エディトリアル   September 2008

加藤弘一 Sep 2008までのエディトリアル
9月1日

 毎日新聞社はWaiWai問題で批判を受けている英語サイトThe Mainichi Daily Newsを模様替えするとともに、日本語サイトに「「毎日デイリーニューズ」刷新 改めておわびと決意」を掲載した(ITmedia)。J-Castが「毎日英語版サイトが広告ゼロで再出発」で伝えるように、毎日.jpと Mainichi Daily Newsはこの2ヶ月半、自社広告のみでまったく収益のない状態がつづいている。

 WaiWai問題は5月時点で知っていたが、体調がすぐれず更新を休んでいた時期だったので、今日までとりあげる機会がなかった。今さらと思わないでもないが、日本のジャーナリズム史を画する事件として記録されるのは確実なので、遅ればせながらまとめておきたい。

 WaiWaiとは The Mainichi Daily Newsが紙時代の 1989年10月から今年の6月まで9年9ヶ月つづけていたコラムで、六本木の獣姦レストランの記事の魚拓を御覧になればわかるように、内容が滅茶苦茶なのである。他の記事もひどい。

 他媒体の紹介という体裁ではあるが、許諾を一切とっていなかった上に、元記事を誇張歪曲していた事実が指摘されている(ITmedia)。また、獣姦レストランの記事でいえば、オリジナルは「実話GON!ナックルズ」2007年9月25日号」の「エロバカ都市伝説」という特集の一部で、マクドナルドの裏口に犬の首輪が積みあげられている類の噺かとわかるが、WaiWaiの方はさも事実であるかのような書きぶりである。日本人なら「実話ナックルズ」という誌名を見るだけで怪しげな雑誌だということはわかるが、外国の読者にはそんな知識はないし、最後に「この記事は日本の雑誌の転載であり、正確性については責任を負わない」と断ってあるにしても、日本の三大紙の一つである毎日新聞の記事という受けとり方になるだろう。

 WaiWaiのコラムは非常に人気があり、多くのページビューを稼いでいたということだが、それは閉鎖後、Mainichi Daily Newsのコメント欄に寄せられた読者の声を見てもわかる。

 毎日新聞社は WaiWai人気を利用して、Mainichi Daily Newsのアクセス数を増やそうとしていた疑いがある。トップページのメタタグに hentai という文字が書きこまれていたからである。トップページのメタタグは検索エンジンに対して掲げた会社の看板であり、上層部の承認がなければ変更できないのが普通だ。「japan hentai」で検索した読者を Mainichi Daily News に誘導しようという社内的な合意があったと考えるのが自然だろう。

 WaiWaiに対してはWeb版開設直後から抗議が寄せられていたが(毎日新聞は今年3月までに15通が届いていたとしている)、今回、騒動の発端となったのは昨年10月の抗議メールだったらしい。毎日新聞がこの抗議を黙殺したために2ちゃんねるのマスコミ板で問題提起がおこなわれ、ネットでしだいに知られるようになり、春ごろからブログでとりあげられるようになった。

 3月以降、相当数の抗議メールが送られていたはずだが、毎日新聞社は無視しつづけた。ようやく対応したのは、元記事の雑誌から無断転載の抗議を受けてからで、5月31日に一部記事を削除したものの、謝罪も説明もおこなっていない。6月になるとJ-CASTがとりあげ Yahoo! Newsに転載されたことから広く知られるようになったが、毎日新聞は無視をつづけた。無視されたネットワーカーたちは毎日新聞を変態新聞、猥褻新聞とブログで批判し、毎日.jpのサイトに広告を出している企業にまで抗議するようになった。これが大変な威力を発揮した。企業は毎日.jpを敬遠するようになった。広告を自動配信するシステムは毎日新聞に対するネットの悪評に反応し、毎日.jpへの出稿を自動的に停止した。毎日jpと Mainichi Daily Newsが自社広告だけになるという異常事態がはじまった(tech@ban「毎日jpのビジネスモデルが事実上の破綻、低俗記事乱発で広告出稿が激減」)。

 この間の事情を日経BPの「ネットに深いつめ跡残る」という記事は次のように解説している。

 ヤフーで「毎日新聞」と検索すると、「毎日新聞」とともに頻繁に入力された同時検索語が表示される。そこには、「侮辱記事」「低俗」「悪行」など、ネガティブなキーワードが並ぶ(図4)。グーグルの同時検索語は反映されるまでやや時間がかかるため、ほとぼりが冷めるころになって同様のキーワードが並ぶ可能性がある。

 大半のユーザーが検索エンジン経由でWebサイトに訪れる中、ユーザーと企業ブランドの最初の接点となる検索結果ページに悪評が残ることは、ブランド力を低下させかねない。不祥事対応を誤ると、その傷は長くネット上に残る。ネットの影響力の大きさを改めて実感させる結果となった。

 ここにいたって無視をつづけいていた毎日新聞社も公式に対応せざるをえなくなった。6月21日にWaiWaiを閉鎖し、すべての記事を削除するとともに国会図書館で閲覧できなくする措置をとった。6月25日には最初のお詫びを載せ、28日に関係者の処分をおこなっている。7月20日には朝刊に見開きで検証記事を掲載した。

 検証チームの結論を要約すると、以下のようになる。

チェック機能に欠陥

外国人男性スタッフにまかせきりにしていたので、日本人や女性の視点が欠落していた。

品質管理体制の不在

ネット版に移行してから紙媒体時代のような多重チェック体制がなくなり、外国人記者の原稿をノーチェックで掲載していた。

記者倫理の欠如

担当のオコネル記者は職を失うことを恐れ、アクセス数を稼ごうと低俗路線に走った。

英文サイトへの認識不足

英文で情報を発信することの重要さについての認識が全社的に足りず、日本人上司は記事内容を把握していなかった。hentaiのメタタグは外人スタッフが日本人上司に知らせずに勝手に指定した。

批判への対応鈍く

抗議は受けていたが、一番の人気コーナーだったので「外部の声に真摯に耳を傾ける姿勢が担当記者にも幹部にも欠けていた」。

 だが、ネットは納得しなかった。日本人に対する欧米の偏見を煽るような記事の掲載は食品の賞味期限偽装よりもはるかに重大な事件のはずだが、謝罪会見をおこなわなかったばかりか、処分したといっても責任を負うべきデジタルメディア担当常務の朝比奈豊氏が6月25日付で社長に、デジタルメディア局長の長谷川篤氏が取締役に昇進していたからである。職を失うことを恐れるような不安定な立場にいたはずのオコネル記者は休職になっただけで懲戒解雇をまぬがれている(謝罪会見に引きだすために身分を残すにしても、謝罪会見は今にいたるもおこなわれていない)。

 検証記事にも問題がある。「低俗」と自己批判しているものの、具体的にどのような記事が掲載されていたかは書かれていないからだ。毎日新聞の読者は地方の高齢者に多いといわれているが、ネット環境をもっていなかったら毎日新聞が何を謝罪しているかわからないだろう。

 朝比奈氏が社長に就任した6月25日は謝罪記事を掲載した日である。それまでかたくなに無視をつづけたのは朝比奈氏の社長就任を無事にすませるためという観測も一部にある。

 こうした対応にいたった社内的動きについては毎日新聞OBである佐々木俊尚氏が「毎日新聞社内で何が起きているのか」という興味深い記事をC-NETに書いている。佐々木氏によれば、毎日新聞社内には早期に謝罪すべきだという謝罪派と、謝罪したら火に油を注ぐだけという強硬派の対立があった(強硬派は今年はじめ「ネット君臨」というネット批判の特集をまとめた一派で、社長に昇進した朝比奈氏が率いている)。強硬派が謝罪派を圧倒していたが、広告主の怒りがすさまじく、とうとう謝罪記事掲載に追いこまれたというのだ。佐々木氏は書いている。

 なぜスポンサーがここまで怒っているのか。もちろん毎日の低俗記事配信は許し難い行為ではあるものの、実は理由はそれだけではない可能性がある。大手広告代理店の幹部はこう説明してくれた。「毎日は新聞業界の中でも産経と並んで媒体力が弱く、もともとスポンサーは広告を出したがらない媒体だった。たとえば以前、大手証券会社が金融新商品の募集広告を朝日と毎日の東京紙面に出稿し、どのぐらいの募集があるのかを調べてみたところ、朝日からは数十件の申し込みがあったのに対し、毎日からはゼロだったという衝撃的なできごとがあった。比較的都市部の読者を確保している朝日に対して、毎日の読者は地方の高齢者に偏ってしまっていて、実部数よりもずっと低い媒体力しか持っていないというのが、いまや新聞広告の世界では常識となっている」

