読書ファイル 2002年 7- 9月

加藤弘一
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書名索引 / 著者名索引

July 2002

呉善花 『韓国併合への道』 文春新書

 大院君が復古政策を強化した1860年代から1910年の韓国併合にいたる半世紀の韓国近代史をコンパクトにまとめた本である。朱子学でガチガチに固まった李朝朝鮮を解体し、近代化するためには日本の力が必要だったとする立場は金完燮の『「親日派」のための弁明』に近いが、金完燮のようなマルクス主義者ではなく、才気ばしってもいないので、ごくオーソドックスな書き方である。

 著者はまず、ヘンダーソンら、欧米人の旅行記や研究(韓国ではまったく紹介されていないという)と日本人の研究を引いて、李朝朝鮮がどのような国だったかを描く。

 両班を頂点とする厳しい身分制度が布かれていたのはよく知られているが、1690年に総人口の7.4%だった両班は、1858年には48.6%に増えていたという。官僚以外の職に就くと、両班の資格がなくなるから、これだけの国民が無為徒食のまま、猟官運動にあけくれていたわけだ。

 著者が李朝社会の暗部を直視しようとするのは、李朝的独裁のパターンが今日までもちこされているからだ。

 横の繋がりのない、バラバラな状態に両班階級が陥っていたことが、王権が強力な先制をふるうのに恰好の条件をつくり出していたのである。大院君はさらに横の繋がりを執拗に断ち切って諸勢力の分散をはかる一方、自らへの縦の忠誠を徹底して強化し、一〇年にわたる個人的独裁を可能にしたのである。

 この方法は、ずっと後に、李承晩や金日成がとったやり方とまったく同じものである。横の繋がりを分断し、すべてを一点に向かう縦の流れとして組み立てる権力構成は、戦後の韓国・北朝鮮にそのまま受け継がれ、韓国ではいまなお政界、官界、財界から各種民間団体に至るまで、一貫してみられるのである。

 この後に篇がくるが、途中でかったるくなる。なじみのない名前がたくさん出てくるということもあるが、開化派が登場しては粛正されるというパターンで延々と繰りかえされるので、誰が誰だかわからなくなってくるのだ。腰の定まらない改革は犠牲を増やすだけという見本だが、これでは自力改革に絶望し、外国の力を借りて国を建てなおそうというグループが出てきて当然である。

 実際、そういうグループがあらわれた。李容九らの日韓合邦推進派である。本書の眼目は、韓国で長らく売国奴と決めつけられてきた彼らを評価した点にある。

 李容九らが日韓合邦運動を進めたのは、李朝−韓国の指導者に対する根底的な不信があったためである。

 かといって彼らは日本政府を信じて運動を進めたのではない。あくまで日韓合邦から大東亜の合邦へという自らの理想をもって進めたのである。彼らが頼りとしたものがあったとすれば、そうした方向に共感を寄せる日本の民間志士やジャーナリズムに表されていた民意・民情だったと思う。……中略……

 しかしながら、併合後には、東学=天道教の指導者孫秉煕が三・一運動後の予審調書で述べているように、「日韓併合の際の勅語には一視同仁とあるのに併合後朝鮮人は常に圧迫を受けて……」という現実がもたらされたのである。

 民意・民情は、韓国人を二級国民とする国家意志に大きく左右されざるを得ず、「良心的な日本人」が多数あったにせよ、それをもってするだけでは、民族の尊厳を十全に確保することはできなかったのである。

 評価すると同時に、政治家としての甘さも指摘している。バランスのとれた見方だと思うが、韓国では本書が出るまで、日韓合邦推進派評価は皆無だったらしい。

呉善花 『生活者の日本統治時代』 三交社

 1910年から1945年まで、朝鮮半島は日本の統治下にあったが、その実態は意外なほど知られていない。韓国・朝鮮の公教育や、日本の左翼史観では暴力による圧政がおこなわれ、朝鮮人民は一丸となって抵抗したことになっている。

 著者もまた反日教育を受けた世代で、両親から日本を懐かしむ話を聞いても、「無知」と蔑んでいたという。

 田舎者たちほど反日意識が弱いのは、彼らには学がなく無知であるからだ、ということが当然のように言われていた。高い教育を受けた者ほど反日意識が強いという常識があるため、大人たちから「勉強のできるいい子だ、上の学校に進む優秀な子だ」と言われ、自分もそういう子どもだと思うと、それにふさわしく反日意識を強くもたねば、という気持ちになっていく。……中略……
 私は反共・反日を核とする学校教育を通して、親たちの知らないほんとうの世界の見方を知ったと思った。そして、旧世代の日本への見方の甘い韓国人を超えて、私たちが新しい近代韓国を建設するんだという意識を強く燃え立たせていた。

だが、日本に留学し、反日教育で教えられていたのとはまったく異なる日本を知り、この確信は根本からゆらぐ。正しいのはインテリの反日教育か、無学な両親の方が。

 この疑問に正面から挑んだのが本書である。「生活者の」と断っているのは、韓国の反日教育が暗黙の前提としている道徳論によらず、日本統治時代を経験した日韓双方の人々の経験した事実をもとに考えようとしているからである。

 本書は聞き書きを主にしているが、最初の章では数量的データによって、日本統治の概略をスケッチしている。

 わたしが不勉強なだけかもしれないが、この概略が一番意外だった。

 まず、朝鮮在住の日本人人口であるが、大正9年が17万1543人で、朝鮮総人口の1%、昭和6年が52万4660人で2.5%、昭和17年でも75万2823人にすぎない。日本人の82%は都市に住み、そのうちの3割は京城と釜山に集中していた。概して高学歴・高収入で、子弟の中学進学率は本土の二倍に達したという。本書の日本側証言者には朝鮮総督府の役人や朝鮮殖産銀行の行員、医者など、エリートが多いが、これは在朝鮮日本人の職業構成を反映したものだろう。

 著者は朝鮮における日本人の生活実態をこう要約する。

 少数の日本人がソウルや釜山などの大都市に集中して居住し、公務員や商人や会社員として働いていたということである。都市部の人口は最大時で朝鮮人四〇〇万人に対して日本人六〇万人程度となるが、日本人の居住はソウルや釜山により集中していたから、日本人はソウル・釜山で一割強、その他の都市で一割弱といったところだったろう。そして、朝鮮人人口の八割、一六〇〇万人をようする広大な農村部にはわずか一パーセント、十数万人の日本人が散在していたことになる。
 こうした居住状態があり、これに就学率や産業人口のあり方を入れて考えてみると、朝鮮人と日本人との接点はかなり限られたものだったことがわかる。量・質ともに最も密度の濃い接点は、都市部の高学歴・高収入の日本人と一部のエリート朝鮮人であり、これを軸としてそれ以外の個別的な接点がまばらに点在する、といったイメージを描くことができるように思う。

 反日義兵運動の終熄後の朝鮮の治安はよかったといわれているが、田舎では日本人巡査の一家だけが村の中で朝鮮人に囲まれて暮らしている例が大半で、朝鮮側の協力がなければ、治安の維持すらままならなかった。

 もちろん、日本軍もいたが、反日義兵運動時ですら、わずか二千人にすぎなかった。これでは強圧的支配など、物理的に無理である。

 以上の基本的事実を念頭におけば、以下のような証言は説得力があると思われる。

 ★★大人数の朝鮮人のなかに小人数の日本人が生活していました。ですから私たちはいつも小さな気持ちでいました。実際、朝鮮人の町のなかで日本人だと威張って身勝手なふるまいをすることなど、とうていできることではなかったですよ。とくに田舎の人たちは連帯意識が強いですから、もし日本人が村の人たちをいじめたりすれば、必ず集団で立ち向かって来ると、そういう生活環境でしたから、とてもそんなことはできません。

 ★★朝鮮の田舎に行って若い娘たちを奪ってきたと言われますよね。そんなことはあり得ないです。もしそんなことをしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受けることになります。いや、法律の問題以前に、村の人たちにめちゃめちゃにやられてしまいますよ。強制的に連れていかれる娘を見ながら、そのままほうっておくような卑劣な朝鮮人がいたとはけっして思えません。田舎であればあるほど、生活者間の連帯意識も民族意識も強くて、そんな彼らが我慢して黙って見ているわけがありません。

 日本人が小さくなって暮らしていたと見るのは、韓国側証言者も同じである。

 ★★田舎の普通学校や中学では、朝鮮人が五〇人で日本人が五人だったので、日本の生徒が朝鮮人に嫌がらせをすることなどはできるはずもありませんでした。もし日本人が嫌なことをやったら、朝鮮人がだまってはいなかったですから。
 ヤンバンの家の物を日本人が搾取するとか、チェサ(祖先祭祀)を邪魔するとかいったことはまったくなかったですよ。とくに田舎では、日本人は朝鮮人が怖くてかってなことはできませんでした。だから日本人から差別されたなどの問題もなかったです。

