読書ファイル   1996年 5 -8月

加藤弘一 1996年 4月までの読書ファイル
1996年 9月からの読書ファイル
書名索引 / 著者索引
May
高橋英利 『オウムからの帰還』
小室直樹 『小室直樹の中国原論』
中村方子 『ミミズのいる地球』
鯖田豊之 『水道の思想』
永沢光雄 『AV女優』
June
立花隆 『脳を究める──脳研究最前線』
池上嘉彦 『<英文法>を考える』
副島隆彦 『英文法の謎を解く』
July
青山南 『英語になったニッポン小説』
黄文雄 『中国人の偽善 台湾人の怨念』
レッドフィールド 『第十の予言』
ディレイニー『アインシュタイン交点』
August
中村正三郎 『星降る夜のパソコン情話』
室井光広 『縄文の記憶』
丸谷才一 『恋と女の日本文学』
松平誠 『ヤミ市 幻のガイドブック』

May 1996

高橋英利 『オウムからの帰還』 草思社

 オウム真理教に警察の強制捜査がはいった直後、オウム科学技術省所属の若い信者が上九一色村のサティアンを脱出した。同じ頃、オウムを抜けだした信者はたくさんいたらしいが、彼が違ったのは、その足でTV局にかけこみ、高橋英利という実名と素顔をあきらかにして番組に出演し、オウム体験を語ったことだ。

 彼のオウム内部での位置もユニークなものだった。彼はホリーネームもない一介の平サマナ(出家者)にすぎなかったが、大学院で天文学を研究した経験をかわれ、故村井秀夫の直属の部下として占星術のソフトウェアを開発し、一時期、麻原教祖のおかかえ占い師のようなことをしていたというのである。教団内での麻原教祖は雲の上の存在で、彼に近づくことをことを許された幹部やボディガードたちはいずれも深刻なマインドコントロールを受けていたらしいが、著者だけは比較的醒めた意識をたもったまま、麻原教祖を間近で観察する機会をもったのである。

 著者はTVや雑誌のインタビュー、対談などでたびたびオウム内での生活を語ってきたが(どれも興味深いものだった)、本書は団地で育った幼い日々から、どうしてオウムに引かれて出家したか、そして在家時代には想像もつかなかったサティアン内部の生活、オウム脱出の経緯と、時系列にそってのべている。マスコミに登場するオウムの元信者はたいてい麻原教祖とオウムを口をきわめてののしるが、著者の場合、鸚鵡に魅惑されたこともふくめて、心の揺れを卒直に──あぶなっかしいほど卒直に──語っている。なんて脳天気なことを書いているのだと腹を立てる人がいるかもしれないが、なぜあの教団が短期間にあれほど大きくなったか、多くの在家信徒がなぜ最後の最後まで教団の無実を信じつづけたかの理由の一端がようやくわかった思いがする。

 オウムに対する断罪はもちろん必要だが、オウムのどこが信者を引きつけたのかを解明しておくこともそれに劣らず重要なはずだ。その意味で、本書にはのぞき趣味をこえた洞察をふくんでおり、オウムに関心を持つ人は一度は目を通すべき本だと思う。

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小室直樹 『小室直樹の中国原論』 徳間書店

 中国は法治国家ではなく、「人」治国家だといわれるが、その人治のなんたるかを著者一流の講談調で分析した本である。

 著者は「幇」、「宗族」、「法家」という三つの座標軸を設定し、分析をくわえている。それぞれおもしろいが、なかでも「三国志演義」と「史記」刺客列伝を手がかりにした「幇」の分析はみごとである。成功しても失敗しても殺される刺客は、アメリカの殺し屋のようなビジネスにはなりえず、それゆえ義士として尊敬されるという指摘は、賄賂は金額ではなく面子の問題だという指摘とともに、中国が依然として資本主義でもなければ社会主義でもない、前近代的なエートスで動いている現状を浮きあがらせる。この伝で宗族の説明に『紅楼夢』を使えばもっと論に奥行きが出たのではないかと思われるが、『紅楼夢』のような軟派小説は著者の好みではないかもしれない。

