エディトリアル   Nov 2010

加藤弘一 Aug 2010までのエディトリアル
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11月12日

 ICPF(情報通信政策フォーラム)は今秋「電子書籍の動向」という連続セミナーを開くが、第一回の「政府の動き」を聴講してきた。総務省・文化庁・経済産業省による「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会」(いわゆる三省懇談会)について総務省と文化庁の担当者に話を直に聞けるということで会場は満員の盛況だった。

 まず総務省情報流通行政局情報流通振興課の安藤英作課長が三省懇談会の狙いと背景について語った。三省懇談会はXMDFなどのガラパゴス規格に肩入れしているのではないかという憶測から一部ではぼろくそに言われているが、出版社と端末の多様性を守るために中間フォーマットの標準化は必要という予想どおりの説明だった。

 三省懇談会の準備のためのヒアリングから受けた関連業界の感触については官僚とは思えない率直な感想が聞けた。権利者側(著者と出版社)は長尾構想に対して依然として警戒しているが、その背景には図書館=無料貸本屋論があるという(ちょっとバカにした風だった)。印刷業界は口では出版業界を尊重するといっているが、圧倒的なリソースを握っているだけに出版社の動きが鈍ければ自分たちがリーダーシップをとるという強い意志を感じたという。書店業界はバスに乗り遅れたくないという焦りがあらわだったとか。

 なぜ取次が三省懇談会にはいっていないのかという質問が出たが、この懇談会はあくまで電子書籍を推進するためのもので、電子書籍の普及で沈没する業種を救済するのが目的ではないと言いきったのにはうなった。大手書店に声をかけたのはアメリカでB&Nが健闘しており、大手書店は電子書籍市場でそれなりのポジションを確保する可能性があるからだという。沈没する業種の救済は経産省の仕事で、総務省は協力するとはいっていたが、要するに取次と中小書店がどうなろうと知ったことではないというわけだろう。

 三省懇談会の弱点は既存のプレイヤーのみで、新しく電子書籍市場に参入したいというプレイヤーが含まれていないことだという。

 つづいて文化庁のカワセ氏が「電子書籍の利活用の推進に向けた文化庁の取組について」語ったが、総務省が57頁もある資料を配付したのに対し、文化庁はA4片面のプリントを配っただけである(カワセ氏の正しい氏名も官名も記載がなかった)。

 大体はどこかで読んだことのある話だったが、出版社の著作隣接権(いわゆる版面権)の文化庁の考え方が聞けたのは収穫だった。

 電子書籍時代になっても編集の重要性は変わらないし、著者側もそれを認めているのに(ある作家は「出版社はなくなってもかまわないが、編集者がいなくなったら困る」と言ったそうだ)、現状では法的に保護されていない。

 しかし版面権となると三省懇談会はまっぷたつに割れ、合意は難しい状況という。

 諸外国を見ると版面権を認めている国は英国とオーストラリアしかない(ドイツは著作権がなくなった作品を復刻した場合のみ出版社の権利を隣接権で保護しているので変則的なケースになる)。それ以外の国は出版契約の独占条項などで出版社の権利を保護しているケースが多く、法制と契約実態についてこれから調査するところだという。

 日本が版面権創設でやるのか、契約法制の整備でやるのかはわからないとぼやかしていたが、わたしが受けた印象では契約法制の整備が本命のようだった。

 いかにも頭の悪そうな出版社の社員と称する男が質問に立ち電子書籍黒船論をくどくど弁じたてたが(質問タイムではこういう困ったちゃんは毎回一人はいる)、カワセ氏は音楽業界を例にして日本はうまくやっていると答えた。アメリカの場合iTunesが独占的な地位を築き価格決定権を握ったのでレコード会社は危機的な状況に追いこまれているが、日本の場合ケータイという強力なチャンネルが存在しているのでiTunesは選択肢の一つにすぎずレコード会社が価格決定権を保持しつづけている。アメリカのiTunesでは一曲99セントなのに日本では200円もするのはiTunesが独占していないからだったのだ。

