読書ファイル   2002年 4- 6月

加藤弘一
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書名索引 / 著者名索引

April 2002

三上喜貴 『文字符号の歴史』 共立出版

 3月の情報処理学会の「標準化セッション」の会場前に売店が出て、出たばかりの本書が積みあげられていた。

 著者はISOの第一線で活動していて、文字コードの世界では有名な人である。アジアの固有言語のタイプライターをコレクションしていることからすると(本書中に写真多数)、文字コードは仕事を超えて、趣味にまでなっているのかもしれない。複雑怪奇なアラビア系の文字やインド系の文字など、アジアの多種多様な文字と文字コードについて詳述しており、世界的に見ても類書のない貴重な本である。非常に勉強になった。

 本体価格7500円はなかなかの値段だが、読者の限られた文字コードの本の中でも、きわめつけ専門性の高い本なので(本書を必要とする人は日本中で百人もいないだろう)、むしろ安いといえる。文字コードを云々する人間は、役に立つ立たないにかかわらず、本棚の飾りでもいいから、本書を買って、著者の労と採算を度外視して上梓に踏みきった出版社の心意気に酬いるべきだと思う。

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小林龍生編 『インターネット時代の文字コード』 共立出版

 「bit」の最後の号ということで評判になったムックだが、文字コード界の腕におぼえの論客が持論を披露しており、それぞれ勉強になった。

 専門家の思考法がうかがえて、興味深いのだが、わたしのような素人には難解な箇所がすくなくない。

 たとえば、歴史をあつかった第一部で、JIS X 0208の最初の部分にJIS X 0201をそのままいれる案が退けられたことについて、以下のような評価がくだされている。

 日本の文字コードの不幸は、この瞬間に決定付けられてしまったのである。すなわち、JIS X 0201からの移行が行えないため、JIS X 0201とJIS X 0208を同時に用いることのできるような方法が必要となったが、当時のISO 2022にはGOとG1しかなく、しかも、JIS X 0208はG0にしか指示できなかった。……中略……これが結果として、シフトJISという、ISOにまったく準拠しない文字コードを生むことになる。すなわち、JIS X 0208をJIS X 0201の上位互換にできなかったことが、国際社会に通用しない文字コードを日本中に蔓延させる原因となっているのである。

 EUC-JPではなく、シフトJISが先に生まれた説明としてなら、その通りだと思うが、「JIS X 0208をJIS X 0201の上位互換にできなかった」という条は、もうちょっと説明してくれないと、わたしのような素人には理解できない。

 JIS X 0208の頭にJIS X 0201をそのままいれるというのは、ISO 10646の頭にASCIIがおさまっているような設計を指すのだろうが、ISO 10646がASCIIの上位互換といえるのはUTF-8というトリッキーな符号化方式のおかげであって、ISO 2022しかない当時の状況下ではほとんど意味がなかったのではないだろうか。アメリカ生まれのOSを借用する以上、日本のコンピュータはJIS X 0201とJIS X 0208の二刀流を宿命づけられていたと思うのだが。

 素人考えだが、日本の文字コードの不幸は、内部コードにとどめておくべきシフトJISを外部コードにしてしまったことにあるような気がする。

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清水哲郎 『図解でわかる文字コードのすべて』 実業之日本社

 文字コードの議論は奥が深く、政治とイデオロギーまでからむが、本書はややこしい話は棚上げにし、ハウツーに徹するというコンセプトで作られている。後々のことを考えると、使わない方がいいのではないかというハウツーも載っているが、印字するだけでいいという人もいるのだから、仕方ないだろう。

 各製品の実装を細かく調べた労作であるが、ハウツーにかなりのページをさいているために、本としての寿命は短くなった。ちょうど一年前に出た本だが、もうあちこち古びている。ハウツーに徹するなら、毎年、すくなくとも二年おきに改訂版を出す必要があるのではないか。

 ややこしい話は棚上げするといっても、文字コードをあつかう以上、政治がらみの問題にまったくふれないですますわけにはいかない。

 たとえば、悪名高い83改正に関する条である。

 1983年のJIS漢字コードの改定に際して、多数の漢字の字体が旧字体から新字体に変更されたり、第一水準と第二水準間で入れ替えが行われたりしたため、大きな混乱が生じましたが、実は、この改定の際に新字体が採用されたのは、当用漢字表が旧字体で掲載されていたのに対して、改定の直前の1981年に告示された常用漢字表がいわゆる新字体で掲載されたことに伴ったものでした。

 国語改革は字種を制限した「当用漢字表」、読みを制限した「当用漢字音訓表」、字体を簡略化した「当用漢字字体表」の順に告示されたので、確かに、最初に出た「当用漢字表」そのものは「旧字体」で印刷されていたらしい(一般に流布している当用漢字表は「新字体」になっている)。

 しかし、「当用漢字」三表は一体のものとしてあつかうべきもので、実際、現在、流布している「当用漢字表」は「新字体」で印刷されているし、78JISも「当用漢字表」表内字は「新字体」で例示されていた。わざわざ発表時の「当用漢字表」が「旧字体」で印刷されていたことを持ちだすのは、話をこみいらせるだけではないだろうか。

 それとも、「常用漢字表」に新たに追加された文字のことを言っているのだろうか。「常用漢字表」に追加された文字は「当用漢字表」には存在しなかったはずだが。専門家の書くことはどうもよくわからない。