 急いで断っておくが、著者はだから中国は遅れていると批判しているわけではない。「遅れている」という決めつけは、資本主義を標準とした場合の価値判断で、世界的に見れば、資本主義は歴史上ただ一度だけ、プロテスタンティズムという特異な宗教思想から派生した鬼子のような思想にすぎないのだ(社会主義にいたっては、鬼子の鬼子である)。

 本書の最後の部分では中国の今後を占っているが、紙数の関係かここは駈け足になっていて、もっとじっくり小室説を聞きたかったと思う。たぶん、続篇がでるだろうから、それを期待しよう。

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中村方子 『ミミズのいる地球』 中公新書

 著者は生態学の研究者で、大学時代にダーウィンの『土とミミズ』(最近、平凡社ライブラリーにはいった)を読んで感激して以来、ミミズに魅せられてきたという。決してミミズ一筋の研究生活を送ってきたわけではないが、ミミズをもとめてミミズ養殖の本場のポーランドやダーウィンゆかりのガラパゴス諸島、ゴンドワナ大陸起源の巨大ミミズの棲息しているというオーストラリアやニューギア、さらにはミミズがいないというモンゴルの草原やアフリカのサバンナにまで足を伸ばしていて、さながら世界ミミズ紀行のおもむきがある。

 ダーウィンがミミズ学の開祖だったとか、ウェーゲナーの大陸移動説がトンデモ科学あつかいされていた当時、ミヒャエルセンというミミズ学者が白亜紀のミミズ分布から大陸移動を支持する論陣をはったとか、海をわたる海水性のミミズがいるとか、サバンナではシロアリがミミズの役割をはたしているとか、実に興味深い話が紹介されているが、すぐに次の話題にうつってしまうので、食いたりない思いがつのる。ミミズの分類学が未発達で、いまだに種の同定すら困難だというミミズ学の現状を考えると仕方がないのだろうが、著者が一般向けの本に慣れていないせいもあるのかもしれない。

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鯖田豊之 『水道の思想』 中公新書

 著者は長年、医大に勤務した西洋史学者で、最初は元の勤務先から史料を借りだして研究していたが、医大の図書館に19世紀ヨーロッパの衛生学の文献が大量に死蔵されていることに気がつき、水道という視点から近代西欧史に接近するようになったという。ヨーロッパの近代水道の歴史はコレラの流行との戦いの歴史でもあって、コレラを予防するには上水道の整備が先か下水道の整備が先かという上下水道論争が、両者を平行して建設する結果になったというのはおもしろいめぐりあわせである。

 著者は1981年からほぼ毎年、ヨーロッパ各都市に実地調査に出かけていて、小著ながら厖大な材料を背景にした仕事だということがわかる。ただ、著者の文章は学者さんの文章で、データ量が膨大であるのにメリハリがとぼしく、注意して読まないと論旨をたどるのが困難になる。本書の場合、古代ローマの水道思想が座標軸として一本通っているので、これを追っていけば、論旨が見やすくなる。

 古代ローマが立派な水道をもっていたのはよく知られているが、ローマ人が湧水にこだわり、いい水をもとめて遠くの水源からわざわざ導水していたというのは本書で初めて知った。水道橋の遺跡の中には二段、三段のアーチが組まれているものもあるが、あれは異なる水源の水を混合しないための工夫だったのだという。一部では河川の水も導水されたが、飲料水に使われることはなかったというから、ローマ帝国は中水道をとっくに実現していたわけである。

 ローマ帝国の衰亡とともに水道施設は荒廃に帰し、ローマの水道思想も忘れられたが、近代国家が誕生して都市が大規模化するとともに、水道思想の復活があったという。日本では河川の表流水に大量の塩素を投入して、五〜六時間で水道水に仕上げるが、ヨーロッパの場合、あくまで湧水や地下水にこだわり、地下水が確保できない場合は河川の伏流水、それも十分確保できない場合は表流水をなるべく薬品を使わずに数日から数十日かけて処理して水道水にしている。浄化した伏流水を地下に浸透させて、人工地下水にしている都市もあるという。日本の水道はいったいなんなのだろう。

