歌人。1878年12月7日、大阪府堺区(現在の堺市)甲斐町に、鳳宗七の三女として生まれる。本名志よう。母津祢は後妻で、年の離れた姉が二人いた。生家は駿河屋という和菓子の老舗だったが、父は絵をよくする趣味人で、古典から現代小説まで読んでいた。

 男子を期待した父は女子の誕生をよろこばず、晶子は出生早々里子に出された。三歳で生家にもどされ、父の英才教育の方針で小学校に入学させられるが、勤まるはずはない。五歳になって再入学し、七歳からは漢学塾に通わされて、女子としては珍らしく漢学を修めた。1888年、堺女学校(現在の泉陽高校)に入学。本科を終えた後、補習科に進むが、花嫁修業中心の学科では満足できず、母に代わって店を切り盛りするかたわら、父の蔵書を読みふけった。

 堺敷島会に鳳晶子の名で歌を投稿するようになり、浪華青年文学会の堺支部が発足すると、弟とともに入会、藤村ぶりの新体詩を書きはじめる。1900年8月、新雑誌「明星」の勢力拡張のために関西を訪れた與謝野鐡幹(寛)と神戸で対面する。ライバルの山川登美子とも出会い、11月には鐡幹にさそわれ、登美子とともに嵯峨野に一泊している。

 1901年、寛は新聲社(現在の新潮社)の発行とされる怪文書『文壇照魔鏡』で誹謗中傷を受け、「明星」の予約購読者が1/3に激減するなど、打撃を受ける。長男が生まれるが、内妻林瀧野との仲も破局し、林は実家に帰る。晶子は6月に上京し、寛と暮らすようになる。8月、『みだれ髪』を寛の編集で刊行。藤島武二によるアールヌーヴォー調の表紙画と挿画をあしらった瀟洒な造本だった。10月、寛と挙式する。翌年には長男が生まれている。

 1904年、歌集『小扇』、寛との共著『毒草』刊行。次男が生まれ、薄田泣菫の命名で秀と名づける。弟の日露戦争出征にあたり、「明星」に厭戦詩「君死にたもふこと勿れ」を発表、論難を受ける。1907年、女子の双子が生まれ、の命名で七瀬、八峰と名づける。英語学校に出講し、『源氏物語』の講義をはじめる。

 1908年、北原白秋らが新詩社を脱退。「明星」は100号で終刊する。翌年、山川登美子が亡くなり、新雑誌「トキハギ」に登美子への挽歌を掲載、追悼にあてる。

 1911年、無聊をかこつ寛に目標をあたえるために、渡航資金を工面してヨーロッパに送りだす。翌年、『新釈源氏物語』を刊行し、その印税で晶子も渡欧。二人でヨーロッパ各地をめぐる。この後生まれた子供にはアウギュスト、エレンヌと西洋風の名前をつける。

 1921年、第2次「明星」を創刊(1927年までつづく)。寛とともに西村伊作の文化学院設立にくわわり、学監となる。翌々年の関東大震災では文化学院は全焼し、口語訳『新新訳源氏物語』の原稿千枚が灰燼に帰する。

 1935年、寛が死去。1938年、改めて訳し直した『新新訳源氏物語』を刊行。

 1942年5月29日、死去。63歳だった。

作品

参考文献

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