 見方によっては日本のレコード会社は不当な余剰利益をあげていることになるが、カワセ氏は日本の特殊事情としてレコード会社が新人を育成する文化があると指摘した。余剰利益による余裕があるからこそ、アーティストを育てるという息の長い商売ができるというわけである。新人育成の当事者はレコード会社から音楽出版社やプロダクションに移ってきているが、業界が新人を育てる文化はこれからも不変だし、出版業界でも同じだとカワセ氏は力説した。

 わたしはこの点については疑問をもっている。出版社はかつてのように新人を育てる余裕がなくなっているし、音楽業界でも似たようなものだろう。

 そもそも純文学は余剰利益を生みだすどころかエンターテイメント分野の利益に一方的に依存しており、売れっ子作家のおこぼれでどうにかこうにかやっているのが実情である。純文学にブランド力があった時代は売れっ子作家の側にも純文学を支える利点はあったが、今はどうだろう。売れっ子作家が出版社から逃げだして自分で電子出版をはじめたら、現在の文芸誌体制は崩壊するしかない。

 しかしそれでいいのかもしれない。そもそも出版社が新人賞を設けて作家を育てるようになったのは戦後からであって、戦前は同人誌が育成の場となっていた。同人誌が復活することはないだろうが、出版社からスピンアウトした文芸プロデューサーを中心とする緩いネットワークができて、そこが新たな文学修行の場となるのではないかというのがわたしの現時点での予想である。

11月17日

「モリエール、恋こそ喜劇」

 史実にもとづいたモリエールの伝記映画はアリアーヌ・ヌムーシュキンの決定版があるが、こちらは代表作のモデルになった出来事をフィクションで作りあげた贋伝記映画で「恋におちたシェイクスピア」のモリエール版といえる。「恋におちたシェイクスピア」のヒロインは可憐な男装の麗人だったが、こちらは母性的な人妻。いかにもフランス映画らしい。

 物語は1658年、モリエール一座が13年ぶりにパリにもどってきたところからはじまる。パトロンの王弟殿下も観客も喜劇を期待しているが、モリエールは悲劇俳優として名をあげることに未練があり迷っている。そこにジュルダン夫人の使いが来て、話は13年前にさかのぼる。

 1645年、モリエールは23歳にして一座を立ちあげるが、すぐに破産して借金不払で投獄の憂目に。三ヶ月後、何者かが借金を払ってくれたので釈放され、以後モリエール一座は13年間どさ回りをして実力を養うことになる。

 問題は誰が借金を払ったかだが、父親説と恋人説の二つがある。この映画では『町人貴族』のジュルダン氏のモデルになった同名の実業家が払い、獄中にいたことになっている三ヶ月間、モリエールはジュルダン邸で芝居の個人レッスンをしていたとしている。ジュルダン氏はファブリス・ルキーニで期待通りの名演。

 ジュルダン邸での出来事はほぼ『町人貴族』をなぞっているが、モリエールの偽名がタルチュフだったり、ジュルダン氏があこがれる貴婦人の名前がセリメーヌになっていたり、『スカパン』のガレー船の台詞に出てきたり、スノッブ心をくすぐってくれる。

 ジュルダン夫人は貴族の仲間入りしようとじたばたする夫を生あたたかく見守っているが、娘にドラント伯爵の息子との縁談がもちがると敢然と反対し、モリエールを巻きこんで破談にしようとあの手この手をくりだす。

 この映画の成功はルキーニもさることながら、ジュルダン夫人を演じたラウラ・モランテの素晴らしさによる。女主人としての気品をたもちながらも官能的で若いモリエールがぞっこんになるのも無理はない。最初『髪結いの亭主』のアンナ・ガリエナかと思ったが、同年代で同じイタリア人女優のラウラ・モランテだった。ああいうおおらかな母性は知の勝ったフランス人女優には無理だと思う。

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「やさしい嘘と贈り物」

 エレン・バースティンとマーティン・ランドー。アメリカ映画界の宝というべき演技派の名優二人の顔合せで愛すべき小品ができあがった。最初、監督が若いので(弱冠24歳!)演出がゆるいかなと思ったが、見終ってみるとゆるくて正解だったとわかる。安っぽくなるぎりぎりのところで止めていて絶妙なゆるさといえよう。