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坂村健 『21世紀日本の情報戦略』 岩波書店

 日経系の雑誌で見かけるようなネット・バブル破裂の解説からはじまるが、途中で遺伝の話になる。

 セロトニンのレセプターが少ないタイプのS遺伝子と多いタイプのL遺伝子の組み合わせで、日本人はSS型が七割、SL型も入れるとほぼ全てに達する。つまり国民のほとんどが「不安に弱い」S遺伝子を持っているわけだ。これに対して、米国人は日本人にはほとんどいないLL型が三割もいて、逆にSS型は二割たらずである。
 あくまで統計的にだが、やはり日本人が駄目になったときの落ち込み方が激しいというのは、先天的なものらしい。

 だから、日本人にはアメリカ型のベンチャー型戦略は向かないと結論し、中心テーマである「21世紀日本の情報戦略」につなげていくのだが、人間の精神のような複雑な事象を一つの遺伝子で決めつけるのはいかがなものか。

 日本人と集団遺伝学的に最も近いのはブリヤート・モンゴル人だそうだが、ブリヤート・モンゴル人も「不安に弱い」のだろうか。韓国人は楽天的でネアカだといわれているが、韓国人もアメリカ人のように「不安に強い」遺伝子をもっているのだろうか。この手の話は嫌いではないのだが、デリケートな話題なので、単純な日米比較ではなく、アジアの中の日本人という視点で見ていかないとまずいと思うのだ。

 文字コードについても例によって例のごとしのユニコード批判をくりかえしておられる。さすがに今回は2バイトの制限に対する批判をひっこめて、サロゲートペア(UTF-16)で百万字増えることを明記するようになったが、サロゲートペアに対応するOSはまだないと断定しているのはいかがなものか。漏れ聞くところによると、WindowsXPはサロゲートペアに対応しており、フォントさえあれば、拡張Bをふくめた7万字の漢字が使えるらしいのだが(フォントが入手できないので未確認)。

 中国のGB 18030をユニコードに対する反撃としてもちあげるのは過大評価だと思うが、その一方、韓国の4万3千字追加要求(SATのインタビューで紹介した『高麗大蔵経』と『李朝実録』がソースで、ほとんどが異体字だとか)に触れていないのは片手落ちである。漢字統合を批判する立場からは無視できない話題のはずだが(といっても、感じ統合は事実上崩壊しているのだが)、それを無視するというのはどういうことだろう。ユニコードでも異体字が増やせると認めてしまっては、TRONコードの売りがまったくなるからではないか、と勘ぐりたくなる。

 他にも疑問に感じる部分がすくなくないが、ISOに対して要求すべきことは要求せよという点関しては賛成である。

 日本にはISOとユニコードを神聖視している人が多い。ありがたがるふりをすることで、新たな漢字追加を牽制しているのだろうと思っていたが、本気で神棚に奉っている人が結構いるのだ。ISOとユニコードの歴史をちょっとふりかえればわかるように、現状の規格はパワー・ゲームの暫定的結果にすぎないのだから、主張すべきことは主張すべきだと思う。

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中村正三郎 『新版 インターネットを使いこなそう』 岩波ジュニア新書

 高校生向けの本だが、原理を説明することに力をいれており、辛口の部分が多いこととあいまって、大人が読んでもおもしろい本に仕上がっている。

 昨年から文芸創作科という文系中の文系の学生を相手に、コンピュータの世界を紹介する授業をやっているのだが、ハウツー的知識は卒業までに無意味になってしまうので、なるべく原理に話をもっていこうとしている。しかし、ちょっと難しくなると、そっぽを向かれてしまう。入門書にずいぶん目を通したが、ハウツー本がほとんどで、途中で放りだしてしまった。この本は例外的におもしろく、参考になった。コンピュータの限界をはっきりさせている点がいい。

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紀田順一郎 『インターネット書斎術』 ちくま新書

 これも教え方の参考になるかと思って読んだのだが、高齢者向けのハウツー本で、あまり参考にならなかった。凡百のハウツー本より文章がいいので、最後まで読みとおすことはできた。高齢者や、高齢者にパソコンを教える立場の人にはいい本かもしれない。

 パソコンを置く書斎の整え方を具体的に指南した最初の50ページは興味をひかれた。インターネットが辞書や事典がわりにならない点を強調していているが、そんな誤解をしている人はまだまだいるのだろう。

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ジェイムズ 『金色の盃』 講談社文芸文庫

 先頃公開されたアイヴォリ監督の『金色の嘘』の原作である。国書刊行会の工藤好美氏訳(『黄金の杯』)で読んだことがあるが、映画の封切にあわせて、『鳩の翼』の訳者である青木次生氏のあぽろん社の訳が講談社文芸文庫にはいったので、手を伸ばしてみた。ジェイムズの後期長編が二つの翻訳で読めるとはなんと贅沢なことか。

 ここで気になるのがシャーロットとアダムの結婚生活をどう解釈しているかである。ジェイムズ一流の文体で曖昧模糊と描かれ、茫漠としているのだが、二人は一度もベッドを共にしていないという説があり、それがジェイムズ不能説との関係で語られてもいるが、青木氏は不能説に傾いているような印象を受けた。