 広告主からすれば、お情けで毎日新聞に広告を出してやっているのに、なぜ意地を張って広告主にまで迷惑をかけるのかというところか。

 強硬派がネットに対して著しく偏った考え方をしていることは「ネット君臨」という特集記事を読めばわかるが、ここでは特集の連載開始前に担当デスクが書いた「ネット取材考」というコラムから引用する。

 ところがいきなり、ネット社会の怖さを感じることになる。相手が取材された内容を、直後にブログの日記やネットの掲示板に書き込む。新聞記者のかつての取材は1対1の関係だった。それが大きく変わり、記者個人の名前や取材の仕方が不特定多数の人々にさらされる。メディアもそういう時代を迎えたことを思い知らされた。記者は名刺を出すことさえ、ためらうこともある。

 担当デスクは新聞の特権的な地位が失われたことに当惑しているのだ。そもそも「ネット君臨」とは「新聞君臨」の裏返しだろう。毎日新聞の強硬派とは新聞の特権的な地位に固執する「新聞君臨派」にほかならない。それが今やどんなに時代錯誤かは藤代裕之氏や佐々木俊尚氏が指摘するとおりである。

 WaiWai事件はネットでは話題になっているが、オフの世界ではあまり伝えられていない。週刊誌はいくつか話題にしたものの、TVは関西製作の「ミヤネ屋」のみ、新聞も似たようなものだ。ネット環境をもっていないと知らないままかもしれない(6月の最後の週に授業でとりあげたが、WaiWai事件を知っていた学生は1/3にすぎなかった)。

 石井孝明氏はこの沈黙こそ、マスコミの受けた衝撃の大きさを物語っているとWiredに書いている。

ある大手メディアの元幹部に聞いたところ、「君も分かるでしょう。怖くて誰も記事にできないんです」と、予想した返事が返ってきました。下手にこの事件にさわったら、メディアの力の低下が知られ、スポンサーへの悪影響がでかねない──。こんな恐れが、報道を自粛させているようです。

 石井氏の見立ては当たっていると思う。確かにマスコミはネットを怖がりはじめている。

 毎日新聞側は Mainichi Daily Newsの模様替えにあたって再度の謝罪をおこなったが、謝罪の前提に嘘があったことが明らかになっている。2ちゃんねるの既婚女性板の有志がマイクロフィルムで保存されていた紙媒体時代の Mainichi Daily News を閲覧し、WaiWaiと同種の低俗記事を多数発掘したからだ。Mainichi Daily Newsは日本人上司がチェックをおこなっていたはずの紙媒体時代から低俗記事を売物にしていたのである(tech@ban)。

 この事実を問い合わせたJ-CASTに対し、毎日新聞側は7月20日付の検証記事は英字紙時代のコラムについても「毎日新聞本紙のような綿密なチェックは行われていなかった」と書いていると回答を寄せたという。毎日新聞はネットだから変態記事が載ってしまったかのような書き方をしていたが、実は変態記事は日本人上司の承認のもとに昔から掲載されつづけていたことを承知していたわけだ。国会図書館で閲覧禁止にすればばれないとたかをくくっていたのだろうが、ネットワーカーの調査力は一枚上手だった。

 ネットでは毎日新聞の謝罪が見せかけだったことは広く知れわたっている。マスコミ各社は生き残りをかけて必死にネット進出をはかっているが、ネットは毎日新聞を絶対に許さないだろう。毎日新聞はみずからの手でみずからの未来をつぶしてしまった。毎日新聞は紙の新聞の終焉とともに歴史を終えるだろう。

9月2日

 和田秀樹氏が izaに「どこまで落ちる大学生の学力」という記事を書いている。少子化でまず高校が全入になり、現在は大学も全入状態に近くなって勉強のモチベーションが失われた。特に中低位校は深刻で、「日本語の読み書き能力の著しい低さ、英語の基本的文法知識の欠如、歴史や地理的知識の著しい欠如」など、従来とは次元の異なる学力低下で教師は頭をかかえている。和田氏は勉強するモチベーションを回復し、最低限の学力を確保するために、早急に大学入学資格試験制度を作れと提言している。

 和田氏は受験圧力の緩和が学力低下をまねいたという診断だが、受験圧力があるはずの偏差値高位校も学生の学力低下に呆然としている。大嶌幸一郎京大工学部長のインタビュー「京大工学生はゆとり世代から学力低下」によると、ゆとり教育第一世代が入学してきた2006年度から、大嶌氏の授業で単位を落とす学生の比率が1割から4割に急増した。出席率は変わっていないのに、試験をするとまったくできないというのである。

 皮肉なのは考える力が落ちているという指摘だ。

 学生の課題に対する応用がほとんど利かなくなっているのです。考える能力が落ちていることを懸念します。

 ゆとり教育が応用力の低下をまねいていることはOECDの国際学習到達度調査の結果にもあらわれている。YOMIURI ONLINEから引く。

 3回目の今回、日本は、すでに2位から6位に転落したことが明らかになっている「科学的応用力」に加え、「数学的応用力」が6位から10位へ、「読解力」も14位から15位へと全分野で順位を下げた。今回の対象は、詰め込み教育からの脱却を狙った「ゆとり教育」で育った世代で、日本が最も得意としてきた理数系で世界のトップレベルから転落したことは、今年度末に改定予定の次期学習指導要領に影響を与えそうだ。

 ゆとり教育は知識の詰めこみをやめ、考える力を育てる教育に転換しようという趣旨だったはずだが、逆に考える力が低下しているのである。

 考える力もそうだが、わたしはそれ以上に文字を読む力が落ちているという印象をもっている。先日、「字幕読めない若者に映画界困った」という記事が出て笑ってしまったが、実は笑いごとではない。字幕だけなら吹替えにすればいいが、問題は本を読む力も低下していることだ。課題本を読んで書くレポートのこの数年の急激な劣化は驚くほどである。

 もっとも本を読む力の低下はネットへ適応した結果としての廃用萎縮という見方も成りたたないわけではない。今やちょっと検索すれば、わざわざ本を読まなくても解決がえられるからだ。

 検索万能論に対しては、ネットでえられるのは断片的な知識だけで体系的な認識ではないと批判しなければならないが、この批判は正しいと確信しつつも、わたしは内心複雑な気分である。

 わたしは大学にはいった1970年代は日本における構造主義革命のはしりの時期だった。1980年代になると構造主義とポスト構造主義の成果は「ニューアカ」の名で大流行し、大きな物語は終わった、体系的な知は古い、これからは断片的な知の時代だというスローガンがもてはやされた。浅田彰氏の「スキゾとパラノ」は新旧の知のスタイルを端的にあらわした二分法にほかならない。

 フランスの哲学者は観念のアクロバットが好きで、「アンチ」という接頭語をつけては、現実には体験したことのないものを持ちあげる。来日したボードリヤールが表象の資本主義が日本で現実になっているのに愕然としたという話は有名である。

 わたしにはゆとり世代の若者が新しい知を体現しているとは思えない。彼らに体系の知の終わりを宣言した『アンチ・オイディプス』や、断章形式の知を実践しようとした『テクストの快楽』に読ませたらポカンとするだけだろう。泉下のドゥルーズやバルトが今の日本の若者を見たら何と言うだろうか。

「ダークナイト」

 「バットマン・ビギンズ」のクリストファー・ノーラン組による第二作である。クリスチャン・ベールなど主要キャストは同じだが、レイチェルはケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールに交代している。

 「ビギンズ」はいまいちだったが、「ダークナイト」は文句なしの傑作で、芸術すれすれである。すれすれというのは貶しているのではない。エンターテイメントにとどまったことを評価しているのである。

 ゴッサム・シティの新たな検事に当選し、「光の騎士」と期待されたハービー・デント(アーロン・エッカート)が恋人の死をきっかけに暗黒面に落ちていく物語だが、彼の苦悩をもう一歩踏みこんで描いていたら芸術になっていたことだろう。しかし、ジキルとハイド型の類型でおさえたことでスピードを維持した。

 今回の悪役はジョーカー(ヒース・レジャー)だが、可哀相な身の上話が語られては嘘とわかり、正体が摑めない。その繰りかえしで延々と引っ張っていき、最後には個人ではなく、悪の原理の権化としか思えなくなってくる。

 憎んであまりあくジョーカーを殺せず、デントの悪行を我が身に引きうけるバットマンは、お約束のキャラクターとはいえ、ずしりと重い。エンターテイメントでこういう作品ができてしまうところがアメリカ文化の成熟だ。

