伊藤整いとうせい

加藤弘一

生涯

 1905年1月16日、北海道松前郡炭焼沢村で生まれる。本名はひとし。父昌整は広島県三次出身で、日清戦争に出征した後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道にわたった。任地で結婚し、土着して小学校の代用教員となる。日露戦争に従軍後、塩谷村(現在の小樽市塩谷町)の役場につとめ、同村に一家をかまえた。

 小樽中学校をへて、1922年、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)に入学。藤村の詩に感動し、早くから詩作をはじめたが、一学年上にいた小林多喜二、高浜虚子の長男の年尾らとのつきあいはなかった。

 卒業後、新設の市立小樽中学校の英語教諭となるが、2年後、上京の口実を作るために受験した東京商大(現在の一橋大學)に合格。一年間、教師をつづけて学費をためた後、上京。この間、第一詩集『雪明かりの路』を自費出版している。平明な自由詩で、前衛派が台頭しはじめた状況の中では時流にあわなかったが、意外にも好感をもってむかえられた。

 東京商大では内藤濯のフランス文芸思潮ゼミナールのただ一人の学生となる。北川冬彦の紹介で同じ下宿屋にはいったことから、梶井基次郎三好達治、瀬沼茂樹ら、「青空」の関係者と親交をむすぶ。ジョイスをいち早く紹介し、当時最先端だった『ユリシイズ』を1931年から3年がかりで共訳する。1935年にはロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』削除版を上梓。

 欧米の新文学を紹介する一方で、1932年には第一評論集『新心理主義文学』と第一創作集『生物祭』を刊行する。1941年発表の『得能五郎の生活と意見』は自分自身の半生に材をとっているが、知的に構成された自伝的小説であって、私小説とは異質である。

 大戦中、北海道に疎開し、徴用で工場勤めを経験するが、1946年に東京にもどり、『鳴海仙吉』の一部を発表しはじめる。『鳴海仙吉』は評論形式や戯曲形式を混淆した実験的かつ自伝的な長編小説で、紆余曲折の末に1950年に完成する。

 1950年、『チャタレイ夫人の恋人』完訳版を刊行するが、検察庁は猥褻文書と決めつけ、伊藤を起訴する。日本ペンクラブと文芸家協会は伊藤を支持し、全面対決する。翌年から「チャタレイ裁判」がはじまり、1957年に最高裁が上告を棄却するまで、6年を費やす。最終的には訳者・出版者とも有罪とする二審判決が確定するが、この間の事情は記録小説『裁判』に詳しい。なお、『チャタレイ夫人の恋人』は1996年にいたって次男の礼によって補訳され、完訳版として新潮文庫から刊行されている。

 1954年、女優の失踪劇をシニカルに描いた『火の鳥』がベストセラーになり、月丘夢路主演で映画化される。1955年、青年時代を回顧した自伝小説若い詩人の肖像を、1958年、『氾濫』を発表。同年、東京工大の教授となる。『氾濫』は増村保造によって映画化され、傑作とされている。1968年には老いの問題に先駆的にとりくんだ変容を刊行。

 伊藤は文芸批評でも一家をなし、西欧文学の該博な知識を背景に、日本近代文学の特殊性を批判にした。特に、1948年刊行の『小説の方法』と、そのエッセンスをしるした「逃亡奴隷と仮面紳士」は、私小説が「文壇」という現世放棄した文士たちの共同体で成立した日本特有の事情をあきらかにし、以後の私小説理解に多大な影響をあたえた。

 1969年11月15日、胃癌で死去。65歳だった。1952年から「群像」で連載をつづけた日本文壇史は18巻の『明治末期の文壇』で途絶したが、旧友の瀬沼茂樹が書きつぎ、鷗外・漱石の死をあつかった24巻で擱筆している。

作品

Copyright 2001 Kato Koiti
This page was created on May11 2001.
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