 ゴシップ的興味はおくとして、ゆったりと流れる充実した時間の手ごたえと喜劇的で軽妙な展開の妙はジェイムズならではである。文学の至宝というしかない。

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→ DVD『金色の嘘

May 2002

島田裕巳 『オウム』 トランスビュー

 オウム問題で大学を逐われた島田裕巳氏の著書で、一般にはルサンチマンで書かれた本という受けとられ方をしているようだ。そういう面がないとはいえないが(著者は「島田バッシング」は統一協会がらみだったとしている)、これまでおこなわれてきた解釈を検討しなおし、オウム事件の全貌にあらためて迫ろうという試みとして評価に値する。オウム真理教が日本では珍らしく教義が大きな意味をもつ宗教であることに注目し、殺人肯定の教義がどういう経緯で出てきたかという問題にメスをいれた点は重要である。

 本書のもう一つの功績はオウムの出家制度に光をあてた点である。出家制度はオウムが社会とあつれきを起こした端緒となったが、会員側の要望ではじまり、オウム内部に構造的なねじれを作りだしたというのは意外だった。うっかりしていたが、麻原彰晃自身は出家修行者ではなく、弟子の出家成就者に対して敬語を使っていたというのだ。教祖=信者の関係は加害者=被害者図式では片づかないらしい。

 一番おもしろかったのは村上春樹とオウム事件の因縁についてふれた第八章である。村上春樹は『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』で、それまでの超然とした姿勢を転換し、ルポルタージュの手法でオウム関係者と被害者を描いたが、村上のアンガジュマンの背景には、自身の小説とオウム事件の類似性に気がついた村上自身の驚きがあったのではないかと著者は推測する。

 だからこそ、オウム事件の後に村上の小説を読み返してみると、奇妙な感覚に襲われるのである。小説のなかには、オウムで起こったことがすでに書かれている。しかもそれは、オウムにおいてもっとも重要な問題、神秘体験と暴力にかかわっている。そして、神秘体験や暴力の背後には、現実の社会に対する憎悪の感情が存在している。極端なことを言えば、村上の小説が脚本で、オウムの信者たちはその脚本を実際に演じてみただけなのではないかとさえ思えてくる。

 もちろん、そんなことがあるはずはない。村上の小説とオウムとのあいだに直接の関係があるとは考えられない。しかし、両者のあいだに、「共時性」が成立していることは否定できない。

 一時代を代表する小説と事件に暗合があったという指摘は想像力をかきたてる。本書はこの第八章で後世に残る可能性がある。

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小室直樹 『日本人のための宗教原論』 徳間書店

 宗教原論とあるが、例によってウェーバーの宗教社会学を小室流にアレンジしていて、宗教規範の定めた行動様式エートスの視点から各宗教を比較している。

 内的な信仰に関心のある人にとっては期待はずれだろうが、著者にいわせれば、外的規範なくして宗教は成立せず、内的な信仰に宗教の本質を見るのは日本的歪曲である。イスラム教をもっとも完成された宗教として評価するのも、このためである。

 著者によればイスラム教から話をはじめれば一番わかりやすいが、日本ではなじみ長いので、次善の策としてユダヤ教とキリスト教からはじめたという。『コーラン』を読んでから、『法華経』と『維摩経』、『勝鬘経』を読むと仏教がよくわかると書いてあるが、どうなのだろうか。

 張扇文体で議論が粗くなるのはいつものことだし、おなじみの話柄をつぎあわせたという印象で、まとまりがよくない。

 その中で目を引いたのは、中国の官僚制が機能できたのは、宦官がカウンターバランス組織になったからだという指摘である。宦官は諸悪の根源あつかいされてきたが、土木の変を解決したのも、大航海を成功させたのも宦官である。朱子学の空理空論に毒された科挙官僚と違い、宦官は体験と才覚だけが頼りのたたきあげノンキャリアである。なるほど、というしかない。

 著者はさらに、日本はカウンターバランス機構なしに官僚制を導入したと論を進める。中華帝国の宦官はともかくとして、アメリカには大統領交代時に高級官僚を総入換するスポイリングシステムがあり、ソ連にはソ連の高級官僚を時々大量粛正するスターリンシステムがあった。日本は監察担当部署を官僚組織内部につくったために、有名無実化している。

 こう考えると、次の指摘は背筋が寒くなってくる。

 日本に最も大きな影響をあたえた儒教教義は、生活・思想の面ではなく、弊害ともいえるまさにこの官僚制度、受験制度であるといえよう。

 官僚に不都合な政治家は内部情報のリークによって次々と刺されている。アメリカにもう一度占領してもらうか、共産党に政権をとらせてスターリンシステムを発動してもらわないと、日本は欲深い官僚OBの食いものにされ、衰亡の一途をたどるだろう。

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小室直樹 『日本人のためのイスラム原論』 集英社

 『日本人のための宗教原論』では、なじみがないという理由で簡単にふれられただけだったイスラム教を主題にした本である。思う存分筆を走らせた感があり、前著よりもずっとおもしろい。

 なぜ、イスラム教は日本ではなじみがないのかというところから話をはじめている。理由は簡単で、日本人は規範が大嫌い(仏教も儒教もみごとに規範を消され、内面だけの教えにすりかえられている)なのに対し、イスラム教は徹頭徹尾、外的な規範にこだわった宗教だからだ。仏教はアバウトな宗教なので、日本化した坊主教も仏教の仲間にいれてもらっているが、一日五回、メッカに向かって礼拝しなくてもいいとか、豚肉を食べてもいいなどということは、イスラム教では絶対に許されないのである。