 おもしろい本なのだが、とりあげられているのはヨーロッパと日本だけで、アメリカの話がすっぽり抜けているのは困る。現在、日本では蛇口のところで残留塩素の量が一定以上でなければならないという規制があって、そのためにトリハロメタンの生成や、熊本のような水のいい都市でも塩素を必要以上に投与しなければならないことが問題になっているが、塩素規定のそもそもの起源はアメリカ占領時代のGHQ指令にあるのだという。水を浪費することにかけては日本人と双璧のアメリカ人がどういう水道思想をもっているのか、ぜひとも知りたいところである。

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永沢光雄 『AV女優』 ヴィレッジセンター出版局

 アダルト・ビデオの世界では硬派でならす「ビデオ・ザ・ワールド」という雑誌には、巻頭と真中と二つのインタビュー記事がある。どちらも毎月一人のAV女優に登場ねがい、ウソだか本当だかわからない話を聞くというコーナーなのだが、巻頭インタビューがカラー写真を多用してにぎやかで、中味もイケイケなに対し、真中のインタビューは白黒の写真が一枚あるだけで、あとは活字がぎっしり。中味もなんともシビアで、しばらく考えこんでしまうような話が語られているのだが、本書はこの真中の方のインタビューを一冊にまとめた本である。

 著者の永沢氏は「ビデオ・ザ・ワールド」以前にもAV雑誌でインタビューの連載をもっていて、本書には全部で42人のインタビューがおさめられている。

 1人分を読んでさえインパクトがあるのに、42人分、572ページの大冊を通して読みとおすのにはエネルギーがいる。ただ、同じような話が延々くりかえされるのに、飽きることはなかったし、陰々滅々な気分になることもなかった。ルポルタージュ風、短編小説風、自伝風、お伽噺風とインタビュー記事には珍らしいくらい毎回趣向をこらしてあるということもあるが、その女優の前向きの部分に光をあてようとしているからでもあろう。文章もすこぶるよい。

 後書として、本書の出版をしかけた大月隆寛氏の文章がのっているが、これも読みごたえがある。大月氏はすばらしい本を世に送りだしたと思う。

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June 1996

立花隆 『脳を究める──脳研究最前線』 朝日新聞社

 第一線の研究者のインタビュー集だが、なにしろ「脳」である。文科系人間としては近所で杭打ち工事をやられて、床がガンガン揺さぶられるような気分にさせられた、というのが正直な感想だ。これまでも、著者の『臨死体験』や、養老孟氏のドグマ的な脳論、NHKでやった「脳と心」という一年間のドキュメンタリー番組など、脳に関する本やTVは目にしてきたが、話としておもしろいという以上の感想はもたなかった。しかし、本当の最先端の研究はそんななまやさしいものではなかったのである。

 脳研究はもっとも進歩の早い分野なので、TVや一般向け解説書で「最新の説」と紹介されている説がとっくの昔に否定されていたりする。本書で著者はちょっと前の説と最新の説を併記するという書き方をしているが、素人としては「ちょっと前の説」すら知らないことがあるのだから、途方にくれてしまう。

 一番驚いたのは、歴史上の哲学者たちの説とよく似た説が、最新のハイテク機器と遺伝子組みかえ技術によって、「発見」されていることだ。たとえば、視覚のメカニズムに関して提出されている図形アルファベット説はカントの図式論を思わせるし、触覚の形成についてとなえられているアクティブ・タッチ説はメルロ=ポンティーの行動概念そのものではないか。情動記憶と場所記憶の緊密な関係にいたっては、ベルクソンの記憶論や中村雄二郎の共通感覚論を連想せざるをえない。どうやら歴史上の哲学者たちは、知らず知らずのうちに脳の仕組を手さぐりしていたらしいのである。

 偉大な哲学者は脳研究を先取りしていたなどと喜んではいられない。これは哲学の正真正銘の危機である。なまじ似ている部分があるだけに、哲学は幼稚でゆがんだ脳研究の戯画にしかすぎなくなってしまうなどということになりかねないのではないか。現在のペースで脳の解明が進んでいったら、いったい哲学はどうなるのか。

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池上嘉彦 『<英文法>を考える』 ちくま文庫

 題名から英語の参考書のように誤解されて売れているらしいが、志の高い本で、言葉の意味あいは文法だけで決まらないということを認知言語学の立場から説いている。つまり、文法批判の本なのである。