公式サイト Amazon
9月4日

「ペネロピ」

 先祖の受けた呪いで豚の鼻に生まれついた貴族の娘のお話。「同類に受けいれられ」れば呪いが解けるというので、両親は貴族の子弟とお見合いさせるが、ペネロピを見た男たちはみな逃げだしてしまう。そこにギャンブルで身を持ち崩した貴族の息子があらわれ……という展開。

 豚の鼻をつけたクリスティナ・リッチが神のように可愛いい! この映画の成功は豚の鼻のメーキャップのおかげといっていい。

 いい作品だが、唯一の欠点は豚の鼻がとれてからが長いこと。普通の顔にもどると、クリスティナ・リッチの魅力は半減する。鼻がとれたところで終わりにすべきだった。製作を担当したウィザースプーンのお義理の出演もいらない。

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「フローズン・タイム」

 不眠症がこうじて時間を止める能力をもった画学生の話。時間を止めるのは透明人間になるのと同じだから、最初はいろいろイタズラをする。前半はイタズラのおもしろさで引っ張る。

 時間を止める話がありそうでないのは収拾がつかなくなるからだと思うが、この映画はラブストーリーとしてうまくまとめている。ラストの雪の場面は美しい。

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9月5日

「真空地帯」

 野間宏の同題の小説の映画化。新文芸座の山本薩夫特集で見た。

 軍隊は生活の場でもあるが、日本陸軍は内務班という単位で兵を生活させた。アメリカでは「プライベート・ベンジャミン」などを見ると、新兵は訓練センターに心平だけを集め専門の教官が訓練するらしいが、日本では内務班で先輩の兵と共同生活をおくりながら、箸の上げ下ろしから叩きこまれていく。内務班はきわめて日本的な共同体であり、先輩が絶対なあたり、運動部の合宿所に近いかもしれない。

 内務班はいじめの温床ともなる。この映画は内務班がどういうところかを余すところなく描いており、日本陸軍が日本社会の縮図にほかならないことがよくわかる。反戦映画というくくりになるらしいが、内務班を内側から描いた文化人類学的な研究としても見ることができるのである。

 主人公は陸軍刑務所から原隊にもどってきた木谷一等兵(木村功)で、大住軍曹(西村晃)の内務班に配属される。監獄帰りが知れるとトラブルの種になるので、庶務担当の立澤准尉は軍曹に秘密厳守を命じ、病院に入院していたことにでもしろというが、木谷は病院について聞かれても答えられないので途中でばれてしまう。ばれたとたん、木谷を四年兵と立てていた三年兵が掌をかえし吊るし上げをはじめようとするが、木谷は監獄帰りの気迫で逆に圧倒する。

 内務班で木谷に同情的なのは三年兵の會田一等兵(下元勉)だけだ。會田は中学校の教師をやっていたインテリで、立澤准尉の下でデスクワークをまかされている。立場がら秘密情報に接する機会があり、温厚な人柄とあいまって周囲から頼りにされている。

 戦況は逼迫しており、中隊から南方に送られる兵が選抜されることになる。映画の後半は誰が南方送りになるかが焦点になる。木谷は名簿を見た會田からお前は選ばれていないと耳打ちされて安堵するが、木谷のかつての上官だった金子軍曹の裏の運動で南方送りにされてしまう。金子軍曹は木谷が窃盗を疑われて軍法会議にかけられた時、ただ一人味方をしてくれた上官だった。なぜ金子は木谷を南方送りにしようとするのか。

 その背景にはケチな汚職事件があって、木谷は汚職を隠蔽するためにはめられたと明らかになる。木谷はその夜、脱走をはかるが……。

 リアリズムの極地といっていい作品だが、意図に反してユーモラスになっている部分がある。引いて眺めれば、軍隊はかなり滑稽である。

 木谷と會田は「兵隊やくざ」の大宮二等兵(勝新太郎)と有田上等兵(田村高廣)のコンビにちょっと似ている。印象は陰と陽と正反対だが、ああいう組みあわせは実際にいたのではないだろうか。

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「箱根風雲録」

 タカクラ・テルの『箱根用水』の映画化で、前進座が協力している。タカクラ・テルは日本共産党の代議士になったこともある左翼作家で、タカクラ・テルという表記からわかるように熱心な漢字廃止論者だった。「赤旗」が一時「アカハタ」となったのはタカクラの主張がいれられたためだという。

 第四代将軍家綱の時代、三島の北の深良村は水不足に苦しんでいた。芦ノ湖があるが、途中には外輪山が聳えており、水を引くには1.4kmのトンネルを掘り抜かなければならない。この大工事に友野与右衛門という商人が村人とともに挑むが、面子を失うことを恐れた幕府と小田原藩に妨害される。

 ここに箱根を根城にする野盗団がからむ。野盗団は島原の乱の残党で、蒲生玄藩(中村翫右衛門)が率いている。玄藩は工事のための資金や米を狙うが、与右衛門の義気に感じいって野盗団を抜け、工事に参加して百姓とともに汗を流すようになる。

 湖尻峠の両側から掘り進んだトンネルがついに開通し、村は喜びに湧くが、沼津代官所は与右衛門を捕縛する。与右衛門を奪還するために玄藩は野盗団の手下を引きつれ馬で突撃するが、鉄砲のために全滅してしまう。与右衛門は獄につながれ、箱根用水が完成した日、処刑される。

 箱根用水建設だけで十分ドラマになるのに、野盗団をからませて焦点がぼやけてしまった。そのくせクライマックスのアクションはしょぼい。低予算なら低予算なりの作り方をすべきだった。

 幕府は新田開発を奨励したはずなのに、この映画では大老や老中まで出てきて妨害したことになっている。不審に思って検索したところ、箱根町観光振興協会が公開している「箱根の巻」の「箱根用水1(伝説と史実)」の項に以下のようにあった。

 地元の言い伝えでは、江戸の町人・友野与右衛門、深良村名主・大庭源之丞、箱根権現別当快長僧正の3人は、水不足に悩む農民を救うため私財を投じ、幕府や小田原藩の権力に抵抗しながら用水を造り、その結果 開田500町歩(1町歩は約1ha)、8000石(一石は150Kg)の増収になったと言われてきました。

 しかし、掘抜工事は箱根関所の抜け穴と疑われ、友野は処刑された。そしてこの話は、戦後、民主主義実践のモデルとして、小説や映画(箱根風雲録)で全国に紹介されました。

 最近深良小学校の佐藤隆先生は、郷土史編集のため地元旧家保存の古文書を調査したところ、『箱根用水は、耕作期にだけ湖水を渡し、他は早川に流した。小田原藩が藩米増加のため計画し、友野らは工事請負人、農民は代官の命令で動員された。友野らは工事完成後、新田からの年貢米を売り上げて資金を回収し、さらに利益を見込んだが、掘抜工事1年の予定が4年に延び、新田500町歩が200町歩以下と資金繰りに困り、富沢村の「選び出し米代金」として幕府へ納めるお金110両を着服して訴えられた』ことが判明しました。友野は、義人ではなく横領犯という不幸な結末に終わったようです。

 また「農の考古学」によると、九千七百両の工事費のうち、六千両は幕府からの借金で、村人からの用水使用料で返済するはずだったが、新田が計画ほどは開けなかったので返済できなくなったとある。

 事業としては失敗したが、用水は残ったわけで、村人からすれば与右衛門は義人だったことになる。与右衛門を義人とする言い伝えが左翼貧農史観と結びついて、こういう作品が生まれたのだろう。沼津代官はとんだところで悪者にされてしまったわけだ。

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9月8日

 ペンクラブの言論表現委員会にひさびさに出た。再来年日本で開催する世界大会の話が主だが、世界大会は インターナショナル・ペンが主催なので、日本側独自の企画は世界大会に付随して開かれる「文学フォーラム」に限られるという。そこで何ができるか、考えておいて欲しいということであった。

 日本でペンクラブというと、公安調査庁の監視対象になっているという確度の高い噂もあるくらいで、左翼の巣窟というイメージがある(実際もそうだが)。

 しかし、世界的に見ると逆で、言論の自由を守るために共産圏諸国と戦ってきた団体なのである。実際、インターナショナル・ペンのスポンサーはアメリカの保守系の財団が多いようだ。担当理事は左巻なので、「民主主義しか輸出する物のない北欧諸国とオーストリア」が特に酷いという言い方をしていた。北欧経済は携帯電話で絶好調なのだが。