 著者はイスラム教はユダヤ教とキリスト教の難点を十分研究してつくられた、いいとこ取りの宗教だという。特に、神を絶対化した場合に必然的に生じる予定説(神がすべてを決定するので、人間の努力は無意味)と因果説(人間の行為が救われるかどうかを決定する)の矛盾を、「宿命論的予定説」(ウェーバー)によって解決したという指摘は重要である。

 ところが、あまりにもよくできすぎているために、身動きがとれなくなり、資本主義化は絶対に不可能だと著者は断定する。現代イスラム知識人の苦悩はそこにあるという。

 この本だけでイスラム教がわかったつもりになるのは危険だが、論理の骨格を荒っぽくスケッチしているだけに、急所はつかめるのではないかと思う。

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小室直樹 『数学嫌いな人のための数学』 東洋経済新報社

 表題には数学とうたってあるが、形式論理の意義を論じた本である。数学史でおなじみのピタゴラス等々はほとんど登場しないのは当然として、形式論理学の祖であるアリストテレスよりも、旧約聖書を前面に出している点が卓見である。

 なぜ旧約聖書かというと、形式論理の絶対性は人と人との論争ではなく、神と人との論争から生まれたと考えられるからである。

 旧約の預言者たちは人間に対して神の怒りを代弁したが、神に対しては人間の弁護者として言挙げし、論理によって神の怒りから人間を守ろうとした。絶対者との契約という概念が論理を形式論理学に昇華したのだ。

 そのことは中国の弁論術と比較することで一層はっきりする。縦横家と呼ばれた蘇秦、張儀の弁論術は君主を説得する揣摩憶測と情義の技術にすぎず、命題が客観的に正しいかどうかよりも、いかに説得するかに終始した。人間関係を捨象した形式論理の構築には絶対者との対決が必要だったのだ。

 後半は資本主義の基礎である所有の絶対性が形式論理からうまれることを、おなじみの講談調で講義する。所有の絶対性というとピンと来ないかもしれないが、人情が幅をきかせる日本では一番重要なポイントである。

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田川健三 『書物としての新約聖書』 勁草書房

 定評のある本だが、評判通りおもしろくて、一気に読んでしまった。「正典化の歴史」、「新約聖書の言語」、「新約聖書の写本」、「新約聖書の翻訳」の四章にわかれており、どの章も単独の本になるくらい充実していて、四冊分の内容が詰まっているといって過言ではない。これ一冊で新約聖書がどのように成立したのか、どのような社会背景で書かれたか、本文はどのように確定したのか、翻訳の歴史と問題点があるかが概観でき、巨人の肩に乗った気分が味わえる。キリスト教についてあれこれ言うなら、最低限、本書を読んでおくべきだと思う。

 「正典化の歴史」の章ではマルキオン派の聖書が刺激的である。最初にキリスト教独自の正典をもとうとしたのは、異端として退けられたマルキオン派だというのだけでもおもしろいが、教理にあわせてテキストの一部を削除し、独自の本文を作っていたというのだ。彼らの考える本来のテキストにもどろうとしたわけで、一種の正文批判といえないことはない。

 初期キリスト教は旧約聖書を保持しながら、信仰の核心部分は文書に固定しないことによって「生ける信仰」でありつづけ、それが地中海世界に爆発的に広まった一因だったが、正統派はマルキオン派に対抗するために、自分たちの新約聖書をつくる必要に迫られ、キリスト教はユダヤ教同様の文書本位の宗教になってしまったという。

 マルキオンは、キリスト教の先駆者の中で、正典宗教としてのユダヤ教をあれだけ鮮明に批判・克服しようとしたパウロを、パウロのみを、正しいキリスト教として継承しようとした。ところがそのために、パウロを正典として固定しようとはかったのである。……中略……キリスト教の長い歴史の中でも旧約聖書に対して最も強く批判的だったのがマルキオンとマルキオン派だったのだが、その彼らが、正典宗教という発想においては、最も旧約聖書(もしくはそれを正典とするユダヤ教)に近い流れをキリスト教の中に導入する役割を果たしたのである。

 四福音書の中でヨハネ福音書は特異な位置をしめているが、正典化の過程でもヨハネ福音書を含めるかどうかで相当議論があった。マルキオンはヨハネを退け、ルカだけを福音書として認めたが、旧約聖書との断絶という点ではヨハネに近いとしている。

 四福音書の順番は教理と直接かかわってくるが、巻物やパピルスの冊子本は技術的な制約から、一福音書を一冊(一本)におさめていたので、順番は固定していなかった。順番が神学的な大問題になったのは、四福音書を一冊にとじることが可能になってからだというのだ。電子化してハイパーテキストにすると、やはり順番は決定的な意味をもたなくなることを考えると、いろいろ想像が広がる。

 「新約聖書の言語」の章では一世紀のパレスチナの言語状況を詳しく解説しており、目から鱗の連続だった。

 イエスとその弟子たちはアラム語を話していた。イエスが十字架で叫んだ「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」もアラム語で、Q資料もアラム語だったらしいが、マルコ福音書とパウロ書簡はギリシャ語で書かれ、キリスト教はギリシャ語の宗教として地中海世界に広がっていく。そのさまが言語という視点から活写されていて、目に見えるようだ。