 なぜ英文法を俎上にのせるのかというと、日本人が文法の乱暴さを体験するのが英文法においてだからだ。

 たとえば、受験英語でおなじみの書きかえ問題。意味をかえないように能動態を受動態にせよとか、to不定詞を that節で書きかえろといった問題をいくつ解いてきたろうか。意味をかえないようにというが、能動態を受動態にしたり、to不定詞を that節に置きかえたりしたら、意味はかわってしまうのである。すくなくとも、そうした書きかえで変質するような意味をあつかうのが、著者の標榜する認知言語学である。

 本書は大きく二つの部分にわかれる。前半の「<文法>の限界」と「<意味>と<文法>」は英文法に即する形で、文法の内側から文法の限界を指摘していく。学校英文法批判にもなっていて、目から鱗がとれるような指摘が目白押しである。例の五文型をルーツにまでさかのぼってやっつけるところなどは痛快きわまりない。

 後半の「<テクスト>と<文法>」と「<テクスト>と<レトリック>」では、従来の言語学が最大の単位としてきた「文」よりも大きな単位、すなわち一つの内容をつたえる「文」の集まり(「談話」とか「テクスト」と呼ばれる)を対象として、認知言語学の素描をこころみている。

 著者の志の高さは高さとして、おもしろいのは英文法に密着した前半で、認知言語学の本領が発揮されるはずの後半は話がまとまらず、退屈した。泰山鳴動鼠一匹の感がなくはないのだ。認知言語学はまだ一般に認知されるほどの内容をもつにはいたっていないらしい。その意味では、本書は高級な英語参考書とわりきって、前半だけ読むのもありかもしれない。

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副島隆彦 『英文法の謎を解く』 ちくま新書

 著者は予備校の英語教師だそうだが、数年前に橋爪大三郎氏と『小室直樹の学問と方法』(お勧め!)を出しており、小室ファミリーの一員のようだ。『<英文法>を考える』同様、この本も志が高く、英語参考書の体裁を借りながら、古典古代から連綿とつづくラテン語文法を語ろうとしている。

 著者によると、現在の英文法はラテン文法の上に、近代国家の出現とともに生まれたポール・ロワイヤル文法がのり、その上に実用本位の品詞分類学がかぶさったごたまぜ状態なのだという。直接法、仮定法の「法」moodは「ムード」のことだという指摘や、接続法は日本語の係り結びににているという指摘など、実におもしろい。

 ただ、『<英文法>を考える』とは逆に、英語参考書としては受験英語の域を出ていない。この人には受験英語から離れて、きちんとした文法学の本を書いてもらいたい。

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July 1996

青山南 『英語になったニッポン小説』 集英社

 この十年ほどの間に日本の現役作家の作品がどんどん英訳され、村上春樹や吉本ばななのようにベストセラーとなった例も出てきているが、本書は翻訳家としても実績のある著者が英語になった現代日本小説11篇を俎上にのせている。

 翻訳をあげつらった本というと、誤訳の指摘が中心と思うかもしれないが、『優雅な生活が最大の復讐である』の訳者だけあって、そんなはしたないことはしない。論じる話題はすこぶる広く、翻訳や英語の問題はもとより、日米の出版慣行の違いや作家論、文体論にまでおよび、勉強になる。翻訳のあらさがしをして得意になっている本が横行している中、志の高い本である。

 志が高いのはけっこうだが、書き方が上品すぎて、読者に真意が伝わりにくくなっている部分もないわけではない。『羊をめぐる冒険』の訳者の越権と、『トラッシュ』の訳者の越権がまったく次元の違うものであることは多くの読者にはピンと来ないかもしれない。英語版『羊をめぐる冒険』は迷訳に近い名訳だが、『トラッシュ』の方は犯罪的な悪訳なのである。このあたり、もっとはっきり指摘してもよかったのではないか。

 李良枝の『由熙』、津島佑子の『山を走る女』、村上春樹の『羊をめぐる冒険』の英訳を論じた部分は、英訳の問題をこえて、作家論として読める文章になっている。もちろん、英語の勉強にもなるわけで、お買い得な本といえよう。