 ソ連と東欧の崩壊後、インターナショナル・ペンの批判の矛先は中国に向けられている。天安門事件後に亡命した中国人作家が結成した自由中国ペンを承認して以来、中国ペンとは断交状態で、今年、チベット・ペンが、来年はウイグル・ペンが承認される見こみなので、中国と インターナショナル・ペンの対立はいよいよ厳しさを増すだろう。

 各国ペンのうち、中国ペンと交流をつづけているのは日本ペンだけなので、日本で世界大会をやる以上、中国ペンにも参加を呼びかけたいというのが理事会の意向のようである。

「セーラー服と機関銃」

 赤川次郎の同題の小説の映画化で、早稲田松竹の相米慎二特集で見た。角川映画全盛期の作品だが、見ていなかった。

 薬師丸ひろ子の代表作のようにいわれているので期待したが、中年オジンのいやらしさ全開の変態映画だった。

 冒頭のでんぐり返しから最後の渡瀬恒彦の死体へのキスまで、相米監督はこれでもかこれでもかと薬師丸に無理難題をふっかける。薬師丸は黙々と課題をこなしていくが、課題の裏側に中年オジンの変態性欲があることに気がついていなかったらしい。見る価値はないと思うが、少女をいたぶるのが趣味の人には面白い映画かもしれない。

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9月9日

「真昼の暗黒」

 八海事件をあつかった今井の代表作。新文芸座の今井正特集で見た。主任弁護人正木ひろしの『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』と副弁護人原田香留夫の『真昼の暗黒』をもとにしているということだが、両方とも現在では入手困難だ。実話の迫力というか、最初から最後まで一瞬も目を離せない迫真の映画である。歴史に残る名作といっていい。

 八海事件が裁判史上に残る冤罪事件であることは知っていたが、どんな事件かまでは知らなかった。映画は深夜、笠岡の遊郭で小島武志(松山照夫)が逮捕されるところからはじまる。小島は小心そうな若者で、最初は否認するが、証拠品を見せられると動揺し、あっさり自白する。

 小島は三原村(実際は八海村)での普段の生活から話しはじめる。土工仲間の植村清治(草薙幸二郎)、青木庄市(矢野宣)、宮崎光男(牧田正嗣)、清水守(小林寛)は仕事帰りにダンスパーティーに行こうと相談しているが、小島武志(松山照夫)は一人、笠間の遊郭に行こうという。そんな金はないと誰も相手にしないので、仲間はずれにされたと拗ねた小島はたまたま目についたオート三輪に積んであった砂を路上にぶちまける。翌日、リーダー格の植村は運送屋に酒を持参していっしょに謝りにいってやるが、小島は運送屋と酒屋に借金ができてしまう。小島が借金を返さないので植村に苦情が来る。植村は小島に早く返せとせっつく。追いつめられた小島は小金をためこんでいるという噂の仁科老人の家に忍びこみ、夫妻が眠りこむのを待って金を探すが、気づかれてしまい二人を惨殺する。そして夫婦喧嘩で殺しあったように見せかけようと、幼稚な隠蔽工作をしてから床下から抜けだし、奪った金で笠岡の遊郭に遊びに出かける。

 ありふれた強盗殺人事件で、どこが冤罪なのだろうと思っていると、自供を聴いていた浅山署長代理(清水元)が突然、お前は嘘を言っていると怒鳴り出し、あれほどの事件がお前一人に出来るはずはない、土工仲間の植村たちが共犯だろうと決めつける。小島はあっけにとられるが、刑事たちは彼を責めたて、ついに共犯説を認めさせてしまう。

 思い通りの自供を引きだした浅山は高飛びの恐れがあると「共犯者」四人を緊急手配するが、三人は村にいたし、唯一、村を離れていた植村は内妻カネ子(左幸子)の実家であっさり逮捕される。四人は執拗な拷問を受け、「自白」させられてしまう。一審は共犯説で、主犯とされた植村に死刑、小島を含む他の四人は無期だった。

 映画の後半は広島高裁での第二審で、東京の近藤弁護士(内藤武敏、正木弁護士にあたる)が主任弁護人を引き受け、一審から弁護にあたった山本弁護士(菅井一郎)が補佐するという陣容だ。

 裁判の準備とへ移行して、「共犯者」とされた植村たちの家族の針の蓆のような日々が描かれる。みんなが顔見知りの小さな村で、凶悪な強盗殺人犯の家族として生きていかなければならないのだから、想像にあまりある。

 いよいよ裁判は大詰めをむかえる。検察側の主張がいかに荒唐無稽かを論証した山本弁護士の最終弁論は完璧で、法廷ではしばしば笑い声が上がり、家族たちも今度こそ無罪になると、表情が明るくなる。

 だが、判決はまたしても共犯説だった。愕然とする被告と家族。「まだ最高裁がある」という有名な科白で映画は終わる。

 この映画は最高裁で審理中の1956年に公開された。係争中の事件ということで圧力がかかり、独立プロの自主製作・自主上映という形で公開にこぎつけたが、空前のヒットを記録し、映画賞を総なめしている。

 映画公開の翌年、最高裁で差し戻され、二年後の1959年、広島高裁は単独犯行説の判決を出した。当然だろう。

 ところが、ここから話はややこしくなる。検察は上告し、最高裁はまたも広島高裁に差し戻したのである。広島高裁は共犯説にもどった判決を出している。

 1968年に最高裁が単独説を判決を自判してやっと決着がつくのだが、この10年間の迷走は何なのだろう。

 八海事件関係の本は手軽には読めないが、幸い、真犯人吉岡晃に直接取材した前坂俊之氏による「全告白・八海事件−これが真相だ」(サンデー毎日1977年9月4日号)がネットで公開されている。

 前坂氏の記事を読む限り、まったく映画のままである。裁判官という人種がいよいよ信じられなくなった。

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「米」

 小林正のはじめてのカラー作品だそうで、フィルムの状態は悪くなかったが、退屈な作品である。見どころは昔の村の風俗が見られるというくらいか。

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9月12日

「婉という女」

 大原富枝の同題の小説の映画化。新文芸座の今井正特集で見た。

 土佐を舞台にした歴史小説によく名前の出てくる野中兼山の遺児の受難に材をとっている。野中兼山は山内一豊の妹の孫として生まれ、執政となってからは殖産興業で辣腕を振るい、20万石の石高を実質30万石に増やした。郷士制度をつくり、治安の不安定要因となっていた長宗我部の遺臣を支配体制に組みこんだのも兼山だったが、それは上士層の猜疑を買う結果となった。

 兼山の功は大きかったが、反感もたまりにたまり、いったん失脚するとすさまじい報復がおこなわれた。兼山には4男5女がいたが、最後の男子が死ぬまでの40年間、遺児たちは竹矢来で囲まれた山中の一軒家に幽閉されたのだ。

 幽閉がとかれた時、生き残っていたのは3人の娘――寛(楠郁子)、婉(岩下志麻)、将(長山藍子)――と、婉の母親(北林谷栄)、婉を育てた乳母(伊藤牧子)だけだった。主人公の婉は3才から43才まで監禁生活を送った。一番若い将でも40才を越えていた。

 子供の頃から40年間監禁するとは気の遠くなるような罰であるが、罰の本当の過酷さは別のところにあった。異腹の兄妹とはいえ、健康な男女が小さな家に押しこめられ、外部との接触を一切断たれているのである。16才まで普通の生活を送っていた長兄清七(江原真二郎)が生きていた間は、父の残した学問を学ぶという緊張が維持されていたが、清七の没後、性欲の無間地獄がはじまる。次男欽六(河原崎長一郎)は寛を犯そうとして座敷牢に入れられ狂死する。学問を修めた婉も性欲に悶々とする。間違いを犯さないためには死を選ぶしかないところまで追いつめられる。

 20年つづいた幽閉で頽廃がよどみ、父の業績に対する疑いがふくれあがっていた時、父の学問を慕う谷秦山(山本學)という若い儒者が幽居を訪ねてくる。秦山との面会はかなわなかったものの、外部に父の業績を認め、自分たちに関心を持ってくれる人間がいたという事実は婉たちを勇気づけ、秩序の感覚をとりもどさせる。

 秦山との間の文通は年一回だけ許されることになった。文通の相手は三男の希四郎(緒形拳)だったが、希四郎の没後は婉が引き継いだ。幽閉が解かれるまでの20年間、婉は秦山との文通だけを生き甲斐に生きぬく。

 最後に残った男子貞四郎(中村嘉葎雄)が死に、高知から赦免状が届くと、一家は生活の不安に直面する。監禁されている間は貞四郎に捨て扶持があたえられていたが、跡継ぎが絶えたので扶持がなくなり、一家は裸同然で世間に放りだされたからだ。