 朝鮮人との関係が悪くなかったことは、敗戦時に治安が悪化しなかったことでもわかると語る証言がある。

 ★★日本人はそれなりに豊かでしたから、もし日本人が朝鮮の人たちにひどいことをしていたとすれば、日本の敗戦と同時に、日本人の家に押し入ったり、物を盗ったりするようなことがけっこうあってもおかしくなかったはずで、やろうと思えばできたわけです。敗戦時の無政府状態のときに、やろうと思えばいつでもできたし、やられれば日本人はそれにまったく反抗できなかったはずです。
 ところが、朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。戦後もずっと治安のよさが続いていました。

 これに対して、韓国側証言者はこう語っている。

 ★★終戦になるやいなや、西大門のロータリーに日本の兵隊が並びました。警察は力がなくなっていましたので、軍人が日本人を守るために出て来たんですね。戦前には軍人が街のなかに出ることなんて考えられないことでした。日本人に危険があってはいけないと出て来たんです。軍人は三・一運動のときに表面に出て以来、ほとんど一般市民の前には現れることはなかったんです。

 日本軍が街頭に出たといっても、もともと大した兵力はなかったのだから、ソウルなど一部の大都市に限られていただろう。その意味で、日韓双方の証言はニュアンスの差こそあれ、ほぼ一致していると思う。

 ただ、このニュアンスの差が問題である。韓国側証言者は、日本側証言者の知人が多いが、日本側は「親友」と考えているのに対し、韓国側では必ずしもそうは考えていないのだ。この食い違いは、差別とか、そういう問題ではなく、人間関係になにを求めるかという文化の違いだと思われる。たとえば、こんなズレである。

 ★★日本人の農場は韓国人の農場よりも日当が高くて、また日当をきれいに計算して支払ってくれるんですが、それだけなんです。韓国の地主の場合は、日当以外にも仕事を終えて帰るときには、いろいろと食べ物を包んで持たせたりするのが普通でした。ときには、家族で地主の家に呼ばれて食事しにも行ったものです。その点で日本人は冷たく、お金の関係だけで終わってしまうんです。人情がないんですね。

またか、と嘆息せざるをえないが、『スカートの風』で語られた日韓の文化の違いがここにも顔を出している。

 韓国側証言者が日本側以上にエリートに偏しているのが残念だが(エリートよりも庶民の方が日本統治時代を肯定的に語っただろう)、以下の結論は軽々にあつかえないと思う。

 「強制連行」、創氏改名の強制、神社参拝の強制。いずれの「強制」も、日韓両者の話を総合してみると、身の危険が迫り来るような弾圧下に行われたのではなかったことがよくわかった。統治側が法令を発し、多くの韓国人がとくに強い抵抗姿勢をみせることなく、ともかくも従ったのである。それが現実の姿だった。
 それを忍従といおうと、あるいは抵抗を内に秘めた忍従といおうと、そこには暴圧をもっての強制はなかったといってよいだろう。しかも強い抵抗姿勢をみせずに法に従ったという事実は、いったい当時のどんな現実を物語るものなのか。その問いを韓国人自身が自らに向けてみなくてはならないと思った。もちろん、それはけっして恥ずべきことではない。

呉善花 『私はいかにして<日本信徒>となったか』 PHP

 『スカートの風』出版の9年後にまとめられた本である。右も左もわからない日本に来て思い悩み、最初の出版が思いがけずベストセラーになって毀誉褒貶にもみくちゃにされた日々をふりかえろうとして書かれたようで、自伝的色彩が濃い。過去の著作で語られたエピソードが再登場し、時には同じ文章がそのまま使われるが、時間順に並べなおされ、後日譚や回顧の視点が追加されることによって、一段と奥行が深まっている。

 たとえば、上司から愚痴をいうなといなされた挿話はこうとらえなおされている。

 つい最近のことだが、ある日本人が私に紹介したい韓国人がいるからと、一人の女性を連れてきた。彼女は日本語学校を出て大学の研究生になったばかりだという。

 彼女は同国人だという安心感からだろう、私に会うや、ベラベラと自分の悩みや生活の苦労について話し出した。まったく昔の自分を見る思いだった。客観的にいえば、話の内容はとりたてた苦労話でもなく、日本に飽きたとか、生活がどうもおもしろくないとか、どうでもいいことで、他人に聞かせるような話ではないのである。

 ああ、これだ、私がかつての上司に愚痴をいうなといわれたのは、と思った。自分としては、深い悩みや心の秘密を話しているつもりなのだが、実際にはまるっきり愚痴なのである。

 題名にあるとおり、現在の著者は「日本信徒」だが、最初は韓国の若者の常として、ごりごりの反日主義者だった。本書にある通り、反日が親日に変わるまでには多くの段階があったが、自己の体験を踏まえて、著者は同国人に「日本にいるなら一年間までにしなさい、もっといるならば五年以上いなさい」と勧めることにしているという。一年目は韓国で聞かされていた反日のイメージが崩れ、日本のいい面ばかりが目につくが、二年目、三年目は壁にぶつかり、反日症状がぶりかえす。日本のよさ・悪さが客観的に見えてくるのは五年目以降だという。

 『スカートの風』に対する反響というか、風当りも率直に書かれている。在日韓国・朝鮮人からの反撥はまったくなかったが、滞日中の韓国人からは、ホステスからインテリまで、激しい攻撃を受けた。歌舞伎町で開いていた日本語教室は生徒がいなくなって閉鎖を余儀なくされ、在籍していた東京外語大では糾弾集会に連れていかれ、30人の留学生からつるし上げをくい、教授が仲裁にはいるほどだったという。

 『韓国の激情日本の無情』に出てきた韓国のTV局の呉善花非実在説騒動の経緯も洗いざらい書かれている。第三者的には笑ってしまうが、安企部が実家を調査しにきたとなると、本人にとっては笑いごとではすまないだろう。

 韓国人、特に学生は恐ろしく率直な人たちらしく、著者が講師をしている大学では、レポートにこう書いてきた留学生がいたそうである。

「私は、韓国にいるころ『日本はない』という本を読んで、日本にはとんでもないことをする韓国人がいるのだと思っていた。そして、日本に来てみたら、そのとんでもない人が自分の先生になった。驚くとともに自分の運の悪さを嘆いた。何で呉先生は、そんな悪いことをするのだろう。もう先生の顔も見たくないが、単位を取るため仕方なく出席している。私は何でこんな目にあわなければならないのだろう」

 『日本はない』(邦訳は『悲しい日本人』)は次の項目でとりあげたように、中味はトンデモ本だが、韓国では百万部の大ベストセラーになったという。『日本はない』の筆者は、呉善花氏を「第二の従軍慰安婦」と罵倒しているが、「この筆者が本当に従軍慰安婦といわれるお婆さんたちに同情を寄せるなら、私に「第二の」という呼称を与えるわけがない。なぜなら彼女は私を「卑劣な韓国人」であり、「売国奴」だという観点で非難しているからだ」という反論はもっともである。

 結局、問題は反日思想である。日本の「進歩派」と称する人々は「韓国の反日姿勢は植民地時代についての日本人の反省によって融解する」と考えがちだが、それは甘いと著者は断定する。

 重要な箇所なので、長いが引いておく。

 親日的であるといわれる人ですら、日本との比較ではけっして韓国を劣位におくことはしない。どこかで劣位においたとしても、それには必ず別のいいわけがつけられ、本当の意味では劣位ではない、といった表現をする。

 だから、一般的な韓国知識人にとっての日本に対する姿勢は、本当は反日というよりは、優劣の問題なのである。ようするに、自民族優位主義(エスノセントリズム)が韓国知識人の支柱なのである。……中略……

 韓国の自民族優位主義に基づく反日思想は、植民地支配にかかわることはいうまでもないが、自民族優位主義と日本蔑視の観点そのものは、日韓併合への流れから起きたものではない。

 自民族優位主義と日本蔑視の観点は、韓国に古くからある中華主義と華夷秩序の世界観にしっかりと根づいて続いてきたものだ。華夷秩序とは、中央の中華文明が人間の世界で、その外は夷という非人間が住む世界だ、という考えに基づいて生み出された東アジアの古代以来の世界秩序を意味する。韓国はずっと中華文明圏にあり続け、日本はずっとその外にあり続けた。さらに明滅亡後は、自らこそ唯一の正統な中華文明の継承者だという「小中華主義」を生み、中国以上に強固な中華主義をもつようになっていった。

 そういう経緯から、自ら高度で優秀な文明人であり、日本人は低級で劣った非文明人だという価値観が、古代以来近世にいたるまで続き、それが韓国人の意識の深層を形成したまま現在にいたっているのである。