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黄文雄 『中国人の偽善 台湾人の怨念』 カッパブックス

 著者は日本に留学経験のある台湾内省人の政治評論家で、日本語の著書もたくさん出している。カッパブックスのものは議論が荒っぽいが、一般のマスコミではお目にかかれない中国情報や台湾からの視点がおもしろい。国際的に微妙な立場にある台湾の、それも内省人の側からの主張だけに、バイアスがかかっているのは確かだが、一般マスコミとは逆方向のバイアスだけに、貴重だと思う。

 著者は台湾・韓国・香港・シンガポールの経済的繁栄は儒教精神にあるという説をしりぞけ、日英による植民地支配で近代的なエートスが移植されたおかげだという、進歩派知識人が読んだら卒倒しそうな説をとなえてきた。日本の植民地支配がいかに台湾で成功したかを詳述し、それとの対比で大陸からわたってきた中国国民党の支配がどんなに理不尽であったか、さらに共産党支配下の大陸中国がどんなに野蛮であるか(たとえば、文革期には人肉嗜食が広くおこなわれていた)を語ってきた。日本人としてはいささかむずがゆくなるところもあるが、『悲情城市』や『台湾万葉集』をご覧になった方は、日本文化に対する親愛が台湾で広範にわけもたれていることにお気づきだろう。

 今回の本では、日本に対する従来の手放しの賞賛ではなく、植民地支配された側としての屈折した感情をも語っている。台湾内省人が日本人を犬、中国人(外省人)を豚と読んでいるという話ははじめて出てきたと思う。なぜ日本人が犬かというと、主人に盲従し、ずるがしこく、外でよく小便をするからだそうである。植民地支配の功罪の罪の部分についても、これまでになく踏みこんでいる。

 しかし、本書は日本の植民地支配を告発した本ではない。著者の意図は中国人とは異なる台湾人としてのアイデンティティをあきらかにすることで、そのためには旧宗主国日本との関係に立ち入ることが必要なのである。それだけに、中国人に対する批判もこれまでになく激烈である。孫文をあからさまに批判した部分はおおと思った。

 著者が台湾人アイデンティティを前面に押しだしたのは、もちろん李登輝総統が民主的選挙で選ばれたことも関係しているだろうが、台湾人の自信のあらわれという印象はあまりない。どうも著者はいらだっているらしいのだ。

 その理由は来年に迫った香港返還と、中国が画策している南シナ海の覇権確立にあるようだ。台湾「武力解放」は当面ないとしても、香港が中国に飲みこまれ、南シナ海が制圧されてしまえば、台湾は首を押さえられたにひとしい。本書の後半は中国の危険な意図(日本にとっても危険である)に対する警鐘にあてられている。

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レッドフィールド 『第十の予言』 角川書店

 一昨年、日本でもベストセラーになった『聖なる予言』の続編である。前作ではキリスト教の修道士の間で秘かに伝えられていた九つの知恵をペルーの軍事政権下でさがす冒険が語られたが、今回はアメリカにもどった主人公が、失踪した女友達をさがして、フリー・エネルギーがらみの秘密の実験のおこなわれている谷間にわけいり、霊的覚醒をもとめる人々とともに実験の阻止に動くという筋立てになっている。あいかわらず小説としてはぎこちないが、魂の覚醒に対する著者の素直で真摯なアプローチには好もしい印象を受けた。今回のテーマは、前作で語られた知恵を保ちつづけ、現実化していくにはどうしたらいいかで、現実化にともなう恐怖(抵抗)に重点がおかれている。

 前作ではずいぶん書評が出たが、著者が交流分析というカウンセリング技法の実践者であることに注目した評はなかったと記憶する。交流分析は精神分析をアメリカ流に簡便化した精神療法で、反復強迫は「コントロール・ドラマ」というように単純化されている。20年ほど前に日本でもはやったのだが、底が浅いという見方をされるようになって、いつのまにかすたれてしまった。本場のアメリカではしっかり生き残っていて、オカルト本にまで応用されたわけだ。

 交流分析の概念は前作でも駆使されていたが、今回の本は交流分析的に整理された「大霊界」というおもむきがある。翻訳では交流分析の考え方が正確に日本語になっているから、当然、訳者は知っているはずなのだが、一言もふれていない(昨年出た、『聖なる予言・実践ガイド』でも同じである)。時代遅れの精神療法をもとにしているとわかったら、底がわれてしまうと思っているのだろうか。