 一家心中を口にする寛と将に対し、婉は生きぬくことを説く。婉の心の中では秦山に対する慕情がふくれあがり、対面せずに死ぬことなど絶対にできなかったからだ。

 同じ母から生まれた寛と将は亡母の縁を頼ることになり、婉は母と乳母だけを連れて高知に向かう。ここから婉の本当の苦しみがはじまる。赦免されたとはいえ刑余の身である上に、理想の人とイメージばかりがふくれあがった秦山には妻子がいたからだ。

 題材の凄さに圧倒されたが、映画としての出来はあまりよくない。メロドラマ的な演出がうるさく、作品を小さくしてしまっているようなのである。原作を読んでみたい。

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「越後つついし親不知」

 水上勉の同題の小説の映画化。新文芸座の今井正特集で見た。

 昭和12年の伏見からはじまる。伏見は丹波杜氏が多いが、大和屋酒造は越後の杜氏を使っていた。佐分権助(三國連太郎)も新潟から出稼ぎに来ていたが、母危篤の電報で急に帰ることになり、同じ村から来ていた瀬神留吉(小沢昭一)から来年昇進が決まったと伝えてくれと言づけを頼まれた。留吉は酒にも女にも関心のない真面目一途の働き者で、昇進は当然だったが、権助は内心穏やかではない。

 故郷の駅に降りた権助は食堂で一服するが、同席の男から兄の伊助がシベリア出兵時にロシア娘にもてて何人も抱いたと艶笑譚を聞かされ、性欲を刺戟される。

 雪道を急いでいると、留吉の女房のおしん(佐久間良子)と出くわす。権助は留吉の伝言を伝えるが、性欲を刺戟されていた権助はおしんの美貌にたまらなくなり、留吉への嫉妬もあって、雪の中に押し倒して手籠めにしてしまう。

 母の葬儀を終えて大和屋にもどった権助は留吉におしんは佐藤という男とできていると嘘を吹きこむ。留吉は嫉妬で悶々とし、生活が荒れる。

 村ではおしんは体の異変に気づき、権助の子供を身ごもったことを知る。流産しようと、深夜、冷たい川には行ったり、重い石を持ちあげたりするが、胎児はすくすく育っていく。

 酒蔵の仕事が終わり、家に帰った留吉は佐藤のことでおしんを問いつめるが、おしんはきっぱり否定する。留吉はすぐに納得し、仲むつまじい日々がもどる。

 5月にはいり妊娠が隠しきれなくなる。産婆に診てもらうと、12月の妊娠だといわれる。間違いなく権助の種だったが、そんなことは言えず、妊娠2ヶ月といつわる。はじめての子供に留吉と姑は大喜びするが、嘘はばれ、留吉は衝動的におしんを殺してしまう。

 おしんが愛しくてたまらない留吉は死体を炭焼小屋に運び、死体と二人だけの生活をはじまるが、異臭がするようになる。留吉は死体を炭焼窯で焼く。この後、権助に対する復讐が語られるが、結末は重苦しい。

 薄幸のおしんを演じた佐久間良子の初々しい美しさが一番の見どころだ。死んでからの裸体は吹替えだろうが、雪の中のレイプは本人が演じている。

 三國はあんな鬼畜の役なのに、不思議に憎めない。一方、留吉役の小沢は粘着質がはまりすぎて同情がわかない。留吉を好感のもてる役者が演じていたら、もう一回り大きな作品になっていたのだが。

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9月16日

重村智計 『金正日の正体』 講談社現代新書

 一ヶ月ほど前に店頭に並んだ本である。発売にあわせて週刊現代が「金正日はすでに死んでいる」という記事を載せたが、重村氏も焼きがまわったかと思ったものだ。

 ところが、9月9日の北朝鮮建国60周年記念式典に金正日が登場しなかったことから大騒ぎになり、本書が注目を集めることになった。書店の店頭には変事を予測したかのように増刷された本書が平積みになっていた。

 かなり以前から水面下で流布していたという金正日死亡説の本をこの時期に出したのは重村氏にとって賭けだったに違いない。もし9月9日に金正日が元気な姿を見せていれば、あれは影武者だといったところで負け惜しみにしか聞こえず、北朝鮮ウォッチャーとしての評価は地に落ちていただろう。おそらく、今年の建国記念式典は無事にはすまないという確度の高い情報を年初には入手していたと思われる。

 重村氏はまず2004年以降、金正日の影が薄くなっている事実を列挙する。2006年1月に中国を9日間訪問し、南方の経済特区まで視察して大ニュースになったではないかという人がいるかもしれないが、行事が目白押しの1月に長期訪問したにしては成果が小さすぎるのである。当時は中国に倣った経済改革のためといわれていたが、経済改革は今にいたるも実施されていないし、中国当局者は訪中の目的はマカオの銀行の口座凍結解除のためだったと認めているという。金額は中小企業なみの30億円。しかも、金正日個人口座にはいらず、軍・党・政府機関で山分けされ、たった一日でなくなったことが確認されている。

 将軍様は30億円のために使い走りをさせられたかっこうである。それだけ北朝鮮は外貨に困っていたということなのかもしれないが、わざわざ9日間も使って個人口座にいれなかったのは解せない。

 2006年の核実験もおかしかった。外交当局は10月3日に in the future に核実験をおこなうと声明を出した。in the future はかなり先を意味しているのに、わずか6日後に実験をやってしまった。公式声明と行動のズレはそれまではなかったという。

 1998年の人工衛星打ち上げ以上の大成果のはずなのに、翌日の労働新聞では一面トップニュースにならず、中面の小さな記事だった。祝賀大会は11日後の10月20日になってやっとおこなわれた。軍と政府がばらばらなのである。

 実験直後から、これはおかしい、金正日は軍を掌握できていないのではないかという観測は流れていた。

 今年4月の聖火式典で、金永南最高人民会議常任委員長が聖火を受けとり、全世界に国家元首として報道されたのもおかしいと重村氏は指摘する。金永南は形式的には国家元首だが、こんな風に目立つことはかつての金正日は許さなかった。

 重村氏によれば、義弟の張成沢の失脚と2006年の復権もおかしい。後継者争いで分派活動をしたというのが失脚の理由だが、金正日は後継者争いで派閥が出来ることに神経をとがらせており、後継者争いがあったこと自体がありえない。また、復権させる場合は金正日は必ず元のポストにつけてきたが、張成沢の場合、組織指導部第一副部長にもどれず(李済剛がポストに居座っている)、党行政部長という閑職にとどまっている。中国が圧力をかけて無理矢理復権させたからだと説明されてきたが。

 以上は金正日の支配力が低下している徴候と解釈されてきたが、重村氏は2003年10月以降、「金正日」の囲いこみが起きているとつづける。

 まず、金日成廟への参拝が減り、同行者が変わったこと。2002年までは年二回、政府と党の幹部を引きつれて参拝していたが、2003年以降、年一回に減り、同行者は軍幹部だけになったというのだ。

 現地指導の随行員も特定の軍幹部だけに限られるようになった。将軍様は2003年10月以降、特定の軍幹部しか身辺に近づけなくなったらしいのである。

 以上は公開情報で、確認しようと思えば確認できるが、以下は確認しようのない重村氏の独自情報になる。

 マスコミによく顔を出す金正男は親しい友人に「今の将軍様が死ぬまで、後継者を決めない約束だ」と語っているそうだ。道楽息子の金正男でも実の父親を「今の将軍様」とは言わないだろう。

 酔っぱらった金正男が叔母の金敬姫に国際電話をかけ「あいつ」は「将軍様の約束を守っていない」、「家族をないがしろにしている」と愚痴ったという情報も披露されている。ロイヤル・ファミリーは北朝鮮当局が盗聴できない電話番号をもっているが、外国の情報機関は盗聴しており、金正男もそれはよく承知しているそうだ。ということは、外国になにかを伝えるために、わざわざそんな電話をかけたと考えられなくもない。

 小泉訪朝時の金正日の発音が韓国なまりで、あるマスコミが声紋鑑定をしたところ申相玉監督の録音音声と別人物という結果がでたという話もある。

 2000年はじめから車椅子生活にはいっているという情報もある。原因は落馬の後遺症ではなく、糖尿病の末期症状だという。糖尿病の末期症状なら、数年で死ぬのが普通のようだ。

 重村氏は金正日は2000年から病床に伏しており、以後、表舞台に登場しているのは4人の影武者だという。2002年9月の小泉第一次訪朝時には生きていて病床から支持を出していたが、二回目の2004年5月には死んでいた、そうである。