 この見方がどこまで当たっているのかはわからないが、先に出てきた『悲しい日本人』を読むと、かなり当たっていそうである。

田麗玉 『悲しい日本人』 たま出版

 日本に二年半滞在した女性ジャーナリストが書いた反日思想むきだしの本で、原題を直訳すると『日本はない』だそうである。韓国では百万部も売れたそうで、続編が出ている。

 呉善花氏の本で存在を知ったのだが、本当にそんなに滅茶苦茶なことが書いてあるのだろうかという興味で読んでみた。

 中味は――呉善花氏のいう通りだった。いや、もっとすごい。

 日本のテレビは「残忍」で、見るのは「恐怖そのもの」、「苦痛」だと著者は罵倒しているが、本書の材料の多くはテレビのワイドショーと週刊誌と新聞(特に投書欄)がソースではないかと思われる。ローマで日本人女子大生六名がレイプされた事件や女子大生の黒人ハント、出生率低下など、1990年代初頭の話題がとりあげられているが、自分で取材した形跡がないのだ。賀来千賀子主演の『七人の女弁護士』に言及しているが、プロデューサーの言葉は「AERA」の記事からの引用だし、杉本彩、松坂慶子、小柳ルミ子の結婚問題もテレビや週刊誌がソースだろう。「三島の愛人」としてとりあげている美輪明宏にしても、六本木の駐車場で偶然すれ違ったにすぎず、直接インタビューしたわけではないらしい(引かれている発言はラジオの人生相談番組の回答)。

 新聞雑誌の記事やテレビ・ラジオでの発言は読者・視聴者の関心を引くように加工されているわけで、筒井康隆の「色眼鏡の狂詩曲」ではないが、いちいち真に受けていたら日本像が歪んでくるのは当たり前である。

 新聞の投書欄を唯一「日本人のナマの悩みや意見が反映されている」ともちあげているけれども、投書欄は新聞社の編集意図がもっとも露骨にあらわれる場所で、書いているのも「投書マニア」とよばれる特殊な人種であり、あれが一般的な意見だと思ったら大間違いである。

 日本の新聞特派員だって、現地のマスコミをソースにしているそうだから、著者だけが怠慢ということではないだろうが、日本に滞在したといっても、誇張された二次情報をもとに、歪んだ日本像を作りあげた疑いがあることは押さえておいた方がいい。

 テレビ・週刊誌・新聞以外のソースは著者がプライベートに接触する日本人になる。「ふつうの日本人との交流もどん欲に行った」そうだが、個人として登場するのは鍼灸師、酒場のママさん、不動産屋くらいで、要するに「お客さん」としての関係にすぎない。日本人は「非人間的」で「薄情」なので、「お客さん」として以外に関係の持ちようがなかったというわけだろうが、これで日本での「直接体験」を売物にした本を出そうというのは蛮勇もいいところだ。

 目についたところを引く。

 今の日本で最も尊敬されるのは政治家でもなければ、経済人でもない。その昔いたという小原庄助という大富豪だ。彼は朝寝をし、ありとあらゆる美食と酒を楽しみ、一日中風呂に入っていた先駆的な「一九九〇年代の人物」だったようだ。

小原庄助さんとは懐かしい。当時、小原庄助さんを「一九九〇年代の人物」と持ちあげる記事がどこかの雑誌に載ったのだろうか。

 上野公園で花見をするくだりも笑える。

 日本人にまじって我々も楽しく食事をした。冷たいビールや、韓国から空輸した貴重な焼酎まで飲み回しながら「花見」をした。楽しそうに輪になって談笑する人々、日本茶をおいしそうに飲みながら実に平和に土曜の午後をすごすこれら沢山の人々。まことに絵のような光景だった。映画みたいに……。ところが私には、何ともいいようのない憤り、裏切られたような気持が湧きおこってきた。一向に訳の分からない感情だった。
 公園を後にした時、仲間の一人がいった。
 「私たちにあんな悪いことをしておきながら、どうして日本人だけがこんなに幸せに平和に暮らせるんだ……」
 呟くような彼のことばに、皆一斉に「ああ」といって互いの顔を見た。そうだ全く。世界で最もひどい植民地統治をした連中がどうしてああも平和な顔をして、こんなにいい暮しができるんだろう。

 しかし、次の条となると、笑ってばかりはいられない。

 金持ち日本は、ありったけの金をかけて、被爆状況を映画その他のメディアを通じて宣伝する。国連もまた然りだ。日本は国連に莫大な負担金を払いながら、加害者から被害者へのイメージ・チェンジを図っている。ユダヤ人がナチスの虐殺行為に関する沢山の映画を作るように、彼らは多くの原爆ドキュメンタリーを作って、米国といっしょに戦って苦しんだ連合国に向かい執拗にざんげを求めている。ばかげたことだ。

 他にも応対に困る記述が多々あるが、これ以上相手をしてもしょうがないかもしれない。奥付を見たら、版元は韮沢潤一郎氏が編集長をつとめるたま出版だった。

宮田節子&金英達&梁泰昊 『創氏改名』 明石書店

 出版社から想像がつくように左翼的な立場に立って創氏改名を断罪する論集だが、多くの事実が集められていて勉強になる。

 創氏改名=日本風の名前に変えさせることという誤解があるようだが、創氏と改名は異なる。

 日本では「氏」と「姓」が曖昧になっているが、「氏」(名字・苗字)は「家」をあらわすもの、「姓」は父系の系譜をあらわすものである。徳川家康では「氏」は「徳川」、「姓」は「源」だが、これは「源」一族の末裔が徳川(得川)の地に移り住んで起こした家の一員という意味である(家康の源姓は怪しいが)。日本には10万の苗字があり、しかも地名と重なるものが大半を占めるのに対し(欧米のfamily nameと似ている)、中国・朝鮮には数百しかないのは「氏」と「姓」の違いのためである。

 創氏は朝鮮になかった「氏」を戸籍に導入することによって朝鮮社会の根幹になっている宗族(父系集団)を解体し、「家」単位の日本的な社会構造に変えていこうという政策である。戸籍の「姓」と「本貫」は新たに設けられた「姓及本貫」の欄にそのまま移記された。

 1919年と1929年に改名をともなわない創氏が試みられたが、儒教伝統派の抵抗にあいなかなか進まなかった。1939年の創氏改名(朝鮮民事令改正)では創氏は強制とされ、届けなしの場合は戸主の姓を氏とする「法定創氏」をおこない朝鮮姓のまま創氏した。

 「氏」は希望によって設定できたが(これを「設定創氏」という)、歴代天皇の追号、宮号、王公族の称号、有名神社名などは受理されなかった。

 「家」を単位とする近代家族制度を確立することが創氏改名の本来の目的だったのだが、宗族単位で同一の「氏」を設定する集団創氏があいついだ。「創氏改名の大きな目標は宗親意識を取り除くことであったにもかかわらず、性急に成果を求めようとするところから、かえって宗親意識に依拠した日本式名がつけられるという矛盾した現象を生んだのであった」というわけである。

 問題は改名である。日本的な姓名に変えることは強制ではなかったが、日本的な改名の率を競う地域があらわれ、強制に近い「指導」がおこなわれた例がすくなくなかった。改名の実施状況は地域によって大きな差があったのだ。

 創氏改名がおこなわれた1939年の朝鮮半島は数十年に一度の旱害で南の農村から離村者が都市に押し寄せていた。「現在斯様に旱魃が続く所以は、日支事変の為、毎日の如く沢山の兵隊が戦死し、其の幽霊が空中に彷徨する為、風の吹き方が変り、雨が降らないのだ」とか「本年ノ旱害ハ戦地ニ於テ大砲ヲ発射スル為ナルヲ以テ、戰爭終ラザレバ来年モ旱害ハ免レザルベシ」といった流言が蔓延し、社会不安が高まっていた。

 食いつめた若者が増えた結果か志願兵が増大していたが、総督府は将来の革命蜂起のために武力を体得しようという「主義者」が入隊することを恐れ地方と中央で二段階の選考をおこなった。合格者は6ヶ月間志願兵訓練所にいれ「入浴を共にして彼等に入浴の作法を教へ、食事は一々これを監督して良習慣と感謝の観念を教養するにつとめ、更に便所の使用法、廊下の歩き方、室への出入の作法」まで教えこみ、生活の細部まで日本化しようとした。

 なお陸軍は朝鮮で徴兵制が布けるのは昭和35年頃と考えていたよし。

 情報量の多い本だが、点数稼ぎのために日本式改名をするよう強制に近い指導をおこなったのが朝鮮人自身である可能性については口をつぐむなど(地方行政は朝鮮人官吏が担っていた)、批判的に読む必要がある。

金完燮 『「親日派」のための弁明』 草思社

 韓国が近代化できたのは日本の植民地支配のおかげだとする主張がいよいよ韓国内部からも出てきた。話題の本『「親日派」のための弁明』で、特に第一部は読みごたえがある。

 従来の考え方(植民地収奪論)では李朝後期に資本主義的要素が自生的にあらわれていたにもかかわらず、日本の統治によって資本主義の萌芽が摘みとられ、自主的な発展が阻害されたとされていた。これが内在的近代化論で近代化の起点探しがおこなわれたが、18世紀後半起点説は成立しないことがわかり、1860年代説、開国説(1876年)、甲午改革期説(1894年)と年代を下げていった結果、ついに1910年の日韓併合以後に起点をおかざるをえなくなってしまった。