 マルコ福音書のギリシャ語が拙いのは有名だが、「素朴」なのではなく、外国語なのでぎこちないだけだという。ヘブライ語・アラム語に引っぱられている語法が多々あり、マルコは相当なインテリだったはずだと言い切る。

 やはり下手糞なギリシャ語で有名な「黙示録」についても、こう論評している。

 あちらの著作、こちらの書物と、数多くの預言書、黙示文学の書物等々から、引用、語句や表現の借用など、読む側でもこういうことについてかなりの素養がないと、何を言っているのだかわからないような文章が連ねられている。やたらと書物好きの人が書いた、やたらと書物的な言語なのである。……中略……この種の数字遊びは、知識人の遊びなので、そういったことも含めて、この人、大変な教養人である。「素朴、粗野」などというのとはほど遠い。

 「新約聖書の写本」の章は本書で一番おもしろかった。こういうややこしい話にかかわると泥沼なので紹介はやめておくが、新約聖書は残っている写本の数が桁違いに多いので(『メディア』の整った写本は10しかなく、最古のものでも10世紀だが、新約聖書は数千に達し、4世紀までさかのぼる)、正文批判が西洋古典学などとは比較にならないくらい発達しているという指摘はコロンブスの卵だった。哲学と国文学の研究者が引用の底本をあきらかにしないといって著者に文句をつけてきた話が紹介されているが、「何か「底本」を定めてそこから引用する、という程度の水準の低い仕事を我々はやらない」と一蹴している。

 「新約聖書の翻訳」の章もおもしろい。聖書業界(というものがあるのだ)の内幕を描いているだけでなく、あまたある邦訳聖書の出来を具体的に論評している。

 特に全世界に聖書を広める上で多大な貢献をおこなった英米の聖書協会の功罪を論じた条は、出版文化史や文字学に関心のある人も読んでおいた方がいい。文字コードで宣教師が余計なことをやってトラブルを起こしたという話を聞いたことがあるが、根は深かったのである。

 日本聖書協会訳がアメリカの聖書事情に左右されてきたという指摘には驚いた。邦訳に注釈や解題がつかないのも、英米の聖書協会が宗派的な事情から注釈をつけられなかった事情に淵源するという。キリスト教信者はすくなくとも、聖書の邦訳は近代日本語、特に文体の成立に大きな影響をおよぼしてきた。日本語を論じるためにも、聖書は押さえておいた方がいい。

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加藤隆 『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』 大修館

 著者は田川健三氏同様、ストラスブール大のトロクメ門下で、世代は違うが、弟弟子になるのだろう。文章から受ける印象では穏やかそうな人だが、時々、喧嘩をふっかけるようなところがあるのは、田川氏の影響だろうか。

 単行本であるが、講義がもとになっているらしく、教室でなければ聞けないような話がん盛りこまれている。聖書の文書名を憶えるための歌などというものも出てくる。

〽創・出・レビ・民・申命記
  ヨシュア・士師・ルツ・サム・列王
  歴代・エズ・ネヘ・エステル記
 ヨブ・詩・箴言・伝道・雅歌……

「鉄道唱歌」の節で歌うように作られたが、「水戸黄門」でもあうそうである。

 憶え歌はともかくとして、「契約」、「教会」、「主」、「使徒」、「福音」をヘブライ語とギリシャ語にさかのぼって解説する条はおもしろいし、勉強になる。「福音」はギリシャ語を音写したエヴァンゲリオンという語も使われているが、もとのギリシャ語はヘブライ語の「エヴェン・ギライオン」(岩を転がす)の語呂合わせになっていて、墓の入口をふさぐ岩が転がされたことから「復活」を暗示しているのだという。

 正文批判との関連で、マルキオン派の聖書の話も出てくるが、本書ではグノーシスの流れにふくまれるとしている。グノーシス派では旧約の神を悪しき神ととらえる流れが有力だから、マルキオン派の旧約聖書排除の立場が理解しやすい(ただし、『「新約聖書」の誕生』は別の説をとっている)。

 後半はマルコ福音書の文学社会学的読解dだが、ディティールにわけいっているので、講義を聞いているようにおもしろい。

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加藤隆 『『新約聖書』の誕生』 講談社叢書メチエ

アラム語文書がないのは、アラム語圏の大半を占めるパルティア帝国側ではユダヤ教とキリスト教の分離がはっきりした形ではおこならなかったから?