 死んだとしたら、それはいつなのか。金正日の動静情報は2003年9月9日から10月21日までの42日間途絶えるが、この間に死に、遺言によって集団指導体制に移行したという。影武者は4人いて、2人はよく似ているが、2人はあまり似ていない。一番似ている影武者はすでに死んでいて、二番目に似ている影武者も病床についている。

 重村説の当否はわからない。しかし、めったに姿をあらわさず、声が数回しか録音されていない金正日に影武者がいてもおかしくないし、いないと考える方がむしろ不自然だろう。

 金正日に影武者がいるなら、9月9日の式典は影武者を出せばよかったはずである。TVカメラを通した画像しか流れないのだから、よく似た影武者なら十分ごまかせたろう。

 そう考えると、本物はとっくに死んでいて、影武者も危篤状態という重村説が説得力をもってくる。

 重村説の当否はわからないが、金正日が1980年から89年までほぼ毎年のように来日し、赤坂のコルドン・ブルーというナイトクラブに通っていたという秘話は妙なリアリティがあった。喜び組のダンスはコルドン・ブルーの振付のコピーで、プリンセス天功のマジックをはじめて見たのもコルドン・ブルーだった。金正日はシンガポールの韓国系実業家という触れこみで日参し、楽日には最高級の盆栽(北朝鮮の名産品)と数百万円の現金を楽屋に届けた、そうである。

 朝鮮総聯と北朝鮮の対立関係など、これまで書かれたことのない情報も明かされており、読んで損はない。

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「NAKBA」

 広河隆一氏が40年にわたって撮影してきたパレスチナの取材フィルムを2時間にまとめたドキュメンタリである。40年間に撮りためたフィルムから編輯しているので断片の寄せあつめの印象があるが、一つ一つの断片がずしりと重く、息を詰めながら見た。パンフレット代わりの『パレスチナ1948NAKBA』を買って、帰りの電車の中で読みはじめたが、断片が大きな絵に組み上がって迫ってきた。

 広河のキブツ・ダリア再訪からはじまる。広河は青年時代、キブツの理想に憧れてイスラエルにわたり、キブツ・ダリアでボランティアとして働いていた。ある日、畑で農作業をしていると破壊された村の跡にぶつかり、キブツ・ダリアがタリヤトルーハというパレスチナ人の村を潰してできあがっていたことを知る。この時期、イスラエルは第三次中東戦争に勝ち、ヨルダンに編入されていた東エルサレムとヨルダン川西岸全域を占領するという暴挙に出た。広河は占領政策に反対するユダヤ人グループ、マツペンに参加し、1948年に400以上のパレスチナ人の村が破壊され、民族浄化がおこなわれていた事実に直面する。

 これをきっかけに広河はフォトジャーナリストになるが、最初の仕事でレバノンの難民キャンプの虐殺をフィルムにおさめる。難民キャンプの取材ではメルバットという少女と知りあう。彼女の姉のキーファはパレスチナ・ゲリラになり、イスラエルの刑務所に拘束されていたが、マツペンの仲間の弁護士の尽力で釈放にこぎつける。メルバットとキーファとの長いつきあいがはじまる。

 マツペンの活動と、パレスチナ紛争の歴史が断片的な映像で語られる。

 ユダヤ人のパレスチナ移住は20世紀初頭からはじまり、ユダヤ機関がパレスチナ人不在地主から買いとった土地にキブツを開いていった。不在地主は小作人のパレスチナ人にろくに説明せずに土地を売ったので、移住したユダヤ人とパレスチナ人の間にはしばしば小競り合いクタッターがあったが、おおむね平和的に共存していた。

 第二次大戦後、数十万人のユダヤ人が移住し、1948年にイスラエルの独立が宣言されると様相が一変する。建軍まもないイスラエル正規軍と民兵が組織的にイスラエル領域内のパレスチナ人の村を破壊し、虐殺をおこなって、パレスチナ人の追い出しをはかったのだ。パレスチナ人は1948年の出来事を「ナクバ」(大惨事)と呼んでいる。

 1967年の第三次中東戦争の勝利が第二の転機だった。強行政策の成功は宗教右派の威信を高め、それまで占領政策に及び腰だった中道派の支持を集めるようになったのだ。イスラエルの暴虐がいよいよ烈しくなる。マツペンは孤立する。

 広河はダリアトルーハの元の住民を探していたが、やっと見つけだし、インタビューする。映画の最後ではダリアトルーハの元住民たちとダイアトルーハのあった場所を再訪しているが、イチジクの木が健在だったのが印象的である。

公式サイト
9月18日

「シューテム・アップ」

 三軒茶屋中央シネマは普段は渋いフランス映画専門だが、時々、傑作オバカ映画を上映してくれる。最近では「俺たちフィギュアスケーター」が当りだったが、今回はオバカ映画史上に残る大当たりである。

 冬の深夜のニューヨーク。黒のよれよれのレザー・コートをまとったスミス(クライヴ・オーウェン)がバス停のベンチで時間をつぶしている前を殺し屋に追われた臨月の妊婦が逃げていく。スミスは妊婦を助けに駆けだし、殺し屋をやっつけるが、ハーツ(ポール・ジアマッティ)に率いられたギャング団が登場。銃撃戦のさなか、妊婦は赤ん坊を出産(!)。スミスは母子を守ってみごとギャング団を撃退するが、妊婦は射殺され身元がわからなくなる。

 スミスは靴下を脱いで赤ん坊に帽子代わりにかぶせてやるが、ミルクをやらなくてはならない。普通は深夜営業のドラッグストアを探すところだが、彼は母乳プレイ(!!)を売りにする娼婦ドンナのところに連れていく。ドンナを演じているのはモニカ・ベルッチ姐さん。ゴージャスなことである。

 こうしたスミスの行動はすべてハーツに読まれていた。なにしろハーツは元FBIのプロファイラー(!!!)という御都合主義。ハーツは手下を引きつれドンナの娼館を急襲、またもや烈しい銃撃戦。

 この後の展開もただただ唖然。赤ん坊がヘビメタで泣きやむことから妊婦の住居をつきとめると、そこは胎児工場だった。なんとアメリカの国家的陰謀がからんでいたのである。

 ストーリー以上にすごいのが超絶的ガン・アクションだ。目が点のアクションが手を変え品を変えどんどんエスカレートしていく。ちょっとでも加速度が落ちたら破綻するから、最後の最後まで全力疾走だ。

 「シン・シティ」を越えていると思うが、なぜか日本では話題にならず、ノーチェックだった。知られざる傑作をかけてくれた三軒茶屋中央シネマに感謝。

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「偶然の音楽」

 ポール・オースターの同題の小説の舞台化で2005年の再演。脚色・演出は白井晃、主演は仲村トオル。客席は仲村トオルのファンとおぼしい若い女性で満員だ。

 消防士のナッシュに思いがけない遺産がはいる。彼は赤いサーブを買い、離婚した妻が育てる娘にあうために旅に出る。途中、ギャンブラーのポッツィ(田中圭)と知りあう。遺産が乏しくなったので、ポッツィのポーカーの腕に賭けるが、逆に大負けしてサーブを失い、借金のために二人とも働かされる破目に。

 仕事は賭け相手の広大な屋敷の周囲に石壁を築くというもの。道具は人力で引っ張る台車しかなく、宿舎と工事現場を往復するだけの単調な日々がはじまる。終わりの見えない作業に業を煮やしたポッツィは脱走を試みるが、捕まって半殺しの目に。番人は病院に連れていくといったが、それきり帰ってこない。ナッシュは借金がふえるのを承知で娼婦(初音映莉子)を呼んでもらい、彼女にポッツィが本当に病院に入院しているか調べてくれと頼むが、彼女の行方もわからなくなる。

 外部から隔離された単調な生活。無意味な作業。完全にカフカ的状況である。

 いよいよ借金を返し終える日がやってくる。番人はナッシュの忍耐を誉め、飲みに誘う。ナッシュは断るが、結局、付き合うことに。ナッシュの赤いサーブは番人のものになっていて、帰り道、ひさびさにナッシュが運転する。解放を目の前に、ナッシュは大陸横断列車に向かってアクセルを踏みこむ。その時、偶然の音楽が聞こえる。

 黒とグレイの市松模様の舞台で、状況は最小限の装置であらわされる。前半は役者が縦横無尽に走り回ってにぎやかだったが、後半、ポッツィが姿を消してからは、仲村トオルが切り石に見立てた灰色の直方体を奥から運んできて下手側に積みあげるだけの場面が延々とつづく。緊張感を維持しつづけた仲村は舞台俳優としてなかなかのものだ。ポッツィは初演は小栗旬が演じて好評を博したそうだが、田中圭は軽め。