 日本の統治政策が資本主義的農業経営の発達を阻害したという説もあるが、収奪論派の統計捏造が批判されるなど、学問レベルでは従来の説は揺らいでいるそうで近代化に対する日本の寄与は否定できなくなっているようだ。

 ソ連崩壊後はマルクス主義陣営内部からも日本統治時代を再評価する学説が出てきたという。1911〜38年の年平均3.7%の成長は世界的に見て稀れだし、1918〜44年の期間には農林水産業は80%から43%に減り、工業生産は18%から41%に増えるというように産業構造が一挙に近代化している。1930年代後半には日本の工業施設の25%は現在の北朝鮮地域に立地しており、原材料を収奪するだけの欧米の植民地支配とはまったく異なるという点も注目されるようになった。

 注目すべきは日本が産業の近代化のみならず、社会構造の近代化に手をつけたという視点が打ちだされていることである。

 私たちが韓国社会への日本の寄与を高く評価すべきなのは、かれらが朝鮮半島に社会間接資本を建設して工場を建てて人びとを開化させたからではない。もし私たちが立憲君主国家をつくり、長い歳月をかけて自力で近代化をこころみたとしても、当時の朝鮮の文化、社会制度、理念といった精神的な装置は堅牢で、私たち自身の力では壊せなかった。五〇〇年という長きにわたってつくられ、改められ、ととのえられてきた精巧な体制だったから、すこしくらいの変化と衝撃ではびくともしない。日本という異民族の統治を受けたがゆえに、かくも短期間に前近代的な要素を徹底して破壊し、そのうえに新しい社会を移植できたのだ。

当たり前の見方だが、韓国では当たり前が当たり前ではなかったのだ。

 第二部「相生の歴史」は、第一部の議論を踏まえながら、売国奴と貶められてきた李完用と一進会を再評価している。その一方全羅道にコミューンにちかい統治を半年近く実現させた東学党の農民反乱は1894年前半までは評価するが、7月からの第二次蜂起を「もはや革命軍ではなく、力をつけた盗賊の群れ」と一刀両断するなど、著者は是々非々の姿勢をとっている。

 左翼史観に多かれ少なかれ毒されてきたわれわれにとっても読んでおくべき本だが、本書は韓国の読者に向けて書かれているので最低限の韓国近代史の知識がないと議論がわかりにくい。『韓国併合への道』のような通史を読んでおいた方がいい。

 第三部は単発のエッセイを集めたらしいが、矯激な発言が多く著者の身辺が心配になってくる。

黄文雄 『韓国は日本人がつくった 朝鮮総督府の隠された真実』 徳間書店

 韓国が近代化できたのは日本の植民地統治のおかげだとする点は、『「親日派」のための弁明』と同じだが、著者は台湾人だけに台湾から見た韓国論となっている。

 日本ではほとんど知られていないが、第二次大戦後韓国では中国人が垢奴テンノムと差別され、朝鮮戦争時には中国人虐殺事件が起きたので逃げだす華僑があいつぎ、15万人が2万人まで減ったという。1992年の中韓国交樹立以後は台湾たたきをくりかえし、高雄市は抗議のために釜山市との姉妹都市提携を全会一致で解消した。

 日本の歴史教科書が問題になった際、韓国は「中国の属国」という記述に抗議し「中華帝国の歴代王朝とはずっと『友好関係』『同盟関係』」であり、「韓国の主権を奪ったのは『日帝三六年』だけ」と申しいれてきたが、本書はこれがまったく事実に反し、武力によって屈服させられただけではなく、中華文化をみずから進んで受けいれて完全に属国と化していた点(事大主義)を論証している(三千年間歴史を書きついできた民を怒らせると、こういうことになる)。

 創氏改名問題についてもシニカルな見方をしている。朝鮮で単字姓を使うようになったのは統一新羅からで、中国風の名前が一般化したのは高麗朝以後。人口のかなりの割合を占める賤民が姓を許されたのは、日本統治時代になってからであり。

 そもそも創氏改名で日本風の名前をつけたいと望んだのは、満洲に入植した朝鮮人だった。中国人に対抗するためには法律的に日本人であるだけでなく、日本風の名前を名乗る方が都合がよかったからである。彼らは関東軍の北満進駐を日章旗でむかえ日本軍の威を借りて中国人に報復したので、日本鬼子ならぬ二鬼子と呼ばれたそうである。

 朝鮮近代文学の父、李光沫が1940年に発表した「創氏と私」が引用されているので、引いておこう。

 我々の在来の姓名は、支那を崇拝した祖先の遺物である。永郎、宮昌郎、初郎、所回(巌)、伊宗、居柴夫、黒歯、このようなものが古代の我々の先祖の名前であった。
 徐羅伐、達久火、斉次巴衣、ホルゴ、オンネ、こういったものが昔の地名であった。そのように地名と人名を支那式に統一したのは、わずか六、七〇〇年前のことだ。
 すでに、我々は日本帝国の臣民である。支那人と混同される姓名を持つよりも、日本人と混同される氏名を持つほうが、より自然なことと信ずる。

 著者によれば日本の皇民化運動は民族語を禁止しなかったことこからわかるように、フランスのアルザス・ロレーヌ統治、英国のアイルランド統治、共産中国の辺境統治から較べれば、はるかに穏やかだった。

 日本統治時代、朝鮮では激しい独立運動があったことになっているが、実際は台湾よりも従順だった。憲兵と警官は最大でも日本人・朝鮮人あわせて7千人にすぎず、1平方キロあたりにすると1.3人にしかならない。台湾は3.1人だったから、台湾よりも順民だったという指摘には説得力がある。

 いわゆる「強制連行」についても合法的な徴用を除けばなかったというのが著者の立場で、日本はむしろ朝鮮からの労働者流入を規制していた事実を指摘する。

 実際、日韓合邦後半島の低賃金労働者は日本本土に殺到しようとした。日本の独占資本が朝鮮の民族資本をつぶしたために働き口がなくなったという説明がまかりとおっているようだが、もともと朝鮮には農業以外の産業はないに等しく、民族資本など最初からなかったのだ(金完燮『「親日派」のための弁明』によれば、民族資本と呼べるようなものがなかったという認識は韓国の学会でも認められつつあるらしい)。朝鮮総督府は労働者の渡日を規制したが、東亜日報は1921年9月9日付社説で渡日制限を「朝鮮人全体を無視し侮辱する悪法」と決めつけ撤廃キャンペーンをおこなった。1924年5月17日には釜山港で渡日制限撤廃をもとめる5万人集会が開かれ、朝鮮労農総同盟と朝鮮青年総同盟は内務省と総督府に制限をなくすように申しいれている。

 最近の密入国事件でも明らかなように、いくら規制しても近代化の遅れた地域から進んだ地域へ、賃金の安い地域から高い地域へ人が移動するのは止めることができず、当時も不法渡航があいついでいたのだ。日本側は1928年から水上警察を動員して渡日取締を強化したが、在日朝鮮人は1925年13万人、1933年46万人と増えつづけた。1939年に、罰則をともなう国民徴用令が施行されるが、当初、朝鮮には適用されなかった。朝鮮に徴用令が適用されたのは1944年からで、もし「強制連行」と呼ばれる事例があったとすればこの期間のことである(徴用で「強制連行」されたのは、日本人も同じなのであるが)。

 日本の朝鮮統治が成功したのは人口の急増でも裏づけられる。李朝時代、1753年730万人、1850年750万人と百年たってもほとんど人口が変らなかったのに対して、日韓合邦直前の1906年の980万人に対し、32年後の1938年には2400万人に達している。

 李朝時代、人口が横ばいをつづけたのは清による強制連行も原因の一部だったかもしれない。中国のような、あまりにも巨大な文明と境界を接したのが不幸だといってしまえばそれまでだが、朝鮮という国はかなり歪んだ発展をしてきたようである。

 人類史を見ると、奴婢の供給源としてはたいていは戰爭によって敗れた側の民族や集団を充てることが多い。しかし、朝鮮は有史以来一〇〇〇回以上も侵略されすべてを撃退したと自慢しているにもかかわらず、奴婢に充てるような侵略者側の捕虜はいなかった。
 逆に、朝鮮人は唐の時代からずっと中華帝国に強制連行され、奴隷にされるばかりであった。ことに丙子胡乱のときは、五〇万人以上、あるいは人口の半分が強制連行されて奴隷にされた。当時の盛京(瀋陽)では、朝鮮人奴隷の「人市」が大繁盛したと言われるほどだった。
 このころ、満蒙八旗軍に強制連行された朝鮮人に関する諸古典の記述を読むと、朝鮮人が哀れで不憫だと同情を禁じえない。北方へ強制連行された朝鮮人はおとなしく、あまり抵抗をせず逃げもしなかった。数百人単位で行進させられ、その後を二人の胡人(モンゴル人と満洲人)がついて行くだけでよかった。あたかも、牧童がおとなしい羊の群れを追い立てているようだ。
 李朝は民衆を奴隷に取られるだけで、外族から奴婢を得ることができなかったため、奴隷法によって大量の奴婢を拡大再生産し、階級社会を維持していた。人命の尊重も人格の尊厳も、まったくなかった人治社会の朝鮮。日本はそこに法治というメスを入れ、みごとに手術に成功したのである。