 しかしユダヤ戰爭は、ユダヤ人たちのローマ帝国に対する反乱であり、ローマ帝国の範囲内の出来事である。ユダヤ戦争後のユダヤ教建て直しを担ったヤムニアの学者たちも、パレスチナに本拠をおいて、いわばローマ当局の暗黙の支持の下に新しい方針を打ちだしたのであって、ユダヤ教の保守化も、そこから帰結したユダヤ教とキリスト教の分離も、まずはローマ帝国の側におけるユダヤ教の出来事である。
 パルチア帝国側のユダヤ人やキリスト教徒にとっては、これらは外国で生じた事件であった。したがってメソポタミア南部を中心とするパルチア帝国側のユダヤ人のあいだでは、ユダヤ教とキリスト教の分離は、ローマ帝国側の場合ほどには劇的な形では生じたなかったのではないだろうか。
 しかもアラム語を用いるキリスト教徒たちは、基本的にはエルサレム教会主流に近い立場をとっていたと考えられる。つまりユダヤ教における伝統と慣習をかなり重んじる立場である。したがって彼らは、シナゴーグの活動から劇的に追放されるということもなく、キリスト教独自の情報についても昔からの口承のものを重んじる立場を変更する必要に強く迫られるということがなかったのではないだろうか。……中略……
 以上の説明はあくまで憶測である。しかし資料が極端に限られているからといって何の検討も加えないと、パルチア帝国側にはキリスト教徒が存在しなかったかのような印象を抱きかねない。またさまざまな文書が執筆されて権威をもつようになり、新約聖書の成立に帰結したという現象が、じつはギリシア語圏に限られた特殊な出来事であるということが見失われてしまうかもしれない。

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加藤隆 『一神教の誕生』 講談社現代新書

    普請中

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June 2002

石川九楊 『「書く」ということ』 文春新書

 一昨年、「文學界」に発表されて話題になったワープロ亡国論をまとめた本であるが、のっけから形容詞・副詞・ルビ満艦飾の文章で呪詛をぶつけてきて、辟易する。

 文字の認識は身体的運動に裏打されているというのが書家である著者の年来の主張で、その視点から電子テキストの蔓延に警鐘を乱打している。

 文字が身体的なものだという考え方には同感だし、子供に習字の練習をさせるべきだというところまでは賛成するが、文章感覚のできあがった大人まで手書にする必要はないと思う。晩年のボルヘスや滝沢馬琴は失明し、口述筆記を余儀なくされたが、口述筆記になってから『八犬伝』がつまらなくなったなどということはない。失明したわけではないが、ヘンリー・ジェイムズの後期の傑作群も口述筆記で書かれている。『金色の盃』の精緻をきわめた文章を前にしては手書信仰は虚しい。

 著者は相当頭に血が昇っているらしく、昨今の凶悪事件までワープロの責任だと決めつける。

 最近の陸続する怪奇な事件の因を文書作成機ワープロだけに帰すことはできないが、文書作成機ワープロ個人用電子計算機パソコン、携帯電話等、いわゆる情報化社会の中で、抑圧され、圧殺され続ける全身体=無自覚の意識、の反乱であることについては、間違いないだろう。

いやはや、まったくの言いがかりだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの類か。

 『二重言語国家・日本』の膠着語は漢字の圧力で変形した言語だという指摘をおもしろいと思ったこともあったが、次の条を読んで鼻白んだ。

 たとえば、「雨」や「降る」あるいは「が」という語彙が存在し、それらが「雨が降る」と繋げられる軀体をもつことによって、言葉は成立していると考えている。この語彙や文体という認識そのものが、文字化以後の枠組として生じたものにすぎない。文字が生まれ、言葉は語彙と文体から成立していると認識されるようになって、言葉は逆に、語彙と文体からなる構造へと組織されていったのである。
 言葉の「音韻」と言った場合の枠組においてもそうである。音韻というのは、語彙(単語)を前提として、声を抽象化することによって生まれた概念であって、言葉には音韻が本質的な属性となっているというわけでは決してない。

膠着語の起源論がこういう素朴な誤解から出たきたものなら、前言は訂正しなくてはならない。示唆的な点もすくなくないが、本書はどう考えてもトンデモ本の類である。

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金両基 『ハングルの世界』 中公新書

 ワールドカップの日韓共同開催をにらんでか、最近、ハングルを題名にした本が目につくが、本書は1984年に出ていて、新書のハングル紹介本としては古参である。おそらく、影響は大きかったろう。

 ハングルは1443年に世宗によって制定され、普及のために正音庁という役所が作られたが、その後のハングルは受難の歴史をあゆむ。両班階級からは女子供の文字と蔑視され、李朝当局からはたびたび弾圧をこうむっている。正音庁は諺文庁と改称され、燕山君の時代には資料が焚書にあっている。

 著者は20世紀になると日本がハングルを抹殺しようとしたと書いているが、この記述は事実に反する。ハングルを蔑視しつづけてきた韓国知識人に民族独自文字の重要性を教え、近代的正書法と普及に助力したのは日本人だったからだ(わたしはハングルの専門家ではないが、『図解雑学 文字コード』のために、おおよそのところは調べたつもりだ)。

 著者は1896年4月7日に創刊されたハングルと英文の『独立新聞』をもって、ハングル復活の嚆矢としているが、その10年も前に、福沢諭吉は京城に派遣した弟子に、日本で鋳造させたハングル活字で、漢字ハングル交じり文による『漢城週報』という新聞を発行させていたのである。また、朝鮮語研究とハングルの正書法の確立には金澤庄三郎・小倉進平両氏が大きな貢献を行っている。

 朝鮮総督府は初等教育でハングルを必修にするなど、ハングル普及につとめた。第二次大戦末期にハングルを必修からはずしたものの、随意科目としては残している。日本がハングルを抹殺しようとしたなどというのは韓国人の妄想でしかない。