 不条理劇といっていいと思うが、アメリカの大荒野の寂寥感が出ていて、ヨーロッパや日本の不条理劇とは一味違う。

9月19日

「トゥヤーの結婚」

 「覇王別姫」と「活きる」の名脚本家、ルー・ウェイの同題の小説の映画化である。監督は王全安。「らくだの涙」に優るとも劣らない傑作で、金獅子賞受賞が納得できる。

 トゥヤー(ユー・ナン)は内モンゴルの肝っ玉母さんで、身障者の夫と幼い二人の子供をかかえて、遊牧も家事もと一人で頑張っている。隣のセンゲーが何かと親切にしてくれるが、我儘な嫁に振りまわされているドジな男で、干草の運搬を手伝ったもののトラックを横転させてしまう。トゥヤーは干草の下敷きになったセンゲーを助けようとして腰を痛める。

 羊を育てるには毎日、遠い井戸まで水を汲みにいかなければならない。腰を傷めていては無理だ。夫のバーテル(バーテル)の姉が見舞いにきて、バーテルは自分が引きとるから再婚したらどうかと勧める。トゥヤーは再婚は承知したものの、バーテルを捨てることができず、バーテルと同居するという条件で再婚相手を募集する。

 内モンゴルも嫁不足らしく、あちこちから見合いに来るが、前夫と同居という条件ではまとまるはずがない。

 トゥヤーが腰を痛める原因を作ったセンゲーは責任を感じ、近くに井戸があれば再婚しなくてもいいはずだと、ダイナマイトを使って井戸掘りをはじめるが、例によって失敗に終わる。

 そこへ石油成金になったトゥヤーの同級生がプロポーズに来る。バーテルは彼の費用もちで最高級の介護施設にいれ、二人の子供は名門校に通わせるという条件だ。トゥヤーは一度は承知したものの、バーテルと離れることができず、破談にする。

 今度はセンゲーがプロポーズする。センゲーは前々からトゥヤーに引かれていたが、嫁に逃げられたのを機に、バーテルと子供たちの面倒は自分が見るからと勇気をふりしぼって告白する。しかし、トゥヤーはセンゲーを出来の悪い弟のようにしか見られず、相手にしない。

 結局、別の男との再婚が決まり、涙の披露宴が開かれる。涙をこらえて酒を飲むトウャー、バーテル、センゲーの三人が切ない。

 トウャー、バーテル、センゲーの三人が素晴らしい。トゥヤー役のユー・ナンは現代的なグラマー女優らしいが、この映画ではみごとに遊牧民の肝っ玉母さんになりきっている。バーテルとセンゲーの二人は素人らしいが、存在感がすごい。バーテルは元モンゴル相撲のチャンピオンという設定の大男だが、働けなくなって申し訳なさそうに小さくなっている。センゲーはラッシャー板前そっくりの情けない男だが、トゥヤーが好きでたまらないという気持ちが伝わってくる。

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「潜水服は蝶の夢を見る」

 ロックトイン症候群に陥った元『ELLE』編集長ジャン=ドミニック ボービー自伝の映画化。ロックトイン症候群は脳卒中の後遺症で、全身麻痺で動けないものの、意識だけははっきりしているという。死ぬまで拘束衣を着せられているようなもので、想像するだけで気が狂いそうになる。

 映画はジャンが意識をとりもどすところからはじまる。ジャンの視点で描いているので、視界は歪み、ぼやけ、何が何だかわからないが、しだいに自分が置かれた状況がわかってくる。絶望するしかない状況だが、全身麻痺なので自殺することすらかなわない。

 目も耳も健在だが、右目は瞬きができないので、角膜が潰瘍になるのを防ぐために縫いあわされてしまう。左目の瞬きだけが外部とのつながりになる。

 言語療法士の発案でアルファベットを出現頻度順に読みあげ、目当ての文字のところで瞬きをするというコミュニケーション手段をとることになる。ジャンは『モンテ・クリスト伯』を現代化した小説を出版する契約を結んでいたことを思いだし、左目の瞬きだけで自伝を書く決心をする。「20万回の瞬きで書いた自伝」というキャッチフレーズは誇張ではない。

 と書くと難病奮闘もののようだが、ジャンはチョイ悪オヤジで、絶望的な状況でも斜に構えたスタイルを崩さず、飄々としているのが救いだ。言語療法士も、看護士も、出版社が派遣する秘書も、妻もみんな美女で、美女に囲まれているのもいい。随所に原作の文章が引用されるが、あのような困難な条件の中で書いたとは思えないくらい詩的で洒落たレトリックを駆使している。文章に凝ることが物書きとしての存在証明なのだろう。

 後半、愛人が登場し、ジャンの家庭がかなり前から崩壊していたことが明らかになる。信心深い愛人とのルルド旅行が回想されるが、斜に構えた皮肉なタッチが効いている。

 最後の場面で発作を起こした日の記憶が甦えってくる。ここは切ない。

 終わりは唐突にやってくる。最後まで生命を謳歌したジャンが格好いい。

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9月22日

大原富枝 『婉という女』 講談社文芸文庫

 映画で野中兼山の遺児の過酷な運命を知り、原作を読んでみた。映画はたいしたことがなかったが、原作は鬼気迫る傑作である。

 映画は最初から最後まで岩下志麻が抑圧された性欲に悶え苦しむ話だったが、原作は政治家兼山の悲劇を二重写しに描いており、幕府の影もちらつく。兼山は大規模な土木工事と殖産興業政策で土佐藩20万石を実質30万石に高めたが、外様の成功を幕府が警戒しないはずはない。遺児たちを40年間監禁するという異常な処罰がおこなわれるにいたったのは藩内の嫉妬や反発だけが理由ではなかったらしい。

 映画では谷秦山は最後まで婉の憧れの人で、婉が秦山のもとに駕籠を走らせるところで終わっていたが、原作の婉は秦山を突きはなして見ている。過酷な運命を甘受してきた女は酷薄な眼をもつようになっていた。

 文芸文庫版には関連する二編の短編が併録されている。は兼山の正妻、市の生涯を描いた「正妻」と、放免後、婉とたもとをわかち辺境の地にとどまった異腹の姉妹のその後を描いた「日陰の姉妹」だ。

 兼山は朱子学の過激な信奉者であり、母親の葬儀を正式の儒礼でおこなったために吉利支丹の嫌疑を受けたほどだったが、同姓娶らずというもう一つの儒教の原則にも忠実だった。妻と性交渉を持たなかったのである。

 兼山の父良明は山内一豊の甥であり、一豊の一人娘の婿にと望まれていた。婿になっていたら山内家の家督を継いだはずだが、娘が地震で急逝したために山内家は一豊の弟の系統に移った。おそらくそれが背景にあったのだろう、一豊の没後、良明は山内家を離れ浪々の身となる。

 良明は早く亡くなり、兼山と母は生活に困窮したが、13歳の時、良明の弟で土佐藩執政だった直継の娘市の入婿となり、21歳で家督を継いだ。

 兼山にとって市は父方の従妹であり、儒教の考え方でいえば同姓娶らずどころか実の妹も同然であって、結婚してはならない相手だった。しかし、野中家の入婿として土佐藩に復帰した以上、婚姻を拒むことはできない。兼山は結婚は形の上だけにとどめたのである。

 市は形だけの妻でありつづけたが、そのことが同情され、兼山の没後、側室と遺児たちは狭い家に監禁されたにもかかわらず、市はお預けという処分にとどまった。

 兼山は近親相姦に異常に過敏だったが、その遺児たちが本当の近親相姦に悩むようになるとは皮肉である。

 「日陰の姉妹」は兼山の三女と四女の話だが、資料がほとんど残っていないので小品の上に、ぶつりと終わる。しかし、四女の子孫とされる一族が残っていて、二人の墓が守られているという結末にはほっとした。

「モンテーニュ通りのカフェ」

 パリ8区モンテーニュ通りに実在するバー・ド・テアトル(映画ではカフェ・ド・テアトル)を舞台にした群像劇。

 カフェ・ド・テアトルにジェシカ(セシール・ド・フランス)が面接に来る。男しか雇わないのがポリシーだが、欠員がいる上に週末にイベントが目白押しなので、支配人はやむなく雇うことにする。