 韓国・朝鮮の人たちはこういう見方に拒否反応を示すかもしれないが、李朝朝鮮が現在の北朝鮮のような最悪の国家だということは否定しようのない事実である。

有吉佐和子 『ふるあめりかに袖はぬらさじ』 中公文庫

 表題作と「華岡青洲の妻」の二篇をおさめた戯曲集である。いずれもよく再演される演目で、わたしは両方とも杉村春子の主演で見たことがある。

 おもしろい舞台の台本が読んでもおもしろいとは限らないが、この二篇は読み物として第一級のおもしろさだ。

 「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は短編「亀遊の死」をもとにした戯曲で、幕末期の横浜でアメリカ人に身請けされそうになったおいらんが自殺した事件に材をとっている。

 おいらんの名は亀遊という。実際はどうだったかわからないが、有吉は亀遊の親友で情に厚いがそそっかしいお園という芸者がもののはずみで亀遊を攘夷芸者に仕立ててしまい、亀遊あらため亀の虚像をどんどんふくらませていくうちに、逆に世間に翻弄される姿を哀感をこめて描いている。三味線の軽快な名調子がないのは寂しいが、舞台を見ていない人もどんどん引きこまれていくだろう。

 「華岡青洲の妻」は原作の小説の通りの話だが、舞台の制約のおかげでドラマの骨格がよりくっきりと浮かびあがってりう。やはりこれは芝居向きの題材だろう。

有吉佐和子 『出雲の阿国』 中公文庫

 豊臣から徳川へ権力が移ろうとする動乱期を背景に、出雲の阿国の生涯を描いた歴史小説である。阿国についてはなにもわかっていないに等しいから、いくらでも想像をくりひろげる余地があるが、有吉は中国山地のたたら者と芸能者のつながりに注目し、網野史観的な視点から阿国を肉づけしていく(当時はまだ網野史観はなかったが)。『もののけ姫』に通ずるテーマが最後に登場するが、民衆的記憶という共通の根を考えればこの一致は偶然ではないだろう。

 上巻は上り調子である。天下一と呼ばれるようになった阿国は淀殿、近衛前子、大久保長安、結城秀康ら、貴顕の前で踊る機会をあたえられるものの、権力に媚びようとしない気概が敬遠され一座はもう一つのところで成功しない。下巻は悲しい。徳川の世になりしだいに管理が厳しくなっていく中で一座は落魄し、別れがくりかえされるのだ。

 結末で阿国はたたら製鉄の本場の吉田村で踊り、出雲の人々にある贈物を残していくが、それが気になり検索してみた。

 斐伊川鉄穴流しのために天井川になったのは事実だったが、貞方昇氏の「たたら製鉄により作り変えられた中国地方の山地と平野」によると、本当に環境破壊が進んだのは鎖国でインドから砂鉄が輸入できなくなった江戸中期以降のことだという。阿国の贈物はまったくのフィクションだったのである。

山元大輔 『遺伝子の神秘 男の脳・女の脳』 講談社+α新書

 著者はショウジョウバエを同性愛にする遺伝子を発見した世界的な研究者だそうだが、本書は竹内久美子風の肩の凝らない生物学講談である。

 前半は専門のショウジョウバエの話ばかりで、いささかうんざりしないではない(ショウジョウバエについて、こんなに細かいことまで知りたいとは思わない)。後半は脳の性差と性行動の話で、ややおもしろくなる。同性愛者の脳は視交叉上核や間質第三核といった部位にはっきりした特異性があるとか、レスビアン女性には左利きが多いとか、男性同性愛遺伝子はX染色体の長腕の先端のXq28という場所にあることが特定されている等々。

 わかりやすく書こうと努力しているのはわかるが、努力すればするほどおちゃらけているという印象しか残らない。文章に流露感がなくぶつぶつ切れるのが致命的だ。すぐれた研究者がすぐれた啓蒙家になるとは限らない。天は二物をあたえずということか。

山元大輔 『恋愛遺伝子』 光文社

 ショウジョウバエにこだわりすぎた『遺伝子の神秘 男の脳・女の脳』と較べると人間に関係する話題が多く、ずっと読みやすかった。

 前半は臓器移植で問題になるMHCという白血球の型が中心になる。正式には「白血球主要組織適合性遺伝子複合体」だそうだが、名前こそ厳めしいものの体臭にあらわれており、異性の選択から流産の確率まで動物の性行動に大いに関係しているらしい。人間の場合、意識にはのぼらないが嗅覚細胞の神経電位を計ると確かにMHC型を嗅ぎわけているそうだ。原則的にMHC型の遠い異性に引かれるが、ピルを飲んでいる女性は好みが逆転し型の近い男性を選ぶという。ブルース効果というおもしろい話題もある。

 後半は同性愛者はなぜ生まれるのかという危険な話題が中心になる。

 人間の脳のベースは女性で、男性の脳になるためには妊娠16週目に男性ホルモンのシャワーを浴びる必要があるという説は知っていたが、この時の男性ホルモンは脳では芳香化酵素でによって女性ホルモンに変化し、女性ホルモンが脳を男性化させるというややこしいことになっているのだという。男性ホルモンが脳内でうまく女性ホルモンに変わらないと、身体は男性だが脳は女性のままになる。つまり、ゲイである。一般にゲイの身体は異性愛男性よりも雄化が進んでおり、ブロック大のボゲートの調査によるとゲイの方がペニスが大きいのだそうである。

 胎児期に女性ホルモンが過剰だと身体は雌化するのに脳は雄化してしまい、レスビアンになる。一時、欧米ではジエチルスチルベストロールという人工女性ホルモンが流産防止に多用されたが、成人した女児にレスビアンが多発したため今では使わなくなったという。

 結局、同性愛行動が起る大本には、体の性を決める仕組みと脳(心)の性を決める仕組みとが、二つ並列に存在しているという事実がある。体と脳の性を決める仕組みが片方だけ働かない場合には、体と脳の性が一致しないで同性愛となる。また両方の仕組みが同時に働かない場合には、体も脳も性転換して体と脳の性が一致する。そのため、異性愛のように見えるが、、性染色体の組み合わせ、つまりXXであるか、XYであるかを基準にして見ると、同性愛だということになる。

なんでこんなややこしい設計にしたのか。進化の悪戯というしかない。

August 2002

ツルティム&正木晃 『チベット密教』 ちくま新書

普請中

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ツルティム&正木晃 『チベットの「死の修行」』 角川選書

 おどろおどろしい題名がついているが、ツォンカパの秘密集会タントラの註釈書、『吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第』の敷衍訳で、『チベットの死者の書』とはまったく関係がない。

 秘密集会タントラは一般には『チベットの死者の書』ほど知られていないが、チベット密教最深奥の教えで、こういうものが安価な選書として出版されるとはすこし前なら考えられなかったことである。最初に解説がおかれているが、これは『チベット密教』の密教の章とほぼ同じ文章である。註を本文におりこんだ敷衍訳だけにチベット密教に親しんできた人なら読みすすめることができる。

 著者は本書以前に『吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第』の学問的な翻訳を仏教系の出版社から上梓しているが、あえて一般向けの本として敷衍訳を出したのはオウム真理教に子供が入信した家族から「市場に流通するチベット密教礼賛の書物と、チベット密教を毛嫌いする専門家たちの書物の、その間の空隙が多くの若者たちを迷わせたという批判」を受けたからだという。

 いくらツォンカパの注釈書だからといって書物だけから密教の真実に触れることなどできるはずもないが、万華鏡のように展開する激しいイメージの連続に別の文明を垣間見る思いがする。

 秘密集会タントラで活躍する阿閦仏はアクショービヤ、すなわち嗔りや憎悪を断絶した者という意味だが、それだけ怒り・憎悪と深く結びついた仏だということである。阿閦仏は、通常の慈悲では救えない者を慈悲に発する嗔りで矯正し救済に導くために嗔金剛に変ずるというが、大いなる怒りが秘密集会タントラの思想の底流にあるらしい。

 オウム真理教は無限地獄に落ちると信者を脅していたが、地獄など阿閦仏の怒りの前には消し飛んでしまうだろう。チベット密教は日本の微温的な仏教とはまったく別の世界なのである。

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ナムカイ 『チベット密教の瞑想法』 法藏館

 

 

 とくにチベットの場合、外部の人たちにはまだあまり知られていないことだろうけれども、転生化身の大半、おそらく八割くらいは、寺院の利益のために「作られる」のである。今でもよく覚えているのだが、わたしは先生に、「トゥルクのふりをして勉強しないのはよくないよ。勉強しなければ、誰の役にも立つことはできないのだからね」と言われたことがある。もちろん中には、子供の頃に転生化身として認められ、大きくなってから、本当の化身らしい、すぐれた特性をはっきり示す場合もある。けれども、必ずしも、それが多数派とは思われないのである。