 本書については、角川書店がホームページを開設しているが、画像が重たいだけで、まったく中味がない。

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ディレイニー 『アインシュタイン交点』 早川SF文庫

 ディレイニーーの幻の傑作、『アインシュタイン交点』が29年ぶりに翻訳された。伊藤典夫氏がすごいと騒ぎだし、翻訳を担当することが決まったは1971年ごろのはずだから、実に四半世紀を要したことになる。まずは刊行をよろこびたい。

 この小説は伊藤氏が絶賛にうながされて読み、ずいぶん興奮したものだった。まず、文体がすばらしかった。ナイーブで、才能がきらめいていて、おそろしく肉感的で、大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』のように圧倒的な迫力で酔わせてくれた。次に、主人公=ディレイニーの精神的な遍歴が、SFから文学の世界に目を開きつつあった当時のわたしにとってすこぶる共感できるものだったこともある。この小説は、剣と魔法のファンタジーの装いをとった、作者の精神的自伝なのである。

 今回、日本語で読みかえしたわけだが、不思議なくらい感動がなかった。その理由は、一つには文体の問題があり、もう一つにはこの25年間におこった文学・思想の世界の大変動があると思う。

 文体の問題は、すなわち翻訳の問題である。伊藤氏の悪戦苦闘は、ある時期、近くで見て知っているだけに、こういうことを書くのは忍びがたいのだが、どれだけ重層的な意味がこめられているかに拘泥するあまり、文章の勢いがそがれてしまっていることは否めないのではないか。隠された意味へのヒントがたくさん用意されていても、この文章は才能のきらめきや肉感性が脱色されていて、意味を探したくなるような魅力に欠けている。

 第二点はもうすこし深刻である。この小説は、SFとロック狂いの早熟な少年だった作者が、正統的な文学・思想の奥深い魅力に目覚め、魅せられていく半面、自分の今生きている現実との断絶の大きさにとまどうところから出発していると思う。グレート・ロックンロールのかなたから荒廃した地球にやってきた生き物たちが、旧人類の残した文明や神話に自分たちをあわせようとして、悲しくもグロテスクな日々をおくっているという設定や、『ユリシーズ』の向こうをはったような書き方には、ディレイニーが物心ついた時代の大状況を反映した必然性があったはずだ。

 ところが、この小説が発表された1967年当時、パリでは構造主義革命がはじまりつつあって、正統的な文学・思想の権威を根本から崩壊させてしまうことになる。構造主義そのものの流行は短期間で終わったが、後もどり不可能な偶像破壊を完遂したという点で、あれは革命だった。

 現時点で読みかえしてみると、この作品は構造主義革命以前の古きよき時代の話だったという感想をもたざるをえない。今や正統的な学問・思想があるかどうかすら怪しく、仮にあったとしても、SFやロックになんとかすりよろうとしているありさまで、ポップ・カルチャーとの間にかつてのような断絶などありようはないのだ。

 この作品は、多少荒っぽい翻訳でも、いわゆる「ニューアカ」のブームが起こる前の時点で日本に紹介されるべきだったと思う。25年という時間はあまりにも長すぎた。

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August 1996

中村正三郎 『星降る夜のパソコン情話』 ビレッジセンター出版局

 この本は、「暗黒の帝国マイクロソフト」に孤独な戦いをいどみつづける showこと中村正三郎氏がASAHIネットのjouwa会議にオンライン連載したエッセイをまとめたもので、はからずもパソコン初心者がマイクロソフトの毒牙にかからないための指南書になっている。よくここまで書いたというのが最初の感想であるが、もちろん、オンライン連載だから可能になったことで、雑誌媒体では無理だろう。

 奥付を見ると今年の 6月11日の発行だが、実際に書かれたのは1994年4月から1995年7月にかけてで、一年一昔といわれるあの業界のこと、中味はさすがに古くなっている。インターネット爆発前夜で、Windows95も本当に1995年中に出るのかどうかわからなかった時点だから、しかたがないといえばしかたがないが、大半の話題、特にインターネット関係は完全に時代遅れになっている(それくらい、この一年の動きは目まぐるしかった)。初心者の人は混乱するかもしれない。ただ、マイクロソフト関係は古びていなくて、予言に類する部分もかなりいい線をいっているのはさすがである。