 主人公のロバート(ランドー)は一人暮しの老人で地元のスーパーに勤めている。社長は若いがロバートには親切だ。ある時、向いの家に越してきたというメアリー(バースティン)という老婦人に声をかけられる。彼女は娘と二人暮らしだというが、意気投合し初デートとなる。ロバートは高校生のようにそわそわし、スーパーの社長や同僚にデートの仕方を尋ねて歩く始末。

 デートはうまくいき、孤独なロバートの生活にはりが出てくる。メアリーの方も少女のようにはにかんで何とも可愛らしい。二人はどんどん親しくなるが、思いがけない(というか半分は予想できるが)結末が訪れる。

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11月19日

 読売新聞や朝日新聞で紹介されていた今野勉氏によるドキュメンタリー「鷗外の恋人〜百二十年後の真実〜」をNHKで見た。

 『舞姫』のエリスのモデルは31歳の子持ちの人妻エリーゼ・ヴァイゲルト説と植木哲氏の提唱する15歳の仕立屋の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト説の二つがあるが、英字新聞の誤植しか根拠のない前者は論外にしても、後者にも難点がある。船客名簿ではエリーゼとなっているからだ。偽名で海外に出ることができたのだろうか。さらに父小ケ谷が健在なのに、15歳の娘を一人で東洋の島国へ旅立たせるだろうかという疑問もある。

 番組では海運史の研究者に取材し当時はドイツから日本に行くのにパスポートもビザも必要なく、船客名簿の名前は偽名でもかまわなかったことを明かにし、ドイツ帝国旅券法で駄目押ししている。

 旅費については植木氏はアンナ・ベルタが母方の祖父から不動産を相続したところまではつきとめたが、容易に現金化できるかどうかは不明だった。番組では相続した不動産が月に1200マルク前後の家賃収入のあるアパートメントで日本までの一等船室の船賃2480マルクは二ヶ月分の家賃でまかなえるとしている。

 しかしアンナ・ベルタの父親はなぜ15歳の娘を一人で日本に行かせたのだろう。ブレーメンから横浜まで40日かかったのである。妹の喜美子が書き残したように勝手に男を追って日本へいくというなら父親は絶対に許さなかっただろう。しかし鷗外が甘い見通しで結婚を約束していたなら話は別である。番組では留学中の鷗外のお目付役である石黒忠悳の日記とロンドンで意気投合した尾崎咢堂に自分と尾崎はともに「逐客」だという詩を贈っていたことを指摘し、鷗外が陸軍を辞めて(陸軍軍人は国際結婚ができなかった)彼女と結婚するつもりだったのではないかとしている。

 番組ではアンナ・ベルタの両親が当時としては珍らしいカトリックとプロテスタントの結婚だったことを傍証としている。宗派が違っただけではなく、境遇も違った。アンナ・ベルタの父親はマクデブルクという田舎町の仕立屋だったが、母親はベルリンに家作をもつ裕福な家の生まれだったらしい。宗派と育ちがこれだけ違うと、結婚には相当な反対があったろう。それを押し切って結ばれたのだとしたら、娘と日本人留学生との仲を認めたとしても不思議はないというわけだ。

 さて以上は状況証拠だが、アンナ・ベルタ説には物証が出てきた。鷗外が篋底に秘めていた刺繍用の金型である(この金型は植木本でも言及されていた)。

 かつてドイツでは婚約相手のイニシャルの刺繍をするために女性は手芸店でイニシャルを打ち抜いた金型を作る習慣があったという。鷗外が残した金型には鷗外のイニシャルであるMとRの文字が組みあわされているが、クロスステッチの部分にアンナ・ベルタ・ルイーズ・ヴィーゲルトの頭文字であるA、B、L、Wの文字が読みとれるというのだ。

 今野氏は1978年に鷗外を主人公にしたドラマ「獅子のごとく」を製作した際に金型にWとBの文字が隠れていることに気づいていたが、まだエリーゼ・ヴァイゲルト説しかなかったのでなぜBなのか腑に落ちなかったという。その後に植木氏のアンナ・ベルタ・ルイーゼ説が出てBの解決がついただけでなく、AとLまで見つけて驚いたという。