 寺院にとって、転生化身というのは、よい妻をめとるようなものだ。チベットでは、富裕な一族出身の女性を妻にすれば、持参金として、高価な宝石や品物、多額の金を得ることができる。
 トゥルクも同じだ。チベットの寺院に行ったら、どんなふうに転生化身を教育しているか、じっくり観察してみるといい。たいていの場合、最初に加持の与え方を教える。それから、お経を読んだり、頭に法具を当てたりしながら、灌頂を与えるやり方を教える。
 それくらいのことなら、とくに偉いラマの生まれ変わりでなくても、教えれば立派にやることができるだろう。そうやって加持や灌頂の与え方を学び、そのお礼に金銭を受け取るようになるのである。もちろん、みながみな、そうだというわけではない。本物の活仏だっている。ただ、実際のところはどうかをよく理解して、選んだほうがいい。

ナムカイ 『夢の修行』 法藏館

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ヴェンツ 『パドマサンバヴァの生涯』 春秋社

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田中公明 『活仏たちのチベット』 春秋社

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落合仁司 『<神>の証明』 講談社現代新書

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落合仁司 『ギリシャ正教無限の神』 講談社叢書メチエ

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September 2002

シン 『暗号解読』 新潮社

 暗号をめぐる人間ドラマを描いた本である。『フェルマーの最終定理』で評判になった著者だけに、原理の解説もうまい。東洋関係がすっぽり抜けていて、日本のパープルが出てこないのは寂しいが、欧米については古代から最新動向までよくカバーしている。

 おなじみの話題でもはじめて読むディティールが多くよく調べたものだと思う。意外だったのは強力な暗号が開発されても実際に使われるまでには時間がかかることだ。ヴィジュネル暗号は16世紀に発明されていたが、実際に普及したのは電信が普及した300年後だったというように。

 解読法が表に出てくるのにも時間がかかる。ヴィジュネル暗号を解読したのはドイツのカシスキーということになっていたが、実は1854年頃あのバベッジが解読に成功していたという。クリミア戦争の最中だったので英国情報部の要請で秘密にしたようだ。

 本書の白眉はエニグマ解読のドラマだが、これがなんとも人間くさい。

 エニグマはなかなか採用されなかったが、第一次大戦中のドイツの暗号が解読されていたことをチャーチルが著書に書いたことがきっかけになり、軍に制式採用された。

 エニグマ採用で大きな役割を果たしたのはルドルフ・シュミットだったが、その弟のハンス=ティロ・シュミットは軍高官に出世したルドルフに対する嫉妬から軍用エニグマに関する機密文書をフランスのスパイに売ってしまう。

 フランスは情報を入手したものの機構の複雑さにさじを投げ、機密をポーランドに提供する。ドイツに恐怖心をもっていたポーランドは死にもの狂いで解読にとりくみ、鍵を自動的に割りだすボンブという機械を開発する。エニグマは破られたのだ。

 だが、第二次大戦が迫るとドイツはエニグマを強化し、ボンブでは鍵が割りだせなくなる。肝心の1938年以降、ドイツの暗号がまったく解読できなくなってしまったのだから皮肉である。

 ポーランドは最後の最後に思い切った手を打つ。ナチス侵寇二週間前英仏の情報部にエニグマを解読した事実をあかし、軍用エニグマのレプリカとボンブの設計図をわたしたのだ。

 英国はボンブを改良してエニグマを解読するが、解読したという事実はひた隠しにした。秘密を守るために都市を空襲されるままにするとか、所在のわかっているUボートを「発見」するためにわざわざ偵察機を飛ばしたりしたという話は類書にある通りだが、戦争が終わった後もエニグマ解読を隠しつづけたという。

 英国がエニグマ解読を隠したのは鹵獲したエニグマを英連邦諸国に分配し、使わせていたかららしい。英国は解読の事実を公表する1974年まで、旧植民地の国々の暗号通信を何くわぬ顔で解読していたのである。英国人らしい狡さである。

 大戦中ドイツはエニグマを上回るローレンス暗号を使いはじめるが、英国もさるもの、コロッサスという真空管式コンピュータを開発し、どんな機械式暗号でも解読できる態勢を整えていた。

 世界最初のコンピュータはエニアックとされてきたが、エニアックはアルゴリズムの一部をハードウェアに依存しており、真の意味のプログラマブル・コンピュータとはいえない。コロッサスは完成が早かっただけでなく、どんな暗号機でもシミュレートできるように完全なプログラマブル・コンピュータになっていた。しかし英国はコロッサスの存在もひた隠しにした。

 バベッジのヴィジュネル暗号解読といい、エニグマ解読といい、英国の数学力と根性の悪さは底が知れないが、まだ先があった。英国政府通信本部(GCHQ)の研究者は1969年に公開鍵暗号の基本概念とRSA暗号と同じアルゴリズムまで発見していたというのだ(RSAより6年早い)。こうなると英国は量子暗号もすでに実用化しているのではないかと疑いたくなる。

 『ウィンドトーカー』の元になったナバホ族の暗号兵も紹介されている(映画ではウィンドトーカーだが、実際はコードトーカー)。機械式暗号は強力だが、操作が煩雑なので銃弾が飛びかう最前線では実用的ではない。そこで米海兵隊はドイツ人学者が一度も調査にはいっていないナバホ族の言語に白羽の矢を立てた。

 ナバホ族の暗号兵は420人余にのぼったという。映画に登場するエピソードがそのまま出てくるが、例によってナバホ暗号は1968年まで秘密にされていた。連邦政府がナバホ族暗号兵を公式に顕彰するのは1984年になってからである。

 ディレイニーの『バベル17』の基本的なアイデアはナバホ暗号がヒントになっていたと思いこんでいたが(作中に言及があったような記憶があるが、どうだったか)、1967年の作品だから、ぎりぎりのところで間にあわない。ディレイニーはなにか特別なソースからナバホ暗号を知ったのだろうか。

フラナリー 『16歳のセアラが挑んだ世界最強の暗号』 NHK出版

 セアラ・フラナリーというアイルランドの片田舎に住む女の子が、RSAにとって代わるかもしれない新しい暗号アルゴリズムの候補を発見し、マスコミに追いまわされることになった顛末をつづった体験記である。「挑んだ」というと解読法を発見したようで、邦題はまぎらわしい。

 セアラのアルゴリズムはCPアルゴリズム(ケイリー=パーサー・アルゴリズム)というが、行列のかけ算を使うので、累乗を使うRSAよりも75倍速いという。

 セアラの研究はアイルランドの科学コンクールで特賞をとるが、たまたまタイムズの一面で紹介されたために、世界的な注目を集め、セアラはもみくちゃにされる。もし、CPアルゴリズムが公開鍵暗号として使えるなら、百万長者になるのは間違いないが、セアラが特許をとらないと宣言すると、またまた大論議が巻きおこる。いずこも同じである。

 結局、CPアルゴリズムは公開鍵暗号に使えないことがわかり、騒動はおさまるが、セアラはなぜ公開鍵に使えないかを解明した論文で、全ヨーロッパの学生を対象にした「インテル国際科学フェア」の特選に選ばれる(展示の準備や審査の様子は『遠い空の向こう』そのままだった)。読後感はさわやかである。

 題材が題材だけに暗号入門的な記述が多くなるが、セアラはサイモン・シンの『暗号解読』を読んでいて、二番煎じにならないように話題や説明法を選んでいる。暗号の解説にいきなりmodを出したのは賛否両論あるかもしれない。暗号につきもののmodを最初に出したことで、見通しがよくなったが、文系読者の中にはつまづく人が出てくるだろう。modというと難しそうだが、要は割算の余りを出す計算にすぎない。わからないままに読み進んでも大丈夫である。

ナサー 『ビューティフル・マインド』 新潮社

 アカデミー賞作品賞・監督賞をとった映画の原作で、1994年にノーベル賞を受賞した数学者、ジョン・ナッシュの生涯を描いている。ノーベル賞には数学賞はないが、ナッシュの開拓したゲーム理論が経済学を大きく発展させたので、経済学賞の対象となったわけだ。

 映画のナッシュも鼻持ちならない、はた迷惑な男だったが、現実のナッシュはもっとひどかった。映画はアリシア夫人との不屈の夫婦愛を前面に押し出していたが、実際は離婚しており、ホームレスになりかけたナッシュを見るに見かねてアリシアが引きとり、下宿人のように世話をしていたのだという。

 最初の恋人の話はもっとひどい。ナッシュは5歳年上の看護婦、エレノア・スタイアーと恋愛関係になるが、プリンストンの数学教授の妻にはふさわしくないと結婚を拒んだ。エレノアは男の子を産むが、ナッシュは認知をせず、養育費はおろか、出産費用も出さなかった。それでいて男女関係をつづけ、アリシアと別居後はもう一度よりをもどそうとしている。