 新しい世代によって、公平な立場からハングルの歴史が書かれることを期待したい。

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呉善花 『スカートの風』 角川文庫

 「スカートの風」というと颯爽としたさわやかな語感があるが、韓国語の치마바람チマパラムには女だてらに家の外に出張ってという非難の意味合いがあるらしい。

 著者は日韓問題の論客として著名な人で、雑誌で文章を読んだことはあるが、単行本ははじめてである。日韓の比較文化論といっても、日々の生活の中で直面したすれ違いを描いているので、実におもしろい。

 著者は小さい頃から「権力者の妻」になることを夢見て(韓国ではこういう夢はごくあたり前だという)、大学在学中に志願して軍に入隊する。首尾よくエリート将校と婚約するが、破談になり、そのショック(婚約破棄は韓国では日本とは較べものにならないくらいの重い意味をもつ)から立ち直るために米国留学を志した。しかし、渡米するほどの資金がなかったので、日本留学に切り替え、そのまま定住し、渡日七年目で本書を書いたという。

 著者は一般の韓国人同様、日本人には夢がないと思っていた。しかし、夢をもたない日本人が楽しそうに暮らしていることにショックを受け、自分が夢だと思ってきたものが「いかに安っぽいものだったか」と感じるようになり、ついに小さいころから大事に抱えて来た「権力への夢」を失うにいたる。

 「権力者の妻」への近道になるので、韓国では女性軍人が憧れの職業になっているらしい。「JSA」でヒロインの軍服姿がかっこよく描かれていたのは、こういう背景があったのだろう(女性軍人には入隊時だけでなく、毎年、処女検査が義務づけられているという条には驚いたが)。

 興味深いエピソードや指摘がいろいろあるが、日本語の受身表現を解明した条はあざやかである。金谷武洋の『日本語に主語はいらない』でも多くのページをさいていたが、受身表現は日本語の大きな部分をしめ、受身の理解なしに日本語は理解できないといっても過言ではない。ところが、韓国語には受身表現がないので、韓国人にとっては躓きの石になっているという。

 あるとき、「受け身形にすれば常に主語が『私』になる」ということの意味に気がついた。「どろぼうに入られた」は「私はどろぼうに入られた」なのだ。主語を省略した言い方であることは当然わかっていた。しかし、主語を書き加えてみることで、私はようやく、「どろぼうが悪い」ということよりも、「責任が私にある」ことを問題にしようとする発想がそこに潜んでいることを知ったのである。
 一方、使役の受け身形の場合は、「残業をさせられた」「煮湯を飲まされた」「高い物を買わされた」というような目にあった自分が情けないわけであって、だから「気分が悪い」というニュアンスをそこに受け取らないと、まるで理解が不可能になってしまう。

「責任が私にある」という指摘にはいささか驚いた。金谷説では受身は「ある状況における制御不可能性」をあらわし、そういう状況をもたらした相手に対する不快感が含意されるわけだが、よくよく考えてみると、「私はどろぼうに入られた」には被害者意識だけでなく、自責の念もまじっていないことはない。著者の言語感覚の鋭さに脱帽である。

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呉善花 『続スカートの風』 角川文庫

 『スカートの風』の翌年に出た本である。著者は歌舞伎町に会話教室を開き、昼は韓国人ホステスに日本語を、夜は日本人ビジネスマンに韓国語を教えていて、教室でひろったとおぼしい生活に密着した話題が次々と登場する。後半はいよいよ井戸端会議化し、生々しい話もすくなくない。

 韓国語では自分の不幸を自慢することを「恨嘆ハンタン」といい、当然、井戸端会議は恨嘆合戦の場となる。副題に「恨を楽しむ人びと」とあるのは、このあたりの機微をさしているのだろう。

 最近は異文化コミュニケーションが流行語になっているが、本書を読むと、そんな安易なものではないということがよくわかる。日本では社交辞令で「家族同様のおつきあいを」ということが多いが、韓国人にとって「家族」は重い意味をもつので、善意で言っているのはわかっていても、生理的に気持ち悪いだけだという。

 聞き捨てならないのは金丸訪朝の条である。金日成は金丸信に対して、徹底してパンマル(目下に対するぞんざいな言葉遣い)を使っていて、通訳が必死にごまかしていたのだそうである(日本のマスコミは伝えたのだろうか)。

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呉善花 『新スカートの風』 角川文庫

 シリーズ第三作だが、書き下ろしではなく、『続スカートの風』執筆と併行して書いた連載原稿がもとになっているそうで、章によって出来不出来がある。

 重複する話題がすくなくなく、三冊つづけて読むと、いくら文章がよくても飽きてくるのだが、「ハン」と「もののあわれ」を比較した条はすぐれている。

 恨にしても「もののあわれ」にしても、いずれも自然に対する人間の欠如感覚を原点とすることでは変わりはない。欠如を感じる自分の心の浄化、その処理の仕方が異なるのだ。恨ではそれは否定的にとらえられ、いかに溶解するかが人生の方向性となる。「もののあわれ」ではそれは逆に肯定され、いかに肯定のままに生きられる自分を得るかが指向される。前者の問題は、その溶解が執着をとることへと向かわず、他者に勝ることでほぐそうとするあまり、より執着を強めてゆく傾向をはらむことである。同様に後者の問題は、ややもすると前向きの姿勢に否定的となり、権力の作用に身をゆだねてしまいがちなところにあるのではないだろうか。