 番組ではベルリンの服飾博物館の学芸員が鑑定していたが、クロスステッチの部分は手芸店の機械による加工ではなく手作業による加工、それも素人による加工の可能性が高いということだった。この場面は感動的だった。

 今野氏は番組を書籍化した『鷗外の恋人―百二十年後の真実』を近々出版するということである。

「やけたトタン屋根の上の猫」

 新国立劇場の「現代劇の系譜をひもとく」シリーズの第二弾はエリザベス・テーラー主演で映画にもなったテネシー・ウィリアムズの「やけたトタン屋根の上の猫」(松本祐子演出)である。

 舞台は南部の豪邸の二階客間という設定で、客席に向かって部屋が斜めに突き出している。部屋の中央には大きなダブルベッド、上手側にはバスタブのある浴室。壁は透明という約束で窓枠と扉枠だけが立ち、その周囲をベランダがとりまいている。次男のグリップ(北村有起哉)がギプスをつけた右足をかばいながら風呂にはいっているところに妻のマギー(寺島しのぶ)が義兄のグーパーと兄嫁の悪口をまくしたてながらもどってくる。

 グーパーとグリップの兄弟は父親のビッグ・ダディが癌で余命いくばくもないというので実家にもどってきていたが、兄夫婦とマギーの関心はビッグ・ダディが一代で築いた莫大な財産だ。グリップはビッグ・ダディに気にいられていたが子供がいないのが弱みだとマギーは気をもむ。兄夫婦には五人も子供がいて六人目を妊娠中だというのに。兄はニューオーリンズで弁護士を開業していたが、元フットボール選手でラジオ解説者だったグリップはラジオの仕事をやめてしまい、酒びたりで夫婦生活もなくなっていた。おまけに昨夜は学校の校庭に寄ってはいりこみ、ハードルを跳ぼうとして右足をくじいて新聞ネタになる騒ぎに。マギーはグリップを激しくなじるが、グリップは無視して酒を飲みつづける。兄と兄嫁はそんな二人の諍いをスパイし逐一母親のビッグ・ママ(銀粉蝶)に報告している。マギーはいよいよ気がもめてならない。そして無遠慮に闖入してくるやかましい子供たち。

 一幕はスリップ一枚で長科白をまくしたてる寺島しのぶの独擅場だが、ストッキングをはきかえてガーターをつける場面まであるのに全然エロチックではない。悪い意味でいやらしくないのだ。演出家が女性だからだろうか。

 テネシー・ウィリアムズにしては薄味だなと思っていたら、二幕で一変する。精密検査で癌の疑いがなくなったビッグ・ダディ(木場勝己)が元気一杯登場し、グリップが酒びたりになった理由を問いつめていくのだ。ビッグ・ダディは太いごつごつした指をグリップの傷口に突っこんでグリグリかきまわすが、出てきた秘密がゲイというのはいささか拍子抜けである。初演当時は危険な事実だったのだろうが、今となってはしらけるだけだ。ゲイであることを突きつけられたグリップは父親に言ってはいけないことを言ってしまう。

 三幕目は後始末部分で銀粉蝶のビッグ・ママの出番だ。はっきり言って後味がよろしくない。低回趣味に終始し昇華するところまでいかなかったと思う。

11月20日

 NPO法人マニフェスト評価機構の「デジタル教科書を考える」というシンポジュウムを聴講してきた。パネラーに田原総一朗氏、元通産官僚の中村伊知哉氏(龍馬のコスプレをしてきたそうだが、和服にブーツだけでは龍馬にはならない)、元文部官僚の岡本薫氏、司会は松原聡氏。

 一応デジタル教科書に全面切替えをする立場と併用する立場、とりいれない立場の三つがあるということではじまったが、「原口ビジョン」を言いだした張本人の原口前総務相が18日におこなわれた田原氏との対談で紙の教科書をあくまで堅持しデジタルは教材にとどめると明言したということなので議論の前提そのものがくずれており、ただの放談会になった(これはこれでおもしろかった)。