 ナッシュは20代で数々の歴史に残る業績をあげるが、30代にはいると精神分裂病を発病し、1958年以降、30年近くにわたって入退院をくりかえして廃人同然になる。映画では美しい人妻と美少女の幻につきまとわれるというロマンチックな描き方をしていたが、実際の症状はそんなものではなかった。幻覚・幻聴だけならまだしも、妄想に駆られた奇行の連続で友人・知人・同僚を失い、孤立していくのである。

 公立精神病院か路上で寂しく死んでもおかしくなかったが、元夫人のアリシアとプリンストン大学が救いの手をさしのべた結果、ナッシュは症状が寛解するまでもちこたえ、ノーベル賞を受けることができた(経済学賞の委員会内部には、万一、奇行を起こされたら賞の名誉が傷つくという強硬な反対論があり、ナッシュの受賞は最後の最後まで流動的だった)。

 本書のもう一人の主人公は、1930年代から1970年代にいたるアメリカの数学界である。カーネギー工科大学、プリンストン高等研究所、ハーバード大学、ニューヨーク大学、MITと、ナッシュが関係した大学の沿革と歴史がたっぷり語られ、実用一点張りだったアメリカ数学が、はじめは民間の寄付金、第二次大戦がはじまると軍部の資金でヨーロッパの最先端の数学者を招聘した結果、またたくまに世界最高水準にのぼりつめていく姿は壮観である。

蜷川幸雄 『演出術』 紀伊國屋

 安部さんが、自分のスタジオを作る前は、青俳で活動していたんですよ。「笑いは横隔膜の痙攣に過ぎない、笑うからおかしいんで、おかしいから笑うんじゃない」とかね、なにしろかっこいい。稽古になると、夫婦でやってきて、子どもに睡眠薬をかがせて眠らせてしまう。それで安部さんが演出、真知さんが装置を教える。そう、エチュードで「何か新薬を作れ」と言われて、俺は「フワリンサンスイスイ」っていう名前の薬を発明したんですよ。ふわっとした気分になって、すいすい空を泳げるようになる薬なんだけど、これがほめられた(笑)。

初演時、『マクベス』に連合赤軍を重ねる。柄谷行人の「マクベス論」と同じ。

遠藤和子 『佐々成政』 学研M文庫

 佐々成政の伝記である。著者は富山県で教師をつづけながら作品を書いている人で、本書の初版は1986年にサイマル出版会から刊行されたが、その後、学陽書房から増補版が出て、『利家とまつ』が放映される今年、学研M文庫から再刊された。幸運な本であるが、類書がないということが大きいのだろう。

 あまり読みやす本ではないが、実地踏査で集めた材料によって従来の成政像を書きかえている点は評価したい。

 成政といえば、富山から厳冬期の北アルプスを越え、浜松にいる家康と会見をはたした「さらさら越え」が有名だが、近年、戦国時代の装備で冬山が踏破できるわけがないという懐疑的な意見が出ているという。

 著者は「さらさら越え」ルートに足を運び、現地の人びとから「技術的に難しくない」という証言を引きだしている。成政が北アルプスを越えたとされる新暦1〜2月は、かつてはカモシカ猟の最盛期で、猟師が頻繁に往来していた。むしろ雪があった方が、笹や渓流に妨げられることがないので、歩きやすく、『東遊記』の

数十丈の雪積る時には、断崖絶壁の所も皆一面の雪と成り。たとえころび落ちたるも、雪の上なれば、その身損ずる事なし。また、大樹喬木といえども、皆雪に埋れて一面の平地のごとし。猛獣、また、皆逃げ隠れて穴に住めば、人を害することなし。この故に、寒気に耐え忍びて、命、全うしければ、谷嶺池川の差別なく、真っすぐに越えられることなり。

という記述の通りだという。

 きわめつけは、信州野口村大出で、先祖が雪道に迷った成政一行を助けたという口碑を伝える松沢家を発見したことである。

 成政は重度の凍傷にかかった近侍の松沢新助を松沢家の先祖に託して先を急いだが、その際、親鸞真筆の「帰命尽十方无礙光如来」の軸をあたえた。新助は半年後、当主の弟に背負われ、大回りに越中にもどろうとしたが、途中、来馬で病没したので、弟は松沢姓を名乗って、その地に住みついた。

 著者が小谷村来馬(恐龍化石で有名なところらしい)を訪ねてみると、はたして成政のあたえた軸は村のお堂に安置され、毎年、初代新助祭がおこなわれているのを知る。しかも、大出で語り伝えられているのと同じ話が由緒書として残っていたというから、ちょっと感動的である。

 小百合伝説の真相に迫ったくだりもおもしろい。成政は愛妾の小百合を鮟鱇あんこうのように吊し切りにしたばかりか、一族を皆殺しにしたとされてきた。成政が滅んだのは小百合の祟りという風説まで残っているが、実は小百合の生家は残っていたのである。

 小百合ゆかりの奥野家に伝わる口碑によると、小百合が成敗されたのは事実だが、一族は密かに婦負郡速星の奥野家に引きとられ、以後、奥野姓を名乗ることになったという。

 小百合伝説の流布には、成政の後、越中を領した前田家の意図が働いていたらしい。前田家はすべてにわたって加賀を優先したので、越中では不満が鬱積して成政を慕う気持が強かったという。台湾の内省人が日本統治時代を懐かしむのと似たような事情があったのだろう。

 通説によると、成政は秀吉が三年間、肥後の検地を控えるように命じたにもかかわらず(『甫庵太閤記』には制書が引用されている)、検地を強行したために国人一揆をまねき、切腹を命じられたことになっている。成政をわざと失敗させるために、秀吉は難国の肥後をあたえたという説もある。

 著者は近年の研究を参照して、『甫庵太閤記』の伝える制書の存在そのものを疑っている。原本が確認されていないということもあるが、制書第二条が「三年検地有るまじき事」となっているのに対し、第一条には「肥後五十二人の国人に、先規の如く知行相渡すべき事」となっている。検地をしなければ知行目録は作れるわけがなく、明らかに矛盾しているのだ。『甫庵太閤記』は秀吉の統治を正当化するために書かれた文書で、信用できないというわけである。

 著者は肥後が筑前・筑後とともに大陸出兵のための重要拠点と位置づけられており、成政の死後、肥後にはいった小西行長と加藤清正が朝鮮で先陣をつとめた点を指摘し、成政も大陸で大きな役割をはたすことが期待されていたのではないかと推定している。朝鮮戦線が膠着すると、秀吉は「彼やつを、いかにもして置いたならば、是ほど手間は取ましきものを」(『混目摘写』)と悔やんだというから、説得力のある説である。

佐々淳行 『東大落城』 文春文庫

 「安田講堂攻防七十二時間」という副題がついている。著者は危機管理の専門家としてTVでおなじみの佐々淳行氏で、当時、警視庁の警備一課長として機動隊の総指揮をとっていた。当然、警察の側からの回想録だが、「市民代表」であるかのような書き方をする左翼ジャーナリストの気持悪さと較べると、旗幟鮮明でスカッとしている。

 事件のあった1968年当時、わたしは中学生だった。模擬テストかなにかで早く帰宅したところ、TVで実況中継をしていて、ドキドキしながら見たのを憶えている。

 落城直後、安田砦を奪回しようと、過激派が御茶ノ水界隈で暴れた。いわゆる「神田カルチェラタン闘争」で、こちらも憶えているつもりだったが、別の日に起こったように思いこんでいた。

 わたしが大学にはいったのは、学生運動が世論の支持を失い、陰湿な内ゲバに突入した時期にあたっていた。入学する前年、革マル派の支配を終わらせようと立ちあがった無党派学生がリンチを受けて殺されるという事件があり、学内は騒然としていた。セクト支配を終わらせようとする無党派学生を押しつぶし、なんとしても拠点を確保しつづけようとする革マル派のやり口は卑劣の一語につきた。左翼のうす汚さはこの時に思い知った。

 大学の時の体験から、全共闘運動はすべて無意味な馬鹿騒ぎだと思っていたが、本書を読んで、初期にはそれなりの必然性があったのだと理解した(本書は勝者の余裕からか、全共闘で立ちあがった学生たちに対し、意外に同情的である)。

 わたしの通った大学にも機動隊がたびたび出動したが、機動隊の圧倒的な威容に対し、無党派学生も、革マル派も、あまりに非力だった。だが、安田講堂攻城戦の頃は、全共闘側に勢いがあったのに対し、機動隊側の体制はまだ整わず、戦力が伯仲していたという。安田講堂は全部隊をつぎこんでやっと落せたというのが実情で、その夜に起きた神田カルチェラタンでは警察は余力がなく、押されっぱなしだったそうである。一晩で騒動を鎮圧できたのは、現場の機動隊員の奮闘と僥倖のおかげというしかない。