 これだけでもなるほどと思ったが、著者の視線は社会構造にまで透徹する。

 恨の立場から言うと、人が貧乏であったり社会的な地位が低かったりすることは、そのままその人の弱さを示すものとなる。なぜなら、それは恨が固まったままの状態であって、それをほぐす力の弱さを物語るものだからである。儒教ではその弱さがさらに、倫理的な価値の低さへと位置づけられてゆく。儒教的な考えでは、どんな人間にもすべての可能性が天然自然なものとしてそなわっているのだから、それを発揮していない者ほど倫理的な価値が低い、ということになる。そこからは、人間よりも自然を優位とする自然本位の考え方が出てくるのではないだろうか。
 これが「もののあわれ」の立場では、貧乏とか地位とかは、その人の責任も多少はあるにしても、多くは本人の力ではどうにもならない社会的な条件によっている、となるように思う。だから、貧乏であったり社会的な地位が低かったりすることは、一種の運命として受け入れるしかない自然の成り行きであって、そのことによって人の倫理的な価値を決めることはできない。それよりも、具体的な人間関係のなかで、他者とどのように調和的な生き方をしているのかが倫理の問題となる。そこでは、自ずと人間本位の考え方となってゆく。

 「恨」のなんたるかはよくわからないが、「もののあわれ」論として第一級であることは間違いない。

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呉善花&渡部昇一 『韓国の激情日本の無情』 徳間文庫

 ワールドカップの日韓共同開催が決まった直後の1996年に出た対談本である。現にワールドカップが順調におこなわれている時点で読むと、冒頭の共同開催に対する危惧のくだりはout of dateだが、第二章以降は今でも読む価値がある。

 ある程度予想されたことだが、呉善花氏に対する韓国での風あたりはすさまじく、スカートの風どころかスカートの嵐だったらしい。呉善花非実在説を信じこんだ韓国のTVクルーが取材にきて、事実を知り、すごすご帰っていった話は滑稽をとおりこして可哀相になった(TVクルーが、である)。

 渡部昇一が高校で文学史をどう教えているかを尋ねているのはさすがである。古典の教材はハングル訳の漢文学か、李朝期にハングルで書かれた少数の詩と小説、ハングルで採取されたパンソリや口承物語ぐらいしかない。古代・中世の朝鮮語の文学は皆無に等しく、近世の少数の作品からいきなり1920年代に飛んでしまうのだという。日本では鷗外が落ちたことが話題になっているが、韓国ではそもそも載せるものがないのだ。

 パソコンで漢字を入力するには、以前はハングル漢字変換がお粗末だったので、日本語IMEを使うことが多かったという。あくまで1996年時点での話で、今は違うだろうが、日本の漢字処理技術が漢字文化圏にあたえた影響ということで、書きとめておく。

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小倉紀藏 『韓国は一個の哲学である』 講談社現代新書

 朱子学の理気二元論によって韓国を解読した本である。韓国人が本書を読んでどういう感想をもつかわからないが、呉善花氏の本を読んで感じた戸惑いがすべて説明しつくされたという手ごたえをおぼえた。岸田秀の唯幻論に通じる万能感があるが、精神分析はあくまで岸田氏がもちこんだ仮説にすぎないのに対し、朱子学が李朝朝鮮の根本原理でありつづけたのは歴史的事実である。著者のいうように、韓国は500年一貫して「道徳志向」国家なのだ。

 朱子学の理気二元論は石川淳論を書くために勉強したので、一応のことは知っているつもりだが、図式としてよくできているので、宇宙のすべてを理気で説明できそうに思えてくる。キリスト教や仏教はつじつまのあわないところだらけで、自分の頭で考える余地があるが、理気二元論は一見合理的であり、思考停止をまねくという点ではマルクス主義と似ているといえる。マルクス主義を奉じた国家は70年しかつづかなかったが、李朝朝鮮は500年間つづき、韓国はその間ずっと理気二元論づけだった。「朱子学によって国の情緒から風俗までを徹底的に改造した」といわれるゆえんである。

 朱子学はどんな人間でも努力によって聖人になれる可能性を認める点で楽天的で平等主義の思想といえるが、この立場をもう一歩進めれば、マイナス要素を放置しているのは努力が足りないからという道徳的糾弾に転化する。呉善花の『スカートの風』に、容貌のよくない女性に面と向かってブスと罵倒しても韓国では冗談ですむとあったが、朱子学的に考えれば、ブスは整形をして美人になるべきであって、その当然の努力を怠っているのだから、ブスと面罵してもかまわないし、それが本人のためにもなるということになる。

 これは強制収容所を生んだ科学的社会主義同様、恐ろしい思想である。思想はキリスト教のように、子供でもわかる穴があいているくらいの方がよい。

小倉紀藏 『韓国人のしくみ』 講談社現代新書

 『韓国は一個の哲学である』が原理篇であるのに対し、本書は応用編だそうだが、期待はずれだった。前著で割愛されていた具体例をならべてあるが、こういう話だったら呉善花を読んだ方がはるかにおもしろい。

 唯一興味をひかれたのは「北朝鮮こそ一個の哲学である」の章で、主体チュチェ思想の「主体」とはSubjektsujetの訳語ではなく、外部に権威をもとめる事大主義の「事大」(大につかえる)に対立する言葉だという。金日成思想をつくった黃長燁も朱子学の訓練を受けた人らしい。

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