 まず一番声の大きな田原氏だが、コンピュータの普及が子供を歪めているという感情論に終始していた(目次を見る限り近著の『デジタル教育は日本を滅ぼす』も同じ趣旨らしい)。そもそもこの人はデジタル教育がどんなものか、イメージすら摑めていないと見た。今の子供はゲームばかりやっているからコミュニケーション能力がなくなっていると吠えていたけれども、だからこそデジタル教育が必要と考える方が現実的だろう。

 中村伊知哉氏はデジタル教科書教材協議会副会長という肩書きのある人だけにデジタル導入の先進校をまわったり、小学生を対象とした実験授業をおこなったりして地道な活動をしているらしい。

 意外だったのは沢尻エリカ関連で有名になった高城剛氏の名前が出てきたこと。ハイパーメディア・クリエイターという意味不明の肩書がついていたが、もともとはデジタル教材の基礎研究をこつこつやっていた人なのだそうだ。

 中村氏は日本の遅れを強調し、諸外国に追いつくために地道な活動をやっているとアピールしていたが、衣の下にビジネスがちらついていた。

 田原氏のマイクもちをやらされていた岡本薫氏は喋りだすと一番過激で一番おもしろかった。極論へ暴走していくが、文部行政の現場にいた人だけに過去の経緯については具体的で明解だった。

 岡本氏によれば20年前にはどの国もデジタル教育のスタートラインに横一線に並んでいたが、今では日本は先進国に20年、途上国に10年差をつけられている。なぜ日本だけ遅れたのか? 諸外国が算数や理科、社会といった教科学習にコンピュータを使ったのに対し、日本はコンピュータの使用を「情報」という教科や「調べ学習」に限定し、教科学習からかたくなに排除してきたのが原因だという。

 欧米諸国は20年前に学力低下に直面していたので、学力回復の切札としてコンピュータを教科学習に導入したが、日本の場合、当時はまだ学力に自信をもっていた上に紙の教科書がよくできていたので、デジタル教材を「電気紙芝居」とバカにしていたのだそうである。教科書準拠のデジタル教材さえろくにない現状では孫正義氏が『デジタル教育が日本を救う』(角川SSC新書)で提唱したようなデジタル教科書への全面切替など夢のまた夢である。

 岡本薫氏の著書を抜粋したコピー集が無料で配布されたが(「お土産」だそうな)、地球温暖化賛成論が載っていたりする。縄文時代にもどるだけだから騒ぐほどのことではないという主張だが、縄文時代は関東地方の半分は海だったのに本気でそんなことを言っているのだろうか。

 岡本薫という名前はどこかで見た記憶があったが、『著作権の考え方』(岩波新書)の著者だった。この本はすこぶるわかりやすかったけれども、自画自賛の方も強烈で辟易した。岡本氏の教育関係の著作の中では『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)が売れているらしいが、多分極論を展開しているのだろう。おもしろいにはちがいないだろうから、時間があれば読んでみた。

11月22日

「ドラキュラ」

 スタジオ・ライフの博品館公演で「アルバストゥル」組で見た。

 スタジオ・ライフのオリジナルは今回がはじめてだが、シェイクスピアではちらほらいた男客がまったくいない。たまに男がいても場内整理の若い劇団員で、男の客はもしかしたら自分一人かと心細くなる。

 劇団創設者の倉田淳の脚本・演出ということだが、最初の30分ほどは甘口の男宝塚で場違いなところに来てしまったなと後悔する。しかし、それがだんだん魅力的に思えてくるから困ったものだ。見てはいけないものを見てしまった感じがする。

 二幕は吸血鬼退治の活劇になり、禁断の世界は後に隠れてドラキュラの理解されぬ悲しみが前に出てくる。要は「泣いた赤鬼」である。ストーリー的にはブラム・ストーカーの原作に忠実だが、解釈的には完全にスタジオ・ライフになっている。

 終演後のトークショーでは男役の出演者が「絆」というテーマでそれぞれ語ったが、暗転で引っこむ時に思わず共演者と手をつないでしまうとか、気持の悪い話をしていた。

 次回は萩尾望都原作の「11人いる!」だそうだが、見たら本格的にはまってしまうだろう。

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