 ひとつ気になったのは、ASAHIネットを過大評価している印象があることだ。ASAHIネットがいち早くインターネット対応を進めたのは事実だし、この連載がおこなわれていた時点では他のネットに対して優位性をたもっていたかもしれないが、現時点ではどうだろうか。

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室井光広 『縄文の記憶』 紀伊国屋書店

 本書は半年間新聞に連載された縄文の出土品をめぐるエッセイと、あるシンポジュウムのために準備されながら、著者の都合で発表できなかった講演のふたつの部分から出来ている。前半にもはっとする指摘がたくさんあるが、すばらしいのは「<おどるでく>の世界」と題された後半の架空講演だ。言葉をどんどん転義させていくことで、無意識の深い部分に錘をおろしていく室井氏の方法が本領を発揮するにはある程度の長さが必要らしく、短い新聞原稿には向いていないのかもしれない。

 著者はボルヘス論で登場したことや図書館司書という経歴もあって、高踏的な言葉遊びの作家とか、ブッキッシュな本の虫と見られているふしがある。わたし自身、批評家時代の著者にそういう先入見をもっていた。しかし、『猫又拾遺』という最初の短編集を読んで、誤解に気がついた。著者の言葉遊びは、ルイス・キャロルのような表層をころころ転がっていくものではなく、渦に巻きこまれて海の底深くにのみこまれていくガラス瓶のように、無意識の深みに沈潜していくものだったのだ。しかも、その無意識のは、個人の無意識ではなく、一族が営々と暮らしをいとなんできた土地の記憶につながっていく無意識なのである。

 本書の架空講演で、著者は生まれ育った会津の山奥の村の生活は縄文時代とほとんどかわらないのではないかと空想し、家族を屈葬で葬った話や台風の山崩れで墓石がどれかわからなくなってしまったエピソードを語る。。屈葬が今でもおこなわれているとか、墓石に河原の石がつかわれているだけなら、深沢七郎あたりでも書きそうだが、著者の場合、土偶が木偶になり、さらにデグ=道具になるという音の転変が読み手の心を揺りうごかし、縄文につながる記憶の古層がひょっとしたら自分の中にもあるのかもしれないという気分になってくる。

 本書は縄文論、日本文化論としても出色だが、同時に、いい意味での文学論になっている。『ユリシーズ』の新訳が話題になっているが、言葉遊びの魔力は、まず日本語で体験すべきだ。

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丸谷才一 『恋と女の日本文学』 講談社

 『恋と女の日本文学』は、『日本文学史早わかり』、『忠臣蔵とはなにか』につづく本で、丸谷文学史三部作の締めくくりにあたるが、「文学史」という言葉で連想するような堅苦しい話ではなく、なぜ日本人は師匠の中国文学にさからって恋愛ばかり描いてきたのだろうというコロンブスの卵的な問いかけからはじまる。

 わたしは『紅楼夢』のファンなので、うっかりしていたのだが、中国には恋愛小説はごく最近までなかったのだそうである。『金瓶梅』があるじゃないかという人がいるかもしれないが、あれはお妾さんのさやあてを身も蓋もなく書いた露悪趣味の小説で、恋愛の艶めいた雰囲気はまったくない。『紅楼夢』は恋愛小説の傑作であるが、あの作品が書けたのは、作者が清朝帝室と深いつながりをもつ家の出で、儒教文化に同化される前の満州貴族の風に親しんでいたからだというのだ。実際、『紅楼夢』につづく作品はなかったわけで(「続編」と称するものはたくさん書かれたが、コミケにならぶ同人誌のようなものだろう)、それくらい儒教文化は恋愛撲滅に熱心だった。『詩経』国風や『長恨歌』、『浮生六記』……と考えてみたが、どれも例外的存在で、反論の余地はない。