 イベントを準備中の有名人はそれぞれ人生の転機をむかえている。ピアニスト、ジャン=フランソワ(アルベール・デュポンテル)は格式ばって一般人から遊離したクラシックに疑問を感じ、有能なマネージャーでもある妻と衝突している。喜劇に主演するカトリーヌ(ヴァレリー・ルメルシェ)はTVから映画に転進を考えていて、ボーヴォワールの映画を準備中の高名な監督に売りこもうと必死だ。一代で大企業を築き、美術品のコレクターとしても名をなしたジャック(クロード・ブラッスール)は息子が会社を継がず、美術品にも関心がないので、全コレクションをオークションにかけようとしている。この三人に山出しのジェシカがからむという設定。

 そこそこおもしろかったが、ジャン=フランソワがコンサート中にタキシードを脱ぐとか、クライマックスのわざとらしい盛り上げは余計だ。

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9月25日

「ゆらゆら」

 市原悦子は数年おきに鐘下作品に出ている。「ヒカルヒト」がすごかったので期待したが、今回はやや不完全燃焼だった。それでも、パワーには圧倒される。

 例によって幕はなく、手に物がごちゃごちゃ載ったテーブルと椅子、中央に蛇口とバケツ、下手に解剖台のような肉屋の調理台。二列目の中央(一列目は床席)という最高の席で喜んでいたら、一列目と二列目の下手側に雨合羽を配りはじめる。一人手前まで雨合羽が回ってきた。悪い予感がする。

 暗転後、家に閉じ篭もっている父親のところにクーラーボックスを下げた次男が訪ねてくる。長男(加地竜也)がバラバラ事件を起こしたらしく、肉屋の店舗を兼ねた自宅には嫌がらせ電話や投石まで。

 次男は差し入れだと言ってクーラーボックスから活きている鯛を取りだす。父親は調理台の上で肉切り包丁でえいやっとばかり頭を落とし、三枚におろしていく。魚の臭いが立ちこめる。鱗がキラキラ飛び散り、魚の血のまざった生臭い水が客席に飛び散る。ただの水ならともかく、生臭い水なのでヒヤヒヤする。

 そこへ市原悦子の母親が登場するが、香水をかけまくっている。狭い劇場なので、魚の臭いとまざる。いやはや。

 精神鑑定医(小林勝也)が助手の学生を連れてあらわれるが、死刑になった猟奇殺人犯(若松武史)がパンクな格好で寄り添ってくる。猟奇殺人犯は精神鑑定医にしか見えないという設定で、舞台の周囲をめぐりながら場面を注視しつづける。

 鐘下流の作りこみで家族の秘密が暴かれていくが、今回は精神分析の理論が表に出すぎていて不気味さが足りない。市原悦子の暴力的な支配にはそれほどの驚きはない。精神分析を持ちだすべきではなかった。

 終演後、鐘下、若松、若手役者のトークショーがあった。鐘下は市原悦子の客が多いので、いつもと笑う箇所が違うなど反応が異なり、おもしろいと言っていた。臭いは狙ってやったとのことである。

 知らなかったが、ベニサンは来年1月で取り壊しだそうである。今回が最後の観劇かもしれない。開場して二度目の公演から見ているので、ショックだった。

9月26日

 J-Castに「「ケータイ小説」ブーム終わったのか」という記事が載っている。一時はベストセラーが次々と生まれ、テレビ化・映画化されるとヒットしたケータイ小説が飽きられてきたという内容だ。本にして売れる作品が出なくなったし、鳴り物入りで放映されたTBSの「恋空」は夏ドラマでは最低の視聴率だったそうである。

 もともとケータイ小説が注目されたのは出版不況の中、商売になりそうだったからであって、若者文化に理解のあるふりをしたい勘違い老人を除けば、内容を評価していた者などいないと思う。

 ペン・クラブの言論表現委員会で、一時、ケータイ小説のシンポジュウムをやるという話があったが、他にネタがなかったからで、『靖国』上映中止問題という久々の左翼ネタが出てくると立ち消えになった。ケータイ小説をこともあろうにバルトになぞらえる勘違い老人が一人いたが、それ以外の委員はケータイ小説など頭からバカにしていたのである。

 ケータイ小説サイトはアクセス数が落ちないのに、本にしても売れないというのは、もともとのケータイ小説の読者にとってはケータイで読めれば十分ということだろう。要は好奇心需要が一巡したということである。

 ブームが去っても、ケータイ小説は出版とは別のジャンルとして残るだろう。というのは本にもパソコンにも興味がなく、ケータイで完結している学生がかなりの比率で存在しているからだ。

 ケータイ完結組がどういう精神構造なのかは知らないし、知りたくもないが、狭い見聞の範囲では『下流志向』が当たっているように感じる。あの本に描かれたような若者は本当にいるのである。

「あらくれ」

 徳田秋聲の同題の小説の映画化。新文芸座の成瀬巳喜男特集で見た。

 原作は自然主義文学の傑作だが、映画は原作よりいいかもしれない。原作はヒロインのお島を息苦しいまでにクローズアップしていたが、映画は脇役のキャラが立っていて、笑いがあるのである。お調子者で無責任な兄(宮口精二)、最初の夫になる嫌みったらしい鶴さん(上原謙)、やさしいが頼りない浜屋の若旦那(森雅之)、調子がよくて好色な小野田(加東大介)と、原作ではお島の影に隠れてしまった男たちがコミカルに描かれ、世界がひとまわり大きくなっている。

 高峰秀子のお島はエネルギッシュで厚かましく、現実には絶対に会いたくないタイプだ。一歩引いて眺めれば哀しい境遇なのだが、つっぱっていて哀しさには結びつかない。これで哀しさや可愛らしさが出ていれば、「浮雲」に匹敵する傑作になっていたのだが。

「妻の心」

 プラトニックなよろめき映画だが、御都合主義でリアリティなし。新文芸座の成瀬巳喜男特集で見た。

 喜代子(高峰秀子)は地方都市の老舗薬局に嫁いでいる。夫の信二(小林桂樹)は次男だが、長男の善一(千秋実)が東京に出たので跡を継いでいる。

 老舗といっても先細りなので信二はいろいろな事業に手を出すが、ことごとく失敗している。喜代子は将来を考えて、店の脇の空地を使って喫茶店を出そうと計画し、近くのレストランに修行にいっている。

 そこへ長男の一家が転がりこんでくる。勤めていた会社が倒産したらしく、こちらで雑貨店を開こうなどという話になり、開店資金を無心され、喫茶店が危なくなる。

 不満だらけの喜代子は親友の弓子(杉葉子)の兄で、なにかと相談に乗ってくれる銀行員の竹村健吉(三船敏郎)に引かれるようになる。

 登場人物はほどほどに善人で、健吉にいたっては精神的によろめくためだけに作られた都合のいい男にすぎない。

 高峰、三船、成瀬という最強のトリオでも、こういう駄作もある。

9月30日

「おくりびと」

 本木雅弘は「ファンシイダンス」で僧侶、「シコふんじゃった。」で学生相撲と、身近なのにちょっとずれた業界に飛びこむ映画に主演してきたが、今回は納棺師である。

 納棺師とは遺体を清めて棺に納める専門職で、衛生上の理由で湯灌がおこなわれなくなった結果、生まれた仕事らしい(わたしはまだ出会ってことがない)。火葬を嫌う欧米では死体保存エンバーミングとともに死化粧をする専門家がいて、映画になったことがあるが、日本の納棺師は遺族の見守る前で、袱紗さばきのような様式化された所作で遺体を清めていく。やはり湯灌の代替行為なのだろう。映画の原作というわけではないが、『納棺夫日記』という本が評判になっている。

 物語は大悟(本木雅弘)が所属していたオーケストラが解散するところからはじまる。チェリストとして限界を感じていた大悟は妻(広末涼子)を連れて故郷の酒田にもどる。父親は疾走し、女手一つで育ててくれた母も他界していたが、父がやっていたジャズ喫茶の建物があったのだ。

 職を探していた大悟は新聞に「安らかな旅のお手伝い」と広告の出ていたNKエージェントの面接を受け、社長の佐々木(山崎勉)に破格の条件で採用されるが、仕事は納棺師見習いだった。納棺をやっているとは妻に言えないまま報酬がいいのでずるずるとつづけたが、町の噂になり親友からは絶交され妻は実家に帰ってしまう。

 という笑いあり涙ありの展開である。山崎勉の社長が絶品。ぶっきらぼうな口調に人間的なあたたかみがあり、納棺という仕事に対する使命感と誇りもうかがえる。事務員役の余貴美子は出すぎず、引っこみすぎず、いいポジションをたもっている。

 前半は素晴らしいが、後半は駆け足になり、ストーリーをなぞっただけという印象が否めない。疾走していた父の遺体を引きとりにいく場面がクライマックスになるが、ここが弱いのだ。前半の緊張感を維持できていれば、今年のベスト1になっていたのだが。

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