 警察上層部が世論をひどく気にしていたというのも発見だった。世論操作の手の内もちらちら見えるが、多分、本当のところは書いていないのだろう。

 大学時代のわたしはSFとミステリのサークルに属し、デモには一回もいかず、大学そばの喫茶店にこもって、本の話に明け暮れていた。あの頃がどういう時代だったのか、本書のおかげで遅ればせながら知ることができた。

佐々淳行 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文春文庫

 「あさま山荘」事件を戦った警察側参謀長の回顧で、本書を原作に映画『突入せよ! 「あさま山荘」事件』が作られている。

 映画版は『踊る大捜査線』の影響か、政治的軋轢を恐れてかは知らないが、過激派との戦いよりも、警察内部の戦いに主眼をおいた、しまらない作品になっていた。原作はどうなのだろうという興味で手にとったのだが、警察内部のごたごたに紙幅を割いているのは確かにしても、連合赤軍=悪という姿勢が明確で、ピントがくっきり合っている(映画版は相当腰が引けている印象だ)。

 一言多いとみずから書くように、饒舌な文体だが、言葉にエネルギーがあるのでピシッ、ピシッと命中し、読んでいて快い。

 映画でコケにされていた長野県警の野中本部長は「将器」として、敬意をこめて描かれていた。大勢の警官に護衛されて、警備車から小用に出るエピソードもちゃんと出てくるが、あくまで本部長の大物ぶりを示すものというあつかいである(絵にしてしまえば、滑稽にならざるをえないのだが)。

 一方、縄張り意識を振りまわして、警視庁側の申し出をことごとく妨害した長野県警の「民族派」に対しては容赦がない。ユーモラスな語り口にくるんではいるが、どういう馬鹿なことをやったかという事実を逐一書いてあるので、逃げ場がない。当時の関係者は腸が煮えくり返る思いだろう。

 連合赤軍はアジ演説をすることなく、最後まで沈黙をつづけ、警察の呼びかけに対しては銃弾で答えるだけだった。マスコミはもちろん、警察にとっても、あさま山荘内部はブラック・ボックス化していていたのだ。本書は当時の状況をそのまま再現し、おそらくいろいろな対立があったであろう連合赤軍の内部事情についてはほとんどふれていない。

 読んでいて、もどかしさを感じていたのであるが、事件解決後、リンチ殺人が発覚し、著者は連合赤軍の沈黙の意味をこう解いてみせる。

 「あさま山荘」を包囲している間、私たちが感じ続けていた、あの得体の知れない不気味さは後から思えばこの血塗れの集団リンチ殺人事件の犠牲者たちの死霊が犯人たちの”背後霊”となって魔界から恨みをこめて一部始終をジッと凝視していたせいかも知れない。

 そう思うと思わずゾッと背筋が寒くなる。彼らが十日間呼びかけても応ぜず、アジ演説もせず、要求も出さず薄気味悪く沈黙していたのも、死霊にとり憑かれていたためだったのだろうか。

 あさま山荘の内部についてほとんど触れなかったことによって、この一節がちあがってくる。全共闘関係者はぐうの音もでないだろう。

久能靖 『浅間山荘事件の真実』 河出文庫

 著者はあさま山荘事件のまる10日間、日本テレビのアナウンサーとして現場で実況中継にあたったが、佐々淳行の『連合赤軍「あさま山荘」事件』を読んで、「そこに書かれたものだけが浅間山荘事件ではない」という思いに強くかられ、本書の執筆を思いたったという。あれほどの大事件だったにもかかわらず、本書が出るまで、報道人の立場で書かれた本が一冊もなかったというのは驚きである。

 章わけなしに400ページつづくので、最初はしんどいかなと思ったが、読みはじめると杞憂だった。おもしろくて最後まで一気に読みとおした。TV関係者の書いた本は概してメリハリがなく、平板な印象があるものだが、本書の場合、事件の展開だけでなくTV報道の転換点という視点が導入されており、叙述が立体的になっている。奇跡的に残っていた実況録音テープや犯人側の手記、報道協定全文や本部長談話、新聞社説、識者のコメントを引用したモンタージュ的な手法も成功している。当時の感想については「と、久能は思った」、「と、久能は推測した」と三人称で記述している。

 佐々本では犯人は不気味な沈黙をつづけるブラックボックスとしてしか描かれなかったが、久能は後の手記や供述、裁判記録を通して、心中を踏みこんで描写している。

「最初、二人の母親の呼びかけが始まった時にはびっくりし、みんな俯いて黙って聞いていたが、坂東と吉野は『おふくろも歳をとったなあ』と顔を見合わせた。

 坂東は『警察の野郎、利用しやがって」と怒りを露にしたが、吉野はかなり動揺していた。

 翌日、ふたたび母親の呼びかけが始まると、吉野は玄関上の銃眼から装甲車に狙いを定め、『私が撃てますか』と母親が呼びかけた直後に、母親に向かって発砲した」

 この供述だけでは、発砲した吉野の本心まで読み取れないが、その様子からして母親の呼びかけが彼らにはかなり効果があり、あの発砲には「うるさい」という反抗よりも「もうやめてくれ、頼むから帰ってくれ」という、哀願に近い気持が込められていたような気がしてならない。

 TV中継の舞台裏も興味深い。当時、日本テレビは長野に系列局をもっておらず、マイクロ波中継、前線本部と宿舎の確保、物資の調達のすべてで他局に出遅れた。やっと東京にマイクロ波が届いたと思ったら、長野での放送権がなかったので、電波監理局に移動申請が受理されるまで画像が送れなかったという。当時は白黒放送からカラー放送の転換期にあたっていたが、フジテレビは時代遅れと思われていた白黒の小型カメラで犯人が連行される姿をスクープするという快挙を演じ、中継機材の小型化のきっかけとなった。著者はこの事件で「アナウンサーと記者の両方を兼ね備えた人が台頭する時代が必ずくる」と考えるようになり、放送記者に配置転換を願いでて、記者が現場で喋るスタイルのパイオニアとなったというから、TV報道の上でも転換点だったのである。

 事件そのものは300ページ目で解決するのだが、本書は後日譚に100ページさいている。主要テーマは三つある。監禁された牟田泰子さんの報道被害と連続リンチ殺人、クアラルンプール事件による超法規的出国だ。

 佐々本には「A社」が牟田さんの病室に盗聴器をしかけて、医者の問診や警察の事情聴取の内容を「スクープ」し、盗聴が発覚すると、公安担当記者を総動員して必死にもみ消しをはかったとだけしか書かれていなかったが、本書では「A社」を朝日新聞と実名を出し、「スクープ」された問診の内容を引用した上で、内容に政治的歪曲があった可能性にまで踏みこんでいる。

 泰子は、その他にも二十九日付の『朝日新聞』の記事にはおかしな箇所がある、と指摘する。記事の中に「ききょうの間」に閉じこめられていたと述べた部分があるが、浅間山荘には「ききょうの間」という部屋は存在しないのだ。また、食事は毎回彼らが作って運んでくれたように書かれているが、食べたのはごった煮風の食事一回だけで、後はコーラを飲んでいたこと。夫の差し入れも知らないし、果物籠も見ていない。バナナは確かに食べたが、その他の果物は食べてはいないのだから「おいしかった」と言うわけがない。まして、犯人に大切にされたなどとはひと言も言っていないし、全体としていかにもやさしくされたような表現には作為的なものを感じたとさえ言い切った。

 牟田さんは記者会見でトイレ以外、ベッドルームから出られなかったこと、トイレにいくのもロープで縛られたままだったことを話すが、朝日新聞だけはベタ記事のあつかいだった。朝日新聞は愚かな読者を正しい思想に善導するためには少々の嘘はかまわないとする傾向があり、過去に多くの「誤報」事件を起してきたが、「スクープ」の背景に、赤軍派に対する同情的な世論を誘導しようという意図があった可能性は否定しきれないだろう。あの「スクープ」がきっかけとなって、牟田さんバッシングがはじまったことを考えると、報道による犯罪だった疑いが濃いのである。

 リンチ殺害事件については識者のコメントや投書を集めており、当時の受けとめ方がわかって興味深い。世直しを叫ぶ革命党派があんなことをするのは信じられないという意見と、日本人の残虐性に原因をもとめる意見が目につくが、社会主義の本質と結びつける見方がなかったのは不思議である。

 レーニンにせよ、スターリン、ヒトラー、毛沢東、金日成、チャウシェスク、ホー・チミン、ポルポトにせよ、凄惨な同志殺しをやって権力を維持してきた。「粛正」と呼ぶにせよ、「総括」と呼ぶにせよ、社会主義者が同志殺しをするのは当たり前なのだ。同志殺しは社会主義という思想に組みこまれた宿痾であって、16人どころか何十万、何百万人もの社会主義者が同志の手によって虐殺されている。殺し方が残酷だというが、レーニンたちの手口から較べれば、まだまだ序の口にすぎない。日本人の残虐性のあらわれだなどというのはとんでもない話で、日本人だったからこそ、あの程度ですんだというべきなのである。

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