 一方、勅撰和歌集は恋の歌だらけで(この国では国家事業として恋愛詩を集大成した!)、日本最高の古典といえば『源氏物語』に決まっている。本居宣長の「もののあはれ」説、折口信夫の「色好み」説も、くだいていえば「恋こそ文学の本質なり」である。西洋文学を知っているわれわれから見れば、恋愛が文学の重要なテーマなのは当たり前だが、明治までの日本では、お手本といえば恋愛否定の中国文学しかなかったのだから、宣長の「もののあはれ」説は日本文学の独立宣言に等しいという説はうなずける。

 もう一つ、本書で重要なのは、日本的な恋愛の描き方は「女人往生」を原型としているという指摘である。日本人は万葉集の昔から、『ノルウェーの森』にいたるまで、幸せうすく死んだ美女の話が大好きなのである。著者は『平家物語』の大原御幸を例にとって、不幸のまま死んだ女性の魂をなぐさめ、鎮めようという古代的で呪術的な感覚が生きているからだとしている。れわれの生活感情の中に、古代的なものが生きつづけていることは、もっと意識されていい。

 もとが講演だけに話し言葉で書かれており、目の覚めるような指摘が次々と出てきて、最後まですらすらっと読めるが、この本の意味するものはすこぶる深く、『源氏物語』や『平家物語』、本居宣長、尊皇思想、さらには明治の自然主義文学にいたるまで、再検討をせまってくる。

 『忠臣蔵とはなにか』の評価は保留するが、本書と『日本文学史早わかり』、『後鳥羽院』の三冊は、21世紀に書かれる日本文学史の方向を決定する本だと予言しておきたい。

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松平誠 『ヤミ市 幻のガイドブック』 ちくま新書

 数年前、「アスキー」に秋葉原電気街をつくった易者の息子にあたる人のインタビューがのったことがある。易者がつくったといっても、今流行の風水がどうのこうのという話ではなく、焼跡闇市時代、神田駅から電気大にかけて電気部品専門の露店商があつまったのを、テキ屋にも顔のきく易者さん(業態から見れば、露店商の一種)が当局とかけあい、秋葉原駅前に集団移転し、今の電気街の基礎となったのだという。闇市から発展した街というとアメ横が有名だが、秋葉原電気街も同じで、今、次々とパソコン専門店に衣替えしている大手家電量販店も、ルーツは復員軍人や引揚者のはじめた露店にあったそうである。

 もっとも、本書には秋葉原の話は1ページ半しか出てこない。著者は豊島区郷土史料館と江戸東京博物館の闇市の展示のために、池袋と新宿の闇市の関係者から聞き取り調査をしたり、文献調査をした生活文化史の研究者で、本書はその調査がもとになっているが、闇市といっても実態はさまざまで、池袋と新宿の調査だけではとても全貌はわからないとくりかえし強調している。

 アメ横や秋葉原のような例外をのぞくと、闇市はテキ屋がつくり、仕切ったという点が共通している。東京が焼け野原になり、みんなが放心状態におちいっていた敗戦直後、テキ屋の親分はターミナル駅前の広大な空き地が金になると見抜き、瓦礫を片づけ、地割して「マーケット」をつくった。テキ屋は無縁につらなる人々でもあって、闇市とは常設の縁日と考えてもいいだろう。

 もっとも、闇物資の流通は、財閥解体で分割された大手商社や、公職追放で財界から追われた大物が闇の世界に進出するようになると、主役交代が起こったらしい。

 そういう真面目な話題の一方、江戸前の寿司がポピュラーになったのは闇市時代のおから寿司がきっかけだったとか、焼肉も闇市起源だとか、パチンコ流行も闇市からはじまったとか、雑学がたくさんもりこまれている。展示模型をもとに、闇市の人間模様を一筆書きした章もおもしろい。

 著者は敗戦で自信を失い、闇市のパチンコ台にむかって憂さをはらした当時の刹那的な庶民と、パソコンにのめりこむ今日の日本人の共通性を指摘しているが、インターネットの世界は闇市に似ている。プロバイダはテキ屋そのものだし、次々と誕生するWWWページはマーケットの露店を思わせる。現在は情報の闇市時代なのかもしれない。

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1996年 4月までの読書ファイル
1996年 9月からの読書ファイル
Copyright 1996 Kato